中学一年の春、俺は雪国の小さな町で、誰よりも鈍臭い少年だった。
背は低く、腹は丸く、走れば最後尾、跳び箱は一段目でつかえる。体育の時間は、いつも誰かの溜め息を背中に浴びていた。
四月の校庭にはまだ根雪が残っていて、解けかけた雪の匂いが鼻の奥につんと刺さった。土と水の混じった、あの冷たい匂い。今でもそれを嗅ぐと、喉の奥がほんの少し苦くなる。
クラス替えの初日、教室の空気が俺をゆっくり値踏みしているのが分かった。誰と組めば損か、誰なら笑っていいか。子どもの目は、大人が思うよりずっと残酷に、正確だ。
うちは、母と二人きりだった。父の顔は、俺が物心つく前から、色あせた写真の中にしかいない。
母は朝の暗いうちから缶詰の工場へ出て、夜は別の食堂で皿を洗っていた。帰ってくる頃には、俺はもう布団の中で寝たふりをしていた。
だから俺は、家でも学校でも、いつも一人で時間を持たせる癖がついていた。誰かに期待しないこと。それが、いちばん傷つかずに済むやり方だと思っていた。
自分のことを、俺は半ば、いてもいなくてもいい人間だと思っていた。そういう少年だった。
※
目をつけてきたのは、二人だった。
一人は陸上部のエース、速水。日に焼けた長い脚と、人を見下すときだけ妙に整う笑い方を持っていた。廊下を歩くだけで、後ろから女子の声が追いかけていくような男だ。
五十メートル走の記録会で、隣のレーンに立った速水は、わざと誰にも聞こえるように言った。
「お前と並ぶと、こっちのタイムまで落ちるんだよ。豚って、空気抵抗すごそうだもんな」
周りで、小さな笑いが起きた。俺は拳を握って、ただスタートラインの白い線を見ていた。
言い返す言葉も、走る速さも、その日の俺は、何ひとつ持っていなかった。
ピストルが鳴って、俺は案の定、最後尾でゴールした。雪解け水でぬかるんだトラックに、俺の足跡だけが、ひときわ深く沈んでいた。
もう一人は、学級委員の桐谷だった。
色の白い、定規で引いたような姿勢の男で、誰に対しても容赦がなかった。俺が掃除をさぼれば叱り、提出物を忘れれば叱り、廊下を走れば苗字を呼んで足を止めさせた。
その声は冬の水のように冷たくて、呼ばれるたびに背筋が勝手に伸びた。
正直に言えば、速水よりも桐谷のほうが、俺はずっと怖かった。
だから速水に何を言われても、俺は桐谷の視線を気にして、ただ黙っていた。教室の隅で、息を殺すようにして一日をやり過ごす。それが、俺の生き方だった。
※
五月のある昼休み、俺は窓際で一人、好きな野球選手の切り抜きを机に並べて眺めていた。
安い週刊誌を立ち読みして、こっそり持ち帰った宝物だった。並べて眺めている時間だけは、誰にも邪魔されない、俺だけの世界だった。
教室で一番明るい女子が、ふいに俺の机の前に立った。普段、俺とは住む階が違うような子だ。話しかけられたこと自体が、その日の俺には事件だった。
「ねえ、その切り抜き、少しもらえないかな。お願い」
笑顔が可愛くて、下心なんて湧く隙もなかった。ただ、話せたという喜びだけで、俺は持っていた束のほとんどを、彼女に渡してしまった。
彼女が去ったあと、桐谷が静かに近づいてきた。叱られる、と俺は反射的に身構えた。
「馬鹿だな、お前は。あの子、速水とつき合ってるぞ。完全に、使われたんだよ」
頭の芯が、すっと冷たくなった。
速水も同じ選手のファンで、俺はその使い走りに利用されたのだ。自分の浅さが情けなくて、目の奥が熱く滲んだ。
ただ、不思議だったのは、そのときの桐谷の声が、いつもの叱責とは違って、ほんの少しだけ柔らかかったことだ。
そのせいだろうか。思ったよりも早く、俺は立ち直ることができた。冷たい言葉の底に、なぜか温度のようなものを感じた、最初の日だった。
※
