私は、古い商店街の片隅で、小さなペットショップを営んでいます。
店を継いだのは、犬好きだった父が体を壊し、その後を継ぐ者がいなかったからでした。
商売としては、けっして上手とは言えません。
値切られればつい負けてしまうし、売れ残った子を、自分で引き取って育ててしまうこともしばしばです。
「あんたは商売に向いてないねえ」と、近所の魚屋の大将には、よく笑われたものです。
それでもこの仕事を続けているのは、命と命がつながる瞬間に、何度も立ち会えるからだと思います。
その年の春、店で飼っていた母犬が、五匹の子犬を産みました。
どの子も毛がふかふかで、まるで毛玉が転がっているようでした。
ただ、一匹だけ、生まれつき後ろ足が不自由な子がいたのです。
獣医さんに診てもらうと、「この足は、おそらく一生治らないでしょう」と、静かに告げられました。
歩くたびに、その子は片足を引きずり、よろよろと体を傾けました。
「売り物にはならないだろうね」
そう言われたとき、私はなぜだか、その小さな背中から目を離せなくなっていました。
ほかの四匹は、毛づやもよく、やんちゃに転げ回って、見ているだけで人を笑顔にする子たちでした。
案の定、その四匹は、店頭に並べてすぐに、次々と新しい家族のもとへ巣立っていきました。
けれど、足の不自由なその子だけは、いつも一匹、ケージの隅に残されていました。
お客さんは、可愛いと言って覗き込むのですが、その足に気づくと、決まって口をつぐむのです。
「うちには、ちょっとね」と、申し訳なさそうに去っていく後ろ姿を、何度見送ったでしょう。
そのたびに、私はその子を抱き上げ、「大丈夫だよ」と、自分に言い聞かせるように撫でました。
父がよく言っていた言葉を、私はそんなとき思い出していました。
「弱い命ほど、誰かにとっての、かけがえのない一匹になるんだ」
父は、戦後の物のない時代に、傷ついた野良犬を拾っては、こっそり手当てしていた人でした。
「商売にはならんが、これがわしの性分でな」と、よく照れくさそうに笑っていました。
その父の背中を見て育った私が、同じ道を歩むのは、思えば自然なことだったのでしょう。
店の奥には、今も父が使っていた、古い木の餌箱が残っています。
それを見るたびに、私は、命を商うのではなく、命を手渡すのが、この仕事なのだと思い直すのです。
その子は、ミルクを飲むのも、立ち上がるのも、ほかの子の何倍も時間がかかりました。
それでも、決してあきらめずに、毎朝よろよろと立ち上がる姿に、私はいつしか励まされていたのです。
夜、店を閉めたあと、私はよくその子をひざにのせて、温かいタオルで足をさすってやりました。
獣医さんに教わったとおり、固まった関節を、少しでもほぐしてやりたかったのです。
その子は、痛いだろうに、一度も鳴かず、じっと私の手に身をゆだねていました。
「お前は、ずいぶんと辛抱強い子だなあ」
そう話しかけると、まるで返事をするように、私の指を、ぺろりと舐めるのです。
この子には、きっと、この子を本当に必要としてくれる人が現れる。
根拠もなく、私はそう信じていました。
※
子犬たちが店頭に並ぶようになって、しばらく経った頃でした。
一人の男の子が、店のガラス越しに、じっと子犬たちを見つめていることに気づきました。
年の頃は、七つか八つくらいでしょうか。
ランドセルを背負ったまま、毎日決まって夕方に、その子はやって来るのです。
ガラスに鼻をくっつけるようにして、子犬たちが遊ぶ姿を、飽きもせず眺めていました。
ある日、私は思い切って、外に出て声をかけてみました。
「坊や、犬が好きなのかい」
「うん、大好き」と、その子ははにかみながら答えました。
「毎日見に来てくれてるね。中に入って、近くで見てもいいんだよ」
男の子は、おそるおそる店に入ってくると、子犬たちの前にしゃがみ込みました。
その横顔が、あまりにも真剣で、私は思わず笑ってしまいました。
「ぼく、悠真っていうんだ」と、その子は教えてくれました。
それからというもの、悠真くんは、毎日のように店を訪れるようになったのです。
悠真くんは、子犬たちの名前を、一匹ずつ勝手に決めては、楽しそうに呼びかけていました。
中でも、あの足の不自由な子のことを、彼はとりわけ気にかけているようでした。
ほかの子に餌を取られて、なかなか食べられずにいると、そっと皿を近づけてやるのです。
「ゆっくりでいいよ。おじさんも、ぼくも、ちゃんと待っててあげるから」
そう話しかける悠真くんの横顔には、年齢に似合わない、静かなやさしさがありました。
あるとき、私はさりげなく尋ねてみました。
「悠真くんは、おうちで犬を飼いたいって、お父さんやお母さんに言ったのかい」
「うん。でも、お世話が大変だからって。それに、うちはあんまり、お金がないから」
そう言って、彼は少しだけ、寂しそうに笑いました。
後で近所の人に聞いたところ、悠真くんは、お母さんと二人で暮らしているのだそうです。
