世界一の良い娘

世界一の良い娘

あの一週間、娘は毎晩、俺の軍手を勝手に広げていた。

洗って干す前の、粉の付いたままの軍手である。

風呂の脱衣所で、床に二枚並べて、指のところを一本ずつ触っていた。

俺はそれを、遊んでいるのだと思った。

小学二年の子が、親の道具をいじりたがるのは当たり前だと思っていた。

だから、何も訊かなかった。

訊かなかったことを、俺はいまでも悔いている。

※

うちは、宮城の白石で温麺を作っている。

うーめん、と読む。

油を使わない、短い素麺のような麺だ。

長さは九寸ではなく、四寸ほどしかない。

胃の悪かった父親に食べさせるため、昔この土地の息子が作ったのが始まりだと言われている。

本当かどうかは知らない。

ただ、その話を、うちの祖父は死ぬまで人に語っていた。

工場と言っても、家の裏に建てた二十坪ほどの建屋である。

機械延べの小さな設備が三台入っていて、あとは乾燥室と、粉の袋を積む場所だけだ。

従業員は、俺と、女房と、七十を過ぎたパートの佐々木さんの三人だった。

俺は二代目になる。

父から代を継いだのは、二十九のときだった。

※

温麺の仕事は、待つ時間が長い。

粉に塩水を打って、練って、そこから何度も寝かせる。

延べては寝かせ、細くしては寝かせる。

生地は、休ませた分だけ素直になる。

急かすと、必ず切れる。

先代の父は、それを一言でこう言った。

「ここは、手より、時間のほうが働いとる」

父は口が重い人で、教え方も乱暴だった。

言葉で教える代わりに、朝の三時に叩き起こされた。

乾燥室の温度を、体で覚えろと言われた。

あの部屋は、冬でも入った瞬間に眉のあたりが緩む。

戸を開けて、顔の前に手を上げて、それで湿りを測る。

温度計は壁に掛かっていたが、父はほとんど見なかった。

「数字は、あとから合わせるもんだ」

そのころ俺は、それを頑固なだけだと思っていた。

継いでから十年経って、ようやく意味が分かった。

数字を見ると、手が数字に合わせにいく。

だから最初は、手で決めるのだ。

父は、俺が二十九の春に、通帳と工場の鍵を茶の間に置いた。

「もう、俺のほうが遅い」

それだけ言って、その日から一度も機械に触らなかった。

※

パートの佐々木さんは、先代の頃から来ている人だった。

七十を過ぎて、朝は俺より早い。

手が速いのに、音を立てない人だった。

箱詰めのとき、麺の束を一度、耳の高さで持ち上げる癖がある。

訊いたら、折れている本数を音で見ているのだという。

「折れとる束は、ちょっと軽い音がするんですよ」

俺には、聞き分けられなかった。

佐々木さんは、俺が焦っている日には、必ず余計なことを喋った。

孫の話、庭の柿の話、駅前の店がまた替わった話。

意味のない話をされると、なぜか手の速さが戻った。

あれは、たぶん、わざとだった。

※

あの年、平成十五年の秋は、うちの工場がいちばん危なかった時期だ。

納めていた地元の土産物屋が、二軒立て続けにやめた。

高速の道が変わって、客の流れが変わったのだという。

うちの麺は、その二軒で全体の四割を捌いていた。

俺は毎晩、帳面を前にして電卓を叩いていた。

叩いても答えは変わらないのに、叩いていた。

女房は、そのころ学校給食の調理場でパートに出ていた。

朝六時に出て、二時に帰ってきて、それから工場を手伝う。

手が荒れて、指の関節が全部割れていた。

娘の美咲は、小学二年だった。

あの子は、工場の中に入りたがった。

粉が舞うし、機械の刃もあるので、入るなと言ってあった。

だから美咲は、乾燥室の外の、小さい窓から中を見ていた。

夏の朝、俺が振り向くと、窓のところに額だけがくっついていた。

「なにしとるんや」

「見とるだけ」

見とるだけ、というのが、あの子の口癖だった。

叱られない範囲を、いつも正確に測る子だった。

それは、たぶん、いい癖ではなかったのだと思う。