その桐谷を、ただ怖いだけの男ではないと知ったのは、夏の終わりの帰り道だった。
用水路に落ちた子猫が、コンクリートの壁を登れずに、か細い声で鳴いていた。通りかかった俺が、どうしていいか分からずに立ちすくんでいると、後ろから自転車を停めた桐谷が、何も言わずに袖をまくった。
「手、貸せ。お前が下で受けろ。落とすなよ」
泥だらけになりながら、桐谷は冷たい水に腕を突っ込み、震える子猫を掬い上げた。猫を俺の両手にそっと乗せると、また何も言わずに、ペダルを踏んで去っていった。
濡れた背中が、夕陽の中で小さくなっていくのを、俺はずっと見ていた。手のひらの中で、子猫の心臓が、驚くほど速く鳴っていた。
あの男は、優しさを、叱責の形でしか出せないのだ。そう、なんとなく分かった気がした。
その夜、俺は掬い上げた子猫を、こっそり家に連れて帰った。
母は最初、困った顔をしたが、ミルクを温めて、古いタオルで寝床を作ってくれた。
「お前が、生き物を助けたんだね」と、母は少しだけ笑った。その笑顔を、俺は久しぶりに見た気がした。
その猫は、それから十五年、うちで生きた。母を看取り、俺の結婚を見届けて、静かに逝った。
思えば、あの日の桐谷の濡れた背中から、俺の家の小さな幸せは、始まっていたのかもしれない。
※
秋になって、俺の成績がひどく落ちた日があった。母の仕事が増えて、家で勉強を見てもらう余裕など、もうなかった頃だ。
放課後、誰もいない教室で答案を見つめていると、桐谷が隣の席に、勝手に腰を下ろした。
「ここ、符号が逆だ。お前、考え方は合ってるのに、いつも最後で慌てる」
それから一時間、桐谷は俺に数学を教えた。教え方は相変わらずぶっきらぼうで、分からないと言うと容赦なく叱られた。
でも、窓の外が藍色に染まるまで、桐谷は一度も帰ろうとしなかった。
別れ際、俺が礼を言うと、桐谷は少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「うちも、親が夜いないからさ。家で一人なのは、慣れてるんだ」
その一言で、俺はこの男の冷たさの正体を、少しだけ分かった気がした。桐谷もまた、一人で時間を持たせることを、覚えてしまった子どもだったのだ。
※
その冬の入り口に、一度だけ、桐谷をうちに上げたことがある。
その日は珍しく、母の仕事が早く終わる日だった。テスト勉強を口実に、俺は思いきって桐谷を誘ったのだ。誰かを家に呼ぶなんて、生まれて初めてのことだった。
狭い台所で、母は照れたように、ありあわせの煮物と、温かい茶を出した。
「いつも息子がお世話になって。こんな子だけど、よろしくね」
桐谷は背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。教室での、あの容赦のない男とは別人のようだった。
「お世話なんて。こいつは、真面目にやってます。本当です」
その一言に、母は少しだけ、目を潤ませた。誰かに息子をそう言ってもらえたのが、よほど嬉しかったのだと思う。
帰り際、雪の降る玄関で、桐谷は小さく言った。「いい、お母さんだな」。それだけだった。
その背中を見送りながら、俺は、自分の家が初めて、少しだけ誇らしく思えた。
※
※
忘れられない日が、もう一日ある。
持久走の授業で、俺はまた最後尾だった。トラックを一周遅れて、ぜいぜいと喘ぐ俺を見て、若い体育教師が、みんなの前で笑った。
「お前みたいなのが一人いると、クラスの平均が下がるんだよなあ」
笑い声が、白い校庭に広がった。俺は、地面の雪だけを見て、立ち尽くしていた。
そのとき、列の中から、桐谷が静かに進み出た。
「先生。こいつは、一度も歩かずに、最後まで走り切りました。途中でやめた奴より、ずっとましだと思います」