お母さんは朝から晩まで働いていて、悠真くんは、いつも一人で留守番をしていると。
足のことで、学校でも、なかなか友だちの輪に入れずにいるらしいと、その人は声を落としました。
そう聞いて、私は、彼が毎日この店に通ってくる理由が、少しだけ分かった気がしました。
ガラスの向こうの子犬たちは、悠真くんにとって、たった一つの、心を開ける相手だったのかもしれません。
そして、あの足の不自由な子は、誰よりも悠真くんの孤独を、わかってあげられる存在だったのです。
それでも次の日も、その次の日も、悠真くんは欠かさず、店の前に立っていたのです。
雨の日には、小さな傘をさして、ガラス越しにその子に手を振っていました。
風の強い夕方も、寒さで頬を真っ赤にしながら、彼はそこに立っていました。
「今日も来てくれたんだね」と私が言うと、悠真くんは決まって、嬉しそうに頷きました。
その子も、悠真くんの姿を見つけると、不自由な足で、けんめいにガラスへ近づこうとするのです。
言葉を交わさずとも、二人のあいだには、確かな何かが通い合っているようでした。
私は、いつかこの二人が、本当の家族になればいいのにと、ひそかに願うようになっていました。
※
ある日のことでした。
悠真くんは、いつになく真剣な顔で、私のところへやって来ました。
「おじさん、子犬って、いくらするの」
「そうだね、だいたい三万円から、五万円くらいかな」
すると悠真くんは、ズボンのポケットから、小銭を大事そうに取り出しました。
「ぼく、二千三百円しか持ってないんだ。でも、見せてくれる?」
そのまっすぐな瞳に、私は何も言えず、奥に向かって口笛を吹きました。
本来なら、それだけのお金で子犬を売ることは、とてもできません。
それでも、その小銭が、彼にとってどれほどの重みを持つものか、私には痛いほど伝わってきました。
ひと月分のお小遣いを、ぜんぶ握りしめてきたのでしょう。
手のひらの中で、十円玉や百円玉が、汗で少し湿っていました。
すると、毛のふかふかした子犬たちが、奥から転がるように飛び出してきました。
ところが、その後ろから、一匹だけ、片足を引きずりながら、一生懸命についてくる子がいたのです。
「おじさん、あの子は、どうしたの」と、悠真くんは尋ねました。
「あの子はね、生まれつき足が悪いんだ。獣医さんも、たぶん一生治らないだろうって」
そう答えた、その瞬間でした。
悠真くんの顔が、ぱっと、花が咲くように輝いたのです。
その子もまた、悠真くんを見上げて、ちぎれそうなほど、尻尾を振っていました。
片足を引きずりながら、それでもけんめいに、悠真くんのそばへ寄っていくのです。
二人が初めて、ガラス越しではなく、じかに触れ合った瞬間でした。
悠真くんは、その小さな頭を、世界でいちばん大切なものに触れるように、そっと撫でました。
「やっと、会えたね」
そのひと言に、私は、これはもう、運命なのだと悟りました。
「ぼく、この子がいい。おじさん、この子を売って」
※
私は、思わず言葉に詰まりました。
「坊や、よく考えた方がいい。その子は、ほかの元気な子みたいには、走れないんだよ」
「いいの。ぼく、この子がいいんだ」
「一緒に駆け回ったり、ボールを追いかけたりは、できないかもしれない」
「それでも、この子がいい」
「どうしても、というなら、お金はいらない。その子は、ただであげるよ」
そう言った私を、悠真くんは、少し怒ったように見上げました。
「ただなんて、いやだよ」
「この子は、ほかの子と、どこも違わないもの」
「だから、ちゃんと、ほかの子と同じ値段で買う」
「今ある二千三百円を払って、残りは毎月、お小遣いから少しずつ払うから」
その言葉に、私は胸を打たれて、何も返せませんでした。
私が黙っていると、悠真くんは、ゆっくりとズボンの裾をまくり上げました。
その左足には、金属でできた、大きな補助具がはめられていたのです。
悠真くんは、私の目をまっすぐに見て、おだやかな声で言いました。
「この子は、ぼくの気持ちをわかってくれる友だちが、ほしいんだと思うんだ」
※
私は、しばらく、その場に立ち尽くしていました。
胸の奥から、熱いものが、こみ上げてくるのを感じました。
「……分かったよ。じゃあ、ほかの子と同じ値段だ」
私は、悠真くんの差し出した小銭を、一枚ずつ、ていねいに受け取りました。
そのお金の重みが、私にはとても、とても尊いものに思えました。
悠真くんは、片足の不自由なその子を、宝物のように、そっと抱き上げました。
子犬は、まるで「ありがとう」と言うように、悠真くんの頬を、ぺろりと舐めました。
「名前、もう決めてるの」と私が尋ねると、悠真くんは大きく頷きました。
「ソラ、っていうんだ。空みたいに、どこまでも自由だから」
その名前を聞いて、私は思わず、胸が詰まりました。
自分の足が自由にならないからこそ、悠真くんは、その子に「自由」という名を贈ったのでしょう。
