校長先生が言わなかった名前

校長先生が言わなかった名前

校長室の前の廊下で聞いた声

万引きをした三人より、その親のほうが、ずっと大きな声を出していました。

平成八年の、十月の終わりです。

わたしは中学二年で、放課後の清掃当番でした。

校長室の前の廊下を、モップで拭いていたのです。

ドアは閉まっていましたが、中の声はよく聞こえました。

「たった千円のことなのに、子供の将来を潰す気ですか」

「うちの子と同じ学校に通ってる子の親が、生徒を警察に突き出すなんて」

「そんな本屋のほうが、人でなしでしょう」

モップの柄を握ったまま、わたしは動けませんでした。

廊下の窓から、倉吉の白壁の蔵が見えていました。

秋の日が、その白い壁に当たって、まぶしかったのを覚えています。

※

玉川書店の、茶色い紙

その本屋は、玉川書店といいました。

白壁土蔵の通りから一本入った、間口の狭い店です。

床が板張りで、歩くと音が鳴りました。

同級生の玉川美和ちゃんの家でした。

店に入ると、いつも古い紙と、糊の匂いがしました。

玉川書店のレジの横には、本にかける茶色い紙が、いつも二種類置いてありました。

薄いのと、厚いのです。

わたしは子どものころ、それをずっと不思議に思っていました。

同じ茶色なのに、厚さだけが違うのです。

一度、美和ちゃんに聞いたことがあります。

「あの紙、なんで二種類あるの」

美和ちゃんは、少し困った顔をして、こう言いました。

「お父さんが決めることだから、わたしは知らない」

知らないという言い方ではありませんでした。

言わない、という言い方でした。

※

美和ちゃんという子

美和ちゃんは、目立つ子ではありませんでした。

背が低くて、髪をいつも同じ高さで結んでいました。

教科書のカバーが、みんなと違いました。

店の茶色い紙を、自分で掛けていたのです。

角の折り方が、驚くほどきれいでした。

「それ、どうやるの」

一度、わたしが聞いたことがあります。

美和ちゃんは、その場でやって見せてくれました。

親指の腹で折り目を撫でて、角を三角に入れて、ひと押し。

五秒もかかりませんでした。

「小三から、店で手伝いよるけん」

そう言って、少しだけ得意そうな顔をしました。

美和ちゃんが自分から何かを自慢したのを、わたしはそのとき以外に見たことがありません。

※

あの秋、美和ちゃんの下駄箱に、上履きが入っていない日が何度かありました。

誰かが隠したのです。

美和ちゃんは、探しませんでした。

靴下のまま、廊下を歩いて教室に行きました。

先生に言うこともありませんでした。

いま思えば、あれは強がりではなかったのだと思います。

騒ぎを大きくすれば、いちばん困るのは店だと知っていたのです。

中学二年の子が、そこまで計算していたのです。

わたしは、その隣で、給食のパンをちぎって食べていました。

※

盗まれた三冊

その秋、三人の生徒が玉川書店で本を盗みました。

三年の男子が二人と、二年が一人です。

合わせて三冊、千円ちょっとでした。

玉川さんは、店の外まで追いかけて、三人を捕まえました。

そして、その場で警察に電話をかけました。

町は、その電話一本で騒ぎになりました。

「千円で警察を呼ぶことないだろう」

大人たちが、口々にそう言いました。

玉川さんは、何も言いませんでした。

店を開け、本を並べ、いつも通りにしていました。

※

いちばんひどい目に遭ったのは、美和ちゃんでした。

翌週から、教室で囲まれるようになりました。

「お前の親のせいで、希望の高校に行けなくなるかもしれん」

「お前が責任取れや」

美和ちゃんは、机の上で両手を重ねて、じっとしていました。

下を向くのではなく、まっすぐ前を見ていました。

それが、なおさら周りを苛立たせたのだと思います。

わたしは、何もしませんでした。

止めることも、隣に座ることもしませんでした。

三十年経った今でも、それがわたしの中に残っています。

※

校長室での、あの一言

親たちが校長室に来たのは、その週の金曜でした。

校長先生は、六十近い、小さな人でした。

朝礼でもあまり話が長くならない人で、正直に言えば、生徒には印象の薄い先生でした。

その校長先生が、親たちの言い分をひととおり聞いてから、こう言ったのです。

「分かりました」

そして、廊下で待たされていた三人の生徒を、中に呼び入れました。

わたしは、モップを持ったまま、壁際に寄りました。

ドアが開いた数秒だけ、中がよく見えました。

校長先生は、生徒たちのほうに向き直って言いました。

「では皆さん、今から、飲食店をやっているお宅へ行って、好きなだけ、お代を払わずに食べてきなさい」

部屋が、静かになりました。

「そちらのお宅は、自分の子と同じ学校の生徒なら、警察には通報しないそうです。お店が損をしても、気にならないそうですよ」

誰も、何も言いませんでした。

親の一人が、椅子を鳴らして立ち上がりかけて、そのまま座りました。

ドアが閉まりました。

※

この話は、その日のうちに町じゅうに広まりました。

「玉川の本屋の件で、校長がすごいことを言った」と。

いまでも、倉吉の同級生が集まると、必ず誰かがこの話をします。

