ママの棺

ママの棺

友人の遥の実家は、大和郡山の、金魚の町にあります。

細い水路と養魚池が、家々の間に碁盤の目のように光っている町です。

江戸の頃から金魚を育ててきた町で、いちばん多いときには、日本じゅうの金魚の半分がこの町から出ていったのだと、後でサチエさんに教わりました。

路地を歩くと、あちこちの池から、ぱしゃり、ぱしゃりと水のはねる音がします。

先月、一歳半の息子を連れて、初めてお邪魔しました。

遥は来月、赤ちゃんが生まれます。

大きなお腹で駅まで迎えに来てくれて、動いてええの、と聞くと、歩けて言われとんの、と笑っていました。

夏の初めの、風のよく通る日でした。

玄関を上がると、仏間の縁側から養魚池が見えて、朱色の背中がいくつも、水面のすぐ下を滑っていきました。

ポンプの水音が、家のどこにいても、遠い雨のように聞こえます。

息子は池に向かって、ばいばい、と手を振りました。

挨拶と間違えて覚えているのです。

「湊くん、こんにちはやで」

遥がそう言って笑った声が、水の上をよく通りました。

お昼をご馳走になったあと、息子が急にぐずり始めました。

知らない家で、眠たいのに眠れないのです。

私が抱いても反り返って泣くばかりで、汗ばんだ髪が額に貼り付いていました。

「貸して」

遥が両手を出しました。

臨月近いお腹の横に、息子を上手に抱き寄せて、背中に手のひらを当てます。

遥は、二回叩いて、ひとつ撫でた。

とん、とん、と軽く二つ。

それから、手のひらでゆっくり、ひと撫で。

とん、とん、すう。

とん、とん、すう。

息子の泣き声が、みるみるほどけていきました。

五分も経たないうちに、腕の中で寝息を立て始めたのです。

「魔法みたい」

「なんでやろな。手が勝手に動くんよ」

遥は自分の手のひらを、少し不思議そうに見ていました。

その様子を、部屋の隅から、遥のおばあちゃんがじっと見ていました。

サチエさんという、八十七歳になるおばあちゃんです。

サチエさんは目を細めて、それから、私にお茶を淹れ直してくれました。

氷が、麦茶の中でからんと鳴りました。

仏間には、線香の匂いが薄く残っていました。

仏壇の写真の千鶴さんは、遥とよく似た、目尻の下がる笑い方をしていました。

息子は先ほど、その写真を指さして、ばいばい、と手を振りました。

サチエさんが、はじめまして、やろ、と笑って、それから少しだけ黙りました。

「あの子には、まだちゃんと話してないんですけどな」

眠った息子を布団に下ろした遥が、洗い物に立った間のことでした。

サチエさんは、養魚池のほうを見たまま、ぽつりぽつりと話し始めました。

遥がちょうど、おたくの坊やと同じ、一歳半の頃の話です。

遥の母親は、千鶴さんという人でした。

サチエさんのひとり娘で、婿の誠一さんと一緒に、家の養魚場を手伝っていました。

出荷場で金魚をすくう手が、誰よりも早かったそうです。

朱色の尾が水の中でひらめくのを、追うのではなく、すっと受けるように取る。

せっかちなくせに、生き物の前でだけ気の長い子でしてな、とサチエさんは笑いました。

遥が生まれてからは、腰に遥をくくりつけて池の間を歩きました。

毎朝、池の縁にしゃがんで、ほら、きんとと、と指をさす。

遥が水面を叩こうとすると、あかんあかん、と小さな手を包む。

夜は、遥を胸に乗せて、背中を叩いて寝かしつけました。

とん、とん、と二つ叩いて、ひとつ撫でる。

千鶴さんの、癖でした。

誰に習ったのでもない、手が勝手にそうなるんよ、と本人は言っていたそうです。

朝は遥が先に起きて、千鶴さんの肩を小さな手で叩きます。

「おっき、おっき」

起きて、起きて、です。

千鶴さんは狸寝入りをして、遥がほっぺたを引っ張るのを待ってから、がばりと抱き上げる。

毎朝それで、家じゅうが笑っていたそうです。

