月まで届いた嘘

月まで届いた嘘

私は、たった一度だけ、実況で嘘をついたことがあります。

四十年近く、野球の実況をしてきました。

事実を、正確に、声に乗せて伝える。

それが、アナウンサーの、たったひとつの仕事です。

見えないものを、見ている人に。

聞いている人に、その場の景色を、ありのままに届ける。

だからこそ、嘘だけは、ついてはいけない。

そう信じて、私はマイクの前に座り続けてきました。

声には、表情があります。

高ぶる声、沈む声、祈るような声。

私はその声で、何万もの人に、見えない景色を届けてきました。

誇りのある、仕事でした。

それでも、私は一度だけ、嘘をつきました。

あの一球を、私は、いまも忘れることができません。

※

あれは、もう三十年ほど前のことです。

私はまだ若く、地方局の駆け出しのアナウンサーでした。

ある日、局に一通の手紙が届きました。

宛名は、私たちの地元球団の、ベテランの四番打者でした。

名前を、仮に、村瀬さんとしておきましょう。

村瀬さんは、その年、ひどい打撃不振に苦しんでいました。

かつては球場を沸かせた長距離砲も、四十を前にして、引退の噂が絶えませんでした。

村瀬さんは、その球団の、生え抜きの選手でした。

若い頃は、誰よりも遠くへ、ボールを飛ばしました。

ファンは、彼のホームランを見るためだけに、球場へ通ったものです。

けれど、年齢には、勝てません。

バットは振り遅れ、自慢の打球も、外野の定位置に収まるようになっていました。

スタンドからは、心ない野次も、飛びました。

それでも村瀬さんは、毎日、誰よりも長く、バットを振り続けていました。

その姿を、私は、実況席から、ずっと見てきました。

手紙の差出人は、市内の病院に入院している、ひとりの少年でした。

私は、その手紙を、彼に届ける役を任されました。

不振の村瀬さんに、こんな手紙を渡してよいものか、私は迷いました。

これ以上、重荷を背負わせることに、なるかもしれない。

それでも私は、その封筒を、村瀬さんの手に、そっと渡しました。

便箋には、たどたどしい、けれど一生懸命な字が、並んでいました。

※

『むらせせんしゅへ。

ぼくは、めがみえません。

でも、ラジオで、まいにち、せんしゅのしあいをきいています。

せんしゅがホームランをうつおとが、ぼくは、せかいでいちばんすきです。

ぼくは、もうすぐ、めのしゅじゅつをします。

うまくいけば、みえるようになるかもしれません。

でも、こわくて、こわくて、たまりません。

せんしゅみたいな、つよいこころが、ほしいです。

ぼくのヒーローへ』

私は、その手紙を、何度も読み返しました。

そして、これは、伝えなければならない、と思いました。

※

後で知ったことですが、その少年は、健太くんといいました。

幼い頃の病気で、光を失ったのだそうです。

長い入院生活のなかで、外の世界とつながる窓は、古いラジオ、ただひとつでした。

健太くんは、毎晩、布団にもぐって、野球中継に耳を澄ませました。

バットのしなる音。打球の弾ける音。歓声のうねり。

音だけで、彼は、グラウンドの景色を、頭の中に描いていました。

「いまの音は、ライト線の二塁打だ」

「いまのは、詰まった当たりだね」

付き添う母親が驚くほど、健太くんは、音で打球を、言い当てたといいます。

なかでも、村瀬さんがホームランを打つときの、あの乾いた一打の音が、彼は何より好きでした。

「あの音を聞くと、胸がすうっとするんだ」

健太くんの病室は、五階の、いちばん奥にありました。

窓の外には、遠くに、球場の照明塔が見えたそうです。

もちろん、健太くんには、その光は、見えません。

それでも、ナイターのある夜は、ラジオを抱えて、窓のほうを向いていたといいます。

「いまごろ、あそこで、村瀬選手が打ってるんだね」

見えない光のほうへ、彼はいつも、まっすぐ顔を向けていました。

見えない少年にとって、村瀬さんのバットの音は、世界の広さを教えてくれる、希望の音だったのです。

※

村瀬さんは、不振のさなかでした。

それでも、少年の手紙を読むと、しばらく黙ったあと、こう言いました。

「会いに行こう。その子に」

病室での対面は、すぐに実現しました。

少年は、ベッドに身を起こし、見えない目で、まっすぐ村瀬さんのほうを向いていました。

「村瀬選手ですか」

「ああ、村瀬だ。きみの手紙、嬉しかったよ」

少年の手が、おそるおそる、村瀬さんの大きな手に触れました。

「すごい。手が、ごつごつしてる」

「毎日、バットを振ってるからな」

「ホームランって、どんな感じですか」

健太くんが、たずねました。

村瀬さんは、少し考えてから、答えました。

「そうだな。芯で捉えると、手に、なんの衝撃もないんだ」

「打った気が、しないくらいに」

「あれ、痛くないんですか」

「ああ。気持ちよくて、空に吸い込まれていくみたいでな」

健太くんは、その言葉を、宝物のように、繰り返しました。

「空に、吸い込まれていく……」

見えない目を細めて、彼は、見えないボールの行方を、追っているようでした。

少年は、はにかんで笑いました。

