
友人の遥の実家は、大和郡山の、金魚の町にあります。
細い水路と養魚池が、家々の間に碁盤の目のように光っている町です。
江戸の頃から金魚を育ててきた町で、いちばん多いときには、日本じゅうの金魚の半分がこの町から出ていったのだと、後でサチエさんに教わりました。
路地を歩くと、あちこちの池から、ぱしゃり、ぱしゃりと水のはねる音がします。
先月、一歳半の息子を連れて、初めてお邪魔しました。
遥は来月、赤ちゃんが生まれます。
大きなお腹で駅まで迎えに来てくれて、動いてええの、と聞くと、歩けて言われとんの、と笑っていました。
夏の初めの、風のよく通る日でした。
玄関を上がると、仏間の縁側から養魚池が見えて、朱色の背中がいくつも、水面のすぐ下を滑っていきました。
ポンプの水音が、家のどこにいても、遠い雨のように聞こえます。
息子は池に向かって、ばいばい、と手を振りました。
挨拶と間違えて覚えているのです。
「湊くん、こんにちはやで」
遥がそう言って笑った声が、水の上をよく通りました。
※
お昼をご馳走になったあと、息子が急にぐずり始めました。
知らない家で、眠たいのに眠れないのです。
私が抱いても反り返って泣くばかりで、汗ばんだ髪が額に貼り付いていました。
「貸して」
遥が両手を出しました。
臨月近いお腹の横に、息子を上手に抱き寄せて、背中に手のひらを当てます。
遥は、二回叩いて、ひとつ撫でた。
とん、とん、と軽く二つ。
それから、手のひらでゆっくり、ひと撫で。
とん、とん、すう。
とん、とん、すう。
息子の泣き声が、みるみるほどけていきました。
五分も経たないうちに、腕の中で寝息を立て始めたのです。
「魔法みたい」
「なんでやろな。手が勝手に動くんよ」
遥は自分の手のひらを、少し不思議そうに見ていました。
その様子を、部屋の隅から、遥のおばあちゃんがじっと見ていました。
サチエさんという、八十七歳になるおばあちゃんです。
サチエさんは目を細めて、それから、私にお茶を淹れ直してくれました。
氷が、麦茶の中でからんと鳴りました。
仏間には、線香の匂いが薄く残っていました。
仏壇の写真の千鶴さんは、遥とよく似た、目尻の下がる笑い方をしていました。
息子は先ほど、その写真を指さして、ばいばい、と手を振りました。
サチエさんが、はじめまして、やろ、と笑って、それから少しだけ黙りました。
「あの子には、まだちゃんと話してないんですけどな」
眠った息子を布団に下ろした遥が、洗い物に立った間のことでした。
サチエさんは、養魚池のほうを見たまま、ぽつりぽつりと話し始めました。
遥がちょうど、おたくの坊やと同じ、一歳半の頃の話です。
※
遥の母親は、千鶴さんという人でした。
サチエさんのひとり娘で、婿の誠一さんと一緒に、家の養魚場を手伝っていました。
出荷場で金魚をすくう手が、誰よりも早かったそうです。
朱色の尾が水の中でひらめくのを、追うのではなく、すっと受けるように取る。
せっかちなくせに、生き物の前でだけ気の長い子でしてな、とサチエさんは笑いました。
遥が生まれてからは、腰に遥をくくりつけて池の間を歩きました。
毎朝、池の縁にしゃがんで、ほら、きんとと、と指をさす。
遥が水面を叩こうとすると、あかんあかん、と小さな手を包む。
夜は、遥を胸に乗せて、背中を叩いて寝かしつけました。
とん、とん、と二つ叩いて、ひとつ撫でる。
千鶴さんの、癖でした。
誰に習ったのでもない、手が勝手にそうなるんよ、と本人は言っていたそうです。
朝は遥が先に起きて、千鶴さんの肩を小さな手で叩きます。
「おっき、おっき」
起きて、起きて、です。
千鶴さんは狸寝入りをして、遥がほっぺたを引っ張るのを待ってから、がばりと抱き上げる。