伝説になった、というのは、そういうことです。

※

誰も、その店に行かなかった

ただ、わたしはずっと、ひとつだけ引っかかっていました。

あの日、生徒たちは、結局どこへも行きませんでした。

当たり前だと言われれば、そうです。

でも、あの空気なら、意地になって行く子がいてもおかしくありませんでした。

行けなかったのです。

行き先が、分からなかったからです。

校長先生は、その店の名前を、一度も口にしませんでした。

「飲食店をやっているお宅」とだけ言ったのです。

三人のうちの誰の家かは、その場の全員が分かっていました。

それでも、名前は出ませんでした。

語り継がれるうちに、この話には店の名前がつきました。

実際には、なかったのです。

※

四十年、毎月一冊

わたしは今、倉吉の市立図書館で司書をしています。

去年、郷土資料の整理をしていて、玉川書店の閉店のときに寄贈された段ボールを開けました。

店じまいは、十二年前です。

中には、注文の控えの帳面が、四十年分ありました。

紙が茶色くなって、指で押すとへこむような手触りでした。

その帳面の、いちばん端の欄に、毎月同じ名前が並んでいました。

三上さん。

月に一冊です。

昭和三十一年から、途切れずに。

わたしは、その名前に見覚えがありました。

あの校長先生と、同じ名字だったのです。

※

美和ちゃんに、電話をかけました。

いまは松江で、看護師をしています。

三十年ぶりでした。

わたしが帳面のことを言うと、美和ちゃんは少し黙ってから答えました。

「三上さんはね、目がほとんど見えん人だったよ」

わたしは、意味が分かりませんでした。

「見えんのに、本を買いよったの」

「うん。毎月、二十日にね。杖ついて、一人で来よった」

買った本は、そのまま公民館の子ども文庫に寄付されていたそうです。

四十年で、四百八十冊を超えます。

※

三上さんが来る日

美和ちゃんは、電話の向こうで、三上さんのことをよく覚えていました。

毎月二十日、昼を少し過ぎたころに来たそうです。

杖の先が、板張りの床を叩く音で分かる。

「こんにちは」も言わずに、まっすぐレジの前まで来る。

「今月の、ありますか」

それだけです。

玉川さんが本を出すと、三上さんは両手で受け取って、表紙を撫でました。

「厚いなあ」とか「軽いなあ」とか、そんなことを言ったそうです。

それから、代金をきっちり出して、帰っていく。

「一度も、値段を聞かんかった」と美和ちゃんは言いました。

おつりが出ないように、あらかじめ数えてきていたのです。

目が見えないのに、です。

※

雨の日は、玉川さんが店の外まで出て、傘を差しかけたそうです。

三上さんは、それを断りませんでした。

断れば、玉川さんが気を悪くすると思ったのでしょう。

四十年、その二人はそういうやり取りを続けていました。

謝る側と、許す側という言い方は、たぶん正しくありません。

途中からは、ただの、月に一度の約束だったのだと思います。

※

厚いほうの紙

電話の途中で、わたしはもうひとつ聞きました。

「あの茶色い紙、なんで二種類あったの」

美和ちゃんは、今度はすぐに答えました。

「厚いほうは、今は払えん人のために掛ける紙」

お金を持っていない子や、月末で苦しい家の人に、本を先に渡すためのものだったのです。

厚い紙が掛かっている本は、代金がまだの本。

店の者だけが、遠目に見て分かるようにしてあった。

「催促はせんかった。掛けた紙のこと、お父さんは誰にも言わんかったよ」

わたしは、受話器を持ったまま、天井を見ていました。

あの店で、わたしも一度だけ厚い紙を掛けてもらったことがあります。

中学一年の冬、参考書が買えなかったときです。

わたしは、それを親に言えないまま、三ヶ月かけて払いました。

あのときは、ただの包装紙だと思っていました。

※

校長先生が言わなかった名前

美和ちゃんが、最後にこう言いました。

「あのとき盗まれた三冊のうち、一冊はね、三上さんの今月の取り置きだったの」

棚ではなく、レジの下に置いてあった一冊です。

三人は、そこに手を伸ばしていました。

玉川さんが警察を呼んだのは、千円だからでも、腹が立ったからでもありませんでした。

四十年、一度も途切れていない一冊が、途切れるところだったからです。

※

そして、三上さんは、校長先生のお父さんでした。

四十年前、中学生だった校長先生が、その同じ店で本を盗んだのだそうです。

先代の玉川さんは、警察を呼びませんでした。

店の裏で、古紙の束を縛る手伝いを三ヶ月させたそうです。

その三ヶ月が終わった月から、三上さんの毎月一冊が始まっていました。

読めなくなってからも、やめませんでした。

校長先生は、そのことを知っていて、あの校長室に立っていたのです。

校長先生が言わなかったのは、店の名前だけではありませんでした。

自分の父の名前です。

※

言えば、あの場は一瞬で終わったでしょう。

親たちは黙り、生徒たちは頭を下げたはずです。

けれど、それは父の四十年を、子どもを黙らせる道具に使うということでした。

校長先生は、それをしませんでした。

