母は缶の縁で量っていた

母は缶の縁で量っていた

四日市の塩浜にあった社宅の台所は、大人二人が並ぶともう動けない広さでした。

父は石油化学の工場で、四直三交代の勤務でした。

母はスーパーの惣菜売り場に、私が小学校に上がった年から出ていました。

夜になると、窓の向こうにコンビナートの灯りが並びます。

あの灯りを見ながら食べたミートソースの味を、私は四十年たっても忘れられません。

母のミートソースのこと

母のミートソースは、家族全員の好物でした。

凝ったものではありません。

ベースは缶詰でした。

それは子どもの私にも分かっていました。

台所のごみ箱に、いつも同じ缶が入っていたからです。

けれど、缶のままの味ではありませんでした。

よその家で同じ缶を使ったものを食べたことがあります。

まったく違いました。

何が違うのか、当時の私には言葉になりませんでした。

いま言うなら、母のほうが、少しだけ後を引くのです。

食べ終わって皿を置いたあとに、まだ口の奥に何かが残っている。

その残り方が、家の味でした。

缶の内側を、二度こそげる

母には、ミートソースを作るときの癖がありました。

母は、缶を開けたあと、缶の内側を、スプーンの背で必ず二度こそげました。

上から下へ、ぐるりと一周。

それを二度です。

三度はやりません。

一度でもありません。

私はそれを、貧乏くさい癖だと思っていました。

中学生のころ、生意気にも口に出したことがあります。

「そんなん、もったいながらんでもええやん」

母は手を止めずに答えました。

「あんたが大きなったら分かるわ」

そういう言い方をされると、子どもは黙るしかありません。

その日から、私は缶を見るのをやめました。

見ていれば、いつか自分で気づけたかもしれないのに。

惣菜売り場の母

母が働いていたのは、社宅から自転車で十分ほどのスーパーでした。

惣菜売り場の、揚げ物と煮物の担当です。

私は中学生のころ、部活の帰りに何度か寄りました。

ガラスの向こうで、母は白い帽子をかぶって立っていました。

家にいるときより、背が高く見えました。

あるとき、閉店前の値引きシールを貼る場面に居合わせたことがあります。

母は、売れ残ったコロッケを一つずつ手に取って、形の崩れたものを先に下げていました。

「そっちのほうが安なるやん」

私が言うと、母は貼る手を止めずに答えました。

「形の悪いのから食べてもらうほうが、みんな損せんの」

意味が分かったのは、ずいぶんあとのことです。

崩れたものを最後に残せば、それは誰にも選ばれずに廃棄されます。

母はいつも、余るほうから先に減らす人でした。

同僚の方から、母の亡くなったあとに聞いた話があります。

母は、配合を一切書かなかったそうです。

新人が来ると、味見をさせて、手のひらに塩を出して見せる。

それだけで教えていたと言うのです。

「あの人は、量る人やのうて、覚えさせる人やった」

その言葉を聞いたとき、私は缶の話をまだ知りませんでした。

母がいなくなった夏

母が急性の血液の病気で入院したのは、私が二十六の夏でした。

見つかってから、三ヶ月でした。

あっけない、という言葉を、私はあの年に覚えました。

病院で、母は仕事の心配ばかりしていました。

惣菜売り場の煮物の配合を、看護師さんに書き取ってもらおうとしていました。

自分の家の味のことは、一度も言いませんでした。

私も訊きませんでした。

訊けば、終わりの話をすることになる気がしたのです。

レシピを聞かないまま、母はいなくなりました。

ノートの類は、探しても出てきませんでした。

母は、書かない人だったのです。

惣菜売り場でも、配合はすべて頭に入っていたと、あとで同僚の方に聞きました。

父の弁当箱

父の弁当箱は、深さのある古いアルミのものでした。

交代勤務ですから、朝に持って出る日もあれば、夕方に持って出る日もあります。

母は、そのたびに詰めていました。

夜勤の日は、前の晩のうちに作って、冷蔵庫に入れておきます。

弁当には、必ず福神漬けが入っていました。

父が好きだったからです。

仕切りもせず、白米の端に直接のせるので、ごはんに色が移りました。

私はそれが子どもの目に汚く見えて、一度文句を言ったことがあります。

「色ついてるやん、きたない」

母は、笑って言いました。

「お父さん、これがええんやて」

洗うのも母でした。

父が帰ってくると、弁当箱はまず流しに置かれます。

母は蓋を外して、底に残った汁をゆすいでから洗っていました。

いえ、ゆすぐ前に、何かをしていたのです。

私はそれを、何百回も見ていたはずでした。

見ていて、何も見ていませんでした。

あの小瓶が段ボールの底から出てきたとき、私はその流しの音を思い出しました。

母は、汁を捨てる前に、いつも一度、瓶の口を弁当箱の角に当てていたのです。

工場に食堂ができたのは、私が高校に上がった年でした。

父は弁当をやめました。

母は何も言いませんでした。

けれど、月に一度だけ、父は弁当を頼んでいたそうです。

その日が何の日だったのかは、父も教えてくれませんでした。

「たまには、な」

それだけでした。

三年たって、父が言った

