
朝の八時十分に、三文字
湊が最初に覚えた言葉は、まんまでも、わんわんでもありませんでした。
その朝、私は工房の板の間に座って、駒木地の面を紙やすりで撫でていました。
山形の天童は、夏でも朝のうちだけ風が通ります。
障子を開けておくと、乾いた風が削りかすを畳の縁まで運んでいきます。
湊は私の背中の後ろで、木箱の駒をひとつずつ床に並べていました。
並べ方に決まりがあるらしく、いつも同じ順で、同じ向きに置きます。
「とおしゃん」
そう聞こえたとき、私はやすりを持つ手を止めませんでした。
止められなかった、というほうが近いと思います。
手だけが勝手に動き続けて、耳のところで、その三文字が引っかかったまま動かなくなりました。
湊は三つと半年でした。
産まれたときから、成長がゆっくりかもしれないと言われていた子です。
首がすわるのも、歩くのも、みんなより半年ずつ遅れて、そのたびに私は保健センターの相談室の、あの薄い緑色の壁を見ていました。
言葉は、いちばん遅れていました。
三歳になっても、湊の口から出るのは母音の連なりだけで、私はそれでも構わないと自分に言い聞かせていました。
構わない、と思うことと、待っていない、ということは別です。
私はずっと待っていました。
やすりの音が、自分の耳にやけに大きく聞こえました。
振り返ると、湊は駒を一枚だけ手に持って、こちらを見ていました。
「とおしゃん」
二度目は、間違えようがありませんでした。
私は湊の前に膝をついて、それから、ずいぶん長いこと何も言えませんでした。
三十九になる男が、朝の八時十分に、工房の板の間で声を上げて泣いたのです。
湊は驚いた顔をして、私の頬に駒を押し当ててきました。
木の角が、少しだけ痛かったのを覚えています。
※
佳世は、私を名前で呼びませんでした
私の仕事は、将棋の駒に字を彫ることです。
天童では、駒作りは書き手と彫り手と、盛り上げをする者とで分かれています。
私は彫りまでの人間で、漆を筆で盛り上げていく最後の仕事は、いまだにできません。
父もそうでした。
祖父の代は農閑期の内職で、冬のあいだだけ駒を彫って、春になると田に出ていたそうです。
私が入った工房には、書き手の女の人が三人いました。
そのうちのひとりが、佳世です。
書き手というのは、木地に直接、書体を写す仕事です。
写す、と言っても、判で押すのとは違います。
木の目の詰まり方も、木地一枚ごとの反りも、みんな違うからです。
佳世の書く字は、ほんの少しだけ、左に流れました。
親方はそれを直させませんでした。
「流れとるんでねぇ。あの子は、彫る人の手を見て書いとる」
意味が分かったのは、ずっとあとです。
右利きの彫り手が刃を入れると、字は自然に右へ張ります。
佳世は最初から、そのぶんを引いて書いていたのです。
私が彫ると、佳世の左に流れた字が、まっすぐ立ちました。
そういう仕事の合い方を、恋と呼んでよかったのかは分かりません。
ただ、私は毎日、佳世の書いた木地の束が回ってくるのを待つようになりました。
※
佳世は、私を名前で呼んだことが、一度もありませんでした。
結婚してからもです。
「ねえ」でも「あなた」でもなく、佳世は私を呼ぶとき、いつも少し息を吸って、それから用件だけを言いました。
照れくさいのだろうと思っていました。
庄内の海のほうから来た人で、そういうところが不器用な家だったのだろうと、勝手に納得していました。
一度だけ聞いたことがあります。
「なあ、佳世は俺のこと、なんて呼ぶんだ」
佳世は湯呑みを両手で持ったまま、少し笑いました。
「まだ決めでねぇの」
「なんだそれ」
「いつか決める」
それきりで、私も追いませんでした。
三十を過ぎた男が、呼び名ひとつで拗ねるわけにもいきません。
いま思えば、あのとき追いかけていれば、と思います。