毎朝それで、家じゅうが笑っていたそうです。
遥の一歳の誕生日には、選び取りの代わりに、池の縁に品物を並べました。
そろばんも筆も見向きもせず、遥は迷わず、小さな掬い網に這っていったそうです。
やっぱりこの家の子や、と誠一さんが手を叩いて喜びました。
千鶴さんはその網を、遥の名前を書いて、出荷場の棚にしまいました。
大きうなったら、一緒に池に入るんや、と言いながら。
その網が使われる日は、来ませんでした。
夏の縁日では、金魚すくいの屋台を手伝いました。
破れたポイを持って泣く子には、こっそり一匹おまけする。
そういう人でした。
千鶴さんと遥の写真は、一枚だけ残っています。
屋台の裏で、ポイを持った千鶴さんが、膝の上の遥に頬を寄せている写真です。
仏壇の横に、今も飾ってあります。
誠一さんとの馴れ初めも、金魚でした。
品評会の会場で、誠一さんが賞を取った琉金を、千鶴さんが真顔で三十分眺めていたそうです。
あんまり見るもんやから、売り物やないですよ、て声かけたんが最初やて、と誠一さんは今でも笑って話します。
結婚して、誠一さんが婿に入って、遥が生まれて。
お食い初めの膳には、鯛の代わりに、和菓子屋さんに頼んだ金魚の練り切りが並びました。
この町らしいやろ、と千鶴さんは得意げだったそうです。
近所の子供が池を覗きに来ると、仕事の手を止めて、金魚の名前の由来をひとつずつ教えました。
せっかちなくせに、そういうときだけは、いくらでも時間を使う人でした。
※
その年の秋、千鶴さんは、背中が痛いと言い出しました。
収穫やら出荷やらで、疲れが出たんやろ、と最初はみんな思っていたそうです。
病院で分かったときには、もう、手の施しようがありませんでした。
ひと月もちますか、と誠一さんが聞いて、お医者さんは、目を伏せたそうです。
入院してからの千鶴さんは、痛みの合間に、遥のことばかり話しました。
「遥、夜泣きしてへん?」
「あんたの叩き方は強すぎるんよ。とん、とん、て、羽で触るみたいにやるの」
サチエさんが寝かしつけの稽古をさせられたのは、後にも先にもこのときだけです。
千鶴さんは、もうひとつだけ、母親に頼みごとをしました。
「遥が泣きやまんときはな、池へ連れてって」
「うちがずっとそうしとったから、あの子、水の音で落ち着くんよ」
「毎朝、きんとと見せたって。うちの代わりに」
分かった、分かったから、そんな話はまだ早い、とサチエさんは遮りました。
千鶴さんは、うん、とだけ言って、窓の外を見たそうです。
病室の窓からは、金魚の池は見えませんでした。
それでも千鶴さんは、よく水の音がする、と言いました。
聞こえるはずのない、家の池の音です。
最後の面会の日、千鶴さんは眠る遥の背中に、点滴の管をつけた手を伸ばしました。
とん、とん、すう。
とん、とん、すう。
細くなった手で、いつもの通りに。
「この子、手ぇがあったかいやろ」
「うちより、ええ手ぇしとる」
サチエさんが、何を言うの、と笑おうとして、笑えなかったそうです。
千鶴さんは、遥の寝顔を、ずいぶん長いこと見ていました。
目に焼き付ける、という顔ではなかったそうです。
明日も明後日も見られる人の顔で、見ていたそうです。
それが、いちばんこたえた、とサチエさんは言いました。
それが、サチエさんが聞いた、娘の最後の軽口になりました。
発病から、ひと月足らずのことでした。
※
千鶴さんが家に帰ってきた日のことを、サチエさんは昨日のことのように覚えていました。
白い布団に寝かされた千鶴さんの頬に、遥はまず、自分のほっぺたをくっつけました。
それから肩を、小さな手で叩いたのです。
「おっき、おっき」
いつもの朝の遊びです。
狸寝入りの続きだと、思ったのでしょう。
