駅の改札で、見知らぬ母親が小さな息子に「いってらっしゃい」と手を振っているのを見かけました。その瞬間、二十年以上前の、あの雨の朝の声が、胸の奥でよみがえりました。
これは、血のつながらない母と、その母をいちど嫌い抜いた私の話です。
恥ずかしくて、誰にも話したことのない記憶です。けれど歳を重ねるごとに、あの母のやさしさの深さが、いっそう胸に迫るようになり、いつか言葉にして残しておきたいと思うようになりました。
私が物心つく前に、生みの親は離婚し、どちらも私を引き取ろうとはしませんでした。施設に預けられた私を、三歳の頃に引き取ってくれたのが、下町で小さな豆腐店を営む夫婦でした。
当時の記憶はまるでなく、私はその二人を本当の親だと信じて、中学二年生まで育ちました。
朝はまだ暗いうちから、店の奥で大豆を煮る湯気が立ちのぼり、家じゅうが甘い豆の匂いに包まれていました。その匂いで目を覚ますのが、私の毎朝のはじまりでした。
店の前を通る人たちは、みな両親に親しげに声をかけていきました。「いってらっしゃい」と母が店先から手を振る声が、私の子ども時代の、いちばん古い記憶のひとつです。
父は無口でしたが、手のひらは大きく、豆腐をすくう所作はいつもやさしいものでした。
「豆腐ってのはな、急いだら崩れる。人もおんなじだ」
意味も分からず聞いていたその言葉を、私はなぜか、いまでも覚えています。
父は、店に来るお客さんの顔と名前を、ぜんぶ覚えていました。「あそこのおばあちゃんは歯が悪いから、やわらかいところを」と、母にそっと豆腐を選ばせるのです。商売というより、その人の暮らしを思いやる仕事を、父はしていました。
母は店先で、近所のお年寄りに油揚げをおまけしては、世間話に花を咲かせていました。
夕方、私が学校から帰ると、母は決まって「おかえり」と言い、父は黙って、揚げたての厚揚げを一切れ、私の皿にのせてくれました。
母は、私が熱を出すと、店を父に任せて、一晩中つきっきりで看病してくれました。冷たいタオルを額に当てながら、低い声で子守唄を歌う母の手は、いつもひんやりとして気持ちがよかったのを覚えています。
「だいじょうぶ、母さんがついてるからね」
父が店で大豆を煮込む夜、母は私を膝にのせて、古い童謡を口ずさみました。豆の煮える音と、母の低い歌声と、父が湯気のなかで手を動かす気配。あの三つが重なった時間こそ、私にとっての家庭でした。
そのひとことで、不思議と熱が引いていくような気がしました。あの頃の私は、この人が自分の本当の母だと、毛ほども疑っていませんでした。
日曜の朝には、父が私を店の仕事に「弟子入り」させてくれました。豆腐を四角く切る練習をさせてもらうのですが、私の切る豆腐はいつもいびつで、それを見て母が「芸術家だねえ」と笑うのが常でした。
夏には、売れ残った豆腐を冷やして、三人で縁側に座って食べました。父が醤油を少したらし、母が刻んだ葱をのせ、私はそれを、世界でいちばんのごちそうだと思っていました。
父はめったに私を叱りませんでしたが、食べ物を粗末にしたときだけは、低い声で「もったいない」と言いました。その一言には、豆腐づくりに人生を捧げた人の、静かな重みがありました。
貧しくはありましたが、その頃の食卓には、確かな温もりがありました。いま振り返れば、あれは血のつながりなど関係のない、まぎれもない家族の時間でした。
※
やがて、父との突然の別れが訪れました。
ある冬の朝、店で大豆を運んでいた父が、その場に崩れ落ちました。脳梗塞でした。
救急車で運ばれた父は、二度と家へ帰ってくることなく、そのまま帰らぬ人になりました。
あまりに急な別れに、私は涙の出し方さえ分からないまま、葬儀の日を迎えました。
祭壇の写真の父は、いつもの作業着ではなく、見慣れないスーツを着て、少しすました顔で笑っていました。その顔がかえって他人行儀に見えて、私は父の死を、まだうまく信じられずにいました。
母は喪服のまま、弔問客に頭を下げ続けていました。気丈に振る舞ってはいましたが、その手が小刻みに震えているのを、私は横目に見ていました。
夫を失い、これから血のつながらない子をひとりで育てていく。その重さを、母はあの日、たった一人で背負おうとしていたのだと、いまになって思います。けれど当時の私は、自分の悲しみで精一杯で、母の心まで思いやる余裕など、まるでありませんでした。
そして、その最悪のときに、私は知ってしまったのです。
親戚の人たちが、台所の隅で交わしていた声が、ふと耳に飛び込んできました。
「あの子も気の毒にねえ。血はつながってないのに、これから二人きりで……」
血が、つながっていない。その言葉が、頭のなかで何度も反響しました。
葬儀の喧騒のなか、私は母を物陰に引っ張っていき、震える声で問いただしました。
「ねえ、本当なの。私、もらわれてきた子なの」
声が震えて、自分でもうまく言葉になりませんでした。胸の奥が、冷たい手でわしづかみにされたようでした。
