
息子の手の中には、ノコギリクワガタのカードが一枚、汗で少し反り返っていた。
一昨年の八月、息子が五歳だった夏のことだ。
私は息子を助手席に乗せて、家から車で一時間の自然博物館へ向かっていた。
夏休みの特別展で、世界のクワガタを百種類集めた昆虫展が開かれていた。
妻は病院の看護師で、その日は夜勤明けの仮眠をとっていた。
だから、父と息子の二人きりの遠出だった。
息子のクワガタ好きは、保育園の友だちに教わったカードゲームから始まった。
銀色に光るカードを集めて、寝る前には一枚ずつ枕元に並べた。
中でもいちばんの宝物が、ノコギリクワガタのカードだった。
表には、赤茶色の大きな大あごの写真。
裏には、細かい字で体長や生息地が書いてある。
「七十三ミリ、つよい」
息子は毎晩、それを読み上げてから眠った。
字はまだ読めないはずなのに、その数字だけは覚えていた。
私が一度、読んでやっただけの数字だった。
カードは全部で六十枚ほどあった。
どれも、百円ショップで買った透明なケースに一枚ずつ入れてあった。
ノコギリクワガタだけは、ケースに入れなかった。
いつでも手で触れていたいからだと、息子は言った。
おかげで、カードの角はもう丸くなりかけていた。
「新しいのと取り替えてやろうか」
一度そう言ったことがある。
息子は、ひどく怒った顔をして、カードを背中に隠した。
「これがいいの。これが、ぼくのノコギリクワガタなの」
同じカードは、ほかにもいくらでも売っている。
それでも、息子にとっては世界に一枚だけのカードだった。
その朝も、息子はカードを握りしめたまま、チャイルドシートの横に座っていた。
本当は後部座席に乗せるべきだった。
「今日はパパの隣がいい」
そうせがまれて、私は折れた。
チャイルドシートを助手席に付け替えるのに、十分ほどかかった。
息子はその間、玄関の上がり框に座って、カードに話しかけていた。
「今日は、でっかい仲間に会いに行くからね」
今でも、あの一言にうなずいたことを、ときどき夢に見る。
高速道路は、思ったより空いていた。
息子は窓の外の山を指さして、あそこにもいるかな、と何度も聞いた。
「いるよ。夜になると、木の汁を吸いに出てくるんだ」
「ノコギリクワガタも?」
「ノコギリクワガタも」
息子は満足そうに、カードの角を指でなぞった。
サービスエリアで、息子はソフトクリームを食べた。
溶けたクリームが指を伝って、カードの縁に少しだけ落ちた。
息子は大あわてでそれを舐めとり、私のシャツの裾で拭いた。
「パパ、ないしょね。ママに怒られるから」
私は笑って、うなずいた。
博物館まであと数キロというところで、渋滞の最後尾についた。
ハザードランプをつけて、ブレーキを踏んだ。
バックミラーの中で、大型トラックの銀色の顔が、みるみる大きくなった。
次の瞬間、世界が前に吹き飛んだ。
息子の手から、カードが離れるのが見えた気がした。
それが、事故の前の最後の記憶だ。
助手席の足元の声
何が起きたのか、しばらくわからなかった。
耳の奥で、甲高い音が鳴り続けていた。
フロントガラスには、白い蜘蛛の巣のようなひびが走っていた。
追突されたのだ、と理解したのは、焦げたゴムの匂いが鼻に届いてからだった。
私はすぐに助手席を見た。
息子の姿が、なかった。
チャイルドシートの座面だけが、斜めにねじれて残っていた。
息子の名前を叫んだ。
何度も叫んだ。
助手席の足元の、潰れた暗がりから、小さな声がした。
「いたい」
息子は衝撃で座席から滑り落ち、ダッシュボードの下に挟まっていた。
手を伸ばそうとして、自分の両脚が動かないことに気づいた。
運転席の下の鉄板が折れ曲がり、私の脚を膝から下ごと咥え込んでいた。
私は叫んだ。
叫ぶことしか、できなかった。