それは、子犬への願いであると同時に、悠真くん自身への、静かな誓いのようにも聞こえました。
「いい名前だね。ソラなら、きっと、どこへだって行ける」
私がそう言うと、悠真くんは、これまででいちばんの笑顔を見せてくれました。
その笑顔は、夕暮れの店先を、ぱっと明るく照らしたのです。
悠真くんが帰ったあと、私はがらんとしたケージを、しばらく眺めていました。
毎朝、けんめいに立ち上がっていたあの子は、もう、ここにはいません。
けれど、その空っぽのケージが、こんなにも誇らしく見えたのは、初めてのことでした。
売れ残りと呼ばれた一匹が、たった一人の、かけがえのない友だちのもとへ旅立ったのです。
私は、店じまいの灯を消しながら、父に向かって、心の中でそっと報告しました。
「父さん、今日も、ちゃんと一つの命を、手渡せたよ」と。
あの日から、私は子犬を売るとき、値段の話をいちばん後回しにするようになりました。
その子と、迎えに来た人とのあいだに、本当の縁が結ばれているか。
それを見届けることの方が、よほど大切だと気づかされたからです。
悠真くんが教えてくれたのは、たぶん、そういうことでした。
小さな手の中の汗ばんだ小銭の重みを、私は今でも、てのひらのどこかで覚えています。
あれは、私がこれまで受け取った中で、いちばん尊い代金だったのですから。
走れなくても、その子は、悠真くんの心の中で、どこまでも自由に駆けていくのでしょう。
帰り際、悠真くんは、ソラを抱いたまま、深々と頭を下げました。
「おじさん、本当にありがとう。ぼく、ソラを、世界でいちばん幸せにするから」
その小さな背中が、夕陽の中を、ゆっくりと遠ざかっていきました。
ソラを抱える腕は、不安定に揺れながらも、決して離すまいと、しっかり力がこもっていました。
二つの不自由な足が、寄り添うようにして、家路をたどっていく。
その後ろ姿を、私は店先で、いつまでも見送っていました。
※
あれから、ずいぶんと月日が流れました。
悠真くんは、その後も毎月、約束どおりに、お小遣いを握りしめてやって来ました。
そして、最後の一円まで、きちんと払い終えたのです。
雨の日も、風の日も、悠真くんは毎月、決まった日に、お小遣いを持ってやって来ました。
ときには、五十円足りないと、半べそをかきながら謝りに来たこともありました。
「来月、ちゃんと持ってくるから、待ってて」と、何度も何度も頭を下げるのです。
私は、そのたびに、「いいんだよ、ゆっくりで」と笑って受け取りました。
本当は、お金などとうに、どうでもよくなっていました。
私はただ、約束を守ろうとする、その小さな背中を、見守っていたかっただけなのです。
今では立派な青年になった悠真くんが、先日、ふらりと店に顔を出してくれました。
「ソラは、十五歳まで生きて、去年、眠るように旅立ちました」
そう報告する彼の顔は、寂しさの中に、やわらかな誇りをたたえていました。
「あの子がいてくれたから、ぼくは、自分の足のことを、恥ずかしいと思わずに生きてこられた」
学校でからかわれて、泣いて帰った夜も、ソラだけは何も言わずに、隣で寄り添ってくれたそうです。
「ソラも、ぼくと同じだったから。だから、ぼくたちは、お互いを哀れんだりしなかった」
「ただ、いっしょにいる。それだけで、じゅうぶんだったんだ」
青年になった悠真くんは、今、福祉の仕事を志して、勉強しているのだと話してくれました。
「ソラとぼくが、おじさんに出会えたみたいに。ぼくも、誰かの隣に立てる人になりたいんだ」
その言葉に、私はまた、目頭が熱くなるのを抑えられませんでした。
帰り際、悠真くんは、店の奥のケージを、なつかしそうに覗き込みました。
そこには、また一匹、新しく生まれた、体の弱い子犬がいたのです。
「おじさん、この子も、きっと大丈夫だよ」と、悠真くんはやさしく笑いました。
「だって、世界には、こういう子をちゃんと選ぶ人が、ちゃんといるんだから」
その言葉は、まるで、かつての自分自身に語りかけているようでもありました。
私は、「ああ、そうだね」と、ただ深く頷くことしかできませんでした。
私は、あの春の夕暮れを、今でもはっきりと思い出します。
商売としては、ずいぶん下手な売り方をしたのかもしれません。
けれど、あの日、私は悠真くんから、いちばん大切なことを、教わった気がするのです。
本当の優しさとは、欠けたところを哀れむことではなく、対等な友だちとして、隣に立つことなのだと。
店を継いだ頃、私はずっと、自分の商売の下手さを、どこか恥じていました。
けれど今は、思います。
売れ残った命に居場所を与えること。
それこそが、父から受け継いだ、この小さな店の役目なのかもしれない、と。
今日も私は、ケージの隅で、けんめいに立ち上がろうとする一匹のために、店の灯をともします。
いつか、その子の友だちが、ガラスの向こうから、迎えに来てくれる日を信じて。