何度叩いても抱き上げてもらえないと分かると、遥は不思議そうに首をかしげました。
そして今度は、千鶴さんの胸に手を置いて、とん、とん、と叩き始めました。
部屋にいた誰もが、息を呑みました。
千鶴さんが毎晩、遥にしていた、あの手つきだったからです。
一歳半の小さな手のひらが、覚えていたのです。
とん、とん、すう。
とん、とん、すう。
ママが眠いんやったら、寝かしたげる。
そう思ったのだと思います。
ひとしきり叩いて撫でて、それから千鶴さんのお腹の上によじ登って、うつぶせのまま、ぺたりと眠ってしまいました。
ラッコの子みたいに。
大人たちは誰も、それを下ろすことができませんでした。
部屋の隅で、誠一さんが声を押し殺して泣いていたそうです。
※
次の日、お棺の時間が来ました。
千鶴さんを持ち上げようと、大人たちが白い布団を囲んだときです。
遥が、火のついたように泣き出しました。
「マーマ!マーマ!」
囲んだ大人の足を、小さな手で叩いて回りました。
千鶴さんの袖をつかんで、渾身の力で引っ張って、離そうとしません。
一歳半の力とは思えなかった、とサチエさんは言いました。
見かねた親戚が、遥を抱いて外へ連れて行きました。
それでも、庭の向こうから、ママ、ママ、と呼ぶ声が、家の中まで届いていました。
金魚の池の水音より、ずっと大きく聞こえたそうです。
※
しばらくして、抱かれたまま戻ってきたとき、お棺にはもう、蓋がされていました。
釘も、打たれたあとでした。
遥は親戚の腕から滑り下りると、お棺に取り付きました。
「ママ!ママ!」
泣き叫びながら、蓋を開けようと、小さな爪を立てました。
打たれたばかりの釘を、小さな指で、一生懸命に抜こうとしていました。
誰かがそっと引き離すまで、ずっとです。
指の先が赤くなっていました。
それでもお棺は運ばれて行き、遥は家に残されました。
サチエさんは出棺に付いて行ったので、そのあとのことは、留守番の人から聞いたそうです。
遥は泣いて、泣いて、泣いて、それから急に、ふっと気を失うように眠ってしまいました。
起きたとき、声が、嗄れて出なくなっていました。
そして、それきり、言葉を話さなくなったのです。
葬儀のあと、家はしんとしました。
毎朝の「おっき、おっき」が消えて、ポンプの水音だけが残りました。
あの水音が、あないに寂しい音やて、初めて知りましたわ、とサチエさんは言いました。
誠一さんは、千鶴さんの掬い網を、出荷場の壁から下ろせませんでした。
網は今も、同じ釘に掛かっているそうです。
※
おっき、も、ママ、も、言わなくなりました。
泣くことも、ほとんどなくなりました。
訳が分からなくなるほど泣いたのは、あの日が最後でした。
心配した誠一さんが、あちこちの病院に連れて行きましたが、どこも悪いところはない、と言われるばかりでした。
遥がひとりで座っていられたのは、池の縁だけでした。
朱色の背中が行き交うのを、何時間でも、黙って見ていました。
雨の日は、傘を持たせても、軒先から池を見ていました。
サチエさんは毎日、その小さな背中の横にしゃがんで、ほら、きんとと、と指をさし続けました。
千鶴さんがしていた通りに。
返事はありません。
それでも、池の縁にいるときの遥は、どこか安心して見えました。
水の音で落ち着くんよ、という千鶴さんの言葉を、サチエさんは毎日思い出していたそうです。
誠一さんは、仕事の合間に何度も遥を抱き上げては、話しかけました。
遥、ごはん食べよか。遥、お風呂入ろか。
返事のない問いかけを、あの人は一度もやめませんでしたな、とサチエさんは言いました。
冬になると、池の面に薄い氷が張ります。
氷の下でじっとしている金魚を、遥は膝を抱えて見ていました。
