私が九歳の秋に、母は亡くなりました。
信州の城下町の外れ、精密部品の工場が並ぶ一角に、我が家はありました。
父はその工場のひとつで旋盤を回す職人で、母は近所のスーパーで働きながら、家のことをすべて引き受けていました。
母の記憶は、匂いから始まります。
朝の味噌汁の匂い。洗い立ての割烹着の匂い。仕事帰りに寄った八百屋の袋から覗く、りんごの匂い。
自転車の後ろに私を乗せて、母はよく歌いながら坂道を上りました。
「重たくなったねえ。もうすぐ、お母さんより大きくなっちゃうんだね」
振り返ると、その声だけが、今も耳の奥に残っています。
運動会の朝には、卵焼きだけ多めの弁当を作ってくれました。私が卵焼きしか褒めなかったからです。
「他のおかずも、たまには褒めてごらん。作る人は、それだけで一日がんばれるんだから」
母はそう言って笑いながら、それでも次の年も、卵焼きを多めに詰めてくれる人でした。
夕方、工場のサイレンが鳴ると、母は台所の窓を少し開けました。
父の自転車のブレーキの音を、聞き分けるためだったそうです。
そういう小さなことばかりを、私は後になってから、何度も思い出すことになります。
病気が見つかってから、母が逝くまでは、一年もありませんでした。
九歳の私には、病室の白さと、消毒液の匂いと、痩せていく母の手の細さだけが記憶に残りました。
見舞いに行くたび、母は帽子を被り直して、精いっぱい元気なふりをしました。
「学校はどう? 給食、残してない?」
「残してないよ。……ねえ、いつ帰ってくるの」
「もうちょっとだけ、待っててね」
その「もうちょっと」が嘘になった日のことを、私は長いあいだ、誰のせいにすればいいのか分かりませんでした。
お葬式の日、私は泣きませんでした。
泣き方が、分からなかったのだと思います。
親戚のおばさんたちが「かわいそうに」と頭を撫でるたび、身体の芯が固くなりました。
かわいそうという言葉は、九歳の胸には、ただ冷たいだけでした。
父はあの日から、家の中で母の名前を口にしなくなりました。
悲しみの置き場所が分からないのは、大人も同じだったのだと、今なら思います。
※
中学に上がると、私は面白いように荒れていきました。
髪を金色に染め、授業を抜け出し、夜の公園でたむろする。
補導されて、無口な父が学校と警察に頭を下げる。その繰り返しでした。
「お母さんが生きてたら、悲しむよ」
担任にそう言われた日は、教室の机を蹴って帰りました。
いちばん言われたくない言葉を、いちばん安く使われた気がしたからです。
父とは、ほとんど口をきかなくなっていました。
父は朝早く工場へ行き、夜遅く帰り、無言で夕飯を温めて食べる。
居間には、母の遺影と、手つかずの仏壇があるだけでした。
※
中学二年の冬のことです。
遊ぶ金欲しさに、父の留守中、私はタンスの引き出しを漁っていました。
小遣いをくれない父への腹いせのつもりでした。
先輩に借りた金を返せと呼び出されていて、後がなかったというのが本当のところです。
セーターやシャツを掻き分けるたび、樟脳の匂いに混じって、微かに懐かしい匂いがしました。
引き出しの奥には、母の割烹着が、洗って畳んだまま仕舞われていたのです。
捨てられなかったのだと、今なら分かります。
いちばん下の段、父のセーターの奥に、菓子箱がひとつ隠すように仕舞われていました。
蓋を開けると、中身は札束ではなく、一本のビデオテープでした。
背ラベルに、細いボールペンの字でこう書いてありました。
「二十歳のあなたへ」
母の字でした。
見てはいけないものだと、直感では分かっていました。
二十歳、という文字が、まだ五年以上も先の遠い数字に見えました。
母はそんな先の日まで、自分が届かないことを知っていたのだ、ということでもありました。
菓子箱の蓋を戻そうとして、戻せませんでした。
それでも、気づいたときには居間のデッキにテープを差し込んでいました。
六年間、誰も座らなくなっていた母の座布団を、私は無意識に避けて座りました。
リモコンを持つ手が、自分でも呆れるほど震えていました。
ウィィン、と巻き取る機械の音がして、砂嵐のあと、画面に病室が映りました。
ベッドの上に、母がいました。
頬はこけて、頭には毛糸の帽子を被って、それでも精いっぱい、口紅を差していました。
『あー、あー。ちゃんと映ってますか? お父さん、これで合ってる?』
画面の外の父に向かって笑う声は、記憶よりずっと細くなっていました。
それから母は、居住まいを正して、レンズの真ん中を見ました。
『二十歳のお誕生日、おめでとう。あなたがこれを観ているということは、お母さんの作戦は成功ですね』
『何も買ってあげられなくて、ごめんね。プレゼントの代わりに、お母さんの顔と声を置いていきます』
『今ごろ、どんな大人になりかけているのかな。彼女はいるのかな。お父さんと、ちゃんと喋ってるかな』
『やんちゃをして、お父さんを困らせている頃かもしれないね。あなたは、泣くのが下手な子だから』
