詰め替えられていた遠足のおやつ

詰め替えられていた遠足のおやつ

あの朝、リュックの中身が入れ替わっていました

あの朝、リュックの口を開けたとき、中身がそっくり入れ替わっていました。

前の晩、私が自分で詰めたのは、戸棚に残っていた食べかけの茶菓子でした。

湿気た瓦せんべい。硬くなった落雁。半分だけ残った小袋のあられ。

それが、朝には、オマケのついた菓子と、小さな板チョコと、色とりどりの袋に変わっていたのです。

私は小学四年生で、母が入院していました。

※

焼津の焙乾場と、父の手の匂い

父は、静岡の焼津で、かつお節を作る工場に勤めていました。

焙乾といって、蒸した鰹を、薪の煙で何日もかけて燻す工程です。

楢や樫を燃やした煙の中に、鰹を並べた棚を入れて、水分を抜いていきます。一日で終わりません。日を置いて、何度も繰り返します。

父の仕事着は、洗っても匂いが落ちませんでした。

手も、そうです。爪のあいだまで、燻された木の匂いが染みていました。

私はその匂いが、子どもの頃はあまり好きではありませんでした。

参観日に父が来たとき、後ろの席の子が鼻をひくつかせたことがあります。父は次の年から、参観日に来なくなりました。理由は言いませんでした。

※

焙乾場は、四畳半ほどの小屋がいくつも並んだような造りでした。

下で薪を焚き、上の棚に鰹を並べます。父は「せいろ」と呼んでいました。

薪は、楢と樫と、少しの椎です。松は脂が強いので使いません。煙の質が変わると、節の香りが変わってしまうからです。

一番火から入れて、日を置いて、また入れて。それを十回以上繰り返します。ひと月かかることもありました。

「途中でやめたら、どうなるん」

と訊いたことがあります。

「中に水が残る。あとで、割れる」

父は、そういう言い方をする人でした。理由を先に言わず、結果だけを言う。

工場の班長だった佐野さんという人が、あとで教えてくれました。父は、火加減を見るのがうまかったのだそうです。

「煙の色を見んのよ、あんたのお父さんは。温度計より当たった」

※

父は、重いものを下に、平たいものを立てて入れる人でした

父には、荷物の詰め方に、はっきりした癖がありました。

父は、何を詰めるときも、重いものを下に、平たいものを立てて入れる人でした。

旅行の鞄でも、正月の重箱の風呂敷でも、そうでした。

「そんなん、どっちでもええやん」

と私が言うと、父は、

「崩れると、いっぺんに全部だめになる」

と言いました。

そのときは、意味がよくわかりませんでした。

※

母が入院していた春

母は、その年の三月から入院していました。手術の日、父は工場を休みました。休んだのは、私の記憶ではその一日だけです。

胆嚢の手術で、はじめは二週間の予定でした。それが、傷の治りが悪くて、ひと月半になりました。

私は一人でも留守番ができる歳でしたが、買い物には行けませんでした。焼津駅の向こうの商店街まで、子どもの足では遠すぎたのです。

その頃の焼津には、二十四時間開いている店など、ありませんでした。

覚えているのは、夕方になると台所が暗いことです。母がいると、いつのまにか電気が点いていました。

私は、自分で点けるという発想がなくて、しばらく薄暗いところで宿題をしていました。

※

母の病室で

母の病院は、焼津の港のほうにありました。バスで二十分かかります。

週に二度、父が連れて行ってくれました。工場を早く上がる日です。

四人部屋の窓際が母のベッドでした。カーテンの向こうから、ずっとラジオの野球中継が聞こえていました。

母は、私の顔を見ると、必ず同じことを訊きました。

「ごはん、食べとる?」

「食べとる」

「お父さん、何作ってくれる?」

私は少し考えて、

「卵」

と答えました。実際、そればかりでした。

母は笑って、それから父のほうを見ました。父は窓の外を見ていました。

「あんた、ちょっとは魚焼きなさいよ。焼津におって」

「焼いとる」

「焦がしとるだけやろ」

そのやりとりが、私はなぜか好きでした。母が入院してから、家の中で誰かが誰かをからかう声を、聞かなくなっていたからです。

帰りのバスで、父は一度も口をききませんでした。

窓に映った父の顔が、ひどく年寄りに見えたのを覚えています。父はそのとき、まだ三十九でした。

※

遠足の前の晩

遠足は、日本平でした。

おやつは三百円まで、というのが決まりでした。

買いに行けないので、私は戸棚を開けて、そこにあるものを詰めました。

いま思えば、あれはおやつというより、来客用に置いてあった茶菓子の残りです。

それでも、私は特に困っていませんでした。恥ずかしいとも思いませんでした。菓子は菓子です。

夜遅く、父が帰ってきました。

作業着のまま、土間で長靴を脱いでいる音が聞こえました。

「あれ…明日、遠足なのか」

玄関に置いてあったリュックを見て、父が言いました。

「うん」

父は、リュックの口を開けて、中を覗きました。

それから、しばらく何も言いませんでした。

私は眠かったので、そのまま布団に入りました。

父が、まだ土間に立っていた気配だけ、覚えています。

※

