その年の冬、俺は毎晩、自分の失敗を膝に載せて電車に揺られていた。
義肢装具士の見習いになって、二年目だった。
採型がうまくいかない。
石膏を巻いて、足の形を写し取って、それを削って、樹脂を流す。
その工程のどこかで、俺はいつも一ミリを外していた。
一ミリ外すと、人は痛がる。
痛がられるたびに、俺は自分の指が信用できなくなった。
「お前は、見とるだけで触っとらん」
工房の親方には、そればかり言われた。
意味がわからなかった。
見ているのだから触っているのと同じだろう、と当時の俺は本気で思っていた。
その冬、俺は一人の患者さんの装具をだめにした。
七十代の男の人で、脳梗塞の後で右足に麻痺が残っていた。
採型のとき、その人は痛いとは一言も言わなかった。
出来上がった装具を履いてもらって、二歩目で顔が歪んだ。
「大丈夫です」
「大丈夫やないでしょう」
「いや、これくらいは」
その人は、俺に気を遣っていた。
痛いと言えば、若い俺がまた一からやり直しになると思ったのだ。
結局、親方が横から手を出して、その場で削り直した。
親方の指は、装具の内側を三秒撫でただけで、当たっている場所を見つけた。
俺は、その三秒がどうしてもわからなかった。
※
住んでいたのは、奈良盆地の南の外れにある古い文化住宅だった。
平屋が四軒つながっていて、玄関の前にそれぞれ沓脱ぎ石が一つずつ置いてある。
家賃が安いのと、駅から歩ける以外に取り柄のない家だった。
十二月の初め、仕事が終わって帰ると、俺の家の前に白い猫がいた。
白いといっても、薄汚れて灰色に近かった。
逃げるでもなく、寄ってくるでもなく、二メートルほどの距離を保ってこちらを見ている。
「なんや」
声をかけると、耳だけがこちらを向いた。
その日はそれだけだった。
鍵を開けて中に入り、上着も脱がずに布団に倒れ込んだ。
※
次の日、コンビニで弁当を買ったとき、なぜか猫缶を一つ余分に買った。
自分でも理由はわからなかった。
帰ると、猫はいた。
同じ距離に、同じ座り方で。
紙の容器に中身を空けて、沓脱ぎ石の上に置いて、俺は家に入った。
窓の隙間から覗くと、猫はしばらく容器を見ているだけだった。
三分ほど、微動だにしない。
腹は減っているはずだった。
肋骨の形が、毛の上からでもわかるくらいには痩せていた。
それでも、すぐには口をつけない。
誰かに一度、痛い目に遭わされた猫の間の取り方だった。
それからようやく、首を伸ばして食べ始めた。
食べ方まで遠慮がちで、俺は思わず笑ってしまった。
※
翌朝、玄関を出ると、空の容器の横にどんぐりが一つ落ちていた。
茶色くて、細長い、先の尖ったどんぐりだった。
風で転がってきたのだろうと思った。
その日も猫缶を買って帰った。
次の朝も、どんぐりが一つあった。
その次の朝も。
四日目にようやく、俺はそれが偶然ではないと認めた。
そして五日目に、もっと妙なことに気づいた。
どんぐりは、いつも沓脱ぎ石の右の端に置いてあった。
石は大人が二人並んで座れるくらいの大きさがある。
なのに、真ん中でも左でもなく、必ず右の端。
まるで、そこに置く決まりがあるみたいだった。
※
俺はその猫を、ドンと呼ぶようになった。
どんぐりのドンだ。
我ながら、ひどく安直な名前だと思う。
ドンは、あいかわらず触らせてくれなかった。
手を伸ばすと、必ず一歩分だけ下がる。
けれど、俺が帰ってくる時間には必ず玄関の前にいた。
雨の日は、庇の下で丸くなって待っていた。
「にゃー」
坂を上がってくる俺の足音がわかるらしく、姿が見える前から鳴いた。
その声を聞くために、俺はだんだん早く歩くようになった。
一月の半ばに、雪がうっすら積もった朝があった。
玄関を開けると、石の上だけ雪が溶けていた。
そこに一晩いた重さのぶんだけ、白い部分が丸く欠けていた。
俺はしばらく、その丸い跡を見ていた。
タオルを敷くようになってから、俺の帰りは少しだけ楽しみになった。
工房で怒鳴られても、電車の中で言い訳を考えなくてよくなった。
坂を上がりきったところに、待っている生き物がいる。
それだけのことが、二十四の俺にはずいぶん効いた。
その日から、俺は帰りに毎晩、古いタオルを一枚、石の上に敷いて出るようになった。
朝になると、タオルはいつも真ん中がへこんでいた。
そして右の端に、どんぐりが一つ置いてあった。