父が言い出したのは、三年後の秋でした。

弟が結婚して、家に集まった晩です。

父は缶ビールを一本だけ飲んで、テレビを見ていました。

そして、誰にともなく言いました。

「あのミートソース、食いたいな」

私と弟は、顔を見合わせました。

父がその手の希望を口にしたのは、母が亡くなってから初めてでした。

弟が「作ろか」と言いました。

私も、それしか言いようがありませんでした。

その晩から、私たちの四日間が始まりました。

一日目、何を足しても違う

まずベースの缶を探しました。

記憶にある黄色い缶は、近所のスーパーにありませんでした。

弟が三軒回って、ようやく一軒で見つけました。

棚の一番下の、埃をかぶった場所です。

赤ワイン、バター、ケチャップ、砂糖、ウスターソース。

思いつくものを片端から足しました。

赤ワインを入れたときは、二人で「これや」と言い合いました。

しかし翌日、冷めたものを食べたら、まるで違いました。

母のは、冷めても後を引いたのです。

一日目の結論は、それだけでした。

二日目、三食がスパゲッティになった

二日目は、弟の嫁さんが呆れた顔をしていました。

鍋が三つ並んで、台所が油の匂いでいっぱいでした。

朝も昼も夜も、スパゲッティです。

父は文句ひとつ言わずに、全部食べました。

「これも違う」

そればかり言いながら、皿だけは毎回きれいにしていました。

夜、弟が言いました。

「兄貴、母ちゃん、量ってなかったよな」

言われて、私も思い出しました。

計量スプーンを使っている母を、一度も見たことがありません。

塩も砂糖も、指と手のひらでした。

では、あの安定した味は、どうやって出していたのか。

その晩、私は初めてそのことを不思議に思いました。

三日目、父が黙った

三日目、私たちは味の方向を変えました。

酸味を足す方向と、甘みを足す方向で、二つの鍋を作りました。

父はどちらも食べて、首を横に振りました。

そして、皿を洗いながら、長いあいだ黙っていました。

私は、そのときの父の背中を覚えています。

この人は、味を知っているのに教えないのではないか。

そう疑ったのは、あの晩が最初で最後でした。

父は洗い終わって、手を拭いて、こう言っただけでした。

「明日、押入れ開けるわ」

それがどういう意味なのか、私たちには分かりませんでした。

押入れの段ボール

四日目の朝、父は和室の押入れの上段から、段ボールを一箱下ろしました。

重い箱でした。

開けると、あの黄色い缶が並んでいました。

三十六缶です。

私たちが買ってきたものと、缶のデザインが違いました。

弟が裏を見て、声を出しました。

「兄貴、これ、四日市の会社のやつや」

社宅の購買にだけ入っていた、地元の缶詰会社のものでした。

その会社は、私が三十になる少し前に工場を閉めています。

いま棚にある同じ名前の缶は、別の会社が権利を買って作っているものでした。

味は、似ていて、違うのです。

父が段ボールを買ったのは、母の葬式の帰りでした。

礼服のまま、購買の残りを全部引き取ってきたのだと言いました。

三年間、押入れに置いてありました。

なぜ言わなかったのかと訊くと、父は缶を布巾で拭きながら答えました。

「言うたら、おまえら、缶探しでやめてまうやろ」

私たちが自分で気づくまで、待っていたのです。

それから、父はこうも言いました。

「今年で、期限や」

「食いたいな」と言い出した理由が、そこで分かりました。

四日目の朝、私は久しぶりに早く目が覚めました。

台所に行くと、父がもう起きていて、缶を並べていました。

三十六缶のうち、使うのは一缶だけです。

それでも父は、全部を布巾で拭いていました。

「どれ使うても同じやろ」

私が言うと、父は手を止めずに答えました。

「同じやから、拭くんや」

母の癖が、この人にも移っていたのだと、そのとき気づきました。

缶の縁に残っていた印

その缶を開けたのは、弟でした。

そして、中身を鍋に移したあと、手が止まりました。

弟が、缶の内側を指でなぞりました。

「兄貴、これ、傷ついとる」

内側の側面に、うっすらと擦れた跡が二本、平行に残っていました。

開けたばかりの新しい缶ではありません。

流しの下に置いてあった、母が最後に使った空き缶のほうです。

父が捨てずに、洗って重ねてありました。

二度こそげていたのは、もったいないからではありませんでした。

母は、こそげたあとに缶の内側へ残る量で、その日の分量を決めていたのです。

スプーンの背で二度なぞったときに壁に残る厚み。

それが、母にとっての計量スプーンでした。

だから母は、量らなくても、毎回同じ味を出せたのです。

擦れた跡の高さは、缶の底から指一本ぶんのところで止まっていました。

私たちは、その高さに合わせて水分を戻しました。

購買のおばさんが覚えていたこと

缶のことを、私はもう少し知りたくなりました。

社宅の購買を長くやっていた方が、いまも四日市におられると聞いて、会いに行きました。

八十を過ぎた方でした。

名前を言うと、すぐに母のことを思い出してくれました。

「あの缶な、月に六つやったわ」

母は、月初に必ず六つ買っていったのだそうです。

