窯の前の命

雪山の村と温かな焰

窯の火を落としたのは、昨日の夕方だった。

師走の備前は日暮れが早い。橙色の炎が消えると、窯場はあっという間に闇に沈んだ。

焼成に四十時間以上かかった今回の窯は、特別に気を遣っていた。土の配合を少し変えてみた。仕上がりがどう出るか、火を落とすまでわからない。それが備前焼の面白さだと、宗次郎(そうじろう)は四十五年ずっとそう思ってきた。

四十五年。この山あいに窯を持って、それだけの年月が流れた。

後片付けを済ませ、工房の戸に錠を下ろした。霜が土の上に白く降り始めていた。息が白く煙る。師走の夜気は体の芯まで冷やすが、窯仕事を終えた後のこの静けさだけは、宗次郎にとって四十五年変わらず好きな時間だった。

今夜は早く眠れそうだと思った。そしてすぐに、今日が何の日だったかを思い出した。

千枝子が逝って、明日でちょうど一年になる。

翌朝、まだ夜が明けないうちに目が覚めた。

六十八年のあいだに体に染みついた習慣だ。窯仕事というのは、温度と時間に体を合わせるもの。目覚まし時計などとっくに要らなくなっていた。

今日は、千枝子の命日だった。

妻が逝ったのは一年前の師走、備前市から岡山市内の病院まで車で通い続けた三ヶ月が終わった朝だった。子のいない夫婦だったから、今は宗次郎が一人でこの窯場を守っている。弟子はすでに全員独立させた。助手を頼む気にも、なれなかった。

一人の窯場は、静かだった。

それは最初のころ、不思議なくらい楽に思えた。土を触っているあいだだけは、千枝子のことを考えずに済んだ。仕事に逃げ込んでいるのだとわかっていても、止める気にはなれなかった。人間というのは、悲しみを正面から受け止めるよりも、別のことに必死になっている方が、ずっと楽なのかもしれない。

仏壇に線香を上げ、湯呑みを供えてから、宗次郎はコートを羽織って窯場へ下りた。

落ち窯(おちがま)の温度を体で確かめるのが習慣だった。ただそれだけのことだ。暗い中を懐中電灯で照らしながら窯口に近づいたとき、何かが動いた。

小さかった。

最初は枯れ葉が風に揺れたのかと思った。もう一度、懐中電灯を向ける。

窯口の脇に積んである素焼きの鉢の残材──去年の窯で割れて、捨て損ねたままの一枚──その陰に、黄褐色の塊がぎゅっと丸まっていた。

子猫だった。

まだほんの少し熱気の残る窯口の前で、体を丸めてじっとしていた。片手に乗るほど小さい。懐中電灯の光に細い目を細めたが、逃げようとしなかった。逃げるだけの力も残っていなかったのかもしれない。ただ、小さな胸が、かすかに上下していた。

宗次郎はしゃがんで、手袋を外した。

指で触れると、体は冷えていた。でも、確かに生きていた。

「どこから来た」

子猫は答えない。ただ、か細い声でひと鳴きした。

窯口からは、消えかけた熱気がまだ少し漏れていた。この子猫は、その熱に引き寄せられてここにいたのかもしれない。野良猫が窯場に入り込むことは珍しくない。ただ、これほど小さく、これほど弱った子猫に出くわしたのは初めてだった。抱き上げると、掌の中で小さく震えていた。

猫を飼うつもりはなかった。

千枝子が生きていたころ、野良猫が窯場に入り込むと追い払っていたのはむしろ妻の方だった。「猫は窯の土を汚す」と言って、竹ぼうきで縁から押し出す。宗次郎も同じ考えだった。工房の土は神経を使う。余計なものは入れない。

だから、このまま放っておけば良かった。

でも、今日は命日だった。

子猫を両手で包んで、工房の中に入った。理由をうまく説明できなかった。ただ、千枝子の命日のこの朝に、この場所で、こんな小さなものが死んでいくのを見たくなかった──それだけだ、と思う。

台所の棚を開けて、食べられそうなものを探した。缶詰の鮭が一つあった。蓋を開けて皿に少し出してやると、子猫は震えながらも顔を近づけ、ほんの少しだけ食べた。

水が要る、と思ったとき、戸棚の奥に千枝子の使っていた浅鉢が目に入った。

備前焼の小ぶりな器だった。宗次郎が若いころ──まだ師匠のもとで修行中だったころ──千枝子への土産として焼いた、不格好な最初期の作品だ。轆轤(ろくろ)の傷が残り、釉薬の垂れ方も素人くさい。それでも千枝子はそれを気に入って、毎朝の味噌汁に使い続けた。

「あなたが作った器じゃないと、ごはんの味が変わる気がする」

そんなことを言っていた。

宗次郎は、その言葉をずっと照れくさいと思っていた。今になって思えば、素直に嬉しいと言えばよかった。でも、四十年以上連れ添った夫婦というのは、そういうことがうまく言えないものだ。

妻が逝ってからも、その浅鉢を捨てられずに棚に残していた。使おうとは思わなかった。ただ、捨てることもできなかった。

その器に水を張って、床に置いた。

子猫はしばらく鼻を近づけ、それからゆっくりと水を飲んだ。

飲んでいる姿を見ていたら、宗次郎はなぜか、早く仕事に戻らなければという気になれなかった。千枝子が毎朝この器を使っていたころ、こんなふうに台所に立ってぼんやり眺めていたことが、一度もなかった気がした。

