君が残した2ゲットの夜

ノートパソコン(フリー写真)

彩が旅立って、一年が経つ。

命日の夜、僕は部屋の明かりを落として、古いノートパソコンの前に座っている。

机の上には、冷めかけた缶コーヒーと、彩が使っていた赤い付箋の束が置いてある。

付箋には、彼女の丸い字で、好きな板の名前がいくつも書き留められていた。

画面の右下の時計が、午前三時五十九分から、四時ちょうどに変わる瞬間を待っている。

指は、F5キーの上で、じっと止まったままだ。

君が好きだった、あのスレッドの2ゲットを取るために。

君が残した2ゲットの夜を、一年かけて、僕はようやく一人で迎えようとしている。

午前四時の2ゲット

彩と出会ったのは、僕が勤めていた町の電器店だった。

商店街のはずれにある、間口の狭い店で、僕は店長の下で、乾電池から冷蔵庫まで、何でも売っていた。

彩はある雨の日の夕方、電子辞書に使う単四電池を一本だけ買いに来た。

「一本だけですか。四本入りのほうが、お得ですけど」

「いえ、一本で。きっと、もう一本は、いらないので」

その言い方が不思議で、僕は何も言えなくなって、電池をそっと袋に入れた。

半年後、彼女が白血病だと分かったとき、僕はようやくその言葉の意味を理解した。

彩は、その日からずっと、先のことを、あえて少なめに買う人だった。

彼女は、僕にとって生まれて初めての、恋人だった。

勇気を出して食事に誘ったのは、桜の季節の終わり、電池を買いに来た三度目の日のことだ。

駅前の定食屋で、僕は緊張のあまり、味噌汁を二回もこぼした。

「ふふ。そんなに緊張しなくても、取って食べたりしないよ」

彩は、笑って紙ナプキンを差し出してくれた。

その笑顔が、僕はいまも、いちばん鮮やかに思い出せる。

店を出ると、駅前の商店街には、夕方の風が吹いていた。

彩は歩きながら、急に立ち止まって、僕のほうを振り向いた。

「ねえ、手、冷たくない?」

「え、あ、いや、普通だと思うけど」

「ふふ。じゃあ、私が冷たいんだ」

彼女は、ためらいなく僕の手を取って、自分のコートのポケットに押し込んだ。

僕は、心臓の音が彼女に聞こえてしまいそうで、ずっと前を向いて歩いた。

あの夜の駅までの道は、たぶん生涯でいちばん長かったと思う。

別れ際、改札の前で、彩は少しだけ背伸びをして、僕の耳元で囁いた。

「今度は、私が電池を買いに行く番だね」

その意味を考えているうちに、彼女の背中は、ホームの人混みに溶けて見えなくなった。

付き合い始めて三か月後、彼女は市民病院の血液内科に、入院することになった。

病室は六階の端で、窓からは、遠くに電器店の看板が見えた。

「ほら、あそこ。あなたの職場、見えるんだよ」

彩は、ベッドの上で、細くなった指をその方向へ向けた。

昼の光のなかで見る看板は、遠くて小さくて、まるで玩具のようだった。

それでも彩は、毎日その方向を見るたびに、「あっ、今日はお店のシャッター、開いてる」と嬉しそうに報告した。

最初の入院は、検査と投薬の繰り返しで、一日が驚くほどゆっくり流れた。

同じ階の患者さんたちとは、すぐに顔なじみになり、廊下で交わす挨拶の数だけ、彩はよく笑った。

けれど夜になると、僕の帰ったあとの病室で、天井を見つめて黙っている時間が長いことを、看護師さんから聞いた。

「彼女さん、昼間は強がってますけど。夜は、少しだけ、小さくなるんですよ」

僕は、その言葉に頷くことしかできなかった。

しかしその夜から、病院を出る前に、必ず一言だけ、彼女に言うようになった。

「明日も、来るから」

その一言を聞くと、彩は少しだけ目尻を下げて、「うん」と答えた。

たったそれだけのやり取りが、僕たちの、毎晩の約束になった。

僕はそれから、毎日、仕事が終わると、閉店の片づけもそこそこに病院へ走った。

消灯までの一時間半が、僕たちの一日のすべてだった。