けれど追いかけなかったから、あの三文字は、いまも私のところに残っているのだとも思うのです。
※
佳世と一度だけ、大きな喧嘩をしたことがあります。
結婚して二年目の、雪の深い晩でした。
私が仕上げた駒に、佳世が朱で丸をつけて返してきたのです。
三十枚以上に丸がついていました。
「これじゃ全部やり直しだべ」
「やり直したほうがいい」
「おめの字が悪いんでねぇのか」
言ってしまってから、私は自分の声の大きさに驚きました。
佳世は何も言い返さずに、台所へ行って、そのまま朝まで出てきませんでした。
翌朝、卓袱台の上に、丸のついた駒が三枚だけ残っていました。
残りの丸は、消してありました。
三枚は、たしかに私の彫りが甘い駒でした。
佳世は、私が謝りやすい数まで減らしてくれていたのです。
そういう人でした。
謝る側の面子まで、先に勘定に入れてしまう人でした。
あの三枚を、私はいまも彫り直していません。
※
売り物から外される、一枚
佳世には、私の仕事についてひとつだけ、妙な癖がありました。
佳世は、私が彫り上げた駒の中から、毎回きまって一枚だけを、売り物から外しました。
四十枚で一組の駒を、佳世は仕上がりのたびに畳に並べて、端から順に見ていきます。
そして、いちばん最後に一枚を抜いて、自分の裁縫箱の中の、小さな桐の箱に入れてしまうのです。
「なんでだ」
「これは、だめなやつ」
「どこがだ」
「彫りすぎ」
そう言われると、私は何も返せませんでした。
職人としての目は、書き手のほうが厳しいものです。
抜かれた駒は、そのぶん親方に頭を下げて、私が余分に一枚彫り足しました。
年に何組も作るわけではありませんから、桐の箱の中身は、少しずつしか増えません。
それでも七年で、二十枚ほどにはなっていたはずです。
私はその箱を、一度も開けたことがありませんでした。
失敗作の山を眺めて楽しい職人はいません。
※
選べと言われた日のこと
湊がおなかにいると分かったのは、佳世が三十四のときです。
つわりの重い人で、冬のあいだじゅう、工房には出られませんでした。
安定期に入っても、佳世の体調は上がりませんでした。
山形市の大きな病院で名前のついた病気だと分かったのは、七ヶ月に入ってからです。
私は説明された言葉のほとんどを、その場で理解できませんでした。
覚えているのは、確率の数字と、それから先生が最後に言ったことだけです。
母体を優先するか、赤ちゃんを優先するか、いまのうちに考えておいてください。
そういう言い方でした。
私は廊下に出てから、壁に手をついて、しばらく立っていました。
選べ、と言われたのだと思いました。
あとから思えば、先生は選べとは一言も言っていません。
けれどあの日の私には、そう聞こえました。
病室に戻ると、佳世はもう決めていました。
「産む」
「まだ何も言ってねぇべ」
「顔に書いであっけ」
私は、運に賭けようと言いました。
いま思うと、ひどく身勝手な言い方です。
けれどそのときは、それが精いっぱいの楽観でした。
医学は進んでいるし、確率だって何千分の一だと、私は数字にすがりました。
元気に育たないかもしれないと言われていた湊は、臨月まで、何ひとつ問題なく育ちました。
それでも、湊の誕生日は、佳世の命日になりました。
※
正直に申し上げます。
あのとき佳世を選んでいれば、と、いまでも時々考えます。
考えてしまう自分を、長いこと責めていました。
けれど責めているあいだ、私は湊の顔をまっすぐ見られていませんでした。
それに気づいたのは、湊が二つになった秋です。
工房の帰りに、湊を保育園に迎えに行くと、先生が私を呼び止めました。
「湊くん、お父さんが来ると、いつも先に立ち上がるんですよ」
まだ言葉の出ない子が、足音で分かるのだそうです。
その日、私は湊をおぶって、天童の駅前の坂を歩いて帰りました。
