その猫は、私が呼んでも、一度も返事をしなかった。
足元にはいつも寄ってくるのに、名前を呼ぶと、耳だけがこちらへ向いて、顔は動かない。
私はそれを、猫というのはそういうものだと思っていた。
十一歳だったから、そう思うよりほかになかった。
※
父の仕事の都合で、私が諏訪へ来たのは、小学五年の冬のはじめだった。
寒天をつくる町だった。
刈り取りの終わった田んぼに、細長い棚が何百と並んでいて、そこに角寒天を並べて、夜のあいだに凍らせ、昼のあいだに溶かす。
それを二週間くり返すと、白くて軽い、指で押すとかさりと鳴るものになる。
父はその天日場で、夜の見回りをする季節雇いだった。
凍りかたが足りない晩は、棚の向きを変える。
凍りすぎる晩は、藁をかける。
だから父は、いつも夜にいなかった。
一度だけ、父が私を天日場へ連れていったことがある。
十二月の、風のない晩だった。
棚の上に並んだ寒天が、月の下で一面に光っていた。
踏むと、田んぼの土が、しゃり、と鳴った。
「ここが凍るのは、風が止まる晩だけだ」
父はそう言って、棚のひとつを指で弾いた。
ぱん、と乾いた音がした。
「音で分かる。まだ芯が残っとる」
「凍らせすぎると、白くならんで、粉になっちまう」
ちょうどよく凍らせて、ちょうどよく溶かす。
それを十四晩くり返す。
父はその十四晩、一晩も家にいない。
私は、寒いのに手を離せないというのが、どういうことなのか、そのとき初めて分かった。
帰り道、父は自分の首巻きを私に巻いた。
父の首は、そのあいだずっと、剥き出しだった。
母は町の縫製工場へ出ていた。
借りた家は、天日場のいちばん端にある古い平屋で、前の住人が使っていた鍋や火鉢が、そのまま置いてあった。
その家に、白い猫がいた。
※
引っ越しの荷物を入れた日、その猫は縁側の日なたにいた。
誰の猫かと母が近所の人に訊くと、前の住人のお婆さんの猫だという。
お婆さんは、その年の春に亡くなっていた。
身寄りがなかったので、家財はそのままになっていた。
「猫も、そのままだねえ」
隣の家の奥さんが、笑うでもなく言った。
「食べるものはみんなで持ってっとるけど、ここから動かんのよ」
母は少し困った顔をして、私を見た。
私はもう、その猫の隣にしゃがんでいた。
真っ白で、毛の一本一本が細くて、日に透けると、うっすら桃色に見えた。
触ると、逃げなかった。
私はその場で名前をつけた。
みーちゃん、と言った。
理由はない。
ただ、そう呼びたかった。
※
転校した先の教室で、私はうまくしゃべれなかった。
言葉の抑揚がちがうのだ。
教科書を読まされると、後ろの席から小さな笑い声が起きた。
悪意はなかったのだと、いまなら分かる。
けれど十一歳の私には、その区別がつかなかった。
三学期のはじめに、係を決める話し合いがあった。
誰も手を挙げない係が残って、先生が私を指した。
私が「はい」と言うと、教室の空気が、ほんの少しだけゆるんだ。
助かった、という顔が、いくつも見えた。
悪い子たちではないのだ。
ただ、私が引き受けても、誰も困らないと知っているだけだった。
その日から、私は教室で、うまく息が吸えなくなった。
私は、家に帰ると、湖のほうへ下りた。
諏訪湖の岸は、冬になると氷が寄せて、白い板を割ったような音を立てる。
その音を聞いていると、教室のことがどうでもよくなった。
みーちゃんは、必ずついてきた。
家の中ではほとんど動かないのに、私が長靴を履くと、先に土間へ降りている。
そして岸に着くと、私の左側に、ちょこんと座った。
いつも左側だった。
右側に座ったことは、一度もない。
※
ある日、私は湖の岸で、教科書を声に出して読んでみた。
教室で笑われた箇所を、はじめから終わりまで読んだ。
