十年以上前に飼っていた白い猫のことを、私は今でも毎朝五時に思い出す。
名前は、ゆき、とつけた。
うちに来たときには、もう首に大きなしこりがあった。
獣医さんには、あと一ヶ月だろうと言われていた。
それでもゆきは、来た日から毎朝きちんと五時に起きた。
玄関の三和土に置いた古い座布団に座り、じっと戸の外を見ていた。
私と夫はそれを、五時の座布団と呼ぶようになった。
五週間後にゆきが逝くまで、その習慣は一日も欠けなかった。
ただし、最後の朝だけは違った。

私たちが住んでいたのは、新潟の村上という、鮭で知られた古い町だ。
冬になると、屋根から落ちた雪が窓の高さまで積もる。
夫は堆朱の工房で、下地の研ぎをやっていた。
漆の粉の乾いた匂いを、いつも袖口につけて帰ってくる。
私はその隣町の乾物屋で、昼から夕方まで働いていた。
子どもはいなかった。
ゆきに会ったのは、一月の、夕方のことだ。
乾物屋の裏、板塀の陰にある古い牛乳受けの木箱。
その脇に、白い塊がうずくまっていた。
最初は、落ちた雪の塊だと思った。
近づくと、塊がわずかに動いた。
耳の折れた、白い猫だった。
抱き上げると、思っていたよりずっと軽かった。
骨が、手のひらに直接あたる軽さだった。
首の右側が、こぶし半分ほど膨らんでいた。
その膨らみだけが、妙にあたたかかった。
猫は暴れなかった。
鳴きもしなかった。
ただ、私の顔をじっと見た。
店の裏口から声をかけると、女将さんが出てきた。
「まあ、どこの子やろね」
「この裏に、ずっとおったんでしょうか」
「見かけたことはあるけど、触らせてはくれんかったよ」
私は前掛けを外して、その子を包んだ。
そのまま自転車を押して、雪の坂を家まで上がった。
前掛けの中で、その子はまったく動かなかった。
ただ、ときどき顔だけを持ち上げて、坂の下を見た。
何度も、同じ方向を見た。
私はそれを、怖がっているのだと思っていた。
夫はまだ帰っていなかった。
電話をかけると、工房から走って戻ってきた。
玄関で、夫はしばらく何も言わずに猫を見ていた。
「連れて行こう」
それだけ言って、車の鍵を取りに行った。
五時の座布団
獣医さんは、しこりに触れてから、長いあいだ黙っていた。
「悪いものです」
それだけ言って、もう一度触った。
「それに、この子は猫エイズも出ています」
「どれくらいですか」
夫が訊いた。
「一ヶ月、というところでしょう」
「最後の思い出に、可愛がってあげてください」
診察台の上の猫は、その間ずっと動かなかった。
怖がる素振りもなかった。
むしろ、慣れているように見えた。
帰りの車のなかで、私たちはほとんど口をきかなかった。
膝の上の猫は、毛布に包まれて、まっすぐ前を見ていた。
フロントガラスの向こうの雪を、静かに追っていた。
家に着くと、猫は私の腕から下りて、まっすぐ玄関へ戻った。
そして三和土の真ん中に座り、戸を見上げた。
居間にも、こたつにも、見向きもしなかった。
台所の匂いにも、寄ってこなかった。
あの目つきを、私はうまく説明できない。
怯えでも、甘えでもなかった。
待っている目だった。
夫が押し入れから古い座布団を出して、そこへ敷いた。
「寒いろ、ここ」
猫は一度だけ夫を見てから、座布団の真ん中に乗った。
それが、五時の座布団の始まりだった。
名前は、その晩に決めた。
外がずっと白かったから、ゆき。
夫は少し笑って、「安直やな」と言った。
それから、自分でも何度か呼んでみて、うなずいた。
ゆきは、ほとんど鳴かない猫だった。
五週間のあいだに聞いた声は、両手の指で足りる。
そのかわり、気がつくと必ず隣にいた。
台所で大根を切っていると、足の後ろにひっそり座っている。
夫が新聞を広げると、そのふちに前足を乗せてくる。
じっとこちらを見上げてくるので、撫でてやる。
すると、喉の奥で、ごろごろと低い音が鳴った。
