校長先生が言わなかった名前

校長室の前の廊下で聞いた声

万引きをした三人より、その親のほうが、ずっと大きな声を出していました。

平成八年の、十月の終わりです。

わたしは中学二年で、放課後の清掃当番でした。

校長室の前の廊下を、モップで拭いていたのです。

ドアは閉まっていましたが、中の声はよく聞こえました。

「たった千円のことなのに、子供の将来を潰す気ですか」

「うちの子と同じ学校に通ってる子の親が、生徒を警察に突き出すなんて」

「そんな本屋のほうが、人でなしでしょう」

モップの柄を握ったまま、わたしは動けませんでした。

廊下の窓から、倉吉の白壁の蔵が見えていました。

秋の日が、その白い壁に当たって、まぶしかったのを覚えています。

玉川書店の、茶色い紙

その本屋は、玉川書店といいました。

白壁土蔵の通りから一本入った、間口の狭い店です。

床が板張りで、歩くと音が鳴りました。

同級生の玉川美和ちゃんの家でした。

店に入ると、いつも古い紙と、糊の匂いがしました。

玉川書店のレジの横には、本にかける茶色い紙が、いつも二種類置いてありました。

薄いのと、厚いのです。

わたしは子どものころ、それをずっと不思議に思っていました。

同じ茶色なのに、厚さだけが違うのです。

一度、美和ちゃんに聞いたことがあります。

「あの紙、なんで二種類あるの」

美和ちゃんは、少し困った顔をして、こう言いました。

「お父さんが決めることだから、わたしは知らない」

知らないという言い方ではありませんでした。

言わない、という言い方でした。

美和ちゃんという子

美和ちゃんは、目立つ子ではありませんでした。

背が低くて、髪をいつも同じ高さで結んでいました。

教科書のカバーが、みんなと違いました。

店の茶色い紙を、自分で掛けていたのです。

角の折り方が、驚くほどきれいでした。

「それ、どうやるの」

一度、わたしが聞いたことがあります。

美和ちゃんは、その場でやって見せてくれました。

親指の腹で折り目を撫でて、角を三角に入れて、ひと押し。

五秒もかかりませんでした。

「小三から、店で手伝いよるけん」

そう言って、少しだけ得意そうな顔をしました。

美和ちゃんが自分から何かを自慢したのを、わたしはそのとき以外に見たことがありません。

あの秋、美和ちゃんの下駄箱に、上履きが入っていない日が何度かありました。

誰かが隠したのです。

美和ちゃんは、探しませんでした。

靴下のまま、廊下を歩いて教室に行きました。

先生に言うこともありませんでした。

いま思えば、あれは強がりではなかったのだと思います。

騒ぎを大きくすれば、いちばん困るのは店だと知っていたのです。

中学二年の子が、そこまで計算していたのです。

わたしは、その隣で、給食のパンをちぎって食べていました。

盗まれた三冊

その秋、三人の生徒が玉川書店で本を盗みました。

三年の男子が二人と、二年が一人です。

合わせて三冊、千円ちょっとでした。

玉川さんは、店の外まで追いかけて、三人を捕まえました。

そして、その場で警察に電話をかけました。

町は、その電話一本で騒ぎになりました。

「千円で警察を呼ぶことないだろう」

大人たちが、口々にそう言いました。

玉川さんは、何も言いませんでした。

店を開け、本を並べ、いつも通りにしていました。

いちばんひどい目に遭ったのは、美和ちゃんでした。

翌週から、教室で囲まれるようになりました。

「お前の親のせいで、希望の高校に行けなくなるかもしれん」

「お前が責任取れや」

美和ちゃんは、机の上で両手を重ねて、じっとしていました。

下を向くのではなく、まっすぐ前を見ていました。

それが、なおさら周りを苛立たせたのだと思います。

わたしは、何もしませんでした。

止めることも、隣に座ることもしませんでした。

三十年経った今でも、それがわたしの中に残っています。

校長室での、あの一言

親たちが校長室に来たのは、その週の金曜でした。

校長先生は、六十近い、小さな人でした。

朝礼でもあまり話が長くならない人で、正直に言えば、生徒には印象の薄い先生でした。

その校長先生が、親たちの言い分をひととおり聞いてから、こう言ったのです。

「分かりました」

そして、廊下で待たされていた三人の生徒を、中に呼び入れました。

わたしは、モップを持ったまま、壁際に寄りました。

ドアが開いた数秒だけ、中がよく見えました。

校長先生は、生徒たちのほうに向き直って言いました。

「では皆さん、今から、飲食店をやっているお宅へ行って、好きなだけ、お代を払わずに食べてきなさい」

部屋が、静かになりました。

「そちらのお宅は、自分の子と同じ学校の生徒なら、警察には通報しないそうです。お店が損をしても、気にならないそうですよ」

誰も、何も言いませんでした。

親の一人が、椅子を鳴らして立ち上がりかけて、そのまま座りました。

ドアが閉まりました。

この話は、その日のうちに町じゅうに広まりました。

「玉川の本屋の件で、校長がすごいことを言った」と。

いまでも、倉吉の同級生が集まると、必ず誰かがこの話をします。