古いノートパソコン

入院が長引くにつれて、彩は日に日に退屈を持て余すようになった。

「病院って、暇ねえ」

彼女は、窓の外を眺めながら、いつものようにからりと笑った。

その笑顔を見るたびに、僕は何も言えなくなって、廊下で涙をぬぐった。

何か、してあげられることはないか。

僕は店の隅で埃をかぶっていた、型落ちのノートパソコンを、店長に頼んで譲ってもらった。

キーボードの隙間に詰まった綿ぼこりを、爪楊枝でひとつずつ取り除き、画面を丁寧に磨いた。

僕にできる、唯一のことだった。

店長は、パソコンを渡してくれるとき、何も聞かなかった。

ただ、レジの引き出しから、小さな封筒を出して、僕の手に握らせた。

「回線の工事代、足しにしな。給料から引いたりせんでいいから」

「そんな、店長」

「いいから。大事な人のためやろ」

店長はそれだけ言って、奥の倉庫に引っ込んでしまった。

僕は封筒を握りしめたまま、しばらく店のシャッターの前に立っていた。

「小汚いパソコンだけど、よかったら使って」

「うわあ。ありがとう。すごい、本物のパソコンだ」

彩は、箱を開ける子どものような顔で、キーに指を置いた。

病室に、インターネットの回線を引く許可をもらうまでに、二週間かかった。

看護師長さんは、最初は難色を示した。

「他の患者さんの迷惑にならないように。夜の十時以降は、画面の光も控えてくださいね」

彩は、神妙な顔でうなずいて、「はい、約束します」と答えた。

彼女がその約束を、午前四時だけは守らなかったことを、僕は後になって知った。

最初の日、彼女は検索窓に、何を入れていいか分からず、固まっていた。

「何でもいいんだよ。好きなこと、調べてみて」

「じゃあ、猫」

画面に、猫の写真がずらりと並んだ。

彩は声を上げて笑い、そのまま三時間、猫の画像を眺め続けた。

やがて彼女は、巨大な掲示板があることを知り、そこへ自分から飛び込んでいった。

それが、あの2ちゃんねるだった。

当時の僕は、掲示板というものを、ほとんど見たことがなかった。

画面にずらりと並ぶ文字の列は、ただの暗号のようにしか見えなかった。

けれど彩にとっては、それは窓の外の世界よりも、ずっと広くて、ずっと自由な場所だったのだと思う。

病室のベッドの上から、世界のあちこちの知らない誰かと、同じ話題で笑い合えたのだから。

彩は、HNを名乗らず、いつも名無しで書き込んでいた。

「名前がない方が、気楽なんだよ。誰でもないって、ちょっと自由じゃない?」

その言葉の意味が、僕には、そのときはよく分からなかった。

彼女は、あえて名前を持たないことで、病気の自分から、少しだけ離れていたかったのかもしれない。

今になって、そんな想像をするようになった。

3の人の絵文字

ネットを覚えた彩は、見る間に別人のように生き生きし始めた。

朝、僕が病室に顔を出すと、決まって枕元のノートパソコンが、明るく光っていた。

「聞いて。今朝ね、2ゲットできたの」

「2ゲット?」

「新しいスレッドが立った瞬間に、一番目の人のすぐ後に『2』って書くの。早い者勝ちなんだよ」

彩は、得意げに画面を指さした。

看護師さんの見回りが終わる、午前四時ごろ。

彼女はその時間に目を覚まして、お気に入りの板を、キーボードで何度も更新していた。

「ほら見て。今日も2ゲット出来たよ」

「あまりパソコンばかり弄ってると、身体に障るよ」

そう注意しても、彩は少しも聞いていなかった。

「ごめんねえ。でもね、これ見てよ。この3の人。『2げっとぉ!』なんて言っちゃってさぁ、フフ」

僕は黙っていた。

彩が凄く楽しそうで、僕には何も言えなかった。

「この3の人、毎晩同じ時間に来るの」

彩は、画面の隅を指でなぞった。

「いつも私に2を取られて、悔しがってる。変な絵文字を使ってね、『くやしぃ~!』って」

「ほら見て、また。かわいいねえ。フフ」