母は一瞬、言葉に詰まり、それからゆっくりと頷きました。
「ごめんね。いつか、ちゃんと話すつもりだったの」
その瞬間、私のなかで何かが音を立てて崩れました。
裏切られた、と思ったのでしょう。私はその日を境に、母を嫌いになりました。
そればかりか、もう何も言ってくれない父のことまで、嫌いになってしまったのです。
本当の親ではないと知ったことで、これまで信じてきた温もりのすべてが、嘘だったように思えてしまったのです。いま思えば、それはあまりに幼く、身勝手な思い込みでした。
けれど、ようやく父を失ったばかりの十四の私には、その悲しみと裏切られたという気持ちを、どう抱えていいのか分からなかったのです。やり場のない感情は、いちばん近くにいる母へと、刃のように向かっていきました。
※
私の家は、もともと裕福ではありませんでした。
父が亡くなり、豆腐店をたたんだあと、母は私を養うために、朝から晩まで働きに出るようになりました。
朝は近くの市場で魚をさばき、昼から夜にかけては、スーパーの惣菜場で揚げ物を揚げる。
それもこれも、すべては私のためだったのに、当時の私には、その姿すらも疎ましく思えてなりませんでした。
母の手は、いつも水仕事で荒れて、油で焼けて、爪のあいだに魚のにおいが染みついていました。
そのにおいが、友達に気づかれるのが、私は嫌でたまりませんでした。
夜遅く、母がくたびれて帰ってくると、玄関で長靴を脱ぐのもやっとという様子でした。それでも母は、私のぶんの夕飯だけは、必ず温かいものを用意してくれていました。
食卓に置かれた揚げ物を、私はわざと残しました。母が悲しそうにそれを片づけるのを、私は自分の部屋から、扉の隙間ごしに見ていました。胸の奥がちくりと痛むのに、素直になれない自分が、もどかしくてたまりませんでした。
ときどき、私の登校の時間と、母が市場から帰ってくる時間が、ちょうど重なることがありました。
ぼろぼろの前掛けをつけ、長靴を引きずるようにして歩く母が、向こうから近づいてきます。
友達と並んで歩いていた私は、その人と家族であることを知られたくありませんでした。
「いってらっしゃい」
母がそう声をかけてくれても、私は聞こえないふりをして、顔をそむけました。
それどころか、友達に向かって、こう言ったことさえありました。
「誰、あの人。なんか、くさいよね」
いま思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる言葉です。
それを察したのでしょう。次の日から母は、わざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていくようになりました。
それでも母は、何ひとつ文句を言わず、ただ黙々と働き続けてくれていました。
授業参観にも、運動会にも、母は仕事の合間を縫って、必ず顔を出してくれました。けれど私は、ぼろぼろの身なりの母が来ることを、心のどこかで疎んでいました。そんな自分が、本当は誰よりも嫌でした。
夜、布団に入ると、決まって父との日々を思い出しました。三人で食べた縁側の豆腐。揚げたての厚揚げ。あの温もりはもう戻らないのだと思うと、涙がにじみました。けれど私は、その涙の意味からも、目をそらし続けていました。
ある晩、私は母が台所で、父の遺影に向かって小さくつぶやいているのを聞きました。「あの子は、いつか分かってくれるかしらね」と。その声があまりに淋しくて、私は布団のなかで、息を殺していました。本当は、すぐにでも飛んでいって、ごめんなさいと言いたかった。けれど、いったん固めてしまった意地は、十四の私には、どうしても崩せませんでした。子どもの意地ほど、もろくて、頑固なものはありません。
そんな日々が、一ヶ月ほども続いたでしょうか。
※
ある雨の朝のことでした。
私はいつものように友達と登校していて、市場帰りの母とすれ違いました。
母は色の褪せた雨合羽を着て、背中を丸め、片手に売れ残りらしい荷物を提げていました。
当然、私たちは無言です。
雨脚は強く、傘を打つ音だけが、私たちのあいだを満たしていました。
母はこちらに気づいても、もう声をかけてはきませんでした。私が無視し続けたせいで、母のほうから言葉を引っ込めるようになっていたのです。その遠慮が、いまの私の胸には、いちばん深く突き刺さります。
けれどその日、すれ違いざまに見た母の後ろ姿が、なぜだか、いつもと違って見えました。
雨に打たれたその姿は、何とも淋しく、哀しく、そして痛々しく見えたのです。
ふと、父の声がよみがえりました。豆腐は急いだら崩れる、人もおんなじだ、と。
この人は、崩れそうになりながら、それでも私を育てるために、毎朝この道を歩いているのだ。
そう気づいた瞬間、こらえていた涙が、雨と一緒に頬を伝いました。
父が遺した言葉が、もうひとつ、胸によみがえりました。豆腐は急いだら崩れる。だからこそ、丁寧に、時間をかけて向き合うのだと。母は、崩れそうな私の心に、一ヶ月ものあいだ、ただ静かに寄り添い続けてくれていたのです。