誰も聞いていないので、抑揚がおかしくても平気だった。
みーちゃんは、左でじっと聞いていた。
読み終わると、私は「どうやった」と訊いた。
返事はなかった。
それでも私は、次の日も読んだ。
一週間ほど続けたころ、教室で当てられて、つっかえずに読めた。
誰も笑わなかった。
その日の帰り、私は走って湖まで下りて、岸に着くなり「読めた」と言った。
みーちゃんは、いつもの左で、いつもの紙一枚ぶんの距離にいた。
一月の終わりに、御神渡りが立った。
湖の氷が、真夜中に裂けて、せりあがって、氷の山脈のようになる。
朝、町の人がぞろぞろ見に出て、宮司さんが拝んで、新聞の人が写真を撮った。
私はその日、学校を休んでいた。
腹が痛いと嘘をついたのだ。
誰もいない岸で、私は氷の背が伸びていく音を聞いた。
ぐう、と低く鳴って、それから、ぴん、と高い音がする。
湖が生きているようだった。
みーちゃんは、その日も左に座っていた。
「みーちゃん」
私は呼んだ。
返事はなかった。
耳だけが、こちらを向いた。
「なんで返事せんの」
そう言うと、みーちゃんは、氷のほうを見たままだった。
私は少し腹が立って、それから、なぜだか涙が出た。
泣いていると、みーちゃんは、私の膝の横に体を寄せてきた。
ぴったりくっつくのではない。
紙一枚ぶんだけ、離して寄せてくる。
その距離が、なぜか、いちばん楽だった。
※
春が来て、私は六年生になった。
教室では、二人だけ友だちができた。
それでも、湖には毎日行った。
みーちゃんは、家の中ではいつも同じ場所で眠った。
茶の間の隅、仏壇の横に置いてある、藁を編んだ丸い籠だ。
前の住人のものだから、母は捨てようとした。
けれど、みーちゃんはそこ以外では眠らなかった。
座布団を出しても、私の布団に入れても、夜中には籠に戻っている。
「よっぽど、あの籠が気に入っとるんだね」
母がそう言って、それきりになった。
私も、そう思っていた。
※
みーちゃんは、もともと丈夫ではなかった。
その年の梅雨に鼻風邪をひいて、なかなか抜けなかった。
私は学校から走って帰るようになった。
湯で薄めた牛乳を、指につけて口の端に運ぶ。
舐めてくれる日と、舐めてくれない日があった。
舐めてくれた日は、私は宿題の字が丁寧になった。
母が縫製工場から帰ってくると、私はその日の報告をした。
「今日は、三回舐めた」
「そう。よかったね」
母は、それ以上のことは言わなかった。
いま思えば、母はもう分かっていたのだと思う。
町の獣医さんに連れていくと、年のことを言われた。
正確な年は誰も知らない。
前の住人のお婆さんが飼いはじめた時期から数えると、たぶん十五を越えている、と。
「うちの子になってから、まだ一年半だよ」
私がそう言うと、獣医さんは、白衣の袖で眼鏡を拭いた。
「そうか。じゃあ、まだ一年半あるな」
私は、その帰り道、自転車の前かごに籠ごとあの子を乗せて、ゆっくり漕いだ。
段差のたびに、籠の中で、かさ、と藁が鳴った。
あの子は、一度も鳴かなかった。
信号のところで止まると、顔だけをこちらへ上げた。
その目が、心配しているように見えて、私は笑った。
「心配せんでいいよ」
そう言ったのは、たぶん、自分に言っていた。
その言い方が、私にはうまく飲み込めなかった。
けれど、一年半はなかった。
秋のはじめに、みーちゃんは籠の中で動かなくなった。
朝、私が起きて茶の間へ行くと、いつもと同じ格好で丸まっていて、いつもとちがう静かさだった。
※
父が仕事から戻るまで、私は籠のそばに座っていた。
そのあいだ、体はまだ、少しだけあたたかかった。
それが、だんだん、部屋の温度と同じになっていった。
同じになった瞬間が、はっきり分かってしまった。
指の腹で分かるのだ。
私はそのとき、寒天の話を思い出していた。