教師の笑いが、すっと引っ込んだ。校庭が、しんと静まり返った。
桐谷は、それ以上は何も言わず、また列に戻った。俺の隣に並んで、前だけを見ていた。
その横顔に、俺は何度、救われただろう。誰も数えてくれない努力を、たった一人、見ていてくれた男だった。
あの頃の俺は、自分には価値がないと、本気で思い込んでいた。
でも、たった一人でも、自分の努力を見ていてくれる人がいる。それだけで、人は、明日も歩いていける。
桐谷が俺にくれたのは、賞状でも、勝利でもなかった。自分を、少しだけ信じてもいいという、その小さな許可だったのだと思う。
冬が来て、町の中学では毎年恒例の、雪中綱引き大会があった。
クラス対抗で、雪を踏み固めた校庭に太い綱を張る。マフラーに白い息が凍りつき、手のひらが綱の繊維で焼けるように痛む、北国の子どもの本気の祭りだ。
体は重いが、力だけはある俺は、なぜか大将に推された。一番後ろで綱を腹に巻きつけ、最後の最後で踏ん張る役だ。
推したのは、桐谷だった。
「重い奴が後ろにいるほうが、綱は粘る。お前が一番後ろだ。文句あるか」
副将には、桐谷自身が立った。背が高く、肩の厚い男だった。
俺は内心で、ずっと不思議に思っていた。桐谷のほうが余程強いのに、なぜ俺が大将なのだろう、と。
あとになって、それが桐谷なりの、不器用な信頼だったのだと知る。一番きつい役を、こいつなら逃げない、と。
速水も力比べには自信があったから、当然のように選ばれた。だが、まわしのついたジャージが嫌だと、ずっと不機嫌に唇を尖らせていた。
※
本番の朝、速水は急に腹を押さえて顔をしかめた。
「腹こわした。俺、無理だわ。出れない」
誰の目にも見え透いた仮病だった。教室の空気が、しらけて重くなった。
桐谷は、クラス全員の前で、低く、はっきりと言った。
「根性のない奴だ。それとも、彼女に出るなとでも言われたのか」
速水は耳まで真っ赤にして、逃げるように校庭の隅へ消えていった。誰も、追いかけなかった。
残された俺たちは、白い息を吐きながら、綱を握り直した。
※
綱引きは、最後の最後で崩れた。
三位決定戦、相手は柔道部の巨漢を揃えた、町でも評判の強い組だった。
俺は前の試合で、足首をひねっていた。靴下の中で、足首がじんじんと熱を持って、腫れていくのが分かった。
それでも、腫れた足を雪に踏ん張り、綱を腹に巻きつけて、全身で引いた。白い息が喉で凍り、握った手のひらの皮が、ずるりと剥けた。
赤い雪が、足元にぽつぽつと落ちた。それでも、綱を放す気にはなれなかった。後ろには、もう誰もいないのだから。
あと一歩、というところだった。俺の足が、踏み固められた氷を、噛み損ねた。
体が後ろへ泳ぎ、綱はずるずると、相手側へ流れていった。
短い笛が、冬の空に鳴った。負けだった。
三位までが賞状をもらえるのに、俺たちは、四位で大会を終えた。
うなだれる仲間たちの輪の中で、俺は責任の重さに、半分泣いていた。自分のあの一歩さえ、なければ、と。
それでも、誰一人、俺を責めには来なかった。むしろ、その沈黙が、かえって俺には苦しかった。
桐谷だけが、剥けた俺の手のひらを見て、短く言った。「よく、最後まで放さなかったな」。それだけだった。
※
翌日、足を引きずって教室に入ると、速水が待ち構えていた。
「おい、悲劇の主人公気取りか。負け犬が」
冷たい笑いだった。負い目のある俺は、また黙って耐えるしかないのだと、半ば諦めていた。
そのときだった。
「腹のほうは、もう治ったのか」
桐谷の声だった。教室の全員が、いっせいに振り返った。
「お前に、こいつを責める資格があるのか」
速水の顔が、はっきりと強ばるのが見えた。
「練習はいつも手を抜く。勉強だってこいつより下。五十メートルのタイムも、結局、変わらないじゃないか」
