兵隊になれなかった夫

寒い夜の温かな台所

豆を磨ぐ音で、目が覚める。

まだ表は藍色で、井戸の水は手が切れるほどに冷たい。

その水音に混じって、ことこと、ことこと、と石臼の回る低い響きがする。

あの人が、もう仕事をはじめている音だ。

私の名は、とし。山あいの小さな城下町のはずれで、夫と二人、豆腐屋を営んでいた。

すり切れた藍の暖簾には、「いづみや」と白く染め抜かれている。

その暖簾を、私はこの手で、もう何千回くぐったことだろう。

私が嫁いできたのは、二十歳の春だった。

親の決めた縁談で、相手の顔も、ろくに知らなかった。

はじめて店に立ったあの日、土間に立ちこめる豆の匂いに、私はむせて、咳き込んだ。

夫は、庄一といった。

右の足が、生まれつき少しばかり短かった。

歩くたびに、肩がゆっくりと、波のように上下する。

その揺れを、私は嫁いだ日から、ずっと隣で見てきた。

はじめは、その歩き方を、どこかみっともないと思っていた、薄情な私だった。

店の朝は、湯気からはじまる。

大釜で煮えた豆の、青くさいような、それでいて乳のように甘い匂いが、まだ暗い土間にひろがる。

にがりを打つと、白い海の底に、ふわりと雲のような塊が生まれる。

その雲を、庄一は桜の木の匙で、息を詰めるようにして掬う。

指の節の太い、ごつごつとした手だった。

その手が、豆腐に触れるときだけは、まるで赤子をあやすように、やわらかくなる。

私は、その手つきが、どうしてもうまく真似られなかった。

力を入れすぎて、いつも豆腐を、ぐずぐずに崩してしまう。

「とし、豆腐はな、握るもんやない。受けとめるもんよ」

庄一は、そう言って笑った。

目尻に、深い皺が三本、寄る。

その笑い方が、いつのまにか、私は好きになっていた。

顔も知らずに嫁いだはずの男を、私は、豆腐を掬うその手から、好きになっていったのだ。

夫婦の暮らしというのは、言葉ではなく、こういう小さなことで、できているのかもしれない。

庄一は、口数の少ない人だった。

一日に、十も言葉を交わさぬ日も、めずらしくなかった。

それでも、私が湯漉しの手を火傷したときには、黙って、ふきの葉をすりつぶし、患部に当ててくれた。

私が里の母を恋しがって泣いた夜には、何も言わず、ただ、背中をぽんぽんと、二度叩いた。

その不器用な手のひらの温もりを、私は、今でも、はっきりと覚えている。

戦が、だんだんと暮らしの奥まで入り込んできたのは、そのころだ。

町の男たちは、一人また一人と、駅から汽車に乗って消えていった。

日の丸の小旗が、駅前で、寂しく揺れていた。

赤い紙が、どの家の戸口にも、順番に貼られるように届いた。

隣の桶屋の若い衆も、向かいの鍛冶屋の息子も、みな行った。

けれど、庄一のところには、それが来なかった。

足のことが、あったからだ。

はじめのうちは、私はそれを、ただ、ありがたいと思っていた。

夫が、隣にいてくれる。

湯気の向こうに、あの肩の揺れがある。

それだけで、夜の闇が、少しだけ薄まる気がした。

けれど、人の目というものは、おそろしいものだ。

井戸端で水を汲んでいると、女たちの声が、私が近づくと、ふいに止む。

そして、私が背を向けると、また、何かをひそひそとささやきはじめる。

「いづみやさんとこは、ええねえ。旦那が、戦に行かんでええんやから」

ある日、面と向かって、そう言われた。

言ったのは、三日前に一人息子を送り出したばかりの、母親だった。

その目が、赤く、潤んでいた。

私は、何も言い返せなかった。

家に帰って、湯気の向こうの夫の背中を、私は、そっと見た。

庄一は、聞こえていたはずだ。

それでも、聞こえなかったふりをして、ただ黙々と、匙を動かしていた。

その背中が、その日は、いつもよりずっと、小さく見えた。

町の子らが、店の前で、はやし言葉を歌っていくこともあった。

「びっこの豆腐屋、鉄砲持てぬ」

足を引きずる真似をして、けらけらと笑いながら、走り去っていく。

そう聞こえるたび、私の頬は、火がついたように熱くなった。

くやしさで、握った手のひらに、爪が食い込んだ。

「あんた、なんで言い返さんの」

私が責めると、庄一は、ただ静かに首を振った。

「あの子らも、腹が空いとるんよ。腹が空くと、人は、誰かを嗤いたくなるもんや」

そう言って、夫は、また豆を磨ぎはじめた。

私には、その言葉の本当の意味が、まだ分からなかった。

ただ、その晩から、夫は、妙なことをはじめた。

夜の四つを過ぎてから、庄一は、こっそりと裏の板戸を、音を立てぬように開けるのだ。

はじめは、何をしているのか、私には分からなかった。