朝、私は驚きました

そして、翌朝です。

リュックの中は、まるで別のものになっていました。

オマケのシールがついた菓子が二つ。小さな板チョコ。ラムネ。個包装のビスケット。

どれも、私が自分では選ばないような、派手な袋のものばかりでした。

父は、もう工場へ出たあとでした。焙乾場の火は朝の四時に入れます。前の晩に何時に寝たのかは、考えもしませんでした。

私は、父が夜中にどこかの店まで行ったのだと思いました。

それで、その日は少しだけ得意な気持ちで、日本平のバスに乗りました。

※

遠足の朝は、雨が降りそうな空でした。

集合場所の校庭で、みんながリュックを下ろして待っていました。中身を見せ合っている子もいました。

私は、リュックを背負ったままでいました。開けたら、崩れてしまう気がしたのです。

バスの中で、隣の席の子が自分のおやつを一つくれました。

「おまえのも、ちょうだい」

と言われて、私は困りました。どれを渡していいのか、わからなかったのです。

結局、いちばん上にあったビスケットを一枚だけ渡しました。

その子は「ケチ」と言って笑いました。私も笑いました。

※

詰め方に、見覚えがありました

おかしい、と気づいたのは、山の上でリュックを下ろしたときです。

中身が、まったく崩れていませんでした。

バスに揺られて、山道を登って、それでも袋の一つも潰れていない。

底に、いちばん重いラムネの瓶が寝かせてある。その上に板チョコが立ててある。ビスケットの箱が、袋のあいだに差し込んで壁のようになっている。

箱の詰め方は、父が節を木箱に納めるときの手つき、そのままでした。

店の人が詰めたのではありません。父が、一つずつ入れ直したのです。

それだけのことなのに、私はしばらく、袋を開けられませんでした。

※

三百円の決まりと、担任が黙っていたこと

おやつを広げたとき、友達が「多くない?」と言いました。

数えてみると、明らかに三百円を超えていました。

担任の川口先生が近くを通りかかって、私のシートを見ました。

私は叱られると思って、慌てて袋を隠しました。

先生は、何も言いませんでした。

「ええな。よう分けたりや」

それだけ言って、行ってしまいました。

私は、その日、板チョコを四人で割りました。ラムネは回し飲みで、最後の一口をじゃんけんで取り合いました。

あの日の日本平の空が、やけに白かったのを覚えています。

※

二十年後、隣の奥さんが教えてくれたこと

そのことを思い出したのは、ずいぶんあとです。

父の七回忌の日、隣に住んでいた小柳さんの奥さんが、こんな話をしてくれました。

「あんたのお父さんな、一遍、夜中にうちの戸を叩いたことがあるんよ」

「夜中に」

「そうそう。十一時か、もっと遅かったかな。えらい済まなそうな顔して」

父は、こう言ったそうです。

「明日、うちの子が遠足で。お宅、菓子ありませんか。お代は払います」

小柳さんの家には、私と同じ歳の子がいました。その子の遠足も、翌週にありました。

「うちの分から、半分だけ抜いてな。渡したんよ」

父はそのあと、通りの向かいの家と、路地の奥の家にも行ったのだそうです。

小柳さんの奥さんは、そのとき、湯呑みを両手で持ったまま、少し黙りました。

「わたしな、あのとき、なんも訊かんかったんよ」

「訊かない、というのは」

「奥さんの具合はどうですか、とか。子どもさん、大丈夫ですか、とか。訊いたら、あの人、来にくうなるやろ思うて」

菓子を渡すとき、奥さんは「ちょうど余っとったんよ」と言ったそうです。

本当は、余ってなどいませんでした。

父は、代金を置いていこうとしたそうです。奥さんは受け取りませんでした。

「そしたらな、あの人、うちの玄関の壊れかけとった網戸を、次の日曜に黙って直していったんよ」

その網戸のことを、私は知りませんでした。

路地の奥の家では、断られたのだそうです。もっともな話です。夜中に、燻された匂いのする男が戸を叩いたのですから。

父は、そこでも頭を下げて、帰ったと聞きました。断った家を、私は責める気になれません。夜中の十一時です。当たり前のことです。

※

「三軒回っとったよ、あの晩」

あの晩、父は、店へ行ったのではありませんでした。

一つずつ、よその家の子の遠足から、分けてもらったものでした。

※

袋の角が潰れていた理由

言われてみれば、思い当たることがありました。

あの日のおやつの袋は、どれも角が少し潰れていました。

それを私は、父が夜道を急いだからだと思っていました。

違いました。

戸棚に何日か置かれていたものだからです。よその家で、その子の遠足のために買われて、しまわれていたものだからです。

そして父は、それを、崩れないように詰め直しました。

重いものを下に。平たいものを立てて。

崩れると、いっぺんに全部だめになる。

父が言っていたのは、菓子の話ではなかったのだと、いまはわかります。

※

父の弁当が、その月だけ消えていました

もうひとつ、あとから知ったことがあります。

父の工場には、社員食堂の食券を月ごとにまとめて買う仕組みがありました。

