
私には、自分で決めたルールがある。
悪いと思ったら、すぐに「ごめんなさい」と言うこと。
たったそれだけのことが、十年かけても、まだ完全には守れていない。
そのルールの理由は、一通の未送信メールにある。
あの雪の夜から、私の携帯の中には、送られなかった言葉が、ずっと残っている。
今日は、それを書いておきたい。
誰かに許してほしいからではない。
ただ、書かずにいると、あの夜の雪が、いつまでも溶けない気がするからだ。
私は、生まれつきの意地っ張りだった。
自分が悪いとわかっていても、その一言だけが、喉の手前で固まってしまう。
舌が、上顎に貼りついたように動かなくなる。
言葉にならないものが、胸の中で熱くなって、かえって顔が強張っていく。
子どもの頃の私を知る人は、きっと、同じことを言うだろう。
「あの子は、頑固だったね」
三つ上の兄とは、毎日のようにケンカをしていた。
おやつの取り合い、テレビのチャンネル、ゲーム機の順番。
兄は私より背が高く、力も強かった。
それでも私は、泣きながら、殴り返した。
そして、兄が先に折れるまで、決して「ごめん」と言わなかった。
兄が「悪かったよ」と言うまで、三日も口をきかなかったこともある。
兄が高校の制服を着て家を出る朝、私は「いってらっしゃい」すら言わなかった。
前の晩に、またケンカをしていたからだ。
その日の夕方、兄は、帰り道で買った小さなチョコレートを、黙って私の机に置いていった。
包み紙に、シャープペンで「さっきは悪かった」と書いてあった。
私は、そのチョコレートを、泣きながら食べた。
けれど翌日も、兄に「ありがとう」の一言が言えなかった。
母は、台所で味噌汁をかき混ぜながら、いつも溜め息をついた。
「あんたたち、どっちかが先に謝ればいいだけなのに」
「だって、私は悪くないもん」
「悪くないなら、そんな怖い顔しなさんな」
母の言葉は、正論だった。
けれど、正論ほど、意地っ張りの子には届かない。
母は、よく言った。
「謝るのは、負けじゃないのよ」
「相手の顔を見て、ごめんなさいと言えたら、もう半分は許されてるの」
当時の私は、半分も許されたくないほど、プライドが大きかった。
今ならわかる。
あれはプライドではなく、怖さだった。
謝った瞬間に、自分の何かが崩れてしまう気がしていた。
崩れたあとに何が残るのか、想像できなかったのだ。
小学校の通知表の、担任の所見欄に、忘れられない一文がある。
「意思が強いのは、よいところです。意地っ張りは、直したいところです」
先生は、赤ペンで丁寧に、そう書いてくれていた。
母は、その欄を指でなぞりながら、また溜め息をついた。
私は、その指先から目を逸らして、窓の外の電線を数えていた。
大人になれば、自然に直るのだと思っていた。
体が大きくなれば、心も同じように、柔らかくなるのだと。
でも、二十歳を過ぎても、私の意地は、錆びついた蝶番のように、固いままだった。
美容学校を出て、駅前の美容室でアシスタントとして働き始めたときも、そうだった。
先輩にシャンプーの流し方を注意されて、むっとした顔で「はい」と答えた。
その「はい」の裏にある感情を、先輩は見抜いていた。
「あんた、顔に全部出るタイプだね」
「すみません」
そう言ったつもりだった。
声は、ほとんど出ていなかったと思う。
バイクの後ろの席
慎一さんと出会ったのは、その美容室だった。
お客さんとして、予約の電話を入れたのが、最初だった。
二十七歳。
運送会社でトラックの荷捌きをしている、背の高い人だった。
髪を切り終えて、鏡越しに私の顔を見て、こう言った。
「あんた、緊張すると、肩が上がる癖があるね」
「えっ」
「ほら、今も。もう終わったから、下ろしていいよ」
私は、慌てて肩を下ろした。
鏡の中で、彼が目尻を下げて笑っていた。
それが、付き合うきっかけだった。