寝とるんやで、春になったら起きるんやで、とサチエさんが言うと、遥は氷を撫でました。
手袋の上から、そっと、撫でたそうです。
二歳を過ぎた、ある夕方のことでした。
池の縁で、遥が金魚に向かって、ぽつりと言ったのです。
「ねんね」
ねんね、しいや。
眠りなさい、です。
一年ぶりに聞く孫の声に、サチエさんは、池に落ちそうになるほど泣いた、と言いました。
最初に戻ってきた言葉が、ママでも、おっきでもなく、寝かしつけの言葉やったんです、と。
それからの遥は、少しずつ、少しずつ、言葉を取り戻していきました。
三歳で「じいじ」と「ばあば」が言えるようになり、四歳で誰よりもよく喋る子になりました。
小学生になった遥が、一度だけ、お母さんはどんな人やったん、と聞いたことがあるそうです。
サチエさんは、屋台の写真を見せて、金魚をすくうのが町でいちばん早い人やった、と答えました。
遥は、ふうん、と言って、それから写真の千鶴さんの顔を、指でなぞりました。
それきり、母親のことは聞かない子になりました。
聞いたら誰かが悲しむと、子供心に決めたのかもしれません。
高校生になった遥は、親戚じゅうの赤ん坊の子守り係でした。
遥ちゃんに抱かれたらどの子もころっと寝る、と評判で、法事のたびに引っ張りだこでした。
本人は、なんでか知らんけど、と笑っていたそうです。
なんでか、は、誰も言いませんでした。
※
「今日、坊やを寝かしつけたやり方、見はりましたか」
サチエさんは、そう言って私を見ました。
とん、とん、と二つ叩いて、ひとつ撫でる。
「トントン、として、ひとつ撫でる。千鶴の癖ですわ」
遥は、母親の顔を覚えていません。
写真の顔は知っていても、声も、匂いも、あの朝の狸寝入りも、何ひとつ覚えていないのです。
一歳半でしたから、当たり前です。
それでも、あの手つきだけは、二十一年経った今も、遥の手の中に残っている。
「あの子は覚えとらんのです。けど、あの子の手が覚えとるんです」
最後にたった一度だけ、千鶴さんを寝かしつけた、あの手です。
サチエさんは、エプロンの端で目を押さえました。
「不思議なもんですなあ」
「顔も声も忘れてしもても、手ぇだけは、忘れんのですなあ」
あの日、たった一度だけ母親を寝かしつけた手が、今日は、私の息子を眠らせてくれた。
そう思うと、布団の上の小さな寝息が、急に尊いもののように見えました。
私は、何も言えませんでした。
布団の上の息子の寝息と、池のポンプの音だけが、部屋に響いていました。
台所からは、遥の鼻歌が聞こえていました。
※
帰り際、遥は駅まで送ってくれました。
夕方の水路に、朱色がちらちらと揺れていました。
改札の前で、遥はふと立ち止まって、自分のお腹に手を当てました。
「最近な、ようけ蹴るんよ」
そう言って、大きなお腹を、そっと叩いたのです。
とん、とん、すう。
とん、とん、すう。
二回叩いて、ひとつ撫でる、あの手つきでした。
「はよ出ておいで、て言うとんの」
改札の向こうで、夕日が水路を金色にしていました。
眠った息子の重みが、腕の中で少しずつ増していくようでした。
遥は笑っていました。
私は泣きそうになるのを、息子の帽子を直すふりで、ごまかしました。
あの手つきが誰のものか、遥はまだ知りません。
いつかサチエさんが話す日まで、私も黙っていようと思います。
けれど、これだけは確かなのです。
遥のお腹の子は、生まれる前から、おばあちゃんの手で寝かしつけられている。
あれから二十一年。
遥は来月、ママになります。
予定日を聞いたら、千鶴さんの誕生日と、三日違いでした。
偶然です。
偶然ですけれど、サチエさんは、あの子が急かしとるんやわ、と言って笑っていました。
あの手はきっと、誰よりも上手に、その子を眠らせてあげるのだと思います。