凍らせすぎると、白くならんで、粉になる。
関係のない話なのに、なぜかそれが頭から離れなかった。
私は、たぶん、まわりが心配するくらい泣いた。
学校へも行かなかった。
母が「新しい猫を」と言いかけて、私が首を振ると、それきり言わなくなった。
父は夜の仕事から帰ってくると、何も言わずに、私の頭を一度だけ押さえた。
手が冷たくて、寒天の匂いがした。
担任の先生が家まで来て、玄関で母と長く話していた。
先生が帰ったあと、母は何も言わずに、私の分の夕飯を茶の間へ運んできた。
「食べんでもいいよ」
「うん」
「置いとくだけね」
置いてある茶碗の湯気が消えるのを、私はずっと見ていた。
翌朝、茶碗はそのままの位置にあって、母は何も言わずに下げた。
次の日も、母は同じように運んできて、同じように下げた。
四日目に、私は食べた。
湖の岸には、行けなくなった。
左側が空いているのが、耐えられなかったからだ。
※
四十九日が過ぎたころ、隣の奥さんが、菜っ葉を持ってきた。
そのついでのような顔で、こんな話をした。
「あんた、あの猫の名前、なんて呼んどった」
「みーちゃん」
「そうかね」
奥さんは、少し黙った。
「お婆さんはね、はつ、って呼んどったよ」
初雪の、はつ。
初雪の朝に、天日場の棚の下で拾ったから、はつ。
「うちの人が、拾うところ見とったんよ」
その年の初雪は、十一月の末に降ったのだそうだ。
お婆さんは、天日場の手伝いに出ていた。
棚に藁をかけて回る役で、朝の四時から動く。
「手が悴んで、藁がうまく持てんかったって」
「そのとき、棚の下に、白いもんが二つ」
ひとつは落ちた寒天で、ひとつは、生まれて間もない仔猫だった。
「拾うたら、あったかいほうと冷たいほうが分かった、って言うとった」
お婆さんは、その仔猫を割烹着の内側に入れて、朝の仕事を最後までやったのだという。
「棚の下で、真っ白なもんが二つ並んどるで、寒天が落ちたかと思うたら、猫やった、って」
私は、口の中がからからになった。
その猫は、一度も、私の呼び方に返事をしなかったのだ。
返事をしないのではなくて、それは、自分の名前ではなかった。
※
「悪いことしたかね」と、奥さんが言った。
「言わんほうが、よかったかね」
私は首を振った。
ほんとうは、少しだけ、ずるいと思った。
一年半、私はあの子のいちばんだと思っていた。
そのいちばんが、後から来たものだったと知らされたのだ。
けれど、そう思った自分のことが、すぐに恥ずかしくなった。
あの子は、二番目の場所で、私に一番のものをくれていたのだから。
もうひとつ、奥さんは教えてくれた。
茶の間の籠は、お婆さんが編んだものだった。
目が悪くなってから、手探りで編んだので、縁のところが歪んでいる。
「あれ、お婆さんが寝込むようになってから編んだやつだで」
「猫が、自分の膝に乗れんようになったで、隣に置くもんが要るって」
「編み上がる前に、寝たきりになってしもうたけどね」
「縁のとこ、途中から目が粗いのは、そういうことよ」
私は家に帰って、籠をひっくり返した。
たしかに、底のほうは目が細かく揃っていて、縁に近づくほど、目が大きく歪んでいた。
指でなぞると、途中から、藁の締め方がゆるくなるのが分かる。
その歪んだところに、白い毛が、何本も編み目に噛み込んでいた。
私は、はじめて気がついた。
あの猫は、私が来る前の年の春に、いちばん一緒にいた人をなくしていた。
そして半年、誰も住まない家で、その籠のそばにいた。
私が縁側でしゃがんだとき、逃げなかったのは、人懐こかったからではない。
そういう子どもを、あの猫は、すでに一度やっていたのだ。
※
あの子は、私を慰めていたのではなかった。
同じことを、先にされていた側だったのだ。