その音だけが、この猫のしゃべり方だった。
ごろごろは、いつも三回ほどで途切れた。
喉のしこりが、途中で邪魔をするのだ。
それでもゆきは、また最初から鳴らし直した。
私は、鳴らし終わるまで手を止めなかった。
私は毎晩、その音を聞きながら眠った。
初めの一週間で、私はいくつかのことを覚えた。
ゆきは、抱かれるのが嫌いではない。
ただし、両足が床から離れると、すぐに身をよじる。
低い椅子の上なら、いつまでも膝に乗っている。
顎の下を掻くと、目を細めて上を向く。
背中の真ん中だけは、触られるのを嫌がった。
そこに古い傷があることに気づいたのは、もっとあとだ。
夜になると、ゆきは決まって玄関の匂いを嗅ぎに行った。
三和土に鼻先をつけて、戸の下の隙間を、端から端まで辿る。
それから座布団に乗って、ひと声だけ、短く鳴いた。
「おやすみ、やろか」
夫はそう言って、いつも玄関の電気を消した。
消したあとも、ゆきはしばらくそこにいた。
暗がりの中で、白い背中だけが浮かんで見えた。
夫は工房の端材で、浅い木の器をこしらえた。
漆は塗らずに、木地のまま磨いただけのものだ。
「塗ると、匂いが残るすけ」
その器で水を飲むとき、ゆきは必ず横向きになった。
首を真下に曲げると、しこりが邪魔になるのだ。
夫は次の日、器の縁を三分ほど削り落としてきた。
削った縁を指でなぞって、夫は満足そうにしていた。
「これで、横向かんでも飲めるろ」
その晩、ゆきは初めて、まっすぐ器に顔を入れて水を飲んだ。
喉が動く音が、台所まで聞こえた。
夫はそれを、襖の陰から見ていた。
私は、見ていないふりをした。
夫は、ものを作る人にしては、めったに自慢をしない。
その晩だけは、寝る前にもう一度、器の縁を確かめに行った。
首輪の跡と木箱の爪あと
飼い始めて十日ほど経った頃、私はあることに気がついた。
ゆきの首の、しこりのない側の毛が、帯のように薄くなっている。
指でなぞると、そこだけ地肌の色が違った。
首輪の跡だった。
この子は、捨てられたのではないのかもしれない。
そう思うと、胸のあたりが妙にざわついた。
「飼われとったんかな」
夫にそう言うと、夫は湯呑みを置いて、しばらく黙った。
「だったら、なおさら悪いね」
私はその意味を、すぐには呑み込めなかった。
夫は、ゆきの背中を撫でながら、こう続けた。
「捨てられたんなら、あきらめもつくろ」
「でも、はぐれたんなら、待っとるがだ」
翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
廊下に出ると、玄関の暗がりに白いものが見えた。
ゆきが、五時の座布団に座っていた。
時計は、ちょうど五時を回ったところだった。
それからは、毎朝確かめるようになった。
五時二分前には、もう座っている。
そして五時を過ぎて十分ほどすると、立ち上がって奥へ戻る。
その十分だけ、ゆきは戸の外を見ていた。
雪の日も、雨の日も、必ずだった。
何を見ているのかと思って、私も隣にしゃがんでみた。
戸の下の隙間から、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
そこには、坂と、電柱と、雪の壁しかなかった。
電柱の根元に、小さな雪のくぼみがあった。
犬か猫が、何度も座った跡のように見えた。
私はそのときも、深く考えなかった。
ゆきは、私の顔を見なかった。
耳だけを、坂の下のほうへ向けていた。
私は仕事帰りに、あの牛乳受けの木箱をもう一度見に行った。
蓋の角が、二か所だけ深くささくれていた。
猫の爪とぎの跡だった。
新しい傷ではない。
何年もかけて、少しずつ削られた跡だった。
ゆきは、あの箱のそばに、ずっと通っていたのだ。
私は箱の蓋を閉めて、指先についた木の粉を払った。
それが誰の箱なのかを、そのとき私はまだ知らなかった。