私はいったい、何をしているのだろう。
血がつながっていないからと、ぼろぼろになってまで私を守ってくれるこの人を、私は何を疎ましく思っていたのだろう。
凄まじい後悔が、波のように私を襲いました。
父が亡くなってから、私は一度も、母にやさしい言葉をかけていませんでした。ありがとうも、ごめんなさいも、ただのひとことも。
私は友達の目も気にせず、母のもとへ駆け戻りました。
けれど、いざ顔を見ると、何を言っていいのか、まるで分かりませんでした。
謝りたいのに、言葉が喉につかえて出てきません。
そのとき、ふと口をついて出たのは、たったひとことでした。
「……いってきます」
言えたのは、それだけでした。
母は一瞬、驚いたように目を見開き、そして、くしゃりと顔をゆがめて泣きました。
一ヶ月ものあいだ、無視され続けた言葉が、ようやく私の口から返ってきたのです。母にとって、それがどれほどの意味を持っていたか、いまならよく分かります。
雨と涙で、母の顔はぐしゃぐしゃでした。
そして、何度も、何度も、こう言ってくれたのです。
「いってらっしゃい、いってらっしゃい」
私が友達のもとへ戻ったあとも、母はその場に立ったまま、私の背中に向かって手を振り続けていました。
雨に濡れるのもかまわず、母は手を振り続けていました。その姿が小さくなっても、私は何度も振り返らずにはいられませんでした。
「いってらっしゃい」
その声は、雨音にまぎれながら、いつまでも私を追いかけてきました。
教室にたどり着いても、私の頬の涙は止まりませんでした。窓の外の雨を眺めながら、私はずっと、母の泣き笑いの顔を思い浮かべていました。あの日から、私は二度と、母のいってらっしゃいを無視することはありませんでした。
※
あの朝を境に、私と母のあいだの、目に見えない氷が、少しずつ溶けていきました。
私は、残してしまっていた揚げ物を、きちんと食べるようになりました。「おいしい」と言うと、母は決まって、照れたように目尻を下げました。
高校に上がると、私は母を手伝って、休みの日にはスーパーの惣菜場に立つようになりました。母の隣で衣をつけ、油の前に立つと、母の手のひらがどれほどの熱さに耐えてきたのかが、身をもって分かりました。
夕飯の食卓で、私は母に、その日学校であったことを話すようになりました。
母は揚げ物のにおいのする手で、私の茶碗にごはんをよそいながら、嬉しそうにそれを聞いていました。
あの魚と油のにおいを、私はもう、恥ずかしいとは思いませんでした。それは、私を育てるために母が流してきた、汗と涙のにおいだったのですから。むしろ、世界でいちばん尊いにおいのように、思えるようになっていきました。
進路を決めるとき、私は迷わず食に関わる道を選びました。母が立ち続けた厨房の、あの湯気と油のなかに、私の原点があると気づいたからです。母は「無理しなくていいのに」と言いながら、誰よりも嬉しそうにしていました。
いつだったか、私は思い切って、母に尋ねたことがあります。
「どうして、血のつながらない私を、あんなに必死に育ててくれたの」
母は少し笑って、こう答えました。
「それが、親の務めだもの」
ただ、それだけでした。けれど、その短い言葉のなかに、どれほどの覚悟と愛情が込められていたのか、いまの私には痛いほど分かります。
いまでは、戸籍がどうであれ、あの人こそが、私の本当の母親です。
返しても返しきれないほどの恩を、私はあの人から受け取りました。
血のつながりは、家族の条件ではないのだと、私はあの母から教わりました。一緒に過ごした時間と、注いでくれた愛情の総量こそが、人を親子にするのだと。
母は、いまも口癖のように「それが親の務め」と言います。けれど、務めだけで、人はあそこまでやさしくなれるものでしょうか。あれはきっと、務めを超えた、まぎれもない愛情だったのだと思います。
今度は子として、年老いた母の面倒を見ていきたい。それが、いまの私の、静かな願いです。
先日、母を病院へ送り出すとき、私は自然と、こう声をかけていました。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母は驚いたように私を見て、それから、あの雨の朝と同じ顔で、少しだけ涙ぐみました。
「いってきます」と、母は小さく笑って答えました。あの朝、私が言えなかった言葉と、私が返せなかった言葉が、長い時を経て、ようやく二人のあいだで、まっすぐに行き交ったのです。
あの雨の朝、母が背中に投げかけてくれた『いってらっしゃい』は、いまも私の人生の、お守りのように胸に残っています。どんなに苦しい日でも、あの声を思い出すと、もう一歩、踏み出せるのです。
この人が母親で、本当に、最高によかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。