かわりに、「たった千円」という物差しを、そのまま親のほうへ差し出しただけです。

あの日、校長先生が守ったのは、本屋ではありませんでした。

盗んだ側の子どもたちです。

親の恥に巻き込まないために、名前を一つも出さなかったのです。

※

三人のその後

盗んだ三人のうち、二人は希望の高校に進みました。

警察に行ったといっても、少年係の人と話をして、家に帰されただけです。

親たちが心配したようなことは、何も起きませんでした。

もう一人、二年だった山根くんだけは、少し違いました。

山根くんは、その年の冬から、玉川書店で古紙を縛る手伝いをしていました。

誰に言われたわけでもなく、自分から行ったのだそうです。

わたしは、店の前を通るたびに、その背中を見ていました。

紐の掛け方が、日に日にうまくなっていきました。

山根くんは、いま、米子で製本の仕事をしています。

去年、図書館の修理を頼んだら、来たのが山根くんでした。

「久しぶりやな」

そう言って、剥がれた背表紙に糊を入れる手つきが、玉川さんに少し似ていました。

その話は、二人ともしませんでした。

しなくても、たぶん、同じことを思い出していました。

※

「三」の判が押された本

公民館の子ども文庫は、いまは図書館の一角に移されています。

古い本の、扉の裏に、小さな判が押してあるものがあります。

「三」の一文字だけの、丸い判です。

わたしは、それを何百回も見ていました。

寄贈者の整理番号だと思っていたのです。

いまは、その本を棚に戻すとき、指が少しだけ止まります。

背表紙を押し込む前に、ひと呼吸置くようになりました。

※

校長先生は、その年度の終わりに、隣の町の学校へ移りました。

PTAの会報を調べると、異動の理由は書いてありませんでした。

ただ、その年の会報だけ、校長のあいさつの欄が空白でした。

先生は、五年前に亡くなっています。

お葬式に、松江から美和ちゃんが来ていたと、あとで知りました。

わたしは、行きませんでした。

行かなかった理由を、いまも自分にうまく説明できません。

※

帳面を閉じられなかった夜

あの段ボールを開けたのは、閉館後の書庫でした。

蛍光灯が一本切れかけていて、時々ちらつきました。

四十年分の帳面を、わたしは古い順に床へ並べていきました。

昭和三十一年の一冊目を開いたとき、指先が冷たくなりました。

最初の行の日付が、七月二十日でした。

その前の三ヶ月ぶんの帳面には、三上さんの名前がありません。

ちょうど、古紙を縛っていた三ヶ月です。

手伝いが終わった月から、買いはじめている。

誰も見ていないところで、そういう帳尻が合っていました。

※

わたしは、帳面を閉じられませんでした。

床に座ったまま、一冊ずつ、指で名前をたどりました。

昭和四十年代の途中で、字が変わります。

玉川さんの、先代から今の代へ。

書き手が変わっても、三上さんの行だけは、同じ位置に並び続けていました。

ページのいちばん端です。

そこが定位置だと、二代にわたって決まっていたのです。

平成の欄になると、字が少し震えています。

玉川さんが手を悪くしたのが、その頃だと聞きました。

それでも、行は途切れていません。

最後の記載は、閉店の月でした。

三上さんは、その二年前に亡くなっています。

けれど、その二年ぶんの欄にも、名前がありました。

玉川さんが、代わりに買い続けていたのです。

誰に言うでもなく、二十四冊。

その本にも、「三」の判が押してありました。

※

三十年後の、返しかた

去年から、わたしは図書館の返却カウンターの脇に、茶色い紙を置いています。

二種類ではありません。

図書館の本に、代金はいらないからです。

ただ、雨の日に、鞄を持っていない子が来ることがあります。

そういうとき、何も言わずに一枚渡します。

「これ、包んで帰り」

子どもはたいてい、きょとんとした顔をします。

それでいいのです。

あの店で厚い紙を掛けてもらったとき、わたしも意味が分かっていませんでした。

分からないまま受け取って、三十年経ってから分かる。

そういう渡し方が、この町にはあります。

あの町では、誰かを助けたことを口にするのが、いちばん格好の悪いこととされていました。

玉川さんも、三上さんも、校長先生も、そこだけは同じでした。

だから、伝説になったのは、いちばん派手な一言だけだったのです。

本当に長く続いたことのほうは、帳面の端に、小さく並んでいるだけでした。

わたしはそれを、閉館後の書庫で、たった一人で見つけました。

※

同じように、名前を出さずに誰かを助けた人の話として、路地の軒下に立てかけられた板の話と、島の床屋が集めていた髪の話も、あわせて読んでいただけたら嬉しく思います。

あの秋、わたしは美和ちゃんの隣に座れませんでした。

その代わりというわけではありませんが、いまは同じ町で、本を貸す仕事をしています。

三十年遅れの返事のようなものだと、自分では思っています。

読んでくださって、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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