背中の子の重さが、あたたかいというより、単純に重かったのを覚えています。
重い、と感じられたことが、なぜかありがたかったのです。
※
親方が、七年ぶりに桐の箱を開けさせた
「とおしゃん」と呼ばれた日の夕方、私は工房で親方に話しました。
親方は佳世の伯父にあたる人で、七十を過ぎてもまだ現役でした。
話し終えると、親方はしばらく黙って、それから妙なことを言いました。
「あれ、開けだが」
「あれって」
「佳世が、抜いでだやつ」
私は、その箱の話を親方にした覚えがありませんでした。
親方は湯呑みを置いて、私のほうを見ませんでした。
「開けでみろ」
その晩、湊が寝てから、私は仏壇の下の引き出しから桐の箱を出しました。
七年ぶりでした。
蓋を開けて、私はしばらく動けませんでした。
入っていた二十三枚は、全部、歩兵でした。
そして全部、裏返してありました。
歩兵の裏には、成ったときの字が彫ってあります。
「と」です。
二十三枚の「と」が、箱の中で、上を向いて並んでいました。
外していたのは、いつも、裏に「と」を彫った一枚でした。
※
桐の箱を開けたあと、私は一枚を手に取って、灯りにかざしました。
「と」の字の、最後の払いのところに、刃の入れ直した跡がありました。
一度で決められなかった跡です。
彫り手にとっては、恥ずかしい跡でした。
ほかの二十二枚にも、同じところに同じ跡がありました。
佳世が抜いていたのは、上手に彫れた一枚ではありませんでした。
私がいちばん迷った一枚でした。
迷った跡のある字は、指でなぞると、わずかに引っかかります。
目の見えない人が読む点字のように、そこだけ盛り上がっているのです。
小さな子の指先は、大人よりずっとよく分かります。
湊が並べるとき、いつも「と」を端に置くのは、たぶん手触りで見分けているからです。
「彫りすぎ」と佳世が言ったのは、下手だという意味ではありませんでした。
この一枚は、触って分かる、という意味だったのです。
※
助産師さんが覚えていたこと
それから半月ほどして、私は山形市の病院に電話をしました。
佳世に付いてくれていた助産師さんが、まだその病院にいると人づてに聞いたからです。
会ってくれた人は、私より少し年上の、声の低い女の人でした。
覚えていますよ、と最初に言われました。
七年前の患者のことを、この人はほんとうに覚えているのだと、声の落ち着き方で分かりました。
「奥さん、毎晩やっていたことがあってね」
「何をですか」
「おなかに、ひとつだけ言葉を教えてた」
私は、湯呑みに伸ばしかけた手を止めました。
「三文字だけ、繰り返してた。とおしゃん、とおしゃん、って」
消灯のあと、佳世は毎晩、それだけを繰り返していたのだそうです。
同室の人が、最初は寝言かと思ったと言っていたと、助産師さんは笑いました。
「自分の呼び名は、教えなかったんですか」
私はそう聞くのが、精いっぱいでした。
助産師さんは、少しだけ間を置きました。
「聞いたんですよ、私も。お母さんも教えたらって」
「なんて」
「わたしは、あとでいいですって」
あとで、と佳世は言ったのだそうです。
まず、この子が呼べるようにしてやりたい人がいるから、と。
佳世が最後に教えたのは、自分の呼び名ではありませんでした。
※
「とおしゃん」という言い方も、そのとき腑に落ちました。
庄内では、父親をそう呼ぶ家がいまでもあります。
佳世の実家がそうでした。
佳世は自分が父を呼んでいた音のまま、湊に渡したのです。
そして「まだ決めでねぇの」と言った私の呼び名は、あのとき、もう決まっていたのだと思います。
佳世は、私を呼ぶための言葉を、自分では使わずに取っておきました。
使ってしまえば、それは夫婦の言葉になってしまうからです。
取っておいたから、それは息子のものになりました。
桐の箱の「と」も、同じことでした。
