小さなおにぎり

公開日: 友情 | 悲しい話

古いアパート

今から20年以上も前のこと。
当時の私は、オンボロアパートで一人暮らしをしていました。

給料は安く、貯金もなくて、贅沢なんて夢のまた夢。
それでも「無いなら無いなりに」と、なんとか食いつなぐ日々を送っていました。

そのアパートの隣には、50代くらいのお父さんと、小学2年生くらいの小さな女の子が暮らしていました。
お父さんとは、すれ違いざまに挨拶を交わす程度でしたが、娘のY子ちゃんとはよく顔を合わせていました。

彼女はいつも、放課後になると共同スペースの洗濯場で一生懸命に洗濯をしていて、自然と話す機会が多くなったのです。

ある日の夕方、仕事から帰ってきた私は、いつものように洗濯をしていたY子ちゃんに声をかけました。

「今日もお父さん、遅いの?」

「うん」

そんなたわいもない会話の最中、突然、私のお腹が「グーッ」と大きな音を立てました。

Y子ちゃんは目を丸くして言いました。

「あれ? お兄ちゃん、お腹空いてるの?」

「まあね」と苦笑いで返すと、彼女はふっと笑って、「ちょっと待っててね」と言い、部屋へと走って行きました。

しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さないびつなおにぎりがひとつ握られていました。

形は不揃いで、塩気も何もない素朴なものでしたが、その温もりだけは手に取るように伝わってきました。

「ありがと」と言って私はそれを食べました。
涙が出そうになるのを堪えながら、最後の一粒まで噛みしめました。

その日を境に、彼女の姿をぱったりと見かけなくなりました。
私は「風邪でもひいたのかな?」と気にはなったものの、深く考えることはありませんでした。

それから数日後。
仕事から帰ってきた私の目に飛び込んできたのは、アパートの前に停まる一台の救急車でした。

不安になり、駆け付けていた大家さんに声をかけました。

「何かあったんですか?」

大家さんは溜め息混じりに、どこか他人事のように言いました。

「無理心中だよ…。参ったね、余所で死んでくれりゃよかったのに」

耳を疑うような言葉に動揺していると、救急隊が静かに担架を運び出してきました。

その担架に乗せられていたのは、毛布にすっぽりと包まれた、小さな身体――子どもでした。

一瞬、時間が止まったかのようでした。
まさか…Y子ちゃん…?

後から知ったのは、こういうことでした。

Y子ちゃんのお父さんは長らく病気を患っており、仕事もできない状態だったそうです。
生活は限界を迎え、水道もガスも止められ、ついには最後の電気までもが止まろうとしていた矢先。
市役所の職員が様子を見に訪れ、事件が発覚したということでした。

部屋の中には、もう食料は一切なかったそうです。
冷蔵庫も、棚も、鍋も空っぽ。

「お兄ちゃん、お腹空いてるの?」

あの時の、あの何気ない言葉が、突然脳裏に蘇りました。

もしかしたらあの小さなおにぎりは――
彼女が自分のために取っておいた、たったひとつの食べ物だったのではないか。

その最後の一粒を、私のために、あの小さな手で握ってくれたのではないか。
自分の空腹を押し殺してでも、目の前の誰かを思いやれる――そんな優しさがあったのではないか。

そう思った瞬間、涙がとめどなく溢れてきました。

私は間もなくそのアパートを引っ越しました。
けれど今でも、あのアパートの近くを通ると、胸の奥がきゅっと締め付けられます。

忘れることのできない、ひとつのおにぎりと、小さな命の温もりが、今でも私の心に残り続けています。

関連記事

交差点(フリー写真)

家族の支え

中学時代、幼馴染の親友が目の前で事故死した。 あまりに急で、現実を受け容れられなかった俺は少し精神を病んでしまった。 体中を血が出ても止めずに掻きむしったり、拒食症になった…

水溜り

最後の仲直り

金持ちで、顔もそこそこ。 何より、明るくてツッコミが抜群に上手い男だった。ボケた方が「俺、笑いの才能あるんじゃね」と勘違いしてしまうくらい、絶妙なツッコミを入れてくる。 …

可愛い犬(フリー写真)

ボロという犬の話

小学3年生の時、親父が仕事帰りに雑種の小犬を拾って来た。 黒くて目がまん丸で、コロコロとした可愛い奴。 でも野良なので、小汚くて毛がボロボロに抜けていた。 そんな風貌…

桜

後悔のないように

私は幼馴染との突然の別れを経験しました。幼い頃から一緒だった私たちは、保育園での最初の出会いからすぐに親友になりました。私たちのグループには、おままごとが大好きな女の子と、外で遊ぶの…

美しい人生(フリー写真)

お帰りなさい

マニュエル・ガルシアは元気で頼もしく、近所でも働き者と評判の父親だった。 妻に、子供に、仕事に、将来、全て計画通りに運んでいた。 ある日、マニュエル・ガルシアは腹の痛みを訴…

マグカップ(フリー写真)

友人の棺

友人が亡くなった。 入院の話は聞いていたが、会えばいつも元気一杯だったので見舞いは控えていた。 棺に眠る友人を見ても、闘病で小さくなった亡骸に実感が湧かなかった。 …

カップル(フリー写真)

書けなかった婚姻届

彼女とはバイト先で知り合った。 彼女の方が年上で、入った時から気にはなっていた。 「付き合ってる人は居ないの?」 「居ないよ…彼氏は欲しいんだけど」 「じゃあ俺…

親子(フリー写真)

娘が好きだったハム太郎

娘が六歳で死んだ。 ある日突然、風呂に入れている最中に意識を失った。 直接の死因は心臓発作なのだが、持病の無い子だったので病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受…

戦時中

靖国での再会

俺の爺さんは戦地で足を撃たれたらしい。 撤退命令が出て皆急いで撤退していたのだが、爺さんは歩けなかった。 隊長に、「自分は歩けない。足手まといになるから置いて行って下さい…

母の手

最後のお弁当

私の母は、昔から体が弱かった。 それが原因なのか、母が作ってくれるお弁当は、いつも質素で、見た目も決してきれいとは言えなかった。 カラフルなピックやキャラ弁のような飾りは…