僕はまだ、黙っていた。

笑う彩を見ていると、どうしようもなく悲しくなった。

その悲しさの理由を、彼女に気づかれたくなかった。

彩は、掲示板で見つけた面白い書き込みを、僕に何度も読んで聞かせてくれた。

ほとんどは、他愛もない冗談や、猫の話や、誰かの失敗談だった。

けれど、彼女が声を出して笑うたびに、僕はその声を、頭のどこかに書き留めていた。

いつか、この声が聞けなくなる日が来ることを、心のどこかで分かっていたからだ。

夜、病院からの帰り道、僕は何度も立ち止まって、星のない空を見上げた。

春から夏にかけて、彩の病状は、少しずつ変わっていった。

髪が抜け、頬が細くなり、起きていられる時間が短くなった。

それでも彼女は、午前四時になると、手探りでノートパソコンを開いた。

「今日はね、3の人、来なかったの」

ある朝、彩が、ぽつりとそう言った。

「一回だけ、そういう日があった。そしたら私、ちょっと、寂しくなっちゃった」

「そんなに、気にしなくていいのに」

「ううん。気になるの。だって、毎晩、ライバルだったんだもん」

彼女は、窓の外を見ながら、言葉を続けた。

「憶えていてくれるかなあ」

僕は、聞き返さなかった。

「この3の人、私が居なくなっても、『あの時、変な奴に2を取られたんだよなー』なんて、憶えていてくれないかなあ」

彩は、そこで一度、息を吸った。

「無理かな。憶えていて、ほしいなぁ」

その声は、病室の白い壁に、小さく吸い込まれていった。

僕は、何か言わなければと思って、懸命に言葉を探した。

けれど、どんな言葉も、嘘のように軽く感じられた。

結局、僕は、彩の手を握って、ただ黙って頷いた。

彼女の手のひらは、少しだけ、冷たかった。

「ごめんね。変なこと言って」

「変じゃないよ」

「ありがとう。あなたは、いつも黙って聞いてくれるね」

その夜、彩は、僕の手を握ったまま、小さな寝息を立て始めた。

病室の隅で、ノートパソコンの画面だけが、まだ静かに光っていた。

F5キーの音

それから数か月後、彩は、家族と僕に見守られて、静かに息を引き取った。

明け方の病室に、カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。

枕元のノートパソコンは、閉じられたままだった。

彩のお母さんは、病室の窓際で、娘の手をずっと撫でていた。

「ありがとうね。あの子、最後のほうは、毎朝あなたが来るのを、一番の楽しみにしてたのよ」

僕は、お母さんの肩に、何も言わずに頭を下げた。

言葉にすれば、すべてが壊れてしまいそうだった。

葬儀が終わって、一週間が過ぎたころ、彩のお母さんが、僕の部屋を訪ねてきた。

「あの子の、パソコンを、お返ししに来たの」

お母さんは、小さな風呂敷包みを、僕に差し出した。

「中を、見るのは、怖くて。あなたに、持っていてほしいの」

僕は、包みを受け取って、深く頭を下げた。

その夜、ノートパソコンを起動すると、画面には、彼女が最後に開いていたページが、そのまま残っていた。

お気に入りの板。

いつものスレッド。

そして、午前四時のタイムスタンプが並んだ書き込みの、いちばん下。

彩の書き込みの下に、「3」の人の、変な絵文字が、まだ小さく光っていた。

僕は、その画面を、閉じることができなかった。

次の日から、僕は午前四時に、アラームをかけるようになった。

眠い目をこすりながら、彩が愛した板を開き、新しいスレッドが立つのを待った。

F5キーを、連続で叩く。

カチ、カチ、カチ、と乾いた音が、部屋に響く。

最初の数日は、一度も2を取れなかった。

スレッドが立つのは、数分に一度、あるいは数十分に一度だった。

その瞬間を待つために、僕は何度も立ち上がって水を飲み、画面を見つめ続けた。

眠気に負けて、キーボードに突っ伏したまま朝を迎えたことも、一度や二度ではない。