翌日も、子猫はいた。

その次の日も。

しばらくして、宗次郎は山あいの獣医に連れて行った。

「生後二ヶ月と少しですね」と先生は言った。「よく生きていましたよ、この子。もう少し遅かったら、体温が下がりきっていたかもしれない。窯の余熱に助けられたんでしょうな」

「そうですか」

「雄猫です。丈夫そうな子ですよ。ちゃんと食べさせれば大きくなる」

帰りの軽トラの助手席に子猫を乗せて、山道を走った。師走の里山はもう正月の準備で静かだった。助手席の上で子猫は膝に乗ろうとして、何度もバランスを崩した。ハンドルを持ちながら、宗次郎はそれを何度か受け止めた。

「備前」と、口の中で呟いた。

名前をつけるつもりはなかった。ただ、声に出してしまった。

備前は振り向いた。

その目が千枝子に似ているとふと思った──すぐに、そんなことを考えてしまう自分が馬鹿らしいとも思った。でも、不思議と、その夜は久しぶりによく眠れた。備前が足元で丸くなる、その重みのせいだったのかもしれない。

猫を飼い始めると、窯仕事の時間の使い方が変わった。

これまで宗次郎は、土を触り始めると時間を忘れた。昼飯を食い忘れることも多く、千枝子には「あなたはどこへ行ってしまうの」とよく言われた。妻が逝ってからは、逆に仕事に逃げ込む癖がついた。考えたくないことがあるたびに、土を触った。

備前が来てからは、そうもいかなくなった。

昼になれば腹が減ったと鳴く。夕方になると仕事場の戸の前で待つ。真冬の夜は布団に入り込んで、足元で丸くなる。仕事の途中に土だらけの手で頭を撫でると、一瞬だけ目を細めてからそっぽを向く。その不愛想さが、なんとも猫らしかった。

生き物というのは、面倒くさい。

でも、面倒くさいものが家にいると、時間に節目ができる。朝、備前の水を換えることから一日が始まる。昼に餌を出してから、自分も飯を食う。夕方に備前と一緒に縁側に出て、山の夕暮れを眺める。それは宗次郎が長いあいだ忘れていた感覚だった──千枝子が生きていたころに当たり前のようにあった、日常の節目。

春になると備前は窯場の縁をよく歩くようになった。工房の出入り口で待ち伏せし、宗次郎が出てくるとするりと足元を通り抜ける。土間の隅で丸まって昼寝をする日もあった。千枝目が「猫は窯の土を汚す」と言っていたことを思い出しながら、宗次郎は掃くたびにどこか笑ってしまった。

夏には体がひとまわり大きくなった。黄褐色の縞が鮮やかになり、目の色は深い金色になった。冬の間に拾った、小さな塊とは別の生き物のようだった。

秋になると、備前はよく縁側で山を眺めるようになった。何を見ているのかはわからない。ただ、その背中に夕日が落ちると、宗次郎も隣に腰を下ろして、一緒に同じ方向を眺めた。

「千枝子は猫を嫌いだったんだがな」

仏壇に向かって言うと、線香の煙がゆっくりと揺れた。

返事はない。あるわけがない。でも、なんとなく妻が苦笑いしているような気がした。「またそうやって言い訳して」と言いたそうな、あの顔が浮かんだ。

備前が来てから初めて焼いた窯の器は、土の配合を変えた分だけ発色が少し違った。それを見たとき、悪くないと思った。久しぶりに、そう思えた。

備前が来て、一年が経った。

師走の命日の朝、宗次郎はまた夜明け前に目が覚めた。

仏壇に線香を上げ、湯呑みを供えた。それから台所に向かおうとしたとき、床に備前が座っていた。

千枝子の浅鉢の前だった。

毎朝、宗次郎が水を換えてやる器だ。備前はその前に、まるで誰かを待つように静かに座って、宗次郎を見上げていた。

宗次郎は腰をかがめ、器を取り上げて水を換えた。床に戻すと、備前はいつも通り、静かに水を飲んだ。

それだけのことだった。

それだけのことなのに、宗次郎は台所の壁にもたれて、しばらく動けなかった。

千枝子が使っていた器の前に、この猫が座っている。

一年前の命日の朝、この子猫は窯の前で死にかけていた。宗次郎が工房に入れなければ、今ここにいなかった。逆に言えば、あの朝、宗次郎が窯場へ下りていなければ、備前はいなかった。

何かが戻ってきたとは思わない。そんな都合のいい話は信じていない。

ただ──この器が、また使われるようになった。

宗次郎は長い間、誰かと同じ時間に起き、誰かのために湯を沸かし、誰かの気配を感じながら仕事をするということを、当たり前だと思っていた。それが当たり前でなくなってから、初めてその重さを知ったのだとも思う。

「ありがとうな」

誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。備前に向けたのか、千枝子に向けたのか、あるいはあの命日の朝の、自分自身に向けたのか。

備前は水を飲み終えて、顔を上げた。宗次郎を一度だけ見た。そしてまた、自分の毛並みを舐め始めた。

窯場の方から、夜明けの光が差し込んできた。

今日も、土を触ろうと思った。

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