彼は、古い大型のバイクに乗っていた。
排気音は太く、エンジンが温まるまでの数分間、ガレージの前に白い息が、もくもくと溜まった。
私を後ろに乗せるときは、必ず先に、私のヘルメットを被せてくれた。
顎のストラップを、自分の指で、きちんと留めてくれる。
「きつくない?」
「うん」
「じゃあ、行こうか」
そのやり取りが、いつの間にか、私たちの合図になっていた。
初めてのデートは、海沿いの道を、バイクで走ることだった。
真冬の防波堤で、彼は、自販機で買った缶コーヒーを二本、ポケットから取り出した。
「あったかいうちに、どうぞ」
缶は、彼の体温で、ぬるくなっていた。
「ぬるいね」
「あ、ごめん。ポケットに入れすぎた」
「ううん。ちょうどいい」
そんな他愛もない会話が、私には、いちばん贅沢に思えた。
彼は、仕事の話をほとんどしない人だった。
トラックの荷台で、段ボールを何百個も運ぶのだと、一度だけ言った。
「重いものを運ぶのは、苦じゃないんだ」
「じゃあ、何が苦なの」
「うーん」
彼は、少し考えてから、笑った。
「誰かに、ありがとうって言ってもらえないのが、ちょっとだけ」
私は、何も返せなかった。
自分が、彼にほとんど「ありがとう」を言っていないことに、気づいたからだ。
彼のジャケットの背中は、革の匂いがした。
腕を回すと、ぬくもりが、冬の風の向こうから伝わってくる。
ケンカは、よくした。
原因は、たいてい私だった。
約束の時間に遅れる、返事が遅い、不機嫌なまま黙り込む。
そのたびに、彼は、困ったように笑った。
「分かった、分かった」
そう言って、私の頭を、ぽんぽんと叩く。
それで、いつも元通りになった。
私が一度も「ごめんなさい」と言わないまま、彼が先に折れてくれる。
その関係に、私は、完全に甘えていた。
彼には、メールの下書きを送らずに溜めておく癖があった。
「送らないの?」
「うん。書いてるうちに、気持ちが落ち着くから」
彼は、携帯の画面を、照れくさそうに伏せた。
「送らない下書きが、いちばん本音だったりするんだよ」
「ふうん。変なの」
私は、そのときは、笑って聞き流した。
クリスマスイブの喧嘩
あれは、二十四歳のクリスマスイブだった。
美容室は、朝から晩まで予約で埋まっていた。
彼との待ち合わせは、駅前の時計台に、午後七時。
けれど、最後のお客さんのパーマが、思うように巻けなかった。
先輩がやり直すのを、私は横で見ていなければならなかった。
最後のお客さんは、六十代の女性だった。
「クリスマスなのに、忙しくてごめんなさいね」
そう言って、彼女は何度も頭を下げた。
私は、その姿を見ながら、自分がずっと謝ることから逃げてきたことに、うっすら気づいていた。
携帯を見る暇もなかった。
片付けを終えて、店を出たのは、九時を過ぎてからだった。
私は、その日のために、三週間かけてマフラーを編んでいた。
紺色の、少し不格好な編み目の、手編みだ。
ロッカーの奥に、赤いリボンをかけた紙袋が入っている。
渡すつもりだった。
「遅くなって、ごめんね」と、笑いながら。
そんな場面を、仕事中も、何度も頭の中でなぞっていた。
時計台の下に、彼は立っていた。
肩に、薄く雪が積もっている。
鼻の頭が、赤くなっていた。
「遅いな」
「仕方ないでしょ。仕事なんだから」
その言い方に、自分でも、ひどく棘があるのがわかった。
本当は、「待たせてごめん」と言いたかった。
連絡の一本も入れられなかったことを、謝りたかった。
でも、その言葉は、喉の手前で、固まった。
「連絡くらい、くれてもよかったんじゃないか」
「だから、忙しかったって言ってるでしょ」
「二時間、待ってたんだぞ」
「頼んでないよ」
言った瞬間に、しまった、と思った。
けれど、一度出た言葉は、引き戻せない。
彼は、一瞬だけ、目を伏せた。