会社の同僚には、「最近、目の下の隈がすごいぞ」と心配されたけれど、事情は誰にも話さなかった。

僕は不器用で、彩のような反射神経を持ち合わせていなかった。

それでも、毎晩、毎晩、叩き続けた。

君の代わりに、僕が2ゲットを取る。

そうすれば、3の人は、また悔しがってくれる。

そうすれば、君は、まだこの画面の中で、生きていられる気がした。

半年が過ぎるころには、僕は何度か、2を取れるようになっていた。

「3」の人は、相変わらず、同じ時間に現れた。

そして、変な絵文字で、「くやしぃ~!」と書き込んだ。

その文字を見るたびに、僕は、彩の笑い声を思い出して、少しだけ救われた。

画面に増えた一行

一周忌の夜、午前四時。

新しいスレッドが立った瞬間、僕のF5キーは、いつもより少しだけ速く、乾いた音を響かせた。

画面が切り替わり、「1」の下に、僕の「2」が並んだ。

取れた。

僕は、肩の力が抜けるのを感じながら、画面を見つめた。

数秒後、その下に、新しい書き込みが、ひとつ増えた。

「3」の人だった。

いつもの変な絵文字は、そこにはなかった。

代わりに、短い文章が、一行だけ並んでいた。

「あの時、変な奴に2を取られたんだよなー」

僕は、息ができなくなった。

画面の文字は、何度見ても、同じ言葉のままだった。

続けて、もう一行、書き込みが増えた。

「毎晩、同じ時間に2を取っていく奴がいて、悔しくて眠れなかった。急にいなくなって、なんか、寂しかった」

「でも、また来てくれたんだな。今日から、お前が2か」

僕は、キーボードの上に、両手を置いたまま、動けなかった。

画面の中の「3」は、彩が一年前にここで悔しがっていた、その人と、本当に同じ人なのだろうか。

そんな疑いが、一瞬だけ頭をよぎった。

けれど、変な絵文字を使う癖も、同じ時間に必ず現れる習慣も、あまりにも彩が語っていたとおりだった。

この人は、彩の言葉を、ちゃんと受け取ってくれていたのだ。

顔も声も知らないまま、それでも確かに、一人の「2の人」を憶えていてくれた。

憶えていてくれたのだ。

彩の顔も、名前も、病室のことも、何も知らないこの人が、それでも、「2の人」を憶えていてくれた。

彩が最後まで願っていたことが、画面の向こうの、見知らぬ誰かの手で、叶っていた。

涙が、キーボードの上に落ちた。

僕は、震える指で、ゆっくりと返信を打った。

「その2は、四年前から、ずっと同じ人です」

少し迷って、もう一行、付け足した。

「彼女は、あなたが憶えていてくれることを、最後まで願っていました」

送信ボタンを押すと、画面は静かに、更新された。

数十秒の沈黙のあと、「3」の人からの返信が届いた。

「そっか。ありがとう。ずっと、忘れないよ」

窓の外が、うっすらと白み始めていた。

言葉を渡すことでしか、人は人に届かないのだと、僕は初めて思った。

同じような思いを描いた話なら、開けなかった最後の手紙の中にも、また別のかたちで残っている。

遅れて届く言葉の温かさは、妻が打った初めてのメールの話にも、静かに息づいていた。

僕は、パソコンの蓋を閉じずに、窓を少しだけ開けた。

朝の冷たい風が、部屋にゆっくりと入ってきた。

明日の午前四時も、僕はF5キーを叩く。

店のシャッターを開ける朝、僕はこの頃、電池売り場の前で少しだけ足を止める。

単四電池の一本売りの箱は、今も棚の端に、ひっそり置いてある。

お客さんに聞かれたら、僕はきっと、こう答えるだろう。

「一本だけで、いいんですか」

そして、少し笑って、一本を丁寧に袋へ入れる。

それが、僕に残された、彩との、静かな約束のかたちだった。

君の2ゲットを、僕は、これからも取り続ける。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。