綺麗なお弁当

私はいまでも、秋になると、弁当箱の蓋を開ける音が少しだけ苦手だ。

かちり、という、あの薄い金属の鳴り方。

三十年前の山の上で、私は教師としていちばん取りこぼしてはいけないものを、取りこぼした。

その年、私は瀬戸内の港町の小学校に赴任して二年目だった。

二十五歳。

黒板の字はまだ傾いていて、子どもの名前を呼ぶ声だけが無駄に大きかった。

受け持ったのは三年二組。児童は二十一人。

そのうちのひとりが、野上柚という女の子だった。

柚は、教室のいちばん窓側の、後ろから二番目に座っていた。

声の小さい子だった。

発表のときだけ、耳のふちが赤くなる。

絵が上手で、写生の時間には校庭の隅の枇杷の木ばかり描いていた。

毎回、同じ木を。

「柚ちゃんは、枇杷が好きなん」

そう聞いたら、柚は少し考えてから答えた。

「木のかたちが、いつも同じやけん、安心します」

私はその言葉を、子どもらしい理屈だと思って笑った。

笑って、それきりにした。

柚の母親が亡くなったのは、その年の九月の初めだった。

長く患っていたのだと、あとで教頭から聞かされた。

入院してからは一年近く、家に帰っていなかったという。

葬儀の日、私は制服のまま港の斎場へ行った。

潮の匂いと線香の匂いが混ざって、鼻の奥が痛くなるような日だった。

柚は、白いブラウスの襟をきちんと立てて、いちばん前に座っていた。

泣いていなかった。

父親の野上さんは、大きな背中を丸めて、何度も何度も頭を下げていた。

その手の甲に、油の染みのような黒い痕がいくつもあった。

野上さんは連絡船の機関室で働いていた。

一日おきの、隔日勤務。

朝の便から翌朝の便まで船に張りつき、次の日はまるまる家にいる。そういう働き方だ。

斎場の外で、野上さんは私に言った。

「柚のこと、よろしくお願いします」

それだけを、三回繰り返した。

三回目のとき、声がわずかに掠れた。

私は「お任せください」と答えた。

若い教師の、いちばん軽い言葉で。

それから柚は、休まずに学校へ来た。

遅刻もしなかった。

宿題も忘れなかった。

給食のときも、笑いはしないが、ちゃんと食べた。

私は職員室で「野上さん、しっかりしとるわ」と言われるたび、自分のことのように頷いていた。

うまくやれている。

そう思っていた。

十月の家庭訪問で、私は初めて柚の家に上がった。

港のすぐ裏の、平屋。

玄関を開けると、味噌汁ではなく、線香の匂いがした。

その匂いのする部屋の隅に、小さな仏壇があった。

まだ新しくて、木の色が明るかった。

柚は私を座らせると、まっすぐ仏壇の前に行って、花瓶の水を替えはじめた。

慣れた手つきだった。

花瓶から花を抜き、茎の先を指でしごき、白い皿の上で水を切る。

そして、また挿す。

「柚ちゃん、それ、いつもしよるん」

「はい。朝と、帰ってから」

「お花、きれいやね。なんていう花」

柚は花瓶のいちばん背の高い一本を、指でそっと押さえて言った。

「りんどう、です。お母さんが、いちばん好きな花でした」

りんどう。

私はその名前を、そのときに教わった。

恥ずかしい話だが、それまで私は、その紫を桔梗だと思っていた。

「先生、りんどうはね、晴れとる日しか開かんのです」

柚はそう言って、少しだけ笑った。

その日、初めて見た笑い方だった。

「雨の日は、こう、閉じたままなんです。ずっと」

細い指が、蕾のかたちを作った。

私は「かしこいねえ」と言った。

言って、湯呑みのお茶を飲んだ。

それで終わりにした。

帰り際、私は台所を通らせてもらった。

流しは、きちんと片づいていた。

水切り籠に、茶碗がふたつ。ひとつは小さい。

炊飯器の横に、卵のパックが置いてあった。

十個入りの、半分が空いていた。

その隣に、玉子焼き器。

四角い、まだ新しい銅の鍋だった。

「お父さん、お料理されるんですね」

野上さんは、後ろで首を振った。

「いや。それ、女房のです」

「……そうですか」

「使い方が、俺には分からんので」

私は「そうですか」ともう一度言って、玄関を出た。

外はもう暗くて、港のクレーンに灯りがついていた。

その灯りを見ながら、私は今日の家庭訪問はうまくいった、と思っていた。

本当に、そう思っていたのだ。

十月に入って、図工の時間に変化があった。

柚が、枇杷の木を描かなかった。

画用紙の真ん中に、花瓶がひとつ。

紫の花が、五本。

背景は塗らず、白いままだった。

「柚ちゃん、今日は木やないんやね」

「はい」

「これ、お家の花」

柚は頷いて、それから、絵の右下の隅に、小さく何かを描き足した。

弁当箱だった。

蓋の開いた、四角い弁当箱。

花瓶の絵の隅に、なぜ弁当箱なのか。

私は聞かなかった。

時間割の次が算数で、私は黒板を消すことのほうを急いでいた。

その絵は、廊下に貼り出されて、二週間そこにあった。

毎日その前を通っていたのに、私は一度も、立ち止まらなかった。

遠足の前日の夕方、柚が職員室に来た。

めずらしいことだった。

私は次の日の名簿を作っていて、手が離せなかった。

「先生。ちょっと、いいですか」

「うん、なに」

私は、名簿から目を上げなかった。

柚は、少し黙ってから聞いた。

「卵焼きって、どうやったら、四角くなるんですか」

手が、止まった。

止まったが、私はその意味を、考えなかった。

「四角い鍋で焼いたら、四角くなるんよ」

「四角い鍋で、焼いても、こう、ぐじゃっとなるんです」

「ああ、それはね、火が強いんちゃう。弱火で、ゆっくり。あとは、お母さんに──」

そこまで言って、私はやっと、口を閉じた。

名簿を持つ手が、汗ばんでいた。

柚は、私の顔を見ていた。

責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ、じっと見ていた。

「すみません」

先に謝ったのは、柚のほうだった。

「忙しいのに」

「柚ちゃん、あの」

「大丈夫です。弱火で、ゆっくり、ですね」

柚は、ぺこりと頭を下げて、職員室を出ていった。

私はそのあと、名簿の続きを打った。

明日の天気を、窓から確かめた。

雲ひとつない、いい夕焼けだった。

明日は晴れる。

そう思って、私は電気を消した。

あの子が、なぜ前の日の夕方に、卵焼きの焼き方を聞きに来たのか。

その一点を、私は考えなかった。

遠足は、十月の下旬だった。

町の裏手にある、みかん山。

段々畑の間の細い道を、一列になって登っていく。

子どもたちの背中で、水筒がかちゃかちゃ鳴っていた。

その日は、朝から気持ちのいい晴れだった。

雲がひとつもなかった。

頂上の広場に着いたのは十一時半で、海がよく見えた。

連絡船が、ちょうど白い筋を引いて沖に出ていくところだった。

私はその船を見ながら、野上さんは今日は勤務の日だったな、と、ぼんやり思った。

思っただけだ。

「いただきます」の声が山の上に散らばって、あちこちで蓋の開く音がした。

かちり、かちり。

私は子どもたちの輪をひとつずつ回って、覗き込んでは声をかけていた。

「うわ、たこさんウインナーやん」

「先生にちょうだいや」

そうやって笑いながら、私は少しずつ、輪の端のほうへ歩いていった。

向こうの、栗の木の下だった。

そこに、鮮やかな色があった。

最初、私はそれを、誰かが弁当箱に飴でも詰めてきたのかと思った。

それくらい、その色は場違いだった。

紫と、白と、黄色。

近づいて、私は足を止めた。

柚が、膝の上に弁当箱を広げて、じっと座っていた。

その弁当箱の中が、花でびっしりと埋まっていた。

りんどう。

小菊。

仏壇の、あの花だった。

花は、詰め込まれていたのではない。

きちんと向きを揃えて、隙間なく、並べられていた。

まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように。

私は何も言えずに、その場に膝をついた。

柚は私を見上げて、少しだけ困ったような顔をした。

そして、いちばん上のりんどうを、指で静かにずらした。

花の下から出てきたのは、白いご飯だった。

その真ん中に、黄色い塊がひとつ。

形の崩れた、焦げのついた卵焼き。

それだけだった。

そのとき、栗の木の向こうから足音がした。

同じ組の男の子だった。

手にウインナーを摘まんだまま、こちらを覗き込んで、素っ頓狂な声を上げた。

「うわ、なんやそれ」

私の体が、勝手に動いた。

弁当箱を隠すように、膝で前へ出ていた。

教師としてではなく、ただ、とっさに。

けれど、柚のほうが早かった。

柚は弁当箱を持ち上げて、その子のほうへ、まっすぐ向けた。

「きれいやろ」

男の子は、口を半分開けたまま、しばらく黙っていた。

それから、真顔で言った。

「……ええな、それ」

「そうやろ」

「俺のと、換えてくれん」

「あかん」

柚は、はっきりと断った。

「これ、借りもんやけん」

男の子は「ふうん」と言って、ウインナーを口に放り込み、走って戻っていった。

山の上に、また声が散らばった。

私はまだ、膝をついたままだった。

隠そうとしたのは、私だ。

恥ずかしいと思ったのは、私のほうだった。

あの子は、一度も、恥ずかしいとは思っていなかった。

「これ、柚ちゃんが作ったん」

「はい」

「お父さんは」

「今日、船です」

柚は、そう答えてから、少しだけ早口になった。

「お父さん、ご飯だけは炊いてくれとったんです。朝、ちゃんと炊けとりました」

「うん」

「おかず、卵しかなくて。ようけ混ぜたら、こんなになって」

「うん」

「みんなの、見たら」

そこで、柚の言葉が止まった。

私は、周りを見た。

栗の木の向こうで、子どもたちが弁当箱を広げている。

どの弁当箱にも、色があった。

赤いウインナー。緑のブロッコリー。黄色い卵焼きは、どれも角がきちんと立っている。

その色の中に、白いご飯と、崩れた卵焼きだけの弁当箱を置くところを、私は想像した。

想像して、息ができなくなった。

「だから、お花」

柚は、うつむいたまま言った。

「お母さんに、いっこだけ、貸してもらいました」

私は、その花の名前を、去年、あの子に教わっていた。

りんどう。

晴れた日にしか開かない花。

その日は、雲ひとつない晴れだった。

柚は、朝、暗いうちに起きて、ご飯を詰めて、卵を焼いて、それを見て、仏壇の前に立ったのだ。

そして、母親の花に手を伸ばした。

一本ずつ。

折らずに、抜いて。

花瓶の水で、指を濡らしながら。

私は、家庭訪問のあの日、その花瓶の前に座っていた。

座って、お茶を飲んでいた。

柚が朝と夕方に水を替えていることも、りんどうが母親の好きな花だったことも、父親が一日おきに船に乗ることも、全部、私は知っていた。

知っていて、何ひとつ、繋げていなかった。

「先生」

柚が、私の顔を覗き込んだ。

「怒っとる」

私は首を横に振った。

何度も振った。

声が出なかった。

「怒っとらんよ」

やっと出た声は、自分でも驚くほど、普通の声だった。

教師の声だ。

「柚ちゃん。先生な、こんな綺麗なお弁当、初めて見た」

本当だった。

嘘は、ひとつも混ざっていなかった。

柚は、少しだけ目を見開いて、それから、笑った。

枇杷の木を描いていたときの顔だった。

「ほんまですか」

「ほんま」

「じゃあ、食べます」

柚は、花を一本ずつ、丁寧に弁当箱の蓋の上に移していった。

一本、また一本。

移し終えると、弁当箱の中には、白と、黄色だけが残った。

柚は箸を持って、崩れた卵焼きを口に運んだ。

そして、もぐもぐと噛んで、こう言った。

「お母さんのより、しょっぱいです」

私は、その日の帰りのバスで、いちばん後ろの席に座っていた。

子どもたちは疲れて眠っていた。

窓の外を、さっき見たのと同じ海が流れていた。

学校に着いて、子どもたちを帰して、職員室の椅子に座って、私はようやく泣いた。

声を上げて、みっともなく泣いた。

教頭が驚いて、コップの水を持ってきてくれた。

私が泣いていたのは、柚がかわいそうだからではない。

柚は、かわいそうな子ではなかった。

あの子は、自分の弁当を、自分の手で、いちばん綺麗にして持ってきた。

泣いていたのは、私が「知っていたつもり」の顔で、二か月も教室の前に立っていたからだ。

花瓶の水を替える手を見て、えらいねえ、と言った。

りんどうの名前を教わって、かしこいねえ、と言った。

そのたびに、私は自分がいい教師をしている気になっていた。

知ることと、気づくことは、違う。

その違いを、私は二十五歳の秋に、九歳の子どもから教わった。

次の日、私は放課後に野上さんの家を訪ねた。

勤務明けの日だった。

野上さんは、洗濯物を干していた。

柚の体操服と、小さな靴下が、風で少し揺れていた。

私は、遠足の弁当のことを話した。

話しながら、また声が掠れた。

野上さんは、最後まで黙って聞いていた。

そして、洗濯物のほうを向いたまま、こう言った。

「あの子は、俺には、何も言わんのです」

その背中は、斎場のときよりも、もっと丸かった。

「船から帰ってきて、炊飯器の蓋を開けたら、朝の分だけ減っとる。それだけが、あの子の便りみたいなもんで」

私は、頭を下げた。

「お父さん。卵焼き、一緒に焼きませんか」

野上さんが、ゆっくり振り返った。

「日曜の朝でも。私、教えます。……いや、私も、そんなに上手やないんですけど」

野上さんは、しばらく私を見ていた。

それから、初めて、笑った。

油の染みた手の甲で、目のあたりを乱暴にこすって。

「先生。俺、船では機械しか触らんので」

「大丈夫です。卵は、機械よりは優しいです」

最初の日曜、私は野上さんの家の台所に立った。

柚は、椅子の上に立って、私の手元を見ていた。

奥さんの玉子焼き器は、まだ新しいままだった。

一度も使われていない銅の底が、ぬるい光を返していた。

「まず、油を引きます」

私は、菜箸の先に丸めた紙を挟んで、油を薄く塗った。

「熱くなったら、じゅっていいます。じゅっていうまで、待ちます」

「じゅっていうまで」

柚が繰り返した。

野上さんは、少し離れたところで腕を組んで、黙って見ていた。

卵液を、玉子焼き器の隅に一滴だけ落とす。

じゅ、と鳴った。

「はい、今です」

薄く流して、端から巻く。

巻くというより、押す。

「先生、崩れとります」

「うん、崩れとる」

「崩れとりますよ」

「先生も、崩れるんよ」

柚が、声を出して笑った。

初めて聞く、大きな笑い声だった。

その声に驚いたように、野上さんが台所に一歩入ってきた。

「……俺も、やっていいですか」

機関室で油まみれの部品を組む手が、菜箸を持つと、驚くほど不器用だった。

最初のひとつは、卵とも呼べない何かになった。

ふたつめも、崩れた。

三つめで、少しだけ、角ができた。

「お父さん」

柚が、皿を差し出した。

「これ、明日の、お弁当に入れて」

野上さんの手が、止まった。

それから、その大きな手が、皿の縁をゆっくり掴んだ。

「入れる」

それだけ言って、野上さんは流しのほうを向いた。

背中が、震えていた。

私は、見なかったふりをして、油を引き直した。

じゅ、と鍋が鳴った。

柚は、この春、四十を過ぎたはずだ。

最後に会ったのは、成人式の日だった。

振袖で、私の家の前に立っていた。

「先生。りんどう、まだ好きですか」

そう言って、抱えていた花束から、紫を一本抜いて渡してくれた。

私は今も、秋になると、その一本を思い出す。

そして、家の食卓で、弁当箱の蓋を開ける。

かちり、と鳴る。

中には、白いご飯と、少しだけ形の崩れた卵焼き。

私は上手にはならなかった。

三十年、ならなかった。

それでも、蓋を開けるたびに、私は九歳のあの子の声を聞く。

──先生。こんな綺麗なお弁当、初めて見た。

言ったのは、私のほうだったのに。

今は、あの子に言われている気がしてならない。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。