
千穂姉ちゃん、と呼んだ人がいる。
小学三年の夏休みに、バス停で知り合った。
それきり十数年、思い出さずに生きてきた。
先月、家の大掃除をしていて、タンスの奥から封筒が出てきた。
封は、まだ開けていない。
あの夏のことを、順番に書いておきたい。
千穂姉ちゃんがあのバス停で何を待っていたのか、俺は去年まで勘違いしていた。
夏休みといえば、遊びまくった記憶しかない。
午前中は勉強しろという指導で、校庭は閉まっていた。
午後一時になると鍵が開く。
体力づくりという名目で、近所の男子と毎日集まった。
五時前には解散する。
帰り道に商店街でアイスを買うのが日課だった。
五十円の、氷みたいに硬いやつだ。
食べる場所は決まっていた。
薬局の裏の、あまり使われていない駐車場。
白線が消えかけていて、雑草が割れ目から伸びていた。
汗だくの小学生が、五時を過ぎるとそこに集まる。
アイスを食べながら、くだらない話に花を咲かせた。
駐車場のすぐ隣にバス停があった。
その後ろに、公衆電話が立っていた。
受話器の紐が短くて、背の低い者は爪先立ちになる。
バスは一時間に一本か二本。
待っている人を見ることのほうが少なかった。
商店街の時計台は、俺が生まれる前からあった。
文字盤が乳白色で、夕方になると中から明かりが点く。
針の音は聞こえない。
けれど、長針が動く瞬間だけ、わずかに影が跳ねる。
それを見つけたのは、あの夏だった。
駐車場は、潰れた自転車屋の持ち物だった。
店主のおじさんはもう店を開けていなくて、日に一度だけ様子を見に来る。
俺たちが座っていても、何も言わなかった。
一度だけ「そこは日が当たるぞ」と言われた。
それで俺たちは、塀ぎわの日陰に移った。
アイスは商店街の入口にある菓子屋で買った。
冷凍庫の蓋が重くて、二人がかりで開けた。
五十円玉を渡すと、店のおばあさんが必ず数え直す。
数え直してから「気をつけて帰りよ」と言う。
夏の間、それを何十回も聞いた。
時計台と時刻表
ある日、そのバス停に中学生くらいの女の子が立っていた。
大きな二重の目に、肩までの黒い髪。
背は百五十センチあるかないか。
小柄なのに、どこか大人びて見えた。
彼女は商店街の時計台を見上げ、それから時刻表に目を移した。
また時計台を見て、また時刻表を見る。
それを何度も繰り返していた。
そわそわしているというより、確かめているようだった。
誰かを待っているのかな、と思った。
その日はそれだけで終わった。
タカシが肘でつついてきた。
「なあ、あの人」
「知らん」
「中学生やろ。誰か待っとるんやろ」
「知らんて」
「話しかけてこいや」
「なんで俺なん」
「おまえがいちばん背ぇ低いけん、怒られん」
理屈になっていなかった。
そう言いながら、俺ももう一度そちらを見ていた。
次の日も、彼女はいた。
同じ立ち方で、同じ順番に見ていた。
恋人でも待ってるのかな、と他人事のように思った。
それからも、彼女は毎日のように現れた。
一度だけ、時刻表に手を伸ばすのを見た。
人差し指で、同じ行を上から下へなぞっていた。
なぞったあと、指をそこに置いたまま、時計台をもう一度見上げる。
その一連の動きが、毎日ぴたりと同じだった。
服は毎日、同じ薄い水色のシャツだった。
洗ってあるのはわかった。
襟の形が日によって少し違っていたからだ。
腕の内側に、四角い絆創膏が貼ってあった。
場所が日によってずれる。
右の腕のときもあれば、左のときもあった。
体育で擦りむいた跡とは違うな、とだけ思った。
そのころの俺は、絆創膏といえば転んだ跡しか知らなかった。
とても暑い日があった。
友達が二人、朝礼で倒れた。
先生に早く帰されて、四時前に商店街へ出た。
彼女は、もう立っていた。
アスファルトが白く光って、影が短かった。
