
二十歳の誕生日に、父から腕時計をプレゼントされた。
箱を開けたときの、少し得意そうな父の顔を今でもはっきり覚えている。
私は夏生まれだ。
翌日から、友人たちと海水浴へ行く予定が入っていた。
嬉しくて、さっそくその腕時計をつけて行くことにした。
今思えば、家に置いていけばよかったのだが、そのときの私は浮かれていて、そんなことは全く考えなかった。
※
海岸に着くと、私は時計を外し、荷物と一緒に砂浜に置いたまま海へ入った。
波に足を取られながらはしゃいで、時間が経つのも忘れていた。
しばらくしてから荷物のところに戻ると、そこにあるはずの腕時計が消えていた。
砂の上も、荷物の中も何度も探したが、どこにもない。
盗まれたのだと悟った瞬間、頭の中が真っ白になった。
胸の奥がぎゅっと痛くなり、楽しさは一気に冷めてしまった。
※
帰宅してからの一週間、私はどうにか明るく振る舞おうとしたが、うまくいかなかった。
食事ものどを通らず、夜もあまり眠れない。
そんな様子を見て、ついに父に呼び止められた。
時計のことを問い詰められると思って身構えたが、父の言葉は違っていた。
「旅行から帰ってきてから、お前、様子がおかしいぞ」
父は、私が何か深刻なトラブルに巻き込まれたのではないかと心配していたらしい。
当時の二十歳なんて、今思えばまだまだ子どもで、私は親の庇護の中で守られて生きていた。
父の真剣な顔を見たら、もう隠しておけなくなり、私は海で時計を失くしたことを正直に話した。
自分の不注意を何度も謝りながら、途中で涙がこぼれた。
※
父はしばらく黙って聞いていたが、やがて小さくため息をつき、少し寂しそうに笑った。
「そうか……仕方ないな」
「とにかく、お前が無事だったのが、いちばんだ」
叱られると思っていた私は、その言葉に驚き、同時に一層申し訳なさが込み上げてきた。
父はそれ以上追及せず、その話はそれきりになった。
※
しばらくしてから、台所で母と二人きりになったとき、ふとあの腕時計の話になった。
「お父さんね、あの時計、ずいぶん前から用意してたのよ」
母はそう言って、静かに教えてくれた。
あの時計は日本のメーカーの最高グレードのもので、想像していたよりもずっと高価だったらしい。
父は、私の二十歳の誕生日にどうしても渡したいと、何度も店に通って選んでいたのだという。
怖い父だと思っていたけれど、その話を聞いて、私はどれほど愛されていたのかを思い知らされた。
※
海岸で失くした瞬間の、自分の軽率さが改めて胸に突き刺さった。
あの腕時計は、たった一日で消えてしまった。
父の想いごと、砂浜のどこかに埋めてきてしまったような気がして、悔やんでも悔やみきれなかった。
枕を濡らしながら、「ごめんなさい」と何度も心の中で謝った。
※
年月が過ぎ、父は病に倒れ、この世を去った。
今、私の左手首には、父が最後まで使っていた古い腕時計が巻かれている。
傷だらけで、ところどころ文字盤の色も褪せているが、私には何よりも大切な形見だ。
朝、出掛ける前にバックルを留めるたび、二十歳の夏の失敗と、あの日の父の言葉を思い出す。
「とにかく、お前が無事だったのが、いちばんだ」
父はきっと、本気でそう思ってくれていたのだろう。
※
お父さん。
二十歳の誕生日に、あの腕時計を贈ってくれて、本当にありがとう。
たった一日で失くしてしまったことは、一生忘れません。
そして今は、あなたの時計を身につけて、毎日を大切に生きていきます。
ようやく素直に、そう言えるようになりました。