手のひらに乗るくらいの木の札で、角が丸くて、口に入れても飲み込めない大きさ。
字を覚えはじめた子が、いちばん最初に握るものとして、あれ以上のものを私は知りません。
佳世は七年かけて、それを一枚ずつ集めていたのです。
湊が最初に握った駒も、あの箱の一枚でした。
私が朝の板の間で頬に押し当てられたのも、「と」の面でした。
※
親方の工房には、猫が一匹います。
名前はまだありません。
親方が「名前つけっと、いなぐなったとき困る」と言って、七年つけないままです。
湊はその猫のことを「にゃ」と呼びます。
「とおしゃん」の次に覚えたのが「にゃ」でした。
親方はそれを聞いて、大声で笑いました。
「猫のほうが先だが。まんず、俺は何番目だべ」
親方の順番は、いまのところ、まだ来ていません。
七十を過ぎた職人が、三歳の子に呼ばれるのを待って、毎朝仕事場の戸を開けています。
私は、その気持ちが分かるようになってしまいました。
待つというのは、案外、悪いことばかりでもありません。
待っているあいだ、その人のことをずっと考えていられるからです。
※
彫り手にできること
職人の仕事というのは、自分の名前が残らない仕事です。
駒に彫られるのは書体の名前で、彫り手の名ではありません。
私はそのことを、長いあいだ、少しだけ寂しく思っていました。
いまは違います。
佳世の書いた字を、私が彫って、誰かの手に渡っていきました。
名前が残らないというのは、字だけが残るということです。
残った字を、次の人が読みます。
それは、呼び名とよく似ています。
呼び名も、呼んだ人の名前は残りません。
残るのは、呼ばれた側だけです。
私は、佳世に呼ばれなかった男ではありませんでした。
七年遅れて、湊の口から呼ばれたのです。
親を早くに亡くした人の話を読むと、失われたものの話ばかりが書かれています。
年に一度だけ娘に会いに行く父親の話を読んだとき、私は少しだけ救われました。
名乗れなくても、呼ばれなくても、そこに立ち続けている人がいるのだと知ったからです。
私は名乗ることを許されていました。
ただ、呼ばれるまでに三年半かかっただけです。
※
次に教える言葉
湊は五つになりました。
言葉は、いまも同じ年の子より少しゆっくりです。
それでも、朝になると必ず「とおしゃん」と言って、私の作業着の裾を引きます。
工房の板の間には、いまも駒を並べる湊の場所があります。
並べ方の決まりは、五つになっても変わりません。
いちばん端に「と」を置いて、それから残りを並べていきます。
先日、湊が私に一枚差し出しました。
「これ、かあしゃんの」
誰が教えたわけでもありません。
私は「かあしゃん」という言葉を、まだ一度も湊に教えていませんでした。
保育園で、他の子が言うのを聞いたのだと思います。
私は駒を受け取って、仏壇に置きました。
置いてから、それが「と」の一枚だと気づきました。
湊は自分の場所に戻って、また端から並べはじめました。
※
いまも時々、あの日のことを考えます。
選べと言われたと思い込んだ日のことです。
けれど、あの日の佳世の顔を思い出すたびに、私は同じところにたどり着きます。
佳世は選んだのではなく、渡したのだと思います。
自分の呼び名を後回しにして、まず、私を呼ぶ言葉を渡していきました。
それを七年かけて受け取ったのが、あの朝でした。
だから今度は、こちらから渡す番です。
強かった母の話を読むたびに思うのですが、母親というのは、いなくなってからのほうが、家の中で仕事が増えるものかもしれません。
佳世の仕事は、まだ終わっていません。
さあ、今度は「かあしゃん」を教えてやろうと思います。
教えるのに、何年かかっても構いません。
湊が言えるようになったら、私は仏壇の前に湊を座らせて、それから、たぶんまた泣くのだと思います。
そのときは、やすりを持っていないぶん、手が空いているはずです。