日陰はバス停の屋根の下にしかない。
彼女はその日陰に入らず、標識のそばに立っていた。
日陰に入ると、時計台が見えなくなるのだと、あとで知った。
時間がたつにつれ、だんだん気になってきた。
誰をそんなに待っているのだろう。
何時間も炎天下に立って、何を待っているのだろう。
子どもの胸にも、ただならぬものが染みてきた。
日曜日。
校庭は使えなかったが、俺は好奇心に負けてバス停へ行った。
午前十一時には、さすがに誰もいなかった。
アイスを二本買って、駐車場の縁石に座って待った。
一時になるかならないかの頃、彼女が現れた。
足取りがふらついていて、今にも倒れそうに見えた。
また、この暑さの中を。
声をかけるべきだった。
アイスは二本とも、駐車場の縁石の上で溶けた。
帰ってから、溶けた棒をゴミ箱に捨てるのに、ずいぶん時間がかかった。
俺は怖くなって、走って家に帰った。
夕立の日の傘
午後四時、夕立が来た。
屋根を叩く音で、雨の強さがわかるほどだった。
傘のことが気になって、俺は玄関の傘立てから一本抜いて駆け戻った。
彼女はバス停に立っていた。
ずぶ濡れだった。
差し出した傘を、彼女は少し驚いた顔で受け取った。
「あれ、さっきいた子?」
「うん。いつもここにおるで」
「そう。五時十分になると、小学生がたくさん来るのね」
「学校の校庭で遊んどるんよ」
「楽しそうね」
「楽しいよ」
しばらく、雨音だけが響いていた。
傘の下は、思ったより狭かった。
「なぁ、いつもここにおるけど、何しちょんの」
聞いた瞬間、聞きすぎたと思った。
彼女はふふっと笑った。
「ある人を待ってるの」
「ある人って、恋人とか」
「秘密」
大きな目を細めて笑う顔に、子どもながらどきりとした。
恥ずかしくなって、早々に帰ろうとした。
彼女が傘を返そうとしたので、首を振った。
「明日でええよ」
そう言って、俺は走って帰った。
背中で、雨の音が遠くなった。
翌朝、玄関に傘が立てかけてあった。
柄のところに、小さく折った紙が輪ゴムで留めてあった。
「ありがとう。よくかわきました」
それだけだった。
母が「誰から」と聞いたので、「友達」と答えた。
嘘ではなかった。
次の日、彼女はいた。
俺を見つけると、また目を細めて手を振った。
友達がざわついたが、アイスを食べながら無視を決め込んだ。
彼女はまた、時計台と時刻表を見ていた。
やがて彼女は、俺たちと一緒に遊ぶようになった。
名前は千穂といった。
見たことも聞いたこともない名前だった。
千穂姉ちゃん、と俺は呼んだ。
誰かがそう呼び始めたわけではない。
最初にそう呼んだのは俺だった。
呼んだとき、彼女が一瞬だけ動きを止めたのを覚えている。
「もう一回言って」
「千穂姉ちゃん」
「うん」
それだけだった。
ドッジボールでは、彼女はいつも外野にいた。
走らない。
球も投げない。
けれど線の外から、全員の名前を覚えて呼んだ。
「ユウトくん、右!」
その声だけで、俺たちはよく動いた。
一度だけ、彼女が公衆電話を使うのを見た。
十円玉を三枚、台の上に並べてから受話器を取った。
紐が短いので、少しだけ背をかがめていた。
話した時間は、一枚ぶんもなかった。
残りの二枚を、ポケットではなく財布の内側に戻していた。
「家?」
「うん」
「怒られるん?」
「怒られない」
彼女は少し笑った。
「怒ってくれたらいいのにね」
意味がわからなくて、俺は黙っていた。
彼女は台の上に残った水滴を、指で拭いた。
それから、もう一度時計台を見上げた。
四時四十分くらいだったと思う。
病室を抜け出す子
ある日の夕食中、母が言った。
母は町の病院で看護師をしていた。
「うちの病院に、困った子がおるんよ」
「困った子?」
「中学生の女の子。がんなんやけど」
箸が止まった。
「病室を抜け出して、外に出てしまうの」