『お葬式で泣けなくても、気にしなくていいからね。あなたの涙は、あなたのタイミングで流れます』
『それから、お父さんのこと。あの人は口が下手だけど、あなたの好物を、ぜんぶ言えるのよ』
『試しに聞いてごらんなさい。卵焼きの焼き加減まで言えたら、たいしたものでしょう』
六年後のその夜、試しに聞いた私に、父は本当に、砂糖の匙の数まで答えてみせました。
十四歳の私は、画面の前で膝を抱えたまま、動けなくなりました。
『ひとつだけ、約束してください』
『お母さんはもう叱ってあげられないから、自分で自分を叱れる人になってね』
『それができた日は、うんと自分を褒めてあげて。お母さんも、ここから一緒に褒めていますからね』
最後に母は、少し笑って、手を振りました。
『じゃあね。……ほんとうは、じゃあね、なんて言いたくないんだけどね』
そこで画面は砂嵐に戻りました。十五分ほどの、短いテープでした。
私は、九歳の秋に流せなかった涙を、その晩ぜんぶ流したのだと思います。
声を殺して、畳に突っ伏して、テープが自動で巻き戻る音を聞きながら泣きました。
※
翌朝、私は洗面所で、父の使っていたバリカンで金髪をぜんぶ刈り落としました。
鏡の中の坊主頭は、我ながら不格好で、少し母に似ていました。
学校へ行き、職員室の担任の前に立って、頭を下げました。
「勉強、追いつきたいです。何からやればいいですか」
散々呆れられた末に、担任は古い問題集を三冊、机に積んでくれました。
「お前が三日で投げ出したら、俺の負け。続いたら、お前の勝ちだ」
三日どころか三年続けて、卒業式の日にその話をすると、担任は笑って頭を掻きました。
「実はな、あの問題集、俺が高校んとき使ってたやつだ。三十年前の落ちこぼれからの、餞別だったんだよ」
人は、誰かの不格好なやり直しを、案外ちゃんと見ていてくれるものです。
その言い方が、妙に悔しくて、ありがたかったのを覚えています。
分数の計算からやり直しました。笑われても、仕方のない場所からのやり直しでした。
元の仲間からは、当然のように白い目で見られました。
「なんだよ、急に優等生かよ」
「悪い。俺、約束があるんだ」
誰との約束かは、言いませんでした。言えば茶化される。茶化されたら、たぶん殴ってしまう。
だから黙って、問題集を鞄に詰めて帰りました。
冬の橋の上で、川風に吹かれながら、母の声を思い出して歩く。それが私の通学路でした。
夜、台所で問題集を広げていると、風呂上がりの父が黙って牛乳を置いていくようになりました。
会話はなくても、それが父なりの言葉だということは、分かるようになっていました。
高校は、家から自転車で三十分の、県立の工業高校に進みました。
旋盤の実習がある学校だと知って、父が初めて「そうか」と言った顔を、少しだけ緩めたのを覚えています。
たまの日曜、父は無言で私を工場に連れて行き、機械の手入れを見せてくれました。
油の匂いの中で、金属が澄んだ音を立てて削れていくのを、私は飽きずに眺めました。
「母さんはな、この音を聞くと、よう働いた気がするって言ってた」
父が母の話をしたのは、それが最初でした。
テープのことは、言えませんでした。
勝手に見たことを謝る勇気が、まだなかったのです。
一度だけ、深夜に居間から、聞き覚えのある機械の音がしたことがあります。
ウィィン、という、テープの巻き戻る音でした。
襖の隙間から覗くと、父が独り、青白い画面の前に正座していました。
母の命日の夜でした。
私は音を立てないように布団へ戻り、天井を見ながら考えました。
この人は、十年近く、この夜を独りで繰り返してきたのか、と。
翌朝の食卓で、父はいつもどおり、無言で味噌汁をすすっていました。
私はその横顔に、初めて「お疲れさま」と心の中で言いました。
口に出せるようになるまでには、そこからさらに数年かかりましたが。
※
一浪はしましたが、私は地元の大学に受かりました。
合格発表の日、父は電話帳を引っ張り出し、親戚中に電話を掛けました。
「……ええ、ええ。あいつが。……ええ、受かったんです」
台所で聞いていると、途中から言葉になっていませんでした。
まるで私が大変な偉業でも成し遂げたかのように、洟をすすりながら、同じ報告を何度も繰り返していました。
大袈裟だなあ、と笑いながら、私は玄関先で靴を揃え直して、少し泣きました。
その夜、父は寿司桶を提げて帰って来ました。
「食え。母さんの分もある」
仏壇に上等の中トロを供えてから、父子二人、こたつで黙々と寿司をつまみました。
「……母さんに、見せたかったな」
ぽつりとこぼれた父の一言に、私は「うん」としか返せませんでした。
けれどその「うん」が、六年ぶりに父とちゃんと交わした会話だった気がします。
※
二十歳の誕生日の晩、父は改まった顔で、私の前にあの菓子箱を置きました。
「母さんから、預かってたものだ」