それから、いつもの調子で、私の頭に手を伸ばしかけた。
その手を、私は、反射的に払ってしまった。
彼の手が、宙で止まった。
しばらく、二人とも、動かなかった。
駅前のイルミネーションだけが、場違いに明るく瞬いていた。
その光の下を、恋人同士が笑いながら通り過ぎていく。
私たちだけが、時間の外に取り残されたように立っていた。
「もういいよ」
彼は、小さな声で、そう言った。
怒鳴るのでも、突き放すのでもなかった。
疲れ切った人の、最後の溜め息のような声だった。
彼は、ヘルメットをひとつだけ被り、バイクにまたがった。
私のヘルメットは、後ろの荷台に、ぶら下がったままだった。
「送るよ」と言ってくれるのを、私は待っていた。
彼は、何も言わずに、アクセルを回した。
紙袋は、まだ私の手の中にあった。
中のマフラーは、渡せないまま、雪の湿気を吸って重くなっていった。
太い排気音が、雪の夜に溶けていった。
私は、その背中を、ただ見送った。
追いかけることも、呼び止めることもしなかった。
雪の夜の着信
家に帰ってから、私は、携帯を何度も開いては閉じた。
電話をかける勇気も、メールで謝る勇気もなかった。
画面には、慎一さんの名前が表示されている。
その下の発信ボタンを、親指が、何度もなぞっては離れた。
一時間が経ち、日付が変わった。
こちらから連絡するのは、負けのような気がした。
そのくせ、彼から連絡が来ないことに、腹を立てていた。
自分勝手だと、わかっていた。
わかっているのに、止められなかった。
ちょうどその夜、同じ美容室の友達が三人、遊びに来ることになっていた。
彼女たちは、ケーキとシャンパンを持って、部屋に上がり込んだ。
「ひとりでイブなんて、寂しすぎるでしょ」
「彼氏は?」
「仕事だって」
嘘をついた。
笑いながら、嘘をついた。
友達のひとり、真奈美が、冷蔵庫を勝手に開けて言った。
「ねえ、ケーキ、切っていい?」
「どうぞ」
私は、ソファの隅で、携帯を握りしめていた。
真奈美は、私の顔を、じっと見た。
「ねえ。ほんとは、彼氏とケンカしたんでしょ」
「してない」
「顔に書いてあるよ」
その強がりが、あの夜の私の、いちばん情けない部分だった。
部屋の中は、にぎやかだった。
窓の外では、雪がしんしんと降り積もり、深夜でも空が薄明るかった。
その明るさが、妙に目に染みた。
午前一時を回った頃だった。
私の携帯が、テーブルの上で、震え始めた。
ぶううん、ぶううん、という振動が、部屋の静けさを割った。
画面を見ると、見慣れない番号ではなかった。
「慎一のお母さん」と、登録してあった。
一度、挨拶に伺ったことがある。
その方から電話が来たのは、初めてだった。
胸の奥が、すうっと冷たくなった。
「もしもし」
「あの、慎一の母です。夜分に、すみません」
受話器の向こうの声は、震えていた。
「慎一が、事故に遭いました」
「信号無視のトラックに、跳ねられて」
「いま、病院に」
その先の言葉は、耳に入らなかった。
頭の中が、真っ白になった。
ほんの数時間前まで、同じ場所に立っていた。
いつものようにケンカして、「ごめんなさい」が言えなくて。
気づいたときには、コートを掴んで、部屋を飛び出していた。
友達が何か叫んでいたが、聞こえなかった。
雪の中を、タクシーを探して走った。
コートの前を閉める余裕もなかった。
ブーツの中に雪が入り、足の感覚が、すぐになくなった。
それでも、走るのをやめられなかった。
大通りに出ると、空車のランプが、ひとつだけ赤く灯っていた。
病院に着いたとき、廊下の長椅子に、彼のお母さんが座っていた。
私を見ると、お母さんは、静かに首を横に振った。
その仕草で、すべてがわかった。
彼は、私と別れた帰り道で、命を落としていた。
私は、廊下に崩れ落ちた。
「ごめんなさい」
