秘密で手話を

公開日: 心温まる話 | 恋愛

カップル(フリー写真)

待ち合わせた彼女を待っていて見かけたのは、大学生風のカップルだった。

男の子が女の子の正面に立って、何かしきりに手を動かしていた。手話だ。

彼はやっと手話を覚えたこと、覚えるのは結構大変だったこと、女の子を驚かせようとして、その日まで秘密にしていたことを伝えていた。

女の子の方は、彼が勉強していることを知らなかったこと、本当に驚いたこと、嬉しいと思っていることを伝えた。

その内もどかしくなったのか、彼の手を握って二度三度、嬉しそうにその場でほんの少し飛び跳ねてみたりしていた。

悪趣味な盗み聞きだとは分かっていたけど、その時ようやく手話を使いこなせるようになったばかりの俺には、それは例えば外国の街で突然耳に入って来た日本語が気になるように、申し訳ないけどどうしても気になる光景だった。

多分、俺はにやけていたと思う。怪しい奴に見えたかもしれない。

でもそれは微笑ましく、こちらまで心が温かくなる光景だった。

服の裾が引っ張られる感覚に振り返ると、そこに俺の彼女が来ていた。

何を見ていたのかとか、顔が嬉しそうだとか、もっと早く私に気付けとか、微妙に頬を膨らませて、物凄い勢いで手話を繰り出す彼女。

俺は手話でごめんなさいと伝え、ちょっと昔を思い出していたことを伝えた。

それでも彼女は少し首を傾げ、その『昔』を知りたそうな表情だったけど、俺は笑って誤魔化した。

『今、目の前に居る女の子を驚かそうと、秘密で手話を勉強していた頃の事だ』

……とは、恥ずかしくて言えなかった。

関連記事

兄と妹(フリー写真)

受け継がれる兄の願い

ある小さな町に、兄妹が暮らしていた。 兄は妹を守るため、いつも一生懸命に働いていた。 妹は兄が苦労していることを知りながらも、彼の努力に感謝し、幸せに暮らしていた。 …

カップル(フリー写真)

書けなかった婚姻届

彼女とはバイト先で知り合った。 彼女の方が年上で、入った時から気にはなっていた。 「付き合ってる人は居ないの?」 「居ないよ…彼氏は欲しいんだけど」 「じゃあ俺…

雨の日の紫陽花(フリー写真)

いってらっしゃい

もう二十年ほど前の話です。 私が小さい頃に親が離婚しました。 どちらの親も私を引き取ろうとせず、施設に預けられ育ちました。 そして三歳くらいの時に、今の親にもらわれた…

バラの花束(フリー写真)

大きなバラの花束

接客を何年か担当してくれていた優秀な女性スタッフが、その店を辞めることになった。 店長は、一生懸命仕事をしてくれた彼女に何かお礼がしたかった。 いよいよ彼女の最後の出勤の日…

カップル(フリー写真)

大好きだった彼

あれは今から1年半前。大学3年になりたての春。 大学の授業が終わり、帰り支度をしている時に携帯が鳴った。 着信画面を見ると、彼の親友でした。 珍しいなと思って電話に出…

教室

思春期の揺れる心

中学1年生のころ、私の身近にはO君という特別な存在がいました。 私たちは深く心を通わせ、漫画やCDの貸し借りを楽しんだり、放課後や週末には図書館で学び合ったりしていました。 …

結婚指輪(フリー写真)

会社対抗クイズ

近所に住んでいるご夫婦の話です。 その夫婦には子供が居らず、そのせいか私は子供の頃から可愛がってもらっていました。 おじさんは無口な土建屋の事務員。おばさんは自宅で商売をし…

駅のホームに座る女性(フリー写真)

貴女には明日があるのよ

彼女には親が居なかった。 物心ついた時には施設に居た。 親が生きているのか死んでいるのかも分からない。 グレたりもせず、普通に育って普通に生きていた。 彼女には…

瓦礫

震災と姑の愛

結婚当初、姑との関係は上手く噛み合わず、会う度に気疲れしていた。 意地悪されることはなかったが、実母とは違い、姑は喜怒哀楽を直接表現せず、シャキシャキとした仕事ぶりの看護士だっ…

病院(フリー素材)

みほちゃんという子

看護学生の頃、友達と遊びに行った先で交通事故を目撃しました。 勉強中の身ではあったのですが、救急隊員が駆け付けるまでの間、友人の手も借りながら車に撥ねられた女の子の応急処置をしま…