その笑顔を、村瀬さんは、まぶしそうに見つめていました。

※

別れぎわ、村瀬さんは、ひとつのボールを、健太くんの手に握らせました。

「これ、俺が使ってたボールだ。お守りにな」

健太くんは、両手で、そのボールを、大事そうに包みました。

「ありがとうございます。一生、宝物にします」

そのボールを、健太くんは、手術のあいだも、ずっと握りしめていたそうです。

別れぎわ、村瀬さんは、少年と、ひとつの約束をしました。

「今度の試合で、俺がホームランを打ったら、きみは、勇気を出して手術を受ける。どうだ」

少年は、息を呑みました。

「ほんとうに、打てますか」

「打つさ。きみのためにな」

「……わかりました。約束します」

その声は、小さく、震えていました。

怖くないわけが、ありません。

それでも健太くんは、ヒーローとの約束のために、震える声で、約束したのです。

小指と小指を、そっと、からめました。

病室を出たあと、村瀬さんは、廊下で、ぽつりと言いました。

「参ったな。もう何ヶ月も、打ってないってのに」

その横顔は、笑っているのに、どこか、泣きそうにも見えました。

私は、何も言えませんでした。

※

※

試合の前夜、私は、球場の室内練習場に、村瀬さんを訪ねました。

灯りはひとつだけ。

村瀬さんは、たったひとり、黙々と、バットを振っていました。

額から、汗が、したたっていました。

何百回、何千回。

その音だけが、がらんとした練習場に、響いていました。

「無理を、しないでください」

私が言うと、村瀬さんは、振る手を止めずに、笑いました。

「打てなかったら、あの子に、なんて言えばいい」

「嘘でも、いいんだ。あの子が、勇気を出してくれるなら」

その背中は、不振にあえぐ老兵ではなく、ひとりの父親のように、見えました。

私は、頭を下げて、練習場を、後にしました。

約束の試合の日が来ました。

私は、その試合の、ラジオ実況を担当していました。

試合は、終盤までもつれました。

一点を追う、九回裏でした。

二死から、走者が、塁に出ました。

ベンチも、スタンドも、総立ちです。

打席に向かう村瀬さんに、地鳴りのような声援が、降り注ぎました。

そして、村瀬さんの、その日最後の打席が回ってきました。

私は、マイクに向かって、声を張りました。

「さあ、四番、村瀬。この打席に、すべてがかかっています」

病院のベッドで、少年が、ラジオに耳を澄ませているはずでした。

全国の、いや、少なくともこの街じゅうの人が、あの約束を、知っていました。

新聞が、少年と村瀬さんの話を、大きく報じていたのです。

その記事は、街じゅうの人の心を、動かしました。

喫茶店でも、銭湯でも、人々は、あの約束の話をしていました。

「村瀬、打てるかねえ」

「打ってほしいなあ。あの子のためにも」

不振の四番打者は、いつのまにか、街じゅうの願いを、背負っていました。

球場は、固唾を呑んで、見守っていました。

病院では、健太くんが、母親と並んで、ラジオの前に座っていました。

小さな手は、シーツを、ぎゅっと握りしめていたそうです。

「村瀬選手、打てるかな」

「打つわよ。約束したんだもの」

母親は、そう言いながら、祈るように、両手を合わせていました。

球場の何万人もが、テレビやラジオの向こうの少年のことを、知っていました。

誰もが、同じ祈りを、胸に抱いていました。

どうか、この一打を。

どうか、あの子に、勇気を。

カウントは、ツーストライク、スリーボール。

フルカウントです。

ピッチャーが、振りかぶりました。

最後の一球が、投じられました。

※

村瀬さんのバットが、空を切りました。

ボールは、大きな音とともに、キャッチャーミットに、突き刺さりました。

空振り、三振。

バットは、ボールの、はるか上を、通り過ぎていました。

村瀬さんの、最後の力を振り絞った、渾身のスイングでした。

けれど、ボールは、無情にも、ミットの中でした。

球場全体から、ため息が、漏れようとしました。

その瞬間です。

私の頭に、病室の少年の顔が、浮かびました。

『つよいこころが、ほしいです』

あのたどたどしい字が、目の裏に、よみがえりました。

私は、考えるより先に、マイクに向かって、叫んでいました。

マイクを握る手が、震えていました。

事実だけを伝える。

四十年、守ってきたはずの、その誓いが、このとき、音を立てて崩れました。

それでも、構わない、と思いました。

「打ったー! ホームランです!」

「大きい、大きい! 月にまで届きそうな、特大のホームランだー!」

一瞬、球場が、しんと静まりました。

スタンドの人々が、私の実況席を、振り返りました。

そして、誰からともなく、立ち上がり、割れんばかりの拍手が、湧き起こったのです。

観客は、すべてを、わかっていました。

わかった上で、少年のために、声を限りに、歓声を上げてくれたのです。

グラウンドの村瀬さんも、空振りの体勢のまま、天を仰いでいました。

その頬を、一筋、光るものが、伝っていました。

※

※

試合のあと、村瀬さんは、記者たちに囲まれました。