あのときの自分がどんな声を出していたのか、今も思い出せない。
どれくらい経っただろう。
あとで聞けば、一分か二分のことだったらしい。
運転席のドアが、外から金属を引き裂く音とともにこじ開けられた。
緑色のヘルメットと、迷彩服が見えた。
自衛隊の車列が、演習の帰りに反対車線を通りかかっていたのだという。
隊員さんたちは、中央分離帯を越えて駆けつけてくれた。
バールのようなもので座席の付け根を外し、座席ごと後ろにずらして、私を引きずり出してくれた。
「息子が! 助手席の足元に挟まってます! 助けてください!」
隊員さんの一人が、私の脚の具合を手早く確かめた。
「骨はいってるかもしれません。動かないでください」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
私はその落ち着きに、腹が立つような、すがりたいような、妙な気持ちになった。
礼を言うより先に、私はそう叫んでいた。
いちばん若そうな隊員さんが、黙ってうなずいた。
彼は助手席側のシートを力ずくで外すと、潰れた足元の隙間に、頭から潜り込んでいった。
外にいる隊員さんたちと、短い言葉で何かをやりとりしていた。
私の耳には、その内容はほとんど入ってこなかった。
数分のことだったのだと思う。
私には、一時間にも感じられた。
暗がりの奥から、ときどき、隊員さんの低い声が聞こえた。
笑っているような声だった。
こんなときに、なぜ笑っていられるのか、私にはわからなかった。
外にいた年配の隊員さんが、私の肩に手を置いた。
「大丈夫です。あいつ、子どもの扱いがうまいんです」
私は、その手の重さにすがるようにして、潜り口を見つめていた。
アスファルトの熱が、ズボン越しに脚へ伝わってきた。
遠くで、救急車のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
やがて、隊員さんの腕に抱えられて、息子が外へ運び出された。
泣いていなかった。
顔を真っ赤にして、唇をぎゅっと結んでいた。
ちょうどそこへ、救急車と工作車が到着した。
息子は、救急隊の担架に移された。
息子が運び出されたあと、あの隊員さんは、なぜかもう一度だけ、助手席の潜り口に上半身を入れていた。
燃料が漏れていないか確かめているのだろうと、そのときの私は思った。
ノコギリクワガタの大あご
私は両脚が痛くて立てなかった。
それでも、礼だけは言わなければと思い、アスファルトの上を這って、あの隊員さんのところへ行った。
「本当に、ありがとうございました。ありがとうございました」
「いえ、当たり前のことをしただけです。骨は治ります。息子さん、よく頑張りました」
彼は、少し息を切らしながら笑った。
そのとき、彼の右肩のあたりが、黒く濡れているのに気づいた。
「もしかして、怪我をされてるんじゃ」
「え? ああ、ちょっと何かに引っかけたみたいです」
彼が体をひねって肩を見せようとすると、背中の迷彩はさらに広く、濃く染まっていた。
「ちょっと痛いだけです。大丈夫です」
それでも彼は、笑っていた。
私はそのまま、息子と同じ救急車に乗せられた。
息子は、両脚の骨が折れていた。
私は右脚の骨折で済んだ。
病院の廊下は、夏休みの見舞い客で混み合っていた。
私は処置室の前の長椅子で、ずっと両手を組んでいた。
息子の泣き声は、一度も聞こえてこなかった。
それが、かえって怖かった。
処置が終わって、車椅子で息子のベッドへ連れていってもらった。
息子は、両脚に白いギプスを巻かれて、天井を見ていた。
「よく泣かなかったな。頑張ったな」
私がそう言うと、息子は少し得意そうな顔をした。
「お兄ちゃんが笑ってたから、泣かなかったよ」
「お兄ちゃん?」
「ノコギリクワガタの話、したよ。お兄ちゃんも、ちっちゃいとき、捕まえたことあるって」