タオルの上ではなく、必ず石の上に。
親方に怒鳴られた日ほど、足が速くなった。
※
正月が明けて、俺はドンの歩き方が気になり始めた。
左の後ろ足を、ほんの少しだけ庇っている。
着地の瞬間に、体重が右前に逃げる。
それは、工房で毎日見ている歩き方だった。
痛みのある側を、体が勝手に守ろうとする動き。
「お前も、どっか痛いんか」
ドンは答えず、俺の顔を見ていた。
そのとき俺は、獣医に連れて行こうかと一瞬考えて、やめた。
触らせてもくれない猫を、どうやって籠に入れるのか。
そんなふうに理屈をつけて、俺は何もしなかった。
見ているだけで、触らなかった。
一度だけ、洗濯籠を持ち出したことがある。
中に猫缶を置いて、上から被せるつもりだった。
ドンは、籠を見た瞬間に三歩下がった。
そして、俺の顔をじっと見た。
責める目ではなかった。
ただ、こいつは何をする気だろう、と確かめている目だった。
俺は籠を家の中に戻した。
その晩、どんぐりはいつも通り置いてあった。
怒ってもいなかったのだと思う。
※
二月の日曜日、隣の家のばあさんに声をかけられた。
八十を過ぎた、大家の姉にあたる人だ。
普段は挨拶しかしない相手だった。
「あんた、あの子に餌やっとるやろ」
怒られるのかと思って身構えた。
「すみません、勝手に」
「謝らんでええ」
ばあさんは、俺の家の沓脱ぎ石を顎で示した。
「どんぐり、置いとるやろ」
「……なんで知ってるんですか」
「ずっと見とったからよ」
ばあさんは、縁側に腰を下ろすように石の左端に座った。
右端を、きれいに空けて。
「あんたが越して来る前、ここには幸子さんいう人が住んどったんよ」
「はあ」
「あの子に餌やっとったんは、幸子さんや」
俺は黙って続きを待った。
「幸子さんは、皿をな、そこに置いとった」
ばあさんの指が、石の右の端を差した。
「毎晩、そこに。雨の日も」
頭のどこかが、ゆっくり冷たくなっていくのがわかった。
「その人は、今は」
「三年前に、施設に入らはった。もう戻って来られへん」
「どんな人やったんですか」
ばあさんは、少しだけ笑った。
「けちな人やった」
「けち」
「自分の晩御飯は漬物だけの日でも、猫の缶詰だけは切らさへんかった」
「……それは、けちとは言わんのちゃいますか」
「そやから、けちや言うてんの」
ばあさんの言い回しが可笑しくて、俺は少し笑った。
笑ってから、笑っている場合ではないことに気づいた。
「三年」
「そう。この家、三年空いとったんよ。あんたが入るまで」
ばあさんは、そこで一度言葉を切った。
「あの子はな、その三年のあいだも、毎晩そこにどんぐり置いとった」
俺は口を開けたまま、何も言えなかった。
「三年も、誰も出て来ん家の前に置いとったんよ」
「その、三年のあいだは、誰が餌を」
「うちが、たまに」
ばあさんは、自分の家の玄関を親指で示した。
「うちの前にも皿を置いた。けど、あの子はうちの前には何も置かへん」
「置かない」
「食べるだけ食べて、帰る。どんぐりは、こっちや」
ばあさんはもう一度、俺の家の石の右端を指した。
「餌をくれた相手やのうて、待っとる相手のほうに置くんやろな」
俺はそのとき、自分の家の玄関を見た。
安い引き戸で、建て付けが悪くて、開けるたびに音が鳴る家だ。
三年のあいだ、その音は一度も鳴らなかった。
それでもあの猫は、毎晩そこへ来た。
音が鳴らないことを、三年かけて確かめ続けた。
そして三年目の冬に、初めて音が鳴った。
戸を開けたのは、幸子さんではなく俺だった。
それでもあの子は、逃げなかった。
※
その夜、俺は坂の上の公園まで歩いた。
ドンが持ってくるどんぐりが、どこから来ているのかを確かめたかった。
細長くて先の尖ったどんぐりは、マテバシイの実だ。
調べると、この辺りでマテバシイが生えているのは、坂の上の児童公園だけだった。
歩いて測ったら、片道で三百メートル近くあった。
途中は急な坂で、街灯が二本しかない。
俺は坂の途中で立ち止まって、上と下を交互に見た。
左の後ろ足を庇う猫が、この坂を上って、実を一つ口にくわえて、下りてくる。
一晩に一つ。
三年、それを続けた。
俺が数えていた四十いくつのどんぐりは、その三年分の、ほんの端切れだった。
マテバシイの実は、秋にしか落ちない。
ということは、あの猫は秋のうちに拾い集めて、どこかに貯めていたことになる。