近所の何軒かに、白い猫の写真を見せて回った。
「見たことあるような気もするねえ」
そう言う人はいても、飼い主を知る人はいなかった。
町内の掲示板に、貼り紙もした。
返事は、ひとつも来なかった。
「もう、うちの子でええがだ」
その言い方が、ふだんの夫らしくなかった。
あきらめではなく、決めた声だった。
夫はそう言って、貼り紙を剥がしに行った。
帰ってきた夫の長靴には、坂の下の湿った土がついていた。
掲示板は、坂を下りた三つ目の角にある。
その角の少し先に、あの牛乳受けの木箱があった。
夫が何を見に行ったのかを、私は訊かなかった。
湯たんぽを置く位置
二月に入ると、ゆきは日に日に痩せていった。
背骨の形が、撫でる手にはっきりと伝わるようになった。
それでも、食欲だけは最後まであった。
鰹節を削る音がすると、どこにいても台所に来る。
私は毎晩、湯たんぽを二つ沸かした。
ひとつは私たちの布団に、ひとつはゆきの寝床に。
最初、私はそれを寝床の真ん中に置いた。
するとゆきは、湯たんぽを押しのけて、端で丸くなった。
位置を変えてみた。
戸に近い側に置くと、ゆきはそこへ乗った。
つまり、玄関に一番近い場所を選んでいた。
その意味に、私はまだ気づいていなかった。
夫は、仕事を早く切り上げて帰るようになった。
帰ってくると、まず玄関でゆきを撫でる。
「今日も座っとったんか」
私がうなずくと、夫は困ったように笑った。
「律儀な猫やなあ」
二度目の診察で、獣医さんはしこりの大きさを測った。
そして、初めてはっきりした言い方をした。
「破れると思います」
「破れたら、どうなるんですか」
「痛みは、そんなにないはずです」
答えになっていない答えを、私は黙って受け取った。
その帰り、夫は車を港のほうへ回した。
堤防の先で、しばらくエンジンを切っていた。
膝のゆきは、いつものように外を見ていた。
海ではなく、町のほうを。
「なあ」
夫が言った。
「この子、なんか待っとるみたいやろ」
私は、うん、とだけ答えた。
言葉にすると、何かが決まってしまいそうで怖かった。
家に戻ると、ゆきはまた三和土に下りた。
港の潮の匂いを、毛にいっぱい付けたままだった。
その匂いのまま、座布団に乗った。
そして座布団に座り、戸を見上げた。
時計は、夕方の五時だった。
朝と同じ時刻に、この子は一度も座らなかった。
座るのは、必ず朝の五時だけだった。
私は一度、朝の五時に玄関の戸を開けてみたことがある。
外は、まだ夜のままだった。
雪明かりで、坂だけが白く浮いていた。
ゆきは、開いた戸の外へ出ようとはしなかった。
座布団に座ったまま、坂の下を見ていた。
行きたいのではなく、待っていたのだ。
五分ほどで、私は寒さに負けて戸を閉めた。
ゆきは、閉まった戸を、もう一度見上げた。
五週目の朝の背中
五週目に入った、ある日の早朝だった。
時計の針が五時を少し回った頃、私は寝床で強く揺すられた。
夫かと思った。
違った。
ゆきが、布団の上に乗って、私の顎に頭をこすりつけていた。
一度ではない。
何かに取りつかれたように、何度も何度も擦り寄ってきた。
そんなことは、それまで一度もなかった猫だった。
「ちょっと、どうしたの」
寝ぼけたまま、私は布団から下ろした。
ゆきはすぐにまた上がってきた。
今度は夫のほうへ行って、同じように頭をこすりつけた。
「おいおい、まだ五時やぞ」
夫も下ろした。
ゆきはまた上がってきた。
何度下ろしても、やめなかった。
白い額が、私の頬に、耳に、手の甲に、順番に押しつけられる。
しこりのある首を、こちらへ向けて。
痛かったはずだ。
それでも、ゆきは首のほうから当ててきた。
痩せた体のどこに、あれだけの力が残っていたのか。
布団の綿を踏む足音が、暗い部屋にずっと響いていた。
私は、その音を、うるさいと思った。
思ってしまったことを、あとで何度も悔やんだ。