気づくと、声に出していた。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
何度も、何度も叫んだ。
今さら言っても、遅いのに。
彼が戻ってくることは、もうないのに。
廊下は、暖房が効きすぎていて、やけに乾いていた。
自販機の灯りだけが、白く光っている。
お母さんは、小さな声で言った。
「運転手さんも、ずっと謝ってるの」
「雪で、前が見えなかったって」
誰が悪いのか、誰のせいなのか、その場では、誰にも言えなかった。
未送信メール
私がちゃんと謝っていれば、彼が、あんな道を通ることもなかった。
私が素直になれていれば、まだ、二人で一緒にいる時間だった。
「もういいよ」
それが、彼と交わした、最後の言葉になった。
私のちっぽけなプライドが、あの人の時間を止めてしまったのだと思った。
その後の数週間を、どう過ごしたのか、ほとんど記憶にない。
仕事は休み、部屋のカーテンも開けなかった。
彼のバイクは、あの夜のまま、ガレージで冬を越したと聞いた。
私のヘルメットは、荷台に掛かったままだったという。
ある日、慎一さんのお母さんが、私のアパートを訪ねてきた。
痩せた顔に、細い笑みを浮かべて、玄関先に立っていた。
「これ、あなたに見てほしくて」
差し出されたのは、彼が使っていた携帯だった。
画面は、ひびひとつなく、きれいなままだった。
「事故のとき、ジャケットの内ポケットに入っていたの」
「中を見るのは、悪いと思ったんだけど」
お母さんは、そこで言葉を切った。
「下書きフォルダに、一通だけ、送られていないメールがあって」
私は、震える指で、その画面を開いた。
送信日時の欄には、あの夜の、午後十一時四十分とあった。
宛先は、私だった。
本文には、一行だけ、こう書いてあった。
「むくれてるお前も好きだけど、素直な笑ってるお前が好きだよ」
私は、その場にしゃがみ込んだ。
声が出なかった。
涙だけが、携帯の画面に、ぽたぽたと落ちた。
彼は、あのあと、送ろうとして、送れなかったのだ。
私が、謝れなかったように。
同じ夜、同じ雪の下で、二人とも、同じ場所で立ち止まっていた。
私は、あの夜の彼の背中を思い出していた。
「もういいよ」と言ってから、アクセルを回すまでの数秒間。
あのとき彼は、すでに頭の中で、この文面を書いていたのかもしれない。
けれど、送信ボタンは、押せなかった。
信号待ちの交差点で、彼は、ポケットの中の携帯を握りしめていたのだろうか。
そう考えると、胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
お母さんは、あの未送信メールを、携帯ごと、私に託してくれた。
お母さんは、私の背中を、ゆっくり撫でてくれた。
「あの子ね、あなたのこと、本当に大事にしてたのよ」
「頑固なところも含めて」
その言葉を聞いても、私は、「ありがとうございます」としか言えなかった。
それでも、その日、玄関先で、初めて声を上げて泣いた。
あれから十年が経った。
私は、今も同じ街で、美容室の仕事を続けている。
一日たりとも、彼のことを忘れた日はない。
クリスマスの時期が近づいたり、携帯のバイブレーションの音を聞いたりすると、あの夜の雪が、鮮明に蘇る。
未送信メールの一行を、私は毎年、イブの夜に、声に出さずに読む。
マフラーは、今も、赤いリボンをかけたまま、クローゼットの奥にある。
店には、さまざまなお客さんが来る。
言えなかった言葉を抱えた人の話を、鏡越しに聞くことも多い。
忘れられない暗証番号の話も、届かなかったごめんの話も、そうやって、誰かから誰かへ、手渡されていくのだと思う。
彼が、命がけで教えてくれたこと。
悪いと思ったら、意地を張らずに、「ごめんなさい」と言うこと。
これだけは、絶対に守る。
それが、私が生きていくためのルールだ。