ある夜、寝床を抜け出した夫のあとを、私は、そっとつけてみた。

裏の板戸の外には、闇に紛れるようにして、二人、三人と、子どもが立っていた。

みな、ひどく痩せて、目ばかりが大きい子らだった。

父親が戦に行き、母親が遠くの工場へ取られた家の、留守を守る子どもたち。

配給の芋がらや雑炊だけでは、育ちざかりの腹は、とても足りなかったのだ。

庄一は、その子らに、縁の欠けた飯椀を、一つずつ、両手で手渡していた。

椀の中には、売り物にならない、形の崩れたおぼろ豆腐が、ほかほかと湯気を立てて盛られている。

「ほら、熱いうちに食べ。こぼすなよ。ゆっくりでええ」

子らは、こくりとうなずいて、両手で大事そうに椀を抱える。

そして、はふはふと、息を吹きかけながら、それを口へ運ぶ。

白い息と、白い湯気とが、暗がりの中で、一つに溶けあった。

その光景を、私は、台所の柱の陰から、息を殺して見ていた。

正直に言えば、はじめは、腹が立った。

大豆も、薪も、何もかもが乏しい時世だった。

明日、自分たちの食べる分さえ、危ういのだ。

その晩、布団に入ってから、私は、こらえきれずに言った。

「あんた、うちかて、明日の豆が、どれだけ残っとると思うんや」

「人さまの子に施すほど、うちは、裕福やないよ」

暗闇の中で、庄一は、しばらく黙っていた。

それから、低い声で、ぽつりと言った。

「とし。今日、いちばん小さい子が、わしの手を、なめたんよ」

「椀が空になっても、まだ足りんで、椀のふちを、なめとった」

私は、言葉に詰まった。

「足が悪うて戦には行けなんだ。なら、子らの腹は、わしが守る」

その声は、低く、けれど、これまで聞いたことがないほど、固く、まっすぐだった。

私は、それ以上、何も、言えなかった。

暗闇の中で、ただ、夫の手を、そっと握った。

その手は、にがりの匂いがして、少し、荒れていた。

夜ごと通ってくる子らの中で、いちばん通ってきたのは、健坊という男の子だった。

六つか七つの、骨の浮いた痩せた子で、いつも一番うしろに、遠慮がちに立っていた。

自分の番が来ても、すぐには手を出さず、ほかの子が先か、と、まわりをうかがう。

そういう、気の弱い、やさしい子だった。

庄一は、その子にだけは、椀を渡すとき、決まって、同じ言葉をかけた。

「健坊。大きゅうなれよ。大きゅうなって、腹いっぱい食える、ええ大人になれ」

健坊は、椀の湯気の向こうで、こくりとうなずき、はにかむように笑った。

その小さな笑顔だけが、あの暗い、長い夜の、たった一つの灯りだったように、今でも思う。

私も、いつのまにか、毎晩、薪をくべて、湯を絶やさぬようにしていた。

夫が、子らに渡す豆腐を、少しでも温かいまま、渡せるように。

気づけば、夫の善行は、私たち夫婦の、二人の仕事になっていた。

戦は、いよいよ、ひどくなった。

遠くの空が、夜ごとに、赤く焼けるようになった。

警報が鳴れば、私たちは、椀を抱えたまま、子らと一緒に、防空壕へ駆け込んだ。

狭い穴の中で、子らは、それでも、椀の豆腐を、こぼさぬよう、握りしめていた。

土の天井から、ぱらぱらと砂が落ちてくる。

そのたびに、いちばん小さな子が、ひっ、と、しゃくりあげた。

庄一は、その子を膝に抱き、低い声で、子守唄を口ずさんだ。

足の悪いこの人の膝の上が、あの夜、町でいちばん、安全な場所だった。

私は、暗い穴の中で、夫の横顔を見ながら、なぜか、涙が止まらなかった。

やがて、大豆の配給も、とうとう、ぱったりと止まった。

それでも庄一は、土間の隅に残ったわずかな豆を、一粒も無駄にせず、かき集めた。

そうして、水のように薄い、薄い豆腐を炊いた。

豆腐とも、呼べぬほどの、ただの白い汁のようなものだった。

それでも、それは、たしかに、温かかった。

「とし、すまんな。お前にも、ろくなもん、食わせてやれん」

ある晩、薄い豆腐をすすりながら、庄一が、ぽつりと言った。

私は、首を、強く、横に振った。

「あんたの背中を見とったら、ひもじいのも、忘れます」

そう答えると、夫は、めずらしく、子どものような、くしゃくしゃの顔で笑った。

その顔を、私は、生涯、忘れない。

やがて、長い、長い戦が、終わった。

焼け残ったこの町に、ゆっくりと、人々の暮らしが、戻ってきた。

出征していった男たちの、何人かは、とうとう、還ってこなかった。

あの、井戸端で私を責めた母親の、一人息子も、白木の箱になって、駅に着いた。

その母親と、道で行き合ったとき、彼女は、深く、頭を下げた。

「うちの子が、生きとったころ……あんたんとこの豆腐を、ようけ、もろうとったそうやね」

私は、何も知らなかった。