あの秋、女房の手はひどく荒れていた。

給食の調理場は、一日に何度も手を洗う。

洗って、消毒して、また洗う。

指の関節が割れて、洗剤が入ると声が出るほど痛むらしかった。

美咲は、風呂上がりに、母親の指に絆創膏を貼るのを自分の役目にしていた。

「何枚いる?」

「三枚」

「昨日は四枚やったよ」

女房が、そこで笑った。

「へってきたわ」

減っていなかった。

あの子に見せるために、女房は貼る場所を減らしていた。

痛いところは、増えていた。

貼る枚数だけが、減っていた。

美咲は、それに気づいていたのだろうか。

いま思えば、たぶん気づいていた。

気づいて、黙って三枚だけ貼っていた。

あの子は、ずっとそういう子だった。

俺は台所からそれを見ていて、何も言わなかった。

あの家では、大人が二人とも、子供に見せない努力ばかりしていた。

子供のほうは、それを全部、数えていた。

※

喧嘩の切っ掛けは、本当に小さなことだった。

美咲が、バイオリンを習いたいと言い出したのだ。

公民館で、月に三回だけ教えている先生がいるという話を、学校で聞いてきたらしい。

晩飯のとき、女房が言った。

「あの子が自分からやりたいなんて言うの、はじめてやよ」

「習わせてやりたい」

俺は、箸を置いた。

「どうせ思いつきだ。ほっといたら三日で忘れる」

言ったあとで、自分の声が思っていたより低いことに気づいた。

その日、うちは段ボールの納入先から値上げの話を受けていた。

それだけのことで、俺は一日いらいらしていた。

「三日で忘れるかどうか、やらせてみんと分からんでしょう」

「金の話をしてるんだ」

「金の話にしとるのは、あんたやわ」

最後に俺は、こう言った。

「仕事で疲れてるんだから、黙っててくれ」

それで終わった。

茶碗を片づける音だけが、しばらく台所で鳴っていた。

あのとき、隣の部屋の襖が細く開いていたことに、俺は気づかなかった。

美咲は、風呂に入っていると思っていた。

実際には、廊下に座っていたらしい。

それを知ったのは、次の日の晩である。

※

次の朝も、俺たちは口をきかなかった。

女房は五時半に起きて、弁当を三つ作って、六時に出て行った。

俺は六時半に工場に入って、粉を計った。

台所の卓に、弁当が一つ残っていた。

女房は三つ作って、二つ持って出た。

残った一つが、俺のものだった。

喧嘩をしていても、女房は俺の弁当を作らないということをしない人である。

俺は、それを見て余計に居心地が悪くなった。

蓋を開けずに、工場の棚に置いた。

昼になっても、開ける気になれなかった。

温麺は、粉と塩水と、それだけでできる。

だから、少しの狂いがそのまま出る。

その朝、俺は塩水の濃度を二度間違えた。

佐々木さんが黙って計り直してくれた。

何も言わずに計り直されるのは、言われるより効く。

昼に麺を切る機械の前に立ったら、右の軍手の親指のところが抜けていた。

いつからか、覚えていなかった。

※

仕事から上がって家に入ると、女房が台所に立っていた。

目が赤かった。

俺は、まだ怒っているのかと思って、黙って靴を脱いだ。

バツが悪くて、顔を上げられなかった。

「ちがうの」

女房が、俺に紙を渡してきた。

新聞の折り込みの、切り抜きだった。

封筒に紙を入れる仕事の、パートの募集である。

『座ってできる簡単なお仕事です』と大きく書いてあった。

「これがどうしたの」

「今日ね、この会社から、うちに電話があったの」

意味が分からなかった。

「美咲がね」

女房は、そこで一度、息を吸った。

「美咲が、この会社に、働きたいって電話したんやって」

※

先方の人が、おかしいと思ったのだそうだ。

声が幼い。

それで、名前と家の電話番号を聞いて、こちらに掛けてくれた。

美咲は正直に全部話したという。

女房が、その話をしながら泣き出した。

「お父さんとお母さんが喧嘩してるのは、自分のせいだって分かった、って」