「急にどうしちゃったんだろうね」
私たちは笑いながら、そう言い合った。
笑いながら、十分ほどで、また眠ってしまった。
目が覚めたのは、七時を過ぎてからだった。
玄関を見ると、座布団は空だった。
ゆきは、台所の隅で丸くなっていた。
五時の座布団に座らなかったのは、その朝が初めてだった。
いま思えば、あの十分が、ゆきの持っていたすべてだった。
その日の昼、ゆきはずっと私の膝の上にいた。
降りようとしなかった。
私が立ち上がろうとすると、爪を立てずに前足だけを掛けてきた。
夕方、夫が帰ってくると、玄関まで歩いて迎えに出た。
それも、初めてのことだった。
「なんや、今日は愛想がええな」
夫は嬉しそうに、長いあいだ撫でていた。
三日後の雨の匂い
その日から、ゆきは何も食べなくなった。
鰹節を削っても、顔を寄せるだけで口をつけない。
二日目の夜、首のしこりが破れた。
生あたたかい膿が、木の器の縁までひろがった。
夫が黙って拭き、私が新しい布を敷いた。
獣医さんは、もう何もできないと言った。
三日目の朝、雨になった。
この冬はじめての、雪ではない雨だった。
土と草の匂いが、開けた窓から流れ込んできた。
ゆきは、夫の膝の上で、ゆっくり息をしていた。
昼過ぎに、その息が止まった。
雨音が、急に大きく聞こえた。
夫は、膝の上のゆきを、しばらく下ろさなかった。
獣医さんの診断は、何ひとつ外れていなかった。
私たちは庭の梅の木の下に、ゆきを埋めた。
座布団も一緒に入れようかと迷って、やめた。
玄関に残しておいた。
しばらくのあいだ、私は毎朝五時に目が覚めた。
廊下に出て、誰も座っていない座布団を見て、また寝床へ戻った。
四十九日が過ぎた頃、乾物屋の女将さんに、ゆきの話をした。
白い猫で、耳が折れていて、首にしこりがあったこと。
女将さんは、途中で手を止めた。
「それ、安田さんとこの猫だわ」
「安田さん」
「牛乳配達の、あの人よ」
女将さんの話は、こうだった。
安田さんという年寄りが、長く牛乳を配っていた。
毎朝五時ちょうどに、軽トラックで町内を回る。
その助手席に、いつも白い猫が乗っていたという。
配達のあいだ、猫は牛乳受けの木箱の上で待っていた。
去年の暮れに、安田さんは倒れて入院した。
施設に移るとき、猫は連れて行けなかった。
「捨てたんじゃないのよ」
女将さんは、そう繰り返した。
「連れて行けなかっただけ」
私は、あの木箱の爪あとを思い出した。
ゆきは、捨てられた場所で待っていたのではない。
毎朝、迎えに来る車を待っていたのだ。
牛乳屋の軽トラックが角を曲がるのは、いつも五時ちょうどだった。
湯たんぽを戸に近いほうへ寄せたのも、そのためだった。
私は女将さんに、安田さんの今を尋ねた。
女将さんは、少しだけ目を伏せた。
「春先に、亡くなられたよ」
日付を聞いて、私は言葉が出なくなった。
ゆきが私たちの布団の上で暴れた、あの朝だった。
五時の座布団に、ゆきが座らなかった、ただ一度の朝。
ゆきはあの朝、五時の座布団に背を向けて、私たちのほうへ来たのだった。
待つ相手がいなくなったことを、あの子は先に知っていたのだと思う。
そして、残った十分を、私たちに使った。
偶然と言ってしまえば、それまでだ。
それでも私は、あれは挨拶だったと、勝手に思っている。
もう行くから、世話になったね、と。
気の済むまで、いくらでも擦り寄らせてやればよかった。
布団から下ろした自分の手のことを、今でも悔やんでいる。
まん丸で、少しだけ悲しそうな、あの目を思い出す。
猫は恩を忘れる、という言い方がある。
あれは嘘だと、私は思っている。
似た静けさを持つ話として、未読のメッセージのことを、時々思い出す。
お盆のある日を読み返すのも、決まってこの季節だ。
座布団は、今も玄関にある。
五時になると、私はつい、そちらを見てしまう。