暗がりの中で、あの隊員さんは、ずっと息子に話しかけていたのだという。
どこの山で捕まえたのか。
大あごの形は、どんなふうに曲がっていたか。
「七十三ミリのやつは、お兄ちゃんも見たことないって」
息子はそう言って、それから急に不安そうな顔になった。
「パパ、カードは?」
私は、答えられなかった。
「探してくる。必ず探してくるからな」
そう言うと、息子は小さくうなずいて、ギプスの脚を見下ろした。
「ノコギリクワガタ、ひとりで怖がってないかな」
私は、息子の頭を撫でることしかできなかった。
あの潰れた車の中の、どこかに落ちたのだと思った。
その晩、夜勤を休んで駆けつけた妻が、息子の枕元で泣いた。
私は、そこではじめて涙が出た。
妻は、私の脚のギプスを見て、それから私の顔を見た。
「あなたが無事でよかった」
責める言葉は、ひとつもなかった。
その晩、妻は病室の簡易ベッドで、息子の手を握ったまま眠った。
私は隣のベッドで、天井の染みを数えながら朝を待った。
助けてもらったことが、ありがたくて、情けなくて、どうしていいかわからなかった。
退院の前日、私はレッカー会社の置き場まで、松葉杖で車を見に行った。
潰れた助手席の足元を、懐中電灯で照らして探した。
カードは、どこにもなかった。
シートの隙間にも、フロアマットの下にもなかった。
置き場の係の人が、気の毒そうに言った。
「事故のときは、細かいものはたいてい飛んじゃうんですよ」
私は礼を言って、松葉杖で帰りのバスに乗った。
バスの窓から見た夏の山は、あの朝と同じ色をしていた。
息子には、見つからなかったとは言えなかった。
「まだ探してる」とだけ言った。
息子は、何も聞き返さなかった。
駐屯地の記念行事
救助に来てくれた消防署に問い合わせて、あの隊員さんたちの所属を教えてもらった。
隣の県の駐屯地だった。
インターネットで調べると、二週間後に駐屯地の記念行事があることがわかった。
一般の人も入れる、年に一度の日だった。
脚の具合を医者と相談して、行くことに決めた。
何を持っていけばいいのか、妻と二人で夜遅くまで話し合った。
菓子折りでは足りない気がした。
結局、妻が近所の和菓子屋で水ようかんを二十本買った。
隊員さんたちで分けてもらえるように、という妻の考えだった。
息子は、自分で描いた絵を持っていくと言い張った。
迷彩服の人が、大きなクワガタを抱えている絵だった。
当日、私は松葉杖で、妻が息子の車椅子を押した。
はじめて入る駐屯地は、思っていたよりずっと人が多かった。
屋台が出て、子ども連れがあちこちで写真を撮っていた。
どこへ行けばあの人に会えるのか、見当もつかなかった。
私たちは、広い敷地をうろうろと歩き回った。
午前中は式典があり、戦車が目の前を走った。
空砲の音に、息子は目を丸くして、それから声を上げて笑った。
屋台で買った焼きそばを、息子は車椅子の上で半分こぼした。
ソースのついた指を、今度は妻のハンカチで拭いた。
妻もつられて笑っていた。
事故のあと、家族三人で笑ったのは、それがはじめてだったと思う。
午後になっても、あの隊員さんは見つからなかった。
諦めかけて、出口のほうへ向かいかけたときだった。
「あの」
後ろから、声をかけられた。
振り向くと、制服姿の若い隊員さんが立っていた。
ヘルメットのない顔は、思っていたよりずっと幼く見えた。
「やっぱり。息子さん、ギプス取れたらもう走れますね」
その笑顔を見た瞬間、私は、男のくせに人前で泣いてしまった。
「あの日は、本当に、ありがとうございました」
この一言が、どれだけ言いたかったか。
息子が元気になった姿を、どれだけ見てもらいたかったか。
彼は照れくさそうに頭をかいて、私たちを売店の裏の日陰のベンチに案内してくれた。