「だから、嫌だった、って」

「わたしも働いてお父さんの仕事の大変さを知りたい」

「お金も稼げるし、そしたらバイオリンも習えるし、二人が喧嘩しなくてすむから、いちばんいいと思った」

そう言ったのだという。

俺は、紙を持ったまま立っていた。

膝から下の感じが、なくなっていた。

※

ここに、俺があとから知ったことがある。

電話を受けた人は、名を聞いてすぐ、うちの工場を思い出したのだそうだ。

あの募集を出していた会社は、うちに段ボールを納めている問屋の、関連の会社だった。

白石は狭い町である。

「白石の麺屋さんの、お嬢さんですね」

そう言ってから、電話をくれた。

知らない誰かに掛かった電話が、たまたま知っている誰かのところで止まった。

あの町でよかったと、俺はいまでも思っている。

もう一つ、女房が言わなかったことがある。

あの日、連絡帳の先生の欄に、一行だけ書いてあった。

『おうちで、何かありましたか』

喧嘩の翌日である。

美咲は、学校で一日、口をきかなかったらしい。

※

顔を上げたら、廊下のドアの隙間から、美咲がこっちを見ていた。

見つかると、引っ込もうとした。

俺は名前を呼んで、部屋に入れた。

それから、盛大に説教をした。

「お前は働かなくていい」

「働くのは、俺と母さんの仕事だ」

「その代わり、父さんと母さんは、できるだけ喧嘩をしない」

「バイオリンは、習っていい」

「ただし、途中でやめるとは言うな。分かったか」

美咲は、うん、と言った。

言いながら、俺の顔を、心配そうに見ていた。

俺が泣いていたからである。

説教しながら泣く父親というのは、たぶん相当みっともない。

美咲が部屋を出たあと、女房が畳に座り込んだ。

それから、思いがけないことを言った。

「わたし、あの子の歳のとき、同じこと考えとったわ」

実家が畳屋で、やはり客が減っていた時期だったという。

夜、両親が帳面の前で言い合うのを聞きながら、

自分が何かを欲しがったのが悪いのだと思っていた。

「せやから、あの子がバイオリン言うたとき、うれしかったの」

「あんたに、欲しいって言えたんやなって」

俺は、そこでようやく、自分が何を潰そうとしていたのかを知った。

あの子は、金の話をしていたのではない。

この家では欲しいと言っていいのか、それを確かめていた。

俺は「どうせ思いつきだ」と言って、その確認に答えたのだ。

いちばん悪い答え方をした。

それでも止まらなかった。

※

美咲が寝てから、女房が電話の続きを話した。

先方の人が、最後にこう言ったのだという。

「お嬢さん、こう言ってましたよ」

「わたし、指はぜんぶ動きます、って」

俺は、意味が分からなかった。

分からないまま、その言葉が引っかかって、その晩は眠れなかった。

夜中に起きて、脱衣所の籠を見に行った。

軍手が二枚、床に並べて置いてあった。

俺が脱いだままの形ではなかった。

指を全部伸ばして、左右をそろえて、平らに広げてあった。

右の親指と、左の人差し指と、左の小指。

抜けているのは、その三か所だった。

娘は、俺の軍手の穴の数を、ぜんぶ覚えていた。

※

あの子は、毎晩それを数えていたのだ。

父親の指が、まだ何本残っているかを、確かめていた。

仕事というのは、指がすり減っていくことだと思っていたのだろう。

そして、自分の指はまだ十本ある。

だから、自分は働けると思った。

電話でそれを言ったのだ。

わたし、指はぜんぶ動きます。

俺は、脱衣所の床に座り込んだ。

夜中の一時過ぎである。

洗濯機の横で、軍手を握って、しばらく動けなかった。

※

その週の日曜、俺は美咲を工場に連れて行った。

それまで、危ないから入るなと言っていた場所である。

粉を計るところから見せた。

「これが小麦粉。これが塩」

「これだけ」

美咲は、それだけ、と言って笑った。

「ほかに、なんも入っとらんの」

