お月さんの下で
昨日、彼女の家の犬が死んだ。
彼女の家は昔、彼女の兄貴が高校生という若さで自殺してから、両親も彼女もうつ病になって酷い状態だったらしい。
そんな時に引き取って来た犬だったそうだ。
ところが、ペットセラピーとでも言うのかな。犬と接しているうちにみんな段々良くなって行って、また家族で笑い合えるようになったらしい。
彼女も両親も、犬のおかげだと、それはそれは犬を可愛がっていたよ。
家族旅行にも連れて行ってあげていて、本当に家族みたいだった。
彼女なんて、犬の散歩の時間になるとデートの途中でも家に帰っていたよ。
何の変哲も無い雑種だったのに、
「あの子は、うちにとっては特別な子なの」
といつも言っていた。
※
その犬はもう高齢だったからさ、最近は弱っていたんだ。
病院へ連れて行ってももう駄目だと言われたから、連れて帰って来たらしい。
うちで最後を迎えさせてやるんだ…って。
それでとうとう昨日の朝から呼吸が途切れがちになったらしく、彼女は仕事を休んでずっと犬に付きっ切りだった。
俺は犬なんて別に好きではないし、正直どうでも良かったけど、彼女が心配だったから仕事が終わってから寄ったんだ。
もう暗くなっていたけど、月が明るかった。
彼女は庭の、犬小屋の側の金柑の木の下に毛布を敷き、座って犬を抱いていた。
そこは木陰で涼しく、犬がいつも寝ていたお気に入りの場所だった。
犬はもう動けなくなっていて、彼女がスプーンで水を飲ませてやろうとしても飲めなかった。
そうしているうちに段々上下していた腹が動かなくなって来た。
彼女はぼろぼろ涙を流しながら犬を撫でていたよ。
彼女の両親も涙目になって傍に立っていた。
それでついに犬の呼吸が止まった。腹も動かなくなった。
そしたら彼女がすんげえ泣いたの。
もう泣くと言うか、悲鳴みたいな声を上げながら嗚咽するの。
二十歳を超えた大人とは思えない泣き方だった。
俺と別れ話になって泣いた時とは全然違っていたから、凄くびっくりして暫く呆然としていたんだけどさ、犬ごと彼女を抱き締めてやった。
それでも彼女は泣き止まなくてさ、庭先であんまりわあわあ大声で泣いているものだから、隣の家の人が出て来たり、自転車の高校生が立ち止まったりしていた。
それでも誰も、何あれーとか言わねえんだよな。
みんな状況を見たら、黙って手を合わせて行くんだよ。
乳母車を引いたお婆さんなんか、わざわざ庭まで入って来て、彼女に
「こんな明るいお月さんの下で死ねたんやでな、迷わんときれいなとこに行けたに」
と言って慰めてんの。
俺は『何が月だ、関係ねーだろ』とか思いながらも、気付いたら自分まで泣いてんの。
俺が来る度に吠えまくっていたあの馬鹿犬なんか、ちっとも好きじゃなかったのに。犬を埋めるために、金柑の下に穴を掘ってやってんの。
※
俺は動物を飼ったことが無かった。
だから犬の扱い方も知らなかった。撫でてやることすらしなかった。
初めて撫でてやったのは、もう吠えなくなった硬い体だった。
でも毛はまだふかふかしてた。
彼女が将来、もし俺と結婚してから犬が飼いたいと言い出したら、飼っても良いなと思ったよ。
でも俺は絶対、彼女より後に死のうと思った。