息子は、描いてきた絵を両手で差し出した。
隊員さんはそれを受け取って、しばらく黙って見ていた。
「これ、俺ですか」
「うん。お兄ちゃんと、ノコギリクワガタ」
「かっこよく描いてもらったなあ」
彼は、絵を丁寧に四つに折って、制服の内側にしまった。
背中の傷のことを聞くと、彼は何でもないことのように言った。
「車体の鉄板の縁で、ざっくりいきました。十七針です」
私は、そこでまた頭を下げることしかできなかった。
「お医者さんには、あと一センチずれてたら危なかったって言われました」
彼は、なぜか少し楽しそうにそう言った。
「でも、一センチずれてなかったんで、大丈夫です」
妻が、思わず吹き出した。
隊員さんも笑った。
その笑い方を見て、息子が暗がりの中で泣かなかった理由が、少しわかった気がした。
家族が家族を想う姿を描いた大好きなパパへという話を、事故のあと、病院の待合で読んだ。
あのときは、自分がパパと呼ばれる資格があるのか、わからなかった。
胸ポケットのカード
ベンチに腰を下ろすと、隊員さんは制服の胸ポケットのボタンを外した。
中から出てきたのは、小さなビニール袋だった。
袋の中に、カードが一枚入っていた。
赤茶色の大あごの、ノコギリクワガタのカードだった。
角が一つ、折れ曲がっていた。
表の端に、茶色く乾いた染みがついていた。
「返しそびれてました。すみません」
息子が、車椅子の上で身を乗り出した。
「七十三ミリ!」
息子は、両手でカードを受け取ると、表と裏を何度もひっくり返した。
折れた角を、指でそっと伸ばそうとした。
伸びなかった。
それでも息子は、うれしそうだった。
隊員さんは、笑ってカードを袋から出し、息子の手に載せた。
「息子さんが、あれがないと痛いのが止まらないって言うもんで」
彼は、何でもないことのように言った。
「救急車に乗る前に、担架の上でずっと言ってたんですよ。カード、カードって」
私は、息子を担架に移したあとの光景を思い出していた。
もう一度だけ、助手席の潜り口に上半身を入れていた、あの背中を。
「中は、もう安全を確認してましたから」
隊員さんは、少し早口になった。
「ただ、手を伸ばしたときに、鉄板の縁に背中を持っていかれまして」
背中の十七針は、息子を助け出したときの傷ではなかった。
五歳の子どもの、一枚のカードのために、もう一度潜ったときの傷だった。
私は、言葉が出なかった。
あの日、担架の上で息子が何を言っていたのか、私は一言も覚えていない。
私は自分の脚と、自分の叫び声のことで、いっぱいだった。
息子の声を聞いていたのは、父親の私ではなく、この人だった。
妻が、隣で口を押さえていた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
隊員さんは、息子の前にしゃがんで目の高さを合わせた。
「次は、自分で捕まえに行こうな。七十三ミリより、でっかいやつ」
「うん!」
息子は、カードを胸に押し当てて、大きくうなずいた。
息子だけが、まっすぐに礼を言った。
それから隊員さんは、ふだん訓練で乗っているという緑色のオートバイを見せてくれた。
ギプスの取れていない息子を抱き上げて、一緒にシートに跨ってくれた。
息子は、カードを胸に押し当てたまま、得意そうに前を見ていた。
そのとき撮らせてもらった写真は、今も息子の机の上にある。
息子は小学二年生になった。
今では、クワガタより自衛隊のお兄ちゃんのほうが好きらしい。
言葉にしない優しさを描いた水曜の朝の青い弁当箱という話を、私はこのあいだ、息子に読んで聞かせた。
あのカードは、妻が小さな額に入れてくれた。
染みは、拭かずにそのままにしてある。
額の中のノコギリクワガタは、今日も大あごを少しだけ開いて、居間の壁からこちらを見ている。