夫は、私にさえ、誰に何を渡したか、一言も、語らなかったのだ。

庄一は、戦が終わってからも、相変わらず肩を揺らして歩き、豆腐を「受けとめる」ように掬った。

夜の板戸を開ける習いも、町の子らが、みな大きくなるまで、静かに、静かに続いた。

そして、月日は、井戸を流れる水のように、とどまることなく、過ぎていった。

庄一が、眠るように、穏やかに息を引きとったのは、店をたたんで、ずいぶん経ってからのことだ。

最期まで、あの、桜の木の匙を、枕元に置いていた。

私は一人、古い家の縁側で、日向ぼっこをするだけの、しわくちゃの老婆になった。

あれは、夫の七回忌も過ぎた、ある秋の、よく晴れた昼下がりだった。

庭先に、立派な身なりの、初老の紳士が、ひとり、立っていた。

白髪をきちんと撫でつけ、品のいい眼鏡をかけている。

見覚えのない顔だった。

「失礼ですが」と、その人は、おずおずと口を開いた。

「いづみやの、おとしさんでは、ありませんか」

私が驚いて顔を上げると、その人は、両手を膝にそろえ、深く、深く、頭を下げた。

「健坊です。あの夜、毎晩、豆腐をいただいていた、健坊です」

私は、しばらく、声が出なかった。

あの、骨の浮いた、目ばかりが大きかった子が、こんなにも、立派になって。

縁側に座ってもらい、私は、震える手で、お茶を淹れた。

聞けば、その人は、遠い町で、子どもらを教える学校の先生を、四十年、勤めあげたという。

つい先ごろ、その務めを、終えたばかりだと。

「ずっと、ずっと、お礼を言いに来たかった。けど、合わせる顔が、ないようで」

健坊さんは、湯呑みを両手で包んだまま、ぽつり、ぽつりと話しはじめた。

戦が終わって、健坊さんの父親は、とうとう還らなかったこと。

母親も、体を壊して、早くに逝ってしまったこと。

身寄りをなくし、何度も、生きていくのが、いやになったこと。

「そのたびに、私の手のひらが、あの椀の温かさを、覚えていたんです」

「奥さん。手というのは、おそろしいものですね。何十年経っても、忘れんのですから」

健坊さんは、自分の、節くれだった手のひらを、じっと見つめていた。

「私はね、奥さん。腹が空くたびに、あの椀を、思い出して、生きてきたんです」

「あの、白い湯気を。庄一さんの、ごつごつした手を」

その目から、つう、と、ひとすじ、涙がこぼれた。

「腹を空かせた子を、決して、放っておいてはならん」

「私が教師になったのは、たった一つ、あの夜の、庄一さんの、一杯の豆腐のためです」

その言葉を聞いたとき、私の胸の奥で、長いあいだ、固く凍りついていた何かが、音もなく、溶けていった。

あの日、井戸端で、ささやかれた言葉。

店の前で、歌われた、はやし言葉。

足を引きずる、夫の、小さく見えた背中。

そのすべてが、この人の、たった一言で、まったく違う色に、染め変わっていくのが分かった。

夫は、鉄砲を、持たなかった。

その代わりに、薄い豆腐を盛った椀を、いくつもいくつも、暗闇の中へ、差し出していたのだ。

撃つための手で、夫は、子らの腹を、満たし続けていたのだ。

「うちの人は」と、私は、やっとのことで、口を開いた。

声が、震えて、うまく、言葉にならない。

「うちの人は、戦には、行けませんでした」

「けど……あの人ほど、たくさんの命を、まっとうに守った人を、私は、ほかに知りません」

健坊さんは、声をあげて、泣いた。

そして、もう一度、額が膝につくほど、深く、頭を下げた。

その人が帰ったあと、私は、納戸のいちばん奥から、古い飯椀を一つ、取り出した。

縁の欠けた、あの晩の、椀だ。

夫が、痩せた子らに、一杯ずつ、白いものを、よそって渡した、あの椀。

私は、それを井戸の水で、ていねいに、ていねいに、洗った。

冷たい水が、しわだらけの私の指を、つたって落ちる。

そして、仏壇の、夫の写真の前に、その椀を、そっと供えた。

写真の中の庄一は、あの、目尻に三本の皺を寄せた、いつもの笑い方で、笑っている。

あの人は、誇れるものなど何もない、と、町じゅうに言われ続けた人だった。

そして私もまた、長いあいだ、その夫を、心のどこかで恥じてきた、愚かな女だった。

けれど、今なら、分かる。

あの、いちばん暗かった夜の、白い湯気の向こうに、たしかに、灯りは、ともっていたのだ。

私は、椀の底に、そっと、指を触れてみた。

もう何も入っていないその椀が、なぜだか、まだ、ほんのりと、温かいような気がした。

あんた。

あんたは、この町の、誰よりも、強い人でしたよ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。