片付けをしていたとき、父の古い手帳が出てきました。几帳面に、月々の出費が書き込まれています。

母が入院していた三月と四月の欄だけ、食券の記録がありませんでした。

代わりに、小さな字で「にぎり」とだけ書いてあります。

父は、その二か月、握り飯を持って行っていたのです。

それでも、私に菓子を買う余裕はありませんでした。だから、頭を下げて回ったのだと思います。

お金がなかったから、ではありません。あの晩、店が開いていなかったからです。そして、翌朝の息子の顔を、待たせたくなかったからです。

※

いちばん底に、入っていたもの

最後に、ひとつだけ、あの日のリュックのことで書いておきたいことがあります。

いちばん底、ラムネの瓶の横に、透明の小袋が入っていました。

塩飴でした。

焙乾場は、夏でなくても暑くなります。汗をかく職人が、腰の袋に入れて舐めるものです。

菓子屋で売っているような、洒落たものではありません。遠足のおやつには、まったく似合いません。

父は、よその家から分けてもらったものの中に、自分のポケットにあった塩飴を一つ、足していました。

私は当時、それを不思議に思って、食べずに持って帰りました。

その塩飴は、いまも私の机の引き出しに入っています。

三十年以上前のものですから、袋の中で白く固まって、飴の形も残っていません。

捨てられないまま、引っ越しのたびに一緒に運んでいます。

妻には、一度だけ理由を話しました。妻は「捨てなくていいよ」と言いました。

※

いま思えば、父は、全部が借りもので詰まったリュックを、そのまま渡せなかったのだと思います。

一つだけでいい。自分のものを、入れておきたかったのでしょう。

※

工場がなくなった年

父が勤めていた工場は、私が社会人になって数年で閉まりました。

手火山式の焙乾は手間がかかりすぎる、という理由でした。

父は、五十を過ぎてから、水産加工の別の会社に移りました。そこでは、機械が節を削っていました。

「どうなん、いまの仕事」

と電話で訊いたことがあります。

「楽やよ」

それだけでした。

ただ、退職した年の暮れに、父は自分で小さな焙乾の道具を作りました。庭の隅に、レンガを積んだだけの、みっともないものです。

そこで、一年に一度だけ、家族のぶんの節を作りました。

正月の雑煮の出汁は、それでした。母は「臭い」と文句を言いながら、毎年、全部使い切りました。

※

庭のレンガの前で、一度だけ

父が入院する前の年の秋、私は帰省して、庭の焙乾を手伝いました。

最初で最後です。

火の番だけをやらされました。薪を足す間隔と、煙の色を見ろと言われました。

「白いのは、まだ水が出とる。青うなってきたら、落ち着いた証拠や」

私は、その違いがまったくわかりませんでした。

「わからん」

「そのうち、わかる」

父は笑いませんでしたが、口の端が少し動きました。

日が暮れて、レンガの隙間から漏れる火だけが赤く見えるようになった頃、父がぽつりと言いました。

「あんとき、悪かったな」

何のことか、すぐにはわかりませんでした。

「遠足の」

三十年近く前の話です。父が、それをまだ覚えていることに、私は驚きました。

「よその子のもんやったで」

私は、なんと答えていいかわからず、薪をもう一本、火に入れました。

煙が、白から少しだけ青に変わったところでした。

「おいしかったよ」

それだけ言いました。

父は、何も言いませんでした。ただ、しばらく火を見ていました。

その冬に見つかった病気で、父は次の秋に亡くなりました。

庭のレンガは、いまも崩さずに置いてあります。使い方がわからないので、ただ置いてあるだけです。

※

私は今も、重いものを下に詰めます

いま、私にも子どもがいます。

遠足の前の晩、リュックを詰めるのは私の役目です。

私は今も、重いものを下に、平たいものを立てて詰めます。

息子は、「どっちでもいいじゃん」と言います。

私は、父と同じことを言います。

「崩れると、いっぺんに全部だめになる」

息子はもう聞いていません。それでいいと思っています。私も、聞いていませんでした。

いつか、二十年か三十年経って、どこかの山の上でリュックを下ろしたときに、崩れていない中身を見て、思い出せばいいのです。私がそうだったように。

あのとき、父がどんな気持ちで隣の家の戸を叩いたのかと思うと、いまでも少しだけ、胸のあたりが重くなります。

私は、食べかけの茶菓子でも、まったく気にしていませんでした。

気にしていたのは、父のほうでした。私が恥ずかしい思いをするかどうかではなく、息子の遠足を、崩れたまま送り出すことに耐えられなかったのだと思います。

父のことは、ほかにも書いてきました。黙って何かをしていた父の話は父が隠していた物に、母の台所をめぐる話は母の肉じゃがにまとめています。

あの晩、三軒の家の戸を叩いた父の背中を、私は見ていません。見ていないものが、いちばん長く残ります。

お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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