遥の一歳の誕生日には、選び取りの代わりに、池の縁に品物を並べました。

そろばんも筆も見向きもせず、遥は迷わず、小さな掬い網に這っていったそうです。

やっぱりこの家の子や、と誠一さんが手を叩いて喜びました。

千鶴さんはその網を、遥の名前を書いて、出荷場の棚にしまいました。

大きうなったら、一緒に池に入るんや、と言いながら。

その網が使われる日は、来ませんでした。

夏の縁日では、金魚すくいの屋台を手伝いました。

破れたポイを持って泣く子には、こっそり一匹おまけする。

そういう人でした。

千鶴さんと遥の写真は、一枚だけ残っています。

屋台の裏で、ポイを持った千鶴さんが、膝の上の遥に頬を寄せている写真です。

仏壇の横に、今も飾ってあります。

誠一さんとの馴れ初めも、金魚でした。

品評会の会場で、誠一さんが賞を取った琉金を、千鶴さんが真顔で三十分眺めていたそうです。

あんまり見るもんやから、売り物やないですよ、て声かけたんが最初やて、と誠一さんは今でも笑って話します。

結婚して、誠一さんが婿に入って、遥が生まれて。

お食い初めの膳には、鯛の代わりに、和菓子屋さんに頼んだ金魚の練り切りが並びました。

この町らしいやろ、と千鶴さんは得意げだったそうです。

近所の子供が池を覗きに来ると、仕事の手を止めて、金魚の名前の由来をひとつずつ教えました。

せっかちなくせに、そういうときだけは、いくらでも時間を使う人でした。

その年の秋、千鶴さんは、背中が痛いと言い出しました。

収穫やら出荷やらで、疲れが出たんやろ、と最初はみんな思っていたそうです。

病院で分かったときには、もう、手の施しようがありませんでした。

ひと月もちますか、と誠一さんが聞いて、お医者さんは、目を伏せたそうです。

入院してからの千鶴さんは、痛みの合間に、遥のことばかり話しました。

「遥、夜泣きしてへん?」

「あんたの叩き方は強すぎるんよ。とん、とん、て、羽で触るみたいにやるの」

サチエさんが寝かしつけの稽古をさせられたのは、後にも先にもこのときだけです。

千鶴さんは、もうひとつだけ、母親に頼みごとをしました。

「遥が泣きやまんときはな、池へ連れてって」

「うちがずっとそうしとったから、あの子、水の音で落ち着くんよ」

「毎朝、きんとと見せたって。うちの代わりに」

分かった、分かったから、そんな話はまだ早い、とサチエさんは遮りました。

千鶴さんは、うん、とだけ言って、窓の外を見たそうです。

病室の窓からは、金魚の池は見えませんでした。

それでも千鶴さんは、よく水の音がする、と言いました。

聞こえるはずのない、家の池の音です。

最後の面会の日、千鶴さんは眠る遥の背中に、点滴の管をつけた手を伸ばしました。

とん、とん、すう。

とん、とん、すう。

細くなった手で、いつもの通りに。

「この子、手ぇがあったかいやろ」

「うちより、ええ手ぇしとる」

サチエさんが、何を言うの、と笑おうとして、笑えなかったそうです。

千鶴さんは、遥の寝顔を、ずいぶん長いこと見ていました。

目に焼き付ける、という顔ではなかったそうです。

明日も明後日も見られる人の顔で、見ていたそうです。

それが、いちばんこたえた、とサチエさんは言いました。

それが、サチエさんが聞いた、娘の最後の軽口になりました。

発病から、ひと月足らずのことでした。

千鶴さんが家に帰ってきた日のことを、サチエさんは昨日のことのように覚えていました。

白い布団に寝かされた千鶴さんの頬に、遥はまず、自分のほっぺたをくっつけました。

それから肩を、小さな手で叩いたのです。

「おっき、おっき」

いつもの朝の遊びです。

狸寝入りの続きだと、思ったのでしょう。

何度叩いても抱き上げてもらえないと分かると、遥は不思議そうに首をかしげました。

そして今度は、千鶴さんの胸に手を置いて、とん、とん、と叩き始めました。