俺が言いたくて、ずっと言えずに飲み込んでいたことを、桐谷が全部、代わりに言ってくれていた。
「お前がこいつより上なのは、ずる賢い彼女がいることくらいだろう。あの切り抜きは、ちゃんと彼女に渡せたのか」
速水は唇を噛んで、その日のうちに早退した。
取られたはずの切り抜きの束は、数日後、なぜか俺の机の上に、そっと戻されていた。誰が返したのかは、聞かなかった。聞かなくても、分かっていた。
※
卒業が近づいたある日の放課後、俺は思いきって桐谷に聞いた。ずっと、胸に引っかかっていたことだ。
「なあ、どうしてあのとき、何度も俺を庇ってくれたんだ」
桐谷は少し照れたように、窓の外の、解けかけた雪を見た。
「お前、鈍臭いけどな。何事も、馬鹿みたいに真面目で、一生懸命だったからだよ」
それから、声を落として続けた。
「お前が、俺に気を遣って速水を我慢してたのも、俺はちゃんと知ってた」
「怒るときは、怒っていいんだ。お前は、もっと自分のために、怒っていい」
鼻の奥が痛くなって、俺は何も返せなかった。ただ、雪の照り返しがまぶしいふりをして、しばらく空を見上げていた。
桐谷は、それ以上は何も言わなかった。いつもの、そっけない背中で、先に教室を出ていった。
その背中に、俺は心の中で、何度も頭を下げた。
※
三年で別のクラスになり、卒業してからは会う機会もないまま、長い時が流れた。
就職して、町を出て、結婚して、子どもが生まれた。あの綱の感触も、剥けた手のひらの痛みも、いつしか記憶の奥に、静かに沈んでいった。
去年の冬、同級生のひとりから、桐谷が病気で逝ったと聞いた。まだ働き盛りの歳だった。最期まで、人に弱音を吐かない男だったらしい。
知らせを受けた夜、俺は雪の降る窓辺で、長いこと、ただ立っていた。
年が明けて、俺は久しぶりに、あの町へ帰った。桐谷の墓は、雪をかぶった小さな丘の上にあった。
線香に火をつけると、白い煙が、まっすぐに、凍った空へ昇っていった。
あいつとは、たった一年、同じ教室にいただけだ。それなのに、俺はずっと、あいつの背中だけを覚えている。
勝手に親友のつもりでいたことを、許してくれよ、桐谷。
墓前にしゃがむと、俺は、これまで言えなかったことを、ひとつひとつ、口にした。
あのとき切り抜きを返してくれて、ありがとう。数学を教えてくれて、ありがとう。母に、いい母さんだと言ってくれて、ありがとう。
母も、数年前に逝った。最期まで働き続けた人だった。今ごろ、そっちで二人、顔を合わせているだろうか。
思えば、俺の人生で、ちゃんと俺の味方をしてくれた人は、そう多くなかった。母と、桐谷。たぶん、その二人だけだった。
二人とも、口下手で、不器用で、自分のことは後回しにする人だった。俺は、その背中ばかりを見て、育ったのだ。
雪が、また降り始めた。線香の煙と混じって、白い空へ消えていく。
俺は今、人の親になった。息子は、運動が苦手で、少し鈍臭くて、昔の俺によく似ている。
その子が、誰かに笑われて帰ってきた日、俺は桐谷の言葉を、そっくりそのまま伝えた。
「一度も歩かずに走り切ったなら、それでいいんだ。怒るときは、自分のために怒っていい」
息子は、不思議そうな顔をして、それでも少し、嬉しそうに笑った。その笑顔に、俺はまた、あの教室の窓辺を思い出した。
あのとき庇ってくれた背中を、俺はまだ、一度も追い越せていない。
だからせめて、息子には教えるよ。怒るときは、自分のために怒っていいんだと。お前が俺に教えてくれた、たった一つのことを。
墓石に手を置くと、冷たさの奥に、なぜか、あの日の子猫の鼓動のような、かすかな温もりを感じた気がした。
いつか、そっちで会おうや。そのときは俺から、ちゃんと礼を言うよ。