「どこに行きよるん」
「バス停やって」
母はそれ以上言わなかった。
千穂姉ちゃんのことだと、すぐにわかった。
次の日、彼女に会った。
何も知らないふりをして、いつも通りアイスを食べた。
細い腕も、静かな笑い方も、その日は全部が違って見えた。
その夜、俺は母に相談した。
母は長いこと黙っていた。
「ユウト、あの子の前では、いつも通りにしとってあげな」
「いつも通りって」
「うるさいくらいがええ」
俺は布団の中で泣いた。
どうして、こんなに優しい人が。
そこから先は、言葉にならなかった。
お盆を過ぎた頃から、千穂姉ちゃんは外に出てこなくなった。
夏休みの終わりに、初めて見舞いに行った。
四階の、廊下のいちばん奥の部屋だった。
病室の彼女は少しやせていたが、目を細めて笑ってくれた。
「千穂姉ちゃん」
入口でそう言うと、必ず「はあい」と返ってきた。
それから何度も通った。
家族も、まるで弟のように迎えてくれた。
母親が剥いてくれた梨の、芯の形まで覚えている。
見舞いには、決まったものを持っていった。
アイスは持ち込めないので、代わりに商店街の話を持っていった。
何組が校庭で何をしていたか。
誰が誰にボールを当てたか。
どうでもいい話ほど、千穂姉ちゃんはよく聞いた。
「それで、タカシくんは?」
「泣いとった」
「勝ったのに?」
「勝ったのに」
そこで必ず笑う。
笑うと、少し咳が出た。
病気の人に会いに行くのは、こわいことではなかった。
行かない日のほうが、よほど落ち着かなかった。
病室の窓は、北を向いていた。
見えるのは駐車場と、給水塔と、山の裾だけだ。
商店街は建物の反対側にある。
時計台も、俺たちが集まる駐車場も、窓からは見えない。
「ここ、景色わるいね」
そう言ったら、千穂姉ちゃんは窓のほうを見なかった。
「そうね」
それから、ベッドの脇の時計を見た。
デジタルの、緑の数字が出るやつだ。
四時五十分だった。
「ユウトくん、もう行っていいよ」
「まだおるよ」
「いいから」
その日は追い出されるように帰された。
何かを我慢している顔だと、そのときは思わなかった。
同じような時間を過ごした人の話を、大人になってから読んだことがある(少女に伝えること)。
秋の終わりの土曜日。
学校帰りに病室を訪ねた。
千穂姉ちゃんが、急に口元を押さえた。
押さえた手が、赤く濡れた。
俺は何もできずに、ただ叫んでいた。
廊下を走る足音と、母の声がした。
検査が続いて、しばらく面会ができない日があった。
廊下で、千穂姉ちゃんの母親に会った。
「ユウトくん、いつもありがとうね」
そう言ったあと、少しだけ間が空いた。
「あの子、あなたが帰ったあと、いつも窓のほうを向くのよ」
「窓、なんも見えんですよ」
「そうね」
母親はそこで話をやめた。
その夜、母が静かに言った。
「千穂ちゃん、旅立ったわ」
わかっていた。
それでも、その言葉は胸に深く刺さった。
千穂姉ちゃんの手紙
葬儀の日、千穂姉ちゃんは今にも起きそうな顔をしていた。
触れることはできなかった。
涙は我慢したが、胸の中はぐしゃぐしゃだった。
帰り道、母は何も言わなかった。
手だけを、ずっと握っていた。
その年の冬、俺はドッジボールの外野をやりたがるようになった。
線の外から、全員の名前を呼ぶ。
「タカシ、右!」
誰の真似かは、自分でもわかっていた。
誰にも言わなかった。
数日後、千穂姉ちゃんの母から封筒が届いた。
中に、俺宛ての手紙が入っていた。
千穂姉ちゃんの字は、縦の線がまっすぐだった。
鉛筆ではなく、細いサインペンで書いてあった。
便箋は三枚。
一枚目の左上に、消しゴムで消した跡がうっすら残っていた。
何を書いて消したのかは、今もわからない。
ユウトくんへ。
これをよんでいるということは、私はもう、そちらにはいないのね。
