愛に気づくまで

公開日: 家族 | 悲しい話 | 震災に関する話

津波で折れ曲がったベランダ

普通とは少し異なる家庭で育った。

幼い頃から、常に我慢を強いられてきたと思っていた。

普通であるべきだと考えていた。

兄は軽度の知的障害を抱え、母はADHDだった。

私は3人兄弟の真ん中で、父も母もおり、普通の5人家族だった。

しかし、いつも何かが違っていた。

普通ならば、毎朝出勤し、夜に帰ってくるはずの両親は、常に家にいた。「フリーランス」だと言っていた。

普通ならば、一つの仕事に専念するが、両親は様々な仕事を細々とこなしていた。だが、「自分の好きなことをやれるって最高なんだ」と言っていた。

父も母も、とても子供っぽかった。父は私の言うことをなんでも聞いてくれ、一緒に映画を見たり、お菓子を作ってくれたりした。私を叱る時には、つい悲しくなり、辛くなって泣いてしまうこともあった。

母はいつも忘れっぽく、不器用で、我慢が苦手だった。授業参観に来てくれたことはほとんどなく、人が大勢集まるところが苦手で、学校に来たこともほとんどなかった。

兄は障害を抱えていた。軽度の知的障害と発達障害だ。勉強は、高校生にもなって1桁の掛け算くらいしかできず、怒ったり、気に食わないことがあるとすぐに癇癪を起こす。何度も何度も、兄がいなければと思ったことがある。

だから、私は真ん中でありながら、いつも長女のように振る舞ってきた。自分がしっかりしなければいけないと思い、迷惑をかけてはいけないと思っていた。自分が我慢ばかりしていると思っていた。しかし、それは違っていた。

結構構ってもらっていたし、意外と私のことを見ていてくれた。普段我慢させられているからか、母と2人でケーキを食べに行った。どれも美味しそうだったら、じゃあ3つ選んで。一緒にいっぱい食べようと言ってくれた。

受験したいと言った時には、あまりお金がないのに、一生懸命考えてくれた。私がお金がないことを知っていたけど、行きたい留学に行けないかもしれないと泣いた私に、方法はいくらでもあるから一緒に考えようと言ってくれた。抱きしめてくれた。

障害の兄がいて、サポートが大変なはずなのに、高額の授業料を払ってまで、私を行きたい学校に行かせてくれた。本屋に行きたい、お好み焼きが食べたい、映画を見たい。いろんなわがままを聞いてくれた。

それなのに、幸せなのに、それに気づけなかった。いつも周りと比べて、妬んでいた。

もっとうちにお金があれば。もっと普通の家庭だったら。そう思っていた。

中学から、私は第一志望の寮のある学校に進学した。県外の、実家から遠く離れた寮。

ちょっと変わった家族から離れたかった。大好きな家族。愛が溢れている家族。それなのに、自分から遠ざけた。

もちろん、新しい環境に希望を抱いていたというのもある。もっと広い世界でやっていけると自分を信じていた。案の定、「普通」の中学生としての生活は、楽で、楽しくて、幸せだった。

ホームシックなんてほとんどならずに、楽しい学校生活を送っていた。

しかし、地震が起きた。深夜だった。

いきなり揺れた。ベッドがガタガタと揺れた。

気づいたら、起きていた。朦朧としながら、強い揺れを感じた。

揺れが治まってから、下に降りて行った。

揺れている時は何も思わなかったのに、気づいたら泣いていた。

声をあげて泣いていた。

怖い時に、不安な時に、愛する家族がいないことがどれだけ辛いことか知った。

もしかすると、家族が危険かもしれない。家族が生きているかわからない。

それが不安で仕方なかった。

すぐに連絡を取れる状況でもなく、ただひたすら泣いていた。

震源地が実家の近くだと知った時、恐怖を覚えた。

もしかしたら危険かもしれない。でも、こんなに遠くちゃ何もできない。

自分の無力さに涙を堪えきれなかった。

電話をかけても出ない。

ただ発信音がずっと鳴っている。

不安で不安でたまらなかった。怖かった。温もりを感じたかった。

地震が発生して、30分後。

やっと電話がつながった。

「大丈夫?結構揺れたね。」

拍子抜けするほどに、優しい声だった。

安心して、大声をあげて嗚咽を漏らしながら泣いた。

「どうしたの。怖かったよね。そうだよね。」

優しく宥めてくれた。

お父さんも、お母さんも一緒に優しい声をかけてくれた。

「かわいそうに。不安だったよね。」

ずっとずっと泣き続ける私に、ずっと声をかけ続けてくれた。

あの地震の時、私は信じられないほど泣いた。寮があった地域は、震度4だった。

でも、実家の付近は、それよりも弱かった。

地震が起こった時、家族のことが心配で心配でならなかった。

いつもはなんとも思わないのに、こんな時に泣くなんて、なんて都合がいいんだろうと思った。

もっともっと、大好きと伝えればよかったと思った。

家族がそばにいないことが、こんなにも辛いことなのかと思いしった。

結局、家族はみんな元気で、私が異常なほど泣いただけだった。翌日には学校に行き、笑顔で給食を食べた。

しかし、私はあの夜を一生忘れられないだろう。

あんなに大切だと知ったのに、まだ素直に伝えることができない私を許してください。

そして、ここで言わせてください。

大好きです。愛してます。今までも、これからもありがとう。

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