たった一つの記憶

公開日: 夫婦 | 心温まる話 | 恋愛

手を繋いで歩く夫婦(フリー写真)

私の夫は、結婚する前に脳の病気で倒れてしまい、死の淵を彷徨いました。

私がそれを知ったのは、倒れてから5日も経ってからでした。

夫の家族が病院に駆け付け、携帯電話を見て私の存在に気が付き、連絡をくれたのです。

脳の病気という事で、記憶障害が出ると言われました。

お見舞いに行ったのは良いのですが、私の事を覚えているのか、それさえも分かりませんでした。

病院でご家族や医療関係者と会い、彼の病状が深刻であるという説明を再度受けました。

記憶も家族とかそのくらいは分かるけれど、当時30代だったのに自分は10代だと思い込んでいたりするとの事でした。

新しい記憶ほど抜け落ちていると言われ、私の事は分からないかもしれないと、覚悟を決めて病室に入りました。

すると、彼は私を一目見て、私の名前を呼んだのです。

お医者様が

「この人の事が分かりますか?」

と尋ねても、夫はそれに返事をする事すらできなかったのに、私の名前は覚えていてくれたのです。

思わず涙が溢れました。

「何で? 何で覚えていてくれたの?」

と彼に問い質したかったし、神様に、

「たった一つだけ記憶を残してくれてありがとうございます」

と、思わずわあわあ泣き叫びたいような、そんな気持ちで一杯になりました。

忘れられてしまう恐怖は、とても大きかったのです。

夫はその後、脳に水が溜まった事が原因で半年間も意識不明になりましたが、半年後に再び目を覚ました時、やっぱり私の事を覚えていてくれました。

今でも、私達がどういう出会いをしたのか、一緒に出掛けた思い出などは何一つ思い出せません。

他にも色々な事を忘れてしまい、そんな中でよく私の存在だけ覚えていてくれたと思いました。

私とどこで出会ったか、どういう風に過ごしていたかなどは全く答えられない夫に

「どうして私の名前だけは覚えていたのかな」

と尋ねると、夫は

「他は何にも覚えていないけれど、好きな人だから覚えていた」

と笑ったのです。

それを聞いて、私は夫と結婚する事を決めました。

夫の症状は重く、今でも記憶ができません。

10分前に食べたものも忘れてしまいます。

多分、一生介護が必要でしょう。

だけど、全て忘れてしまった中で、私の事だけは忘れないでいてくれた。

そんな愛情をくれた夫を、私は一生愛して行きたいと思います。

介護は大変ですが、今でもすぐ忘れてしまう夫は、私を日々の生活の中でよく探しています。

部屋の中で見当たらないと、声を出して私を呼んだりします。

私が姿を現すと、

「あー安心したー」

と子供のように言います。

今、私と夫の間にあるのは、本当に愛情だけです。

お金や宝石や素敵なデートもない…。

けれど、この人からこれほど素晴らしい愛情をもらえるのを、私はとても誇りに思います。

大きな障害を持った夫と結婚した私を『同情だ』『後で後悔する』と言う人もいました。

お金もとってもかかります。

でも、結婚して数年経ちますが、私は今でも毎日が満たされた気持ちで一杯になります。

いつか、本当にどちらかがこの世から居なくなる日まで、ずっと二人で寄り添って生きて行きたいです。

関連記事

猫(フリー写真)

会いに来てくれた猫

五年前に飼っていた茶トラ猫。 当時、姉が家出同然で出て行ってしまい、家の雰囲気が暗かったのを憶えています。 そんなこともあり、私は家では出来るだけ明るく振る舞っていましたが…

目玉焼き(フリー写真)

彼女とフライパン

一人暮らしを始める時、意気込んでフライパンを買った。 ブランドには疎いが、とにかく28センチの物を一本。 それまで料理なんて全くしなかったのだが、一人暮らしだから自分で作る…

ゴルフ場(フリー写真)

数奇な恋の話

俺が惚れた子の話をします。 俺はもう既に40歳前を迎えた独身男だ。 彼女も5年近く居ない。 そんな俺が去年の5月頃に友人に誘われ、ゴルフを始めた。 ゴルフなんて…

手をつなぐカップル(フリー写真)

未来への遺言

私の初恋の人、かつての彼氏がこの世を去りました。 若さゆえに我儘を尽くし、悔いが残る行為ばかりでした。 ある日、突如として「別れて欲しい」と告げられ、私は意地を張って「い…

朝焼け空(フリー写真)

自衛隊最大の任務

「若者の代表として、一つだけ言いたいことがあります…」 焼け野原に立つ避難所の一角で、その青年は拡声器を握り締め話し始めた。 真っ赤に泣き腫らした瞳から流れる涙を拭いながら…

三毛猫(フリー写真)

幸せな猫の一生

僕はご主人様に拾われました。 毎日、おいしいご飯をくれました。 外で汚れたら、お風呂で洗ってくれました。 いつもいっぱい遊んでくれました。 たまにイタズラして怒…

秘密

豊かさの秘密

アメリカのとある大富豪が、十人のエージェントにある事を世界中で調査するように命じました。 それは「貧乏人が必ず金持ちになる方法はあるか」「金持ちが金持ちで居続けることができる方…

インドネシアの朝焼け(フリー写真)

インドネシア建国の神話

1602年、オランダはジャワ島に東インド会社を設立し、植民地経営を始めました。 首都のジャヤカルタはバタヴィアに改称され、以降350年間に渡って、オランダは東ティモール以外の領…

水族館

忘れられない君への手紙

あなたは本当に、俺を困らせたよね。 あの日、バスの中でいきなり大声で「付き合ってください!」って言った時から、もう、困ったもんだ。 みんなの視線が痛かったよ。 初デ…

救急車(フリー写真)

死の淵にいた私を救ってくれた妻

私はあの日、緊急搬送されました。 生まれて初めて救急車に乗りました。 心臓の3分の2は停止していたそうです。 ※ 今から7年前の事を書きます。 私はフィ…