乗客全員の拍手

公開日: 心温まる話

バスの車内(フリー写真)

今から16年程前、12月も半ばを過ぎた頃の話です。

私は体調を壊し、東京にある中野坂上の病院へ週二回、通院していました。

その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした。

昼頃に病院の診察を終え、バス停からいつものようにバスに乗りました。

バスには空席は無く、私は前方の乗降口の反対側に立っていました。

社内は暖房が効いていて、外の寒さを忘れるほどでした。

間もなくバスは東京医科大学前に着きました。

そこでは多分、病院からの帰りなのでしょう。どっと多くの人が乗り込んで来て、あっという間に満員になってしまいました。

立ち並ぶ人の熱気と暖房とで、先ほどの心地良さは一度に無くなってしまいました。

バスが静かに走り出した時、後方から赤ちゃんの火の点いたような泣き声が聞こえました。

私には見えませんでしたが、ぎゅうぎゅう詰めのバスと人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく、泣く以外に方法が無かったのだと思えました。

泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せ、バスは新宿へ向かい走っていました。

バスが次のバス停に着いた時、何人かが降り始めました。

最後の人が降りる時、後方から、

「待ってください。降ります」

と、若い女の人の声が聞こえました。

その人は立っている人の間を掻き分けるようにしながら、前の方に進んで来ます。

子供の泣き声が段々近付いて来ることで、泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、と分かりました。

そのお母さんが運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと、運転手さんは

「目的地はどこまでですか?」

と聞いています。

その女性は気の毒そうに小さな声で、

「新宿駅まで行きたいのですが、子供が泣くので、ここで降ります」

と答えました。

すると運転手さんは、

「ここから新宿駅まで歩いて行くのは大変です。

目的地まで乗って行ってください」

と、その女性に話しました。

そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと、

「皆さん!この若いお母さんは新宿まで行くのですが、赤ちゃんが泣いていて皆さんにご迷惑が掛かるので、ここで降りると言っています。

子供は小さい時は泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。

どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行って下さい」

と、言いました。

私はどうして良いか分からず、他の方も多分そうだったと思います。

ほんの数秒かが過ぎた時、一人の拍手につられて、バスの乗客全員の拍手が返事となったのです。

若いお母さんは何度も何度も頭を下げていました。

今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンと来ます。

私のとても大切な、心に沁みる思い出です。

関連記事

救急車(フリー写真)

死の淵にいた私を救ってくれた妻

私はあの日、緊急搬送されました。 生まれて初めて救急車に乗りました。 心臓の3分の2は停止していたそうです。 ※ 今から7年前の事を書きます。 私はフィ…

朝焼け空(フリー写真)

自衛隊最大の任務

「若者の代表として、一つだけ言いたいことがあります…」 焼け野原に立つ避難所の一角で、その青年は拡声器を握り締め話し始めた。 真っ赤に泣き腫らした瞳から流れる涙を拭いながら…

ビル

予期せぬ守り神

内定式で初めて彼女と出会った。彼女は私たちの同期だった。 彼女は聡明の代名詞のような人だった。学生時代の論文で賞を受けるほどの才女で、周囲からは期待の新星と見なされていた。 …

兄弟(フリー写真)

最強最高の兄ちゃん

両親は俺が中学2年生の時、交通事故で死んだ。 俺には4つ上の兄と、5つ下の妹が居る。 両親の死後、俺は母方の親戚に、妹は父方に引き取られて、兄は母方の祖父母と住んでいた。 …

手を繋ぐ母と娘(フリー写真)

最高のママ

もう十年も前の話。 妻が他界して一年が経った頃、当時八歳の娘と三歳の息子がいた。 妻がいなくなったことをまだ理解出来ないでいる息子に対し、私はどう接してやれば良いのか、父親…

菜の花畑(フリー写真)

本当の豊かさ

中国のとある大富豪の男性が、自分の息子を田舎の土地に送りました。 裕福な生活を当たり前と思っている息子に、一度『貧しさ』というものを体験してもらい、自分たちの生活がどれだけ幸せな…

クリスマスツリー

サンタさんへ ― 6歳の願いごと

クリスマスの数日前、6歳の娘が、欲しいものを手紙に書いて窓際に置いていました。 ピンクのキティちゃんの便箋が、丁寧に折りたたまれていて。 「何が欲しいのかなぁ」と、私と夫…

町並み

町の片隅に住む五人家族

それは、お父さん、お母さん、そして小学生の三姉妹から成る仲良しの一家だった。 しかし、時は残酷にもその家族の中心であるお母さんを奪ってしまう。 ある日の帰宅途中、悲しい交…

手を繋ぐ(フリー写真)

大事な我が子へ

自分が多少辛くても、腰が痛くても頭が痛くても、子供が元気にしてくれているのが凄く嬉しいの。 元気そうな子供の姿を見たり声を聞いているとね、本当に嬉しいの。 別に感謝してくれ…

丸まるキジトラ猫(フリー写真)

猫のたま

病弱な母がとても猫好きで、母が寝ているベッドの足元にはいつも猫が丸まっていた。 小さな頃は、母の側で寝られる猫が羨ましくて、私も猫を押し退けては母の足元で丸まっていた。 『…