左側に座るのも、たぶん、そうだった。
お婆さんは、右手に杖をついていたと、あとで聞いた。
杖のない側に座るように、あの猫は十何年かけて、体で覚えていた。
紙一枚ぶんだけ離して寄せてくるのも、寝込んだ人のそばにいる猫の距離だった。
私は、その全部を、自分のためのものだと思って受け取っていた。
けれど、間違って受け取ったからといって、届いていなかったわけではない。
あの子は、私が泣いた日に、家の中から出てきた。
外に出たがらない子が、長靴の音を聞いて、先に土間へ降りていた。
それだけは、お婆さんのためのものではなかったはずだ。
覚えたやり方を、あの子は、新しい相手にちゃんと使った。
そう考えると、私は、少しだけ息が楽になった。
※
年が明けて、私は夢を見た。
夢の中のあの子は、毛並みが若くて、湖の氷の上に立っていた。
氷は青くて、御神渡りの背が、はるか向こうまで続いていた。
私は「元気になってよかったね」と言った。
あの子は、こちらを見ていた。
それから、少し困ったような顔をした。
「もう行かなくちゃ」
声だった。
猫の口から、はっきり言葉が出た。
私はびっくりして、「しゃべれるの」と訊いた。
あの子は答えずに、氷の上を二歩、離れた。
私は、とっさに呼んだ。
いつもの名前を呼んだ。
「みーちゃん」
あの子が、振り向いた。
※
あの子が私の付けた名前に振り向いたのは、あの夢の、あの一度きりだった。
振り向いて、それから、こう言った。
「ありがとう」
何に対しての、ありがとうなのか、そのときは分からなかった。
あの子は、また二歩離れて、振り向いて、また離れた。
私は「行かないで」と言いながら、追わなかった。
追ってはいけない気がした。
氷の背の向こうで、白い姿が見えなくなるまで、私は立っていた。
※
目が覚めて、私は泣いていた。
けれど、前の泣き方とは、ちがっていた。
ずっとあとになって、私はこう思うようになった。
あの子は、返事をしなかったのではない。
返事をしてしまえば、はつ、という名前で呼んでいた人を、なかったことにしてしまう。
あの子はたぶん、両方を持っていたかったのだ。
だから最後の一度だけ、こちらの名前で振り向いてくれた。
それが、あの「ありがとう」だったのだと思う。
※
あれから三年が経って、私は中学三年になった。
夢はあれきり見ていない。
けれど、寂しくはない。
藁の籠は、いまも茶の間の仏壇の横にある。
母は捨てなかった。
捨てないことにした理由を、母は言わない。
去年の冬、私は父の夜の見回りに、もう一度ついていった。
風の止んだ晩だった。
父は棚を指で弾いて、音を聞いて、「今日はいい」と言った。
「なあ」と、父が急に言った。
「あの猫な、お前が来る前から、ここの棚のあいだをよう歩いとった」
「婆さんが藁かけて回るのに、ずっとついて回っとったで」
私は月の光の下で、その道筋を思い浮かべた。
棚と棚のあいだの、細い土の道。
先に立つのではなく、少し遅れて、左側を歩く白い姿。
「同じことしとっただけかもしれんな」と父は言って、そのあとで付け足した。
「けど、同じことができる相手がおったのは、よかったやろ」
春になると、私はその籠を持って、天日場のはずれまで歩く。
棚の下に、初雪の朝、真っ白なものが二つ並んでいた場所がある。
そこに籠を置いて、しばらく座る。
湖のほうから、氷の鳴る音は、もう聞こえない季節だ。
それでも私は、左側を空けて座る。
紙一枚ぶんだけ、空けて座る。
はつちゃん、と、いちど呼んでみる。
返事はない。
耳だけがこちらを向くことも、もうない。
それでも、呼んだあとの空気が、ほんの少しだけやわらかくなる気がする。
それでいいのだと思う。
あの子には、返してもらった名前が、もうひとつあるのだから。