部屋にいた誰もが、息を呑みました。

千鶴さんが毎晩、遥にしていた、あの手つきだったからです。

一歳半の小さな手のひらが、覚えていたのです。

とん、とん、すう。

とん、とん、すう。

ママが眠いんやったら、寝かしたげる。

そう思ったのだと思います。

ひとしきり叩いて撫でて、それから千鶴さんのお腹の上によじ登って、うつぶせのまま、ぺたりと眠ってしまいました。

ラッコの子みたいに。

大人たちは誰も、それを下ろすことができませんでした。

部屋の隅で、誠一さんが声を押し殺して泣いていたそうです。

次の日、お棺の時間が来ました。

千鶴さんを持ち上げようと、大人たちが白い布団を囲んだときです。

遥が、火のついたように泣き出しました。

「マーマ!マーマ!」

囲んだ大人の足を、小さな手で叩いて回りました。

千鶴さんの袖をつかんで、渾身の力で引っ張って、離そうとしません。

一歳半の力とは思えなかった、とサチエさんは言いました。

見かねた親戚が、遥を抱いて外へ連れて行きました。

それでも、庭の向こうから、ママ、ママ、と呼ぶ声が、家の中まで届いていました。

金魚の池の水音より、ずっと大きく聞こえたそうです。

しばらくして、抱かれたまま戻ってきたとき、お棺にはもう、蓋がされていました。

釘も、打たれたあとでした。

遥は親戚の腕から滑り下りると、お棺に取り付きました。

「ママ!ママ!」

泣き叫びながら、蓋を開けようと、小さな爪を立てました。

打たれたばかりの釘を、小さな指で、一生懸命に抜こうとしていました。

誰かがそっと引き離すまで、ずっとです。

指の先が赤くなっていました。

それでもお棺は運ばれて行き、遥は家に残されました。

サチエさんは出棺に付いて行ったので、そのあとのことは、留守番の人から聞いたそうです。

遥は泣いて、泣いて、泣いて、それから急に、ふっと気を失うように眠ってしまいました。

起きたとき、声が、嗄れて出なくなっていました。

そして、それきり、言葉を話さなくなったのです。

葬儀のあと、家はしんとしました。

毎朝の「おっき、おっき」が消えて、ポンプの水音だけが残りました。

あの水音が、あないに寂しい音やて、初めて知りましたわ、とサチエさんは言いました。

誠一さんは、千鶴さんの掬い網を、出荷場の壁から下ろせませんでした。

網は今も、同じ釘に掛かっているそうです。

おっき、も、ママ、も、言わなくなりました。

泣くことも、ほとんどなくなりました。

訳が分からなくなるほど泣いたのは、あの日が最後でした。

心配した誠一さんが、あちこちの病院に連れて行きましたが、どこも悪いところはない、と言われるばかりでした。

遥がひとりで座っていられたのは、池の縁だけでした。

朱色の背中が行き交うのを、何時間でも、黙って見ていました。

雨の日は、傘を持たせても、軒先から池を見ていました。

サチエさんは毎日、その小さな背中の横にしゃがんで、ほら、きんとと、と指をさし続けました。

千鶴さんがしていた通りに。

返事はありません。

それでも、池の縁にいるときの遥は、どこか安心して見えました。

水の音で落ち着くんよ、という千鶴さんの言葉を、サチエさんは毎日思い出していたそうです。

誠一さんは、仕事の合間に何度も遥を抱き上げては、話しかけました。

遥、ごはん食べよか。遥、お風呂入ろか。

返事のない問いかけを、あの人は一度もやめませんでしたな、とサチエさんは言いました。

冬になると、池の面に薄い氷が張ります。

氷の下でじっとしている金魚を、遥は膝を抱えて見ていました。

寝とるんやで、春になったら起きるんやで、とサチエさんが言うと、遥は氷を撫でました。

手袋の上から、そっと、撫でたそうです。

二歳を過ぎた、ある夕方のことでした。

