もう一度、あの笑顔に会いたくて

公開日: ちょっと切ない話 | 仕事 | 悲しい話

オフィスの写真

私の前の上司、課長は無口で無表情な人でした。

雑談には加わらず、お酒も飲まない。人付き合いを避ける、どこまでも堅物な方でした。

そのぶん、誠実で公平。どんな場面でも冷静に対処する姿に、部下としては大きな信頼を寄せていました。

ただ、やっぱりどこか近寄りがたい存在で、心の距離はなかなか縮まりませんでした。

そんな課長の机には、いつも一枚の写真が飾られていました。

奥さんと、子どもが四人。

みんなで並んで写った家族写真。

無表情な課長に似合わず、あたたかな雰囲気に包まれた一枚でした。

「あの朴念仁でも、家族のことはちゃんと愛してるんだな」

そんな風に、ほほえましく思っていたのをよく覚えています。

あるとき、ふと気づいたんです。

何年も経っているのに、その写真が一向に変わらないことに。

気になって理由を尋ねると、課長はほんの少し照れたように笑って言いました。

「一番かわいかった頃の写真だからね」

それが、私が見た最初で最後の、課長の笑顔でした。

そんな課長が、ある日突然、無断で欠勤しました。

一日だけならまだしも、二日、三日と続きました。

無遅刻無欠勤が入社以来の誇りだった課長が、何の連絡もなしに休むなど、考えられないことでした。

不安になった部長が、課長のマンションを訪ねました。

管理人さんに頼んでドアを開けてもらうと――

課長は、玄関で静かに倒れていました。

すでに、冷たくなっていたそうです。

急性心不全でした。

あまりにも突然の別れに、会社中が悲しみに包まれました。

家族に連絡を取ろうとしましたが、誰も出ない。

親族の情報も、なぜか見つからない。

管理人さんに尋ねると、返ってきたのは思いがけない言葉でした。

「○○さんには、家族はいないはずですよ」

人事部があわてて履歴を調べ直しました。

課長は十年前、中途で入社した方でした。

記録を確認してみると――

やはり、家族の記載は一切ありませんでした。

あの写真に写っていた家族は、すでにいなかったのです。

きっと、課長は会社に来る前に、家族を失っていたのでしょう。

それでも、写真を見ながら過ごす日々が、かつての幸せを思い出させてくれたのかもしれません。

誰にも語らず、そっと胸に抱きしめるように。

葬儀には、家族も親族も、誰一人として顔を出しませんでした。

血のつながった人たちの冷たさに、私は言葉を失いました。

数日後、私は課長のお墓を訪ねました。

そこには、思いのほか立派なお墓が建っていました。

「きっと、やっと家族と和解できたんだ」

そう思い、少しだけ心が救われたような気がしました。

でも――

墓石を見た私は、愕然としました。

古びた墓誌に刻まれていたのは、課長と同じ名字の家族たちの名前。

その全員が、十数年前の“同じ日”に亡くなっていたのです。

家族を一度に失った日から、課長はずっと、たった一人で生きてきたのでした。

毎日、あの写真に向かって、どんな想いを抱いていたのでしょうか。

話し相手もなく、誰にも寄りかかることなく、黙々と生きるその背中に、どれだけの孤独があったのでしょうか。

無口で、近寄りがたくて、決して自分を語ろうとしなかったあの人の姿が、何度も胸に浮かびます。

無言のまま私たちを導いてくれたあの人は、本当は、何を抱えていたんだろう。

答えは、もう知ることができません。

でも私は、あの写真に残る家族の笑顔と、課長のあの一瞬の笑顔を忘れません。

たとえ二度と会えなくても、私たちは課長の誠実さと、優しさを心に刻んでいます。

どうか、今は家族と共に、安らかに眠っていてください。

本当に、ありがとうございました。

関連記事

浜辺

指輪の記憶

彼女が認知症を患った。 以前から物忘れがひどくなっていたが、ある日の夜中、突然「昼ご飯の準備をする」と言い出し、台所に立ち始めた。 そのうえ、「私はあなたの妹なの」と口に…

雪(フリー写真)

プライド

私には自分で決めたルールがある。 自分が悪いと思ったらすぐに『ごめんなさい』と言うこと。 私は元々意地っ張りで、自分が悪いと思っても『ごめんなさい』の一言が出ない。 …

手紙(フリー写真)

神様に宛てた手紙

四歳になる娘が字を教えて欲しいと言ってきたので、どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。 ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。 「○○ちゃんから…

ちゃぶ台(フリー写真)

色褪せた家族写真

一昨年、ばあちゃんが死んだ。 最後に会ったのは、俺が中学生の時だったかな。 葬式の為に20年越しで、ばあちゃんの住んでいた田舎に行った。 次の日、遺品の整理をする為に…

南国の夕日(フリー写真)

特攻隊員の方の遺書

戦いは日一日と激しさを加えて参りました。 父母上様、長い間お世話になりました。 私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。 私は…

母の手

あのハンバーグの味

私の母は生まれながらにして両腕に障害を持っていました。 そのため、家庭の料理はほとんど父が担当していたのです。 しかし学校の遠足などで弁当が必要な時は、母が一生懸命に作っ…

野良猫(フリー写真)

猫の痰助

11年前の2月、何も無い湖の駐車場に彼女と居ると、ガリガリの猫が寄って来た。 よろよろと俺たちの前に来ると、ペタンと地面に腹をつけて座った。 動物に無関心だった俺は『キタね…

教室(フリー写真)

虐め

友達が自殺した。 理由はよくある『虐め』。 俺は気付いていた。 友達が虐められてたことには気付いていた。 でも自分までそうなるのが嫌だったから、最後は他人の振り…

父と子(フリー写真)

俺には母親がいない。 俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。 産まれた時から耳が聞こえなかった俺は、物心ついた時にはもう既に簡単な手話を使っていた。 耳が聞こえな…

万年筆(フリー写真)

涙の後には

ある漫画家志望の若者の話です。 彼が17歳の時。 短編漫画が準入選に選ばれ、担当編集者が付いてくれることになり、気を良くした彼は九州から東京に上京して来ます。 当時は…