誰ひとり、空振りのことを、口にしませんでした。

ひとりの記者が、こう聞きました。

「いまの一打、どんな思いで振りましたか」

村瀬さんは、しばらく黙ってから、静かに答えました。

「あの子が勇気を出してくれるなら、俺の野球人生は、それで十分です」

その夜、私は、なかなか眠れませんでした。

嘘をついた、という罪の意識と。

それでも、あれでよかったのだ、という思いが。

ふたつ、胸の中で、いつまでも、せめぎ合っていました。

数日後、少年は、勇気を出して、手術を受けました。

手術は、成功しました。

少年の目は、見えるように、なったのです。

目隠しが外された日、健太くんが、最初に見たのは、付き添ってきた母親の顔だったそうです。

母親は、声をあげて、泣きました。

「見える。お母さん、顔が、見えるよ」

健太くんも、初めて見る母の顔を見つめて、泣いていました。

見えるということが、どれほどの奇跡か。

その奇跡へ踏み出す勇気を、あの一打が、与えてくれたのです。

退院の日、少年は、村瀬さんと、私のところへ、挨拶に来ました。

初めて、自分の目で、村瀬さんを見上げて、少年は言いました。

「やっぱり、大きいです。ホームランを打つ人の、顔だ」

村瀬さんは、何も言わず、ただ、少年の頭を、大きな手で、撫でていました。

私は、自分の嘘が、ばれてしまうのではないかと、ひやひやしていました。

けれど、少年は、最後まで、信じきっていました。

あの日、村瀬さんが、月まで届くホームランを打ったのだ、と。

※

その年かぎりで、村瀬さんは、現役を引退しました。

引退の挨拶のあと、彼は、私にだけ、そっと、こう言いました。

「あの空振りが、俺の野球人生で、いちばんの一打だったよ」

不振の末の、静かな引退でした。

それでも、その背中は、どこか、満ち足りているように、見えました。

それから、長い年月が流れました。

村瀬さんは、その年かぎりで、ユニフォームを脱ぎました。

私は、転勤を重ね、いつしか、定年を迎えました。

そんなある日、私のもとに、一人の青年が訪ねてきました。

立派に成長した、あの少年でした。

「ずっと、お礼が言いたかったんです」

彼は、深々と、頭を下げました。

「実は、ずいぶん前に、当時の新聞を読んで、知ったんです」

「あの打席が、本当は、空振りの三振だったって」

私は、言葉を失いました。

彼は、まっすぐ私を見て、微笑みました。

「でも、あれは、ぼくの人生でいちばん大きなホームランでした」

「あの嘘が、ぼくに、目を開ける勇気をくれたんです」

「あの音のない世界で、ぼくは、ずっと怖かった」

「でも、あの実況を聞いた瞬間、世界が、ぱっと明るくなったんです」

「見えないぼくにも、あのホームランが、たしかに、見えた気がした」

「ぼくは、あの嘘に、救われたんです」

「だから今度は、ぼくが、誰かの世界を、声で照らしたい」

そう言って、青年は、晴れやかに、笑いました。

青年の目に、うっすらと、涙がにじんでいました。

私は、何も言えず、ただ、彼の手を、握り返しました。

※

退院してしばらくして、健太くんは、初めて、自分の目で、球場へ行ったそうです。

青い芝生。白いボール。村瀬さんの、大きな背中。

ラジオの中だけにあった世界が、目の前に、ありありと広がっていました。

「想像していたより、ずっと、まぶしかった」

後年、彼は、そう語っていました。

青年は、いま、ラジオ局で、働いているそうです。

見えない人にも、その場の景色が、ありありと伝わるように。

言葉で、世界を、届けているのだといいます。

「先生みたいな、アナウンサーになりたくて」

そう言って、彼は、笑いました。

私は、四十年近く、嘘だけはつくまいと、声を出してきました。

たった一度ついた、あの嘘を、私は、いまも誇りに思っています。

事実だけが、人を救うのではないのだと思います。

ときに、たった一言の優しさが、ひとりの人生を、まるごと照らすことがある。

あの日、月まで届いたのは、ホームランではありませんでした。

村瀬さんと、球場の何万人もの、優しさだったのです。

健太くんが、音だけで打球を言い当てたように。

人は、目に映るものだけで、世界を見ているのではないのだと思います。

本当に大切なものは、いつも、見えないところに、あるのかもしれません。

あの日、私がついた嘘も。

村瀬さんが流した、ひとすじの涙も。

何万人もの、優しい歓声も。

どれも、目には、見えませんでした。

それでも、たしかに、そこに、ありました。

私は、いまでも、ラジオから流れる野球中継を、聴くことがあります。

打球の音が響くたび、あの病室の少年の、見えない目を、思い出します。

音だけを頼りに、世界の広さを信じていた、あの澄んだ横顔を。

嘘をついてはいけない、と私は教わってきました。

けれど、人を生かす嘘も、この世には、たしかにあるのだと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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