多い月も少ない月もなく、六つ。

品切れの月は、入るまで待って、まとめて六つ持って帰った。

「よその奥さんは、安い日にどっさり買うんやけどな」

母は、それをしませんでした。

理由は、いまなら分かります。

缶は、古くなると中身の水分が少しずつ変わります。

同じ缶でも、置いた期間が違えば、こそげたときに壁に残る厚みが変わるのです。

母は、いつも同じくらいの新しさの缶を使いたかったのだと思います。

量る道具を持たない人が、道具の代わりに条件のほうを揃えていたのでした。

「損得の下手な人やった」

おばさんはそう言って笑いましたが、私はそうは思いません。

あの人は、いちばん面倒なやり方で、いちばん確かなものを守っていたのです。

小瓶の中身

それでも、まだ一つ足りませんでした。

段ボールの底に、小さな瓶が一本入っていました。

ラベルはありません。

中身は、うすい茶色の汁でした。

父が言いました。

「福神漬けや」

母は、父の弁当箱を洗うときに、底に残る福神漬けの汁を、この瓶に取っていたのだそうです。

捨てるのがもったいないから、ではありません。

それを入れると味が落ち着くと、母は父にだけ話していました。

私は、そこで一つ思い出したことがあります。

私が高校に上がった年から、味がほんの少し変わったのです。

角が取れて、代わりに後を引く感じが弱くなりました。

あの年、工場に食堂ができて、父は弁当を持って行かなくなりました。

弟も同じことを感じていたと言いました。

二人とも、母には言えませんでした。

言えば、母がまた仕事を増やすと分かっていたからです。

結局、私たちは、気づいていたのに黙っていた側でした。

食べ終わるまで、誰も喋らなかった

四日目の夜、四人で食べました。

私と弟と、弟の嫁さんと、父です。

一口目、弟が叫びました。

「これや。これやんか」

私も同じことを言いました。

嫁さんが、少し笑っていました。

けれど、二口目から、誰も何も言わなくなりました。

フォークの音だけがしていました。

食べ終わる頃には、四人とも泣いていました。

泣きながら食べるものではないと分かっていても、止まりませんでした。

父だけが、途中で席を立ちました。

台所で水を出して、しばらく戻ってきませんでした。

冷凍庫には、母が最後に作った鍋の残りが、まだ入っていました。

父は、あの晩それを出しませんでした。

電気代を一円単位で気にする人が、あの冷凍庫だけは十年、買い替えませんでした。

「これは、まだええ」

そう言って、扉を閉めました。

私は、その背中に何も言えませんでした。

冷凍庫の扉を、父はもう一度開けた

父が亡くなる半年前のことです。

施設に入る話が出て、私は社宅から移した実家の荷物を整理していました。

あの冷凍庫は、まだ台所の隅にありました。

音がうるさく、扉のパッキンは硬くなっていました。

父は椅子に座って、私が作業するのを見ていました。

「捨てるで」

私が言うと、父はうなずきました。

それから、立ち上がって、自分で扉を開けました。

奥から出てきたのは、霜のついた小さな保存容器でした。

中身は、もう何色とも言えない色でした。

父は、それを流しに置きました。

そして、水を細く出したまま、しばらく黙っていました。

解けるのを待っているのだと、私は思いました。

けれど父は、解けきる前に、蓋を閉めてごみ袋に入れました。

「十七年、置いといたわ」

数えていたのだと知って、私は台所を出ました。

あとで父は、こう言いました。

「あれはな、食うために取っといたんと違う」

「作った人がおったいう、証拠や」

証拠という言い方が、いかにも工場の人間らしくて、私は少し笑ってしまいました。

笑いながら、目のふちが熱くなりました。

父にとって、あの四日間は、その証拠を私たちに渡すための四日間だったのだと思います。

渡し終えたから、扉を開けられたのでしょう。

いまも、命日には作ります

あれから二十年近くたちました。

父も、五年前にいなくなりました。

段ボールの缶は、とうに使い切っています。

いまは、いまの缶で作ります。

それでも、缶の内側は必ず二度こそげます。

擦れた跡の高さも、体が覚えました。

うちの娘は、ミートソースが好きではありません。

スパゲッティならナポリタンがいいと言います。

それでいいと思っています。

味は継がなくていい。

量り方だけ、いつか渡せたらと思っています。

台所に残る小さな習慣については、母が欠けさせなかった茶碗という話にも書きました。

誰かの代わりに献立を読み上げた日のことを綴った先生の代わりに読んだ献立も、あわせて読んでいただけたら嬉しいです。

毎年、母の命日には、四人ぶん作ります。

三人で食べて、一皿は残します。

残した皿は、翌朝、私が冷めたまま食べます。

冷めても後を引く味かどうか、それだけを確かめています。

この話が、どなたかの台所を少しあたたかくできたなら幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

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