「入っとらん。だから、ごまかせん」

延べた麺を、切る前に一本引っ張って見せた。

すぐ切れる。

「弱いね」

「弱いから、短くするんだ」

胃の悪い人が食べられるように、短く切る。

そのために弱いままにしてあるのだと言ったら、美咲は少し黙った。

それから、俺の軍手を見た。

「お父さん、これ、あたらしいの買った?」

買った、と俺は言った。

※

バイオリンは、公民館の教室に通うことになった。

月に三回、土曜の午後である。

貸してもらえる楽器があって、月の会費は思っていたよりずっと安かった。

俺が思い込みで反対していただけだった。

美咲は、途中でやめなかった。

高校まで続けて、大学の時はサークルでも弾いていた。

上手かったのかどうかは、俺には分からない。

ただ、家の中に音がある時間が増えた。

帳面を叩いている俺の後ろで、下手な音が鳴る。

あの音のおかげで、俺はあの数年を渡れたのだと思っている。

はじめの半年は、ほとんど音になっていなかった。

隣は畑なので、文句を言う人はいなかった。

ただ、佐々木さんが箱詰めの手を止めて、時々顔を上げた。

「上手にならんですねえ」

「ならんです」

「ええですよ。うちの孫は三日でやめました」

そう言って、また手を動かした。

その半年のあいだ、佐々木さんは一度も、上手になったと言わなかった。

言わないことで、あの人は続けさせていたのだと思う。

先代の父にも、一度だけ聞いた話がある。

美咲が教室に通いはじめた冬、父が茶の間で言った。

「ようやったな」

俺のことではなく、美咲のことだと思って、そう答えた。

父は首を振った。

「お前のことだ」

「あそこで金の話に負けんかったのは、お前や」

俺は、負けたのだと思っていた。

だから何も言えなかった。

父はそれきり、この話をしなかった。

工場は、その後も苦しかった。

通販を覚えて、贈答の箱を作って、それでどうにか凌いだ。

箱を作ったのは、あの、電話をくれた会社である。

贈答の箱の相談に行ったとき、応対に出たのが、あの電話の人だった。

名刺を出されて、名前を見て、俺はすぐに分かった。

礼を言おうとしたら、先に頭を下げられた。

「あのとき、切らんでよかったです」

忙しい時間で、いたずらだと思って切ろうとしたのだという。

ただ、声のうしろで炊飯器の音がしていた。

それで、家からだと分かったらしい。

「うちにも、同じくらいの子がおりましてね」

それだけ言って、あとは箱の寸法の話に戻った。

あの人がその日、受話器を置くのを一秒だけ遅らせた。

うちの家は、その一秒に助けられている。

※

美咲は、いま二十九になる。

仙台で働いていて、月に一度は帰ってくる。

帰ると、必ず工場に顔を出す。

先月、乾燥室の前で、あの子がぽつんと言った。

「お父さん、あのとき、怒鳴らんかったね」

「怒鳴ったよ。説教した」

「あれは、怒鳴ったんじゃないでしょ」

そう言われて、俺は返事をしなかった。

あの晩、俺が言うべきだった言葉は、たぶん一つだけだった。

心配させて悪かった。

それを、いまさら言うのは照れる。

だから代わりに、麺を一箱、車に積んでやった。

※

軍手は、いまでも同じものを使っている。

穴が開くと、女房が繕う。

繕った跡が指の腹に当たるので、俺はそれで自分の手を覚えている。

あのとき娘が数えていた三か所は、もうどこだったか分からない。

分からないほうがいい、と思う。

あんな小さな子に、あんな心配をさせるほど、俺は張りつめていた。

そのことは、忘れないでいたい。

忘れないでいて、それでも思うのだ。

うちの娘は、世界一いい娘だ。

本気でそう思っている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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