どれくらいたったかな。
いなくなるって、消えることじゃないんだよ。
ユウトくんから見えないだけで、私はずっとユウトくんを見てるよ。
ほら、今、となりにいるでしょう。
いつも病室に入ってくるときみたいに、「千穂姉ちゃん」って呼んでください。
私はあれを聞くのを、毎日たのしみにしていたよ。
今だって聞きたい。
ユウトくん、泣いてないよね。
元気あふれるユウトくんを見ていたいから。
おせわになりました。
楽しかった。
ありがとう。
十月十二日 千穂姉ちゃんより
その手紙と一緒に、もうひとつ小さな封筒が入っていた。
裏に、こう書いてあった。
「私のたいせつなひとに書いたお手紙です。見つけたらわたしてください」
彼女は、その「たいせつなひと」のことを、俺には一度も話さなかった。
だから俺は、いつかその人が現れる日を信じていた。
ランドセルにその封筒を入れて、毎日バス停を見た。
中学に上がってからも、自転車を停めて見た。
高校の帰りにも、一度だけ回り道をした。
「たいせつなひと」には、とうとう会えなかった。
封筒は、いつのまにかタンスの奥に移っていた。
高校を出て、俺は町を離れた。
就職して、引っ越しを二度した。
封筒のことを思い出すのは、年に一度あるかないかだった。
思い出すのはいつも、夏の夕方だった。
自販機の前でアイスの棒を見たときとか、遠くで下校の音楽が鳴ったときとか。
遺されたものを持ち続ける人の話を、いつか読んだことがある(彼女の遺言)。
時刻表の空白の行
去年の夏、法事で実家に帰った。
商店街はほとんど閉まっていて、時計台だけが同じ場所にあった。
バス停の標識も、色は褪せていたが立っていた。
公衆電話は撤去され、四角いコンクリートの台だけが残っていた。
何の気なしに、時刻表を見た。
そして、しばらく動けなくなった。
最初は、見間違いだと思った。
老眼が始まったのだと思って、一度離れてから近づいた。
指でなぞった。
彼女がやっていたのと、同じ動きだった。
商店街の乾物屋のおばさんが、店先から声をかけてきた。
「バス、もう本数ないでね」
「昔からですか」
「昔はもっとあったよ。でも五時台はずっと空いとった」
「ずっと」
「学校のバスが出る時間やからね。かぶるけん、出さんかったんよ」
おばさんは、それだけ言って店に引っ込んだ。
学校のバスは、五時ちょうどに校門を出る。
その十分後に、俺たちが角を曲がってくる。
彼女はその十分のために、昼から立っていたことになる。
平日の欄に、十七時台は十七時四十分の一本しかない。
休日の欄は、十六時五十分のあと、十八時二十分まで空いている。
五時十分の行に、バスは一本も書かれていなかった。
彼女が毎日、指でなぞっていた行だ。
薄く、鉛筆で囲った跡が残っていた。
角が丸い、几帳面な囲み方だった。
千穂姉ちゃんが待っていたのは、バスではなかった。
「五時十分になると、小学生がたくさん来るのね」
傘の下で、彼女は確かにそう言った。
あれは世間話ではなかったのだ。
時計台を見上げていたのは、時刻を確かめるためだった。
日陰に入らなかったのは、時計台が見えなくなるからだった。
病室を抜け出してまで、彼女はそこに立っていた。
汗だくの小学生が、五時十分にアイスを持って角を曲がってくる。
それを見るために、何時間も前から立っていた。
帰りに、実家のタンスからあの封筒を出した。
裏の字を、ずいぶん久しぶりに読んだ。
「私のたいせつなひとに書いたお手紙です」
封は、まだ開けていない。
開けなくても、宛名はもうわかっている気がしている。
帰省のたび、法事のたび、理由をつけて回り道をする。
標識の前に立って、時刻表を上から下まで読む。
五時十分の行は、いまも空いたままだ。
それでも、俺はまだ、あのバス停を見に行く。