冬も、春も、夏も、毎晩一つずつ運ぶために。
俺は、その貯め場所を最後まで見つけられなかった。
今でもときどき、あの坂のどこかにまだ残っているのだろうかと考える。
※
家に帰って、俺はドンの前にしゃがんだ。
「サチコ、やて」
ばあさんが最後に教えてくれた名前を呼んでみた。
幸子さんが、そう呼んでいたらしい。
ドンは、耳をぴくりと動かした。
それだけだった。
けれど俺には、それで十分だった。
俺が二か月呼んでいた名前より、その名前のほうがずっと長く、この猫のものだった。
「勝手に名前つけて、悪かったな」
ドンは、いつもの距離のまま座っていた。
「あんた、俺のこと待っとったんちゃうやろ」
声に出してから、胸が詰まった。
この猫が待っていたのは、俺ではない。
三年前にいなくなった人だ。
俺はただ、その家に後から入ってきただけの人間だった。
※
次の日、ばあさんにその話をした。
自分は代わりにもなっていない、と。
ばあさんは、湯呑みを持ったまま、しばらく庭を見ていた。
「あんた、あの子が鳴くようになったん、いつからか知っとる」
「え」
「あんたが来てからよ」
春先に、俺は押し入れの上の段から、古い紙袋を見つけたことがある。
前の住人が置いていったものだった。
中身は、洗って干した猫缶の空き缶が、十いくつ。
捨てるつもりで、捨てられなかったのだろう。
俺はそれを、そのまま元の場所に戻した。
俺は顔を上げた。
「三年間、あの子は一遍も鳴かんかった。置いて、帰るだけ」
ばあさんは湯呑みを置いた。
「どんぐりは幸子さんのぶんや。あれは癖みたいなもんやろ」
「はい」
「けど、鳴くんは、あんたのぶんや」
その夜、坂を上がりながら、俺は「にゃー」を待った。
いつもの場所で、いつものように、それは聞こえた。
その声が、急に別のものに聞こえた。
※
三月の初め、朝の冷え込みがきつい日だった。
玄関を開けると、沓脱ぎ石の右の端に、どんぐりが一つ置いてあった。
いつもと同じだった。
違ったのは、石の陰に、ドンがいたことだ。
丸くなって、目を閉じていた。
その姿勢が、あまりに普段どおりだった。
だから俺は、しばらく声をかけていた。
おい、と。
寒いやろ、と。
返事がないことに気づくのに、たっぷり一分かかった。
俺は靴も履かずに石の上に降りた。
初めて、その体に触れた。
白い毛は、思っていたよりずっと硬かった。
外で三年以上暮らした毛だった。
左の後ろ足に触れると、関節の形が変わっているのがわかった。
古い骨折が、そのまま固まったものだ。
仕事柄、触ればわかる。
坂を上るたびに、そこが痛んだはずだった。
そして、冷たかった。
二か月のあいだ一度も許されなかったことが、そのときやっと許された。
俺は、見ているだけで触らない人間だった。
親方の言葉の意味が、そのときようやくわかった。
※
ドンは、坂の上の公園に埋めた。
マテバシイの根元に、深く掘った。
三年ぶん通った道の、いちばん上のところだ。
スコップを返しに行く途中で、俺は一度だけ振り返った。
実が、地面いっぱいに落ちていた。
あの猫は、この中から毎晩、一つだけ選んでいたのだ。
どれでもいいはずのものを、一つだけ。
その選ぶ時間のことを考えて、俺は坂の途中でしゃがみ込んだ。
埋めた場所には、石を置かなかった。
公園だから、いつか誰かが動かしてしまう。
代わりに、俺は歩数を覚えた。
ブランコの支柱から、木の根元まで十四歩。
その数字を、今も覚えている。
年に一度、俺はその公園に行く。
ブランコの支柱に手を置いて、十四歩数える。
足の長さは変わらないから、いつも同じ場所に着く。
木は毎年、少しずつ実を落としている。
※
その年の八月、帰省の代わりに、俺は近くの川の灯籠流しに行った。
この土地では、盆の終わりに小さな灯籠を川に流す。
受付で紙をもらい、名前を書く欄に、俺は二つ書いた。
サチコ。
ドン。
同じ猫の名前を二つ並べるのは、たぶん正しい書き方ではない。
けれど、片方だけにするのはどうしてもできなかった。
幸子さんが呼んだ名前と、俺が呼んだ名前。
あの猫は、その両方を持っていた。
幸子さんに、この話を伝える方法はなかった。
ばあさんによると、その頃にはもう、人の顔もわからなくなっていたそうだ。
それでも施設の人が言うには、窓の外に猫が通