池の縁で、遥が金魚に向かって、ぽつりと言ったのです。

「ねんね」

ねんね、しいや。

眠りなさい、です。

一年ぶりに聞く孫の声に、サチエさんは、池に落ちそうになるほど泣いた、と言いました。

最初に戻ってきた言葉が、ママでも、おっきでもなく、寝かしつけの言葉やったんです、と。

それからの遥は、少しずつ、少しずつ、言葉を取り戻していきました。

三歳で「じいじ」と「ばあば」が言えるようになり、四歳で誰よりもよく喋る子になりました。

小学生になった遥が、一度だけ、お母さんはどんな人やったん、と聞いたことがあるそうです。

サチエさんは、屋台の写真を見せて、金魚をすくうのが町でいちばん早い人やった、と答えました。

遥は、ふうん、と言って、それから写真の千鶴さんの顔を、指でなぞりました。

それきり、母親のことは聞かない子になりました。

聞いたら誰かが悲しむと、子供心に決めたのかもしれません。

高校生になった遥は、親戚じゅうの赤ん坊の子守り係でした。

遥ちゃんに抱かれたらどの子もころっと寝る、と評判で、法事のたびに引っ張りだこでした。

本人は、なんでか知らんけど、と笑っていたそうです。

なんでか、は、誰も言いませんでした。

「今日、坊やを寝かしつけたやり方、見はりましたか」

サチエさんは、そう言って私を見ました。

とん、とん、と二つ叩いて、ひとつ撫でる。

「トントン、として、ひとつ撫でる。千鶴の癖ですわ」

遥は、母親の顔を覚えていません。

写真の顔は知っていても、声も、匂いも、あの朝の狸寝入りも、何ひとつ覚えていないのです。

一歳半でしたから、当たり前です。

それでも、あの手つきだけは、二十一年経った今も、遥の手の中に残っている。

「あの子は覚えとらんのです。けど、あの子の手が覚えとるんです」

最後にたった一度だけ、千鶴さんを寝かしつけた、あの手です。

サチエさんは、エプロンの端で目を押さえました。

「不思議なもんですなあ」

「顔も声も忘れてしもても、手ぇだけは、忘れんのですなあ」

あの日、たった一度だけ母親を寝かしつけた手が、今日は、私の息子を眠らせてくれた。

そう思うと、布団の上の小さな寝息が、急に尊いもののように見えました。

私は、何も言えませんでした。

布団の上の息子の寝息と、池のポンプの音だけが、部屋に響いていました。

台所からは、遥の鼻歌が聞こえていました。

帰り際、遥は駅まで送ってくれました。

夕方の水路に、朱色がちらちらと揺れていました。

改札の前で、遥はふと立ち止まって、自分のお腹に手を当てました。

「最近な、ようけ蹴るんよ」

そう言って、大きなお腹を、そっと叩いたのです。

とん、とん、すう。

とん、とん、すう。

二回叩いて、ひとつ撫でる、あの手つきでした。

「はよ出ておいで、て言うとんの」

改札の向こうで、夕日が水路を金色にしていました。

眠った息子の重みが、腕の中で少しずつ増していくようでした。

遥は笑っていました。

私は泣きそうになるのを、息子の帽子を直すふりで、ごまかしました。

あの手つきが誰のものか、遥はまだ知りません。

いつかサチエさんが話す日まで、私も黙っていようと思います。

けれど、これだけは確かなのです。

遥のお腹の子は、生まれる前から、おばあちゃんの手で寝かしつけられている。

あれから二十一年。

遥は来月、ママになります。

予定日を聞いたら、千鶴さんの誕生日と、三日違いでした。

偶然です。

偶然ですけれど、サチエさんは、あの子が急かしとるんやわ、と言って笑っていました。

あの手はきっと、誰よりも上手に、その子を眠らせてあげるのだと思います。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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