箱の中のテープは、あの日と同じ場所に、同じ顔で収まっていました。
私は初めて見るふりをして、デッキにテープを入れました。
六年ぶりの母は、あの日と同じように、口紅を差して笑っていました。
けれど、二十歳の耳は、十四歳の耳が聞き逃していた音を拾いました。
カメラの向こうで、押し殺した嗚咽が、確かに録音されていたのです。
十四歳のあの晩は、母の顔と声を追いかけるだけで、精いっぱいだったのでしょう。
画面がときどき小さく揺れていた理由も、母が時折レンズの上へ視線を逸らした理由も、二十歳の私には、もう分かりました。
母はあの病室で、カメラを構えて泣いている父を、ずっと励ましながら喋っていたのです。
遺していく息子への言葉を録りながら、遺していく夫のことも、あの人は最後まで案じていました。
『お父さん、ちょっと。撮りながら泣かないでよ。画面が揺れるでしょう』
『情けないわねえ。……ほら、あなたも見てるよ、きっと。お父さんのこういうところ、笑ってあげてね』
母は画面の中で、レンズ越しに私と、レンズの外の父と、二人を同時にあやしていました。
隣を見ると、六年前と同じ姿勢で正座した父が、あの夜と同じように、声を殺して泣いていました。
「親父、あのさ。……俺、ほんとはこのテープ、前に」
「知らねえよ」
父は目元を拭いもせず、画面を見たまま、それだけ言いました。
菓子箱の位置が、あの冬の日から少しも変わっていなかった理由が、そのとき分かりました。
父は、知っていたのです。
荒れていた息子が急に頭を丸めた朝から、何もかも。
知っていて、何も言わず、六年間、箱を同じ場所に置き続けてくれたのです。
その晩、私たち父子は、母の湯呑みにもお茶を注いで、三人で誕生日をやり直しました。
「母さんはな、最後の入院のとき、俺にカメラの使い方を何べんも練習させたんだ」
「本番は一回きりなんだから、って。……本番で泣いたのは、俺のほうだったけどな」
父はそう言って、六年ぶりに、私の前で笑いました。
「あのテープな、ほんとうは三本目なんだ。一本目と二本目は、母さんが気に入らんと言って録り直した」
「口紅が薄いとか、帽子が曲がってるとか。……最後まで、お前にいちばん綺麗な母さんを見せたがってた」
録り直された二本のテープの行方を、私は聞きませんでした。
聞かなくても、母らしいと思えたからです。
※
就職が決まった日、父は仏壇に手を合わせてから、ぼそりと言いました。
「これで母さんに、怒られなくて済むよ」
誰よりも母に報告したいのは、父のほうだったのだと思います。
結婚式の日、私は式場の人に頼んで、あのテープの母に列席してもらいました。
スクリーンの中で口紅を差して笑う母に、妻は白いハンカチを濡らし、父は下を向いたきり、最後まで顔を上げませんでした。
妻には、初めて実家に招いた日に、テープのことをすべて話してありました。
黙って最後まで聞いたあと、妻は一言だけ言いました。
「お義母さんに、褒めてもらえる家庭にしようね」
この人と結婚しようと決めたのは、たぶん、あの瞬間だったと思います。
やがて娘が生まれ、私は擦り切れる前にと、テープをデジタルデータに移しました。
変換作業を頼んだ写真店の主人は、受け取りの日、そっと教えてくれました。
「テープの最後にね、映像がもう少しだけ入ってましたよ。気づいてました?」
帰って確かめると、砂嵐の後に、数十秒だけ映像が残っていました。
カメラを止め損ねたのでしょう。ベッドの母と、駆け寄る父の背中が映っていました。
『うまく言えたかな』『ああ、百点だ』
小さくそれだけ交わして、二人は笑っていました。
両親が夫婦として笑い合う姿を、私はそのとき、生まれて初めて見たのです。
それでも元のテープは、あの菓子箱ごと、今は我が家のタンスのいちばん下に仕舞ってあります。
父がそうしたように、私も箱の位置を、動かさずにいます。
娘が二十歳になる日に、渡したいものが、私にもできたからです。
五歳になった娘は、画面の中の母を「わかいおばあちゃん」と呼びます。
「わかいおばあちゃん、なんて言ってるの?」
「自分で自分を叱れる人になってね、って言ってるんだよ」
「じゃあ、できたら褒めてもらえる?」
「もらえるよ。お父さんも、何べんも褒めてもらった」
娘は満足そうに頷いて、画面の中の母に向かって、小さく手を振りました。
「ああ。ここから一緒に、褒めててくれるってさ」
私は今も、道に迷いそうになる夜には、あの巻き戻る音を思い出します。
仕事でしくじった夜。人に強く当たってしまった夜。
自分で自分を叱って、それから少しだけ、褒める。
母と交わした約束の実行は、四十を過ぎた今でも、なかなかどうして難しいものです。
泣くのが下手だった子どもは、泣きたい夜の乗り越え方を、十五分のテープに教わりました。
ウィィン、という、あの音のおかげで、私は真っ当に生きてこられました。
十五分のテープに込められた母の作戦は、二十年以上経った今も、成功し続けています。