伝説になった、というのは、そういうことです。

誰も、その店に行かなかった

ただ、わたしはずっと、ひとつだけ引っかかっていました。

あの日、生徒たちは、結局どこへも行きませんでした。

当たり前だと言われれば、そうです。

でも、あの空気なら、意地になって行く子がいてもおかしくありませんでした。

行けなかったのです。

行き先が、分からなかったからです。

校長先生は、その店の名前を、一度も口にしませんでした。

「飲食店をやっているお宅」とだけ言ったのです。

三人のうちの誰の家かは、その場の全員が分かっていました。

それでも、名前は出ませんでした。

語り継がれるうちに、この話には店の名前がつきました。

実際には、なかったのです。

四十年、毎月一冊

わたしは今、倉吉の市立図書館で司書をしています。

去年、郷土資料の整理をしていて、玉川書店の閉店のときに寄贈された段ボールを開けました。

店じまいは、十二年前です。

中には、注文の控えの帳面が、四十年分ありました。

紙が茶色くなって、指で押すとへこむような手触りでした。

その帳面の、いちばん端の欄に、毎月同じ名前が並んでいました。

三上さん。

月に一冊です。

昭和三十一年から、途切れずに。

わたしは、その名前に見覚えがありました。

あの校長先生と、同じ名字だったのです。

美和ちゃんに、電話をかけました。

いまは松江で、看護師をしています。

三十年ぶりでした。

わたしが帳面のことを言うと、美和ちゃんは少し黙ってから答えました。

「三上さんはね、目がほとんど見えん人だったよ」

わたしは、意味が分かりませんでした。

「見えんのに、本を買いよったの」

「うん。毎月、二十日にね。杖ついて、一人で来よった」

買った本は、そのまま公民館の子ども文庫に寄付されていたそうです。

四十年で、四百八十冊を超えます。

三上さんが来る日

美和ちゃんは、電話の向こうで、三上さんのことをよく覚えていました。

毎月二十日、昼を少し過ぎたころに来たそうです。

杖の先が、板張りの床を叩く音で分かる。

「こんにちは」も言わずに、まっすぐレジの前まで来る。

「今月の、ありますか」

それだけです。

玉川さんが本を出すと、三上さんは両手で受け取って、表紙を撫でました。

「厚いなあ」とか「軽いなあ」とか、そんなことを言ったそうです。

それから、代金をきっちり出して、帰っていく。

「一度も、値段を聞かんかった」と美和ちゃんは言いました。

おつりが出ないように、あらかじめ数えてきていたのです。

目が見えないのに、です。

雨の日は、玉川さんが店の外まで出て、傘を差しかけたそうです。

三上さんは、それを断りませんでした。

断れば、玉川さんが気を悪くすると思ったのでしょう。

四十年、その二人はそういうやり取りを続けていました。

謝る側と、許す側という言い方は、たぶん正しくありません。

途中からは、ただの、月に一度の約束だったのだと思います。

厚いほうの紙

電話の途中で、わたしはもうひとつ聞きました。

「あの茶色い紙、なんで二種類あったの」

美和ちゃんは、今度はすぐに答えました。

「厚いほうは、今は払えん人のために掛ける紙」

お金を持っていない子や、月末で苦しい家の人に、本を先に渡すためのものだったのです。

厚い紙が掛かっている本は、代金がまだの本。

店の者だけが、遠目に見て分かるようにしてあった。

「催促はせんかった。掛けた紙のこと、お父さんは誰にも言わんかったよ」

わたしは、受話器を持ったまま、天井を見ていました。

あの店で、わたしも一度だけ厚い紙を掛けてもらったことがあります。

中学一年の冬、参考書が買えなかったときです。

わたしは、それを親に言えないまま、三ヶ月かけて払いました。

あのときは、ただの包装紙だと思っていました。

校長先生が言わなかった名前

美和ちゃんが、最後にこう言いました。

「あのとき盗まれた三冊のうち、一冊はね、三上さんの今月の取り置きだったの」

棚ではなく、レジの下に置いてあった一冊です。

三人は、そこに手を伸ばしていました。

玉川さんが警察を呼んだのは、千円だからでも、腹が立ったからでもありませんでした。

四十年、一度も途切れていない一冊が、途切れるところだったからです。

そして、三上さんは、校長先生のお父さんでした。

四十年前、中学生だった校長先生が、その同じ店で本を盗んだのだそうです。

先代の玉川さんは、警察を呼びませんでした。

店の裏で、古紙の束を縛る手伝いを三ヶ月させたそうです。

その三ヶ月が終わった月から、三上さんの毎月一冊が始まっていました。

読めなくなってからも、やめませんでした。

校長先生は、そのことを知っていて、あの校長室に立っていたのです。

校長先生が言わなかったのは、店の名前だけではありませんでした。

自分の父の名前です。

言えば、あの場は一瞬で終わったでしょう。

親たちは黙り、生徒たちは頭を下げたはずです。

けれど、それは父の四十年を、子どもを黙らせる道具に使うということでした。

校長先生は、それをしませんでした。

かわりに、「たった千円」という物差しを、そのまま親のほうへ差し出しただけです。

あの日、校長先生が守ったのは、本屋ではありませんでした。

盗んだ側の子どもたちです。

親の恥に巻き込まないために、名前を一つも出さなかったのです。

三人のその後

盗んだ三人のうち、二人は希望の高校に進みました。

警察に行ったといっても、少年係の人と話をして、家に帰されただけです。

親たちが心配したようなことは、何も起きませんでした。

もう一人、二年だった山根くんだけは、少し違いました。

山根くんは、その年の冬から、玉川書店で古紙を縛る手伝いをしていました。

誰に言われたわけでもなく、自分から行ったのだそうです。

わたしは、店の前を通るたびに、その背中を見ていました。

紐の掛け方が、日に日にうまくなっていきました。

山根くんは、いま、米子で製本の仕事をしています。

去年、図書館の修理を頼んだら、来たのが山根くんでした。

「久しぶりやな」

そう言って、剥がれた背表紙に糊を入れる手つきが、玉川さんに少し似ていました。

その話は、二人ともしませんでした。

しなくても、たぶん、同じことを思い出していました。

「三」の判が押された本

公民館の子ども文庫は、いまは図書館の一角に移されています。

古い本の、扉の裏に、小さな判が押してあるものがあります。

「三」の一文字だけの、丸い判です。

わたしは、それを何百回も見ていました。

寄贈者の整理番号だと思っていたのです。

いまは、その本を棚に戻すとき、指が少しだけ止まります。

背表紙を押し込む前に、ひと呼吸置くようになりました。

校長先生は、その年度の終わりに、隣の町の学校へ移りました。

PTAの会報を調べると、異動の理由は書いてありませんでした。

ただ、その年の会報だけ、校長のあいさつの欄が空白でした。

先生は、五年前に亡くなっています。

お葬式に、松江から美和ちゃんが来ていたと、あとで知りました。

わたしは、行きませんでした。

行かなかった理由を、いまも自分にうまく説明できません。

帳面を閉じられなかった夜

あの段ボールを開けたのは、閉館後の書庫でした。

蛍光灯が一本切れかけていて、時々ちらつきました。

四十年分の帳面を、わたしは古い順に床へ並べていきました。

昭和三十一年の一冊目を開いたとき、指先が冷たくなりました。

最初の行の日付が、七月二十日でした。

その前の三ヶ月ぶんの帳面には、三上さんの名前がありません。

ちょうど、古紙を縛っていた三ヶ月です。

手伝いが終わった月から、買いはじめている。

誰も見ていないところで、そういう帳尻が合っていました。

わたしは、帳面を閉じられませんでした。

床に座ったまま、一冊ずつ、指で名前をたどりました。

昭和四十年代の途中で、字が変わります。

玉川さんの、先代から今の代へ。

書き手が変わっても、三上さんの行だけは、同じ位置に並び続けていました。

ページのいちばん端です。

そこが定位置だと、二代にわたって決まっていたのです。

平成の欄になると、字が少し震えています。

玉川さんが手を悪くしたのが、その頃だと聞きました。

それでも、行は途切れていません。

最後の記載は、閉店の月でした。

三上さんは、その二年前に亡くなっています。

けれど、その二年ぶんの欄にも、名前がありました。

玉川さんが、代わりに買い続けていたのです。

誰に言うでもなく、二十四冊。

その本にも、「三」の判が押してありました。

三十年後の、返しかた

去年から、わたしは図書館の返却カウンターの脇に、茶色い紙を置いています。

二種類ではありません。

図書館の本に、代金はいらないからです。

ただ、雨の日に、鞄を持っていない子が来ることがあります。

そういうとき、何も言わずに一枚渡します。

「これ、包んで帰り」

子どもはたいてい、きょとんとした顔をします。

それでいいのです。

あの店で厚い紙を掛けてもらったとき、わたしも意味が分かっていませんでした。

分からないまま受け取って、三十年経ってから分かる。

そういう渡し方が、この町にはあります。

あの町では、誰かを助けたことを口にするのが、いちばん格好の悪いこととされていました。

玉川さんも、三上さんも、校長先生も、そこだけは同じでした。

だから、伝説になったのは、いちばん派手な一言だけだったのです。

本当に長く続いたことのほうは、帳面の端に、小さく並んでいるだけでした。

わたしはそれを、閉館後の書庫で、たった一人で見つけました。

同じように、名前を出さずに誰かを助けた人の話として、路地の軒下に立てかけられた板の話と、島の床屋が集めていた髪の話も、あわせて読んでいただけたら嬉しく思います。

あの秋、わたしは美和ちゃんの隣に座れませんでした。

その代わりというわけではありませんが、いまは同じ町で、本を貸す仕事をしています。

三十年遅れの返事のようなものだと、自分では思っています。

読んでくださって、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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