私はいまでも、秋になると、弁当箱の蓋を開ける音が少しだけ苦手だ。
かちり、という、あの薄い金属の鳴り方。
三十年前の山の上で、私は教師としていちばん取りこぼしてはいけないものを、取りこぼした。
※
その年、私は瀬戸内の港町の小学校に赴任して二年目だった。
二十五歳。
黒板の字はまだ傾いていて、子どもの名前を呼ぶ声だけが無駄に大きかった。
受け持ったのは三年二組。児童は二十一人。
そのうちのひとりが、野上柚という女の子だった。
柚は、教室のいちばん窓側の、後ろから二番目に座っていた。
声の小さい子だった。
発表のときだけ、耳のふちが赤くなる。
絵が上手で、写生の時間には校庭の隅の枇杷の木ばかり描いていた。
毎回、同じ木を。
「柚ちゃんは、枇杷が好きなん」
そう聞いたら、柚は少し考えてから答えた。
「木のかたちが、いつも同じやけん、安心します」
私はその言葉を、子どもらしい理屈だと思って笑った。
笑って、それきりにした。
※
柚の母親が亡くなったのは、その年の九月の初めだった。
長く患っていたのだと、あとで教頭から聞かされた。
入院してからは一年近く、家に帰っていなかったという。
葬儀の日、私は制服のまま港の斎場へ行った。
潮の匂いと線香の匂いが混ざって、鼻の奥が痛くなるような日だった。
柚は、白いブラウスの襟をきちんと立てて、いちばん前に座っていた。
泣いていなかった。
父親の野上さんは、大きな背中を丸めて、何度も何度も頭を下げていた。
その手の甲に、油の染みのような黒い痕がいくつもあった。
野上さんは連絡船の機関室で働いていた。
一日おきの、隔日勤務。
朝の便から翌朝の便まで船に張りつき、次の日はまるまる家にいる。そういう働き方だ。
斎場の外で、野上さんは私に言った。
「柚のこと、よろしくお願いします」
それだけを、三回繰り返した。
三回目のとき、声がわずかに掠れた。
私は「お任せください」と答えた。
若い教師の、いちばん軽い言葉で。
※
それから柚は、休まずに学校へ来た。
遅刻もしなかった。
宿題も忘れなかった。
給食のときも、笑いはしないが、ちゃんと食べた。
私は職員室で「野上さん、しっかりしとるわ」と言われるたび、自分のことのように頷いていた。
うまくやれている。
そう思っていた。
十月の家庭訪問で、私は初めて柚の家に上がった。
港のすぐ裏の、平屋。
玄関を開けると、味噌汁ではなく、線香の匂いがした。
その匂いのする部屋の隅に、小さな仏壇があった。
まだ新しくて、木の色が明るかった。
柚は私を座らせると、まっすぐ仏壇の前に行って、花瓶の水を替えはじめた。
慣れた手つきだった。
花瓶から花を抜き、茎の先を指でしごき、白い皿の上で水を切る。
そして、また挿す。
「柚ちゃん、それ、いつもしよるん」
「はい。朝と、帰ってから」
「お花、きれいやね。なんていう花」
柚は花瓶のいちばん背の高い一本を、指でそっと押さえて言った。
「りんどう、です。お母さんが、いちばん好きな花でした」
りんどう。
私はその名前を、そのときに教わった。
恥ずかしい話だが、それまで私は、その紫を桔梗だと思っていた。
「先生、りんどうはね、晴れとる日しか開かんのです」
柚はそう言って、少しだけ笑った。
その日、初めて見た笑い方だった。
「雨の日は、こう、閉じたままなんです。ずっと」
細い指が、蕾のかたちを作った。
私は「かしこいねえ」と言った。
言って、湯呑みのお茶を飲んだ。
それで終わりにした。
帰り際、私は台所を通らせてもらった。
流しは、きちんと片づいていた。
水切り籠に、茶碗がふたつ。ひとつは小さい。
炊飯器の横に、卵のパックが置いてあった。
十個入りの、半分が空いていた。
その隣に、玉子焼き器。
四角い、まだ新しい銅の鍋だった。
「お父さん、お料理されるんですね」
野上さんは、後ろで首を振った。
「いや。それ、女房のです」
「……そうですか」
「使い方が、俺には分からんので」
私は「そうですか」ともう一度言って、玄関を出た。
外はもう暗くて、港のクレーンに灯りがついていた。
その灯りを見ながら、私は今日の家庭訪問はうまくいった、と思っていた。
本当に、そう思っていたのだ。
※
十月に入って、図工の時間に変化があった。
柚が、枇杷の木を描かなかった。
画用紙の真ん中に、花瓶がひとつ。
紫の花が、五本。
背景は塗らず、白いままだった。
「柚ちゃん、今日は木やないんやね」
「はい」
「これ、お家の花」
柚は頷いて、それから、絵の右下の隅に、小さく何かを描き足した。
弁当箱だった。
蓋の開いた、四角い弁当箱。
花瓶の絵の隅に、なぜ弁当箱なのか。
私は聞かなかった。
時間割の次が算数で、私は黒板を消すことのほうを急いでいた。
その絵は、廊下に貼り出されて、二週間そこにあった。
毎日その前を通っていたのに、私は一度も、立ち止まらなかった。
※
遠足の前日の夕方、柚が職員室に来た。
めずらしいことだった。
私は次の日の名簿を作っていて、手が離せなかった。
「先生。ちょっと、いいですか」
「うん、なに」
私は、名簿から目を上げなかった。
柚は、少し黙ってから聞いた。
「卵焼きって、どうやったら、四角くなるんですか」
手が、止まった。
止まったが、私はその意味を、考えなかった。
「四角い鍋で焼いたら、四角くなるんよ」
「四角い鍋で、焼いても、こう、ぐじゃっとなるんです」
「ああ、それはね、火が強いんちゃう。弱火で、ゆっくり。あとは、お母さんに──」
そこまで言って、私はやっと、口を閉じた。
名簿を持つ手が、汗ばんでいた。
柚は、私の顔を見ていた。
責めるでもなく、悲しむでもなく、ただ、じっと見ていた。
「すみません」
先に謝ったのは、柚のほうだった。
「忙しいのに」
「柚ちゃん、あの」
「大丈夫です。弱火で、ゆっくり、ですね」
柚は、ぺこりと頭を下げて、職員室を出ていった。
私はそのあと、名簿の続きを打った。
明日の天気を、窓から確かめた。
雲ひとつない、いい夕焼けだった。
明日は晴れる。
そう思って、私は電気を消した。
あの子が、なぜ前の日の夕方に、卵焼きの焼き方を聞きに来たのか。
その一点を、私は考えなかった。
※
遠足は、十月の下旬だった。
町の裏手にある、みかん山。
段々畑の間の細い道を、一列になって登っていく。
子どもたちの背中で、水筒がかちゃかちゃ鳴っていた。
その日は、朝から気持ちのいい晴れだった。
雲がひとつもなかった。
頂上の広場に着いたのは十一時半で、海がよく見えた。
連絡船が、ちょうど白い筋を引いて沖に出ていくところだった。
私はその船を見ながら、野上さんは今日は勤務の日だったな、と、ぼんやり思った。
思っただけだ。
「いただきます」の声が山の上に散らばって、あちこちで蓋の開く音がした。
かちり、かちり。
私は子どもたちの輪をひとつずつ回って、覗き込んでは声をかけていた。
「うわ、たこさんウインナーやん」
「先生にちょうだいや」
そうやって笑いながら、私は少しずつ、輪の端のほうへ歩いていった。
向こうの、栗の木の下だった。
そこに、鮮やかな色があった。
最初、私はそれを、誰かが弁当箱に飴でも詰めてきたのかと思った。
それくらい、その色は場違いだった。
紫と、白と、黄色。
近づいて、私は足を止めた。
柚が、膝の上に弁当箱を広げて、じっと座っていた。
その弁当箱の中が、花でびっしりと埋まっていた。
りんどう。
小菊。
仏壇の、あの花だった。
花は、詰め込まれていたのではない。
きちんと向きを揃えて、隙間なく、並べられていた。
まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように。
私は何も言えずに、その場に膝をついた。
柚は私を見上げて、少しだけ困ったような顔をした。
そして、いちばん上のりんどうを、指で静かにずらした。
花の下から出てきたのは、白いご飯だった。
その真ん中に、黄色い塊がひとつ。
形の崩れた、焦げのついた卵焼き。
それだけだった。
そのとき、栗の木の向こうから足音がした。
同じ組の男の子だった。
手にウインナーを摘まんだまま、こちらを覗き込んで、素っ頓狂な声を上げた。
「うわ、なんやそれ」
私の体が、勝手に動いた。
弁当箱を隠すように、膝で前へ出ていた。
教師としてではなく、ただ、とっさに。
けれど、柚のほうが早かった。
柚は弁当箱を持ち上げて、その子のほうへ、まっすぐ向けた。
「きれいやろ」
男の子は、口を半分開けたまま、しばらく黙っていた。
それから、真顔で言った。
「……ええな、それ」
「そうやろ」
「俺のと、換えてくれん」
「あかん」
柚は、はっきりと断った。
「これ、借りもんやけん」
男の子は「ふうん」と言って、ウインナーを口に放り込み、走って戻っていった。
山の上に、また声が散らばった。
私はまだ、膝をついたままだった。
隠そうとしたのは、私だ。
恥ずかしいと思ったのは、私のほうだった。
あの子は、一度も、恥ずかしいとは思っていなかった。
「これ、柚ちゃんが作ったん」
「はい」
「お父さんは」
「今日、船です」
柚は、そう答えてから、少しだけ早口になった。
「お父さん、ご飯だけは炊いてくれとったんです。朝、ちゃんと炊けとりました」
「うん」
「おかず、卵しかなくて。ようけ混ぜたら、こんなになって」
「うん」
「みんなの、見たら」
そこで、柚の言葉が止まった。
私は、周りを見た。
栗の木の向こうで、子どもたちが弁当箱を広げている。
どの弁当箱にも、色があった。
赤いウインナー。緑のブロッコリー。黄色い卵焼きは、どれも角がきちんと立っている。
その色の中に、白いご飯と、崩れた卵焼きだけの弁当箱を置くところを、私は想像した。
想像して、息ができなくなった。
「だから、お花」
柚は、うつむいたまま言った。
「お母さんに、いっこだけ、貸してもらいました」
※
私は、その花の名前を、去年、あの子に教わっていた。
りんどう。
晴れた日にしか開かない花。
その日は、雲ひとつない晴れだった。
柚は、朝、暗いうちに起きて、ご飯を詰めて、卵を焼いて、それを見て、仏壇の前に立ったのだ。
そして、母親の花に手を伸ばした。
一本ずつ。
折らずに、抜いて。
花瓶の水で、指を濡らしながら。
私は、家庭訪問のあの日、その花瓶の前に座っていた。
座って、お茶を飲んでいた。
柚が朝と夕方に水を替えていることも、りんどうが母親の好きな花だったことも、父親が一日おきに船に乗ることも、全部、私は知っていた。
知っていて、何ひとつ、繋げていなかった。
「先生」
柚が、私の顔を覗き込んだ。
「怒っとる」
私は首を横に振った。
何度も振った。
声が出なかった。
「怒っとらんよ」
やっと出た声は、自分でも驚くほど、普通の声だった。
教師の声だ。
「柚ちゃん。先生な、こんな綺麗なお弁当、初めて見た」
本当だった。
嘘は、ひとつも混ざっていなかった。
柚は、少しだけ目を見開いて、それから、笑った。
枇杷の木を描いていたときの顔だった。
「ほんまですか」
「ほんま」
「じゃあ、食べます」
柚は、花を一本ずつ、丁寧に弁当箱の蓋の上に移していった。
一本、また一本。
移し終えると、弁当箱の中には、白と、黄色だけが残った。
柚は箸を持って、崩れた卵焼きを口に運んだ。
そして、もぐもぐと噛んで、こう言った。
「お母さんのより、しょっぱいです」
※
私は、その日の帰りのバスで、いちばん後ろの席に座っていた。
子どもたちは疲れて眠っていた。
窓の外を、さっき見たのと同じ海が流れていた。
学校に着いて、子どもたちを帰して、職員室の椅子に座って、私はようやく泣いた。
声を上げて、みっともなく泣いた。
教頭が驚いて、コップの水を持ってきてくれた。
私が泣いていたのは、柚がかわいそうだからではない。
柚は、かわいそうな子ではなかった。
あの子は、自分の弁当を、自分の手で、いちばん綺麗にして持ってきた。
泣いていたのは、私が「知っていたつもり」の顔で、二か月も教室の前に立っていたからだ。
花瓶の水を替える手を見て、えらいねえ、と言った。
りんどうの名前を教わって、かしこいねえ、と言った。
そのたびに、私は自分がいい教師をしている気になっていた。
知ることと、気づくことは、違う。
その違いを、私は二十五歳の秋に、九歳の子どもから教わった。
※
次の日、私は放課後に野上さんの家を訪ねた。
勤務明けの日だった。
野上さんは、洗濯物を干していた。
柚の体操服と、小さな靴下が、風で少し揺れていた。
私は、遠足の弁当のことを話した。
話しながら、また声が掠れた。
野上さんは、最後まで黙って聞いていた。
そして、洗濯物のほうを向いたまま、こう言った。
「あの子は、俺には、何も言わんのです」
その背中は、斎場のときよりも、もっと丸かった。
「船から帰ってきて、炊飯器の蓋を開けたら、朝の分だけ減っとる。それだけが、あの子の便りみたいなもんで」
私は、頭を下げた。
「お父さん。卵焼き、一緒に焼きませんか」
野上さんが、ゆっくり振り返った。
「日曜の朝でも。私、教えます。……いや、私も、そんなに上手やないんですけど」
野上さんは、しばらく私を見ていた。
それから、初めて、笑った。
油の染みた手の甲で、目のあたりを乱暴にこすって。
「先生。俺、船では機械しか触らんので」
「大丈夫です。卵は、機械よりは優しいです」
※
最初の日曜、私は野上さんの家の台所に立った。
柚は、椅子の上に立って、私の手元を見ていた。
奥さんの玉子焼き器は、まだ新しいままだった。
一度も使われていない銅の底が、ぬるい光を返していた。
「まず、油を引きます」
私は、菜箸の先に丸めた紙を挟んで、油を薄く塗った。
「熱くなったら、じゅっていいます。じゅっていうまで、待ちます」
「じゅっていうまで」
柚が繰り返した。
野上さんは、少し離れたところで腕を組んで、黙って見ていた。
卵液を、玉子焼き器の隅に一滴だけ落とす。
じゅ、と鳴った。
「はい、今です」
薄く流して、端から巻く。
巻くというより、押す。
「先生、崩れとります」
「うん、崩れとる」
「崩れとりますよ」
「先生も、崩れるんよ」
柚が、声を出して笑った。
初めて聞く、大きな笑い声だった。
その声に驚いたように、野上さんが台所に一歩入ってきた。
「……俺も、やっていいですか」
機関室で油まみれの部品を組む手が、菜箸を持つと、驚くほど不器用だった。
最初のひとつは、卵とも呼べない何かになった。
ふたつめも、崩れた。
三つめで、少しだけ、角ができた。
「お父さん」
柚が、皿を差し出した。
「これ、明日の、お弁当に入れて」
野上さんの手が、止まった。
それから、その大きな手が、皿の縁をゆっくり掴んだ。
「入れる」
それだけ言って、野上さんは流しのほうを向いた。
背中が、震えていた。
私は、見なかったふりをして、油を引き直した。
じゅ、と鍋が鳴った。
※
柚は、この春、四十を過ぎたはずだ。
最後に会ったのは、成人式の日だった。
振袖で、私の家の前に立っていた。
「先生。りんどう、まだ好きですか」
そう言って、抱えていた花束から、紫を一本抜いて渡してくれた。
私は今も、秋になると、その一本を思い出す。
そして、家の食卓で、弁当箱の蓋を開ける。
かちり、と鳴る。
中には、白いご飯と、少しだけ形の崩れた卵焼き。
私は上手にはならなかった。
三十年、ならなかった。
それでも、蓋を開けるたびに、私は九歳のあの子の声を聞く。
──先生。こんな綺麗なお弁当、初めて見た。
言ったのは、私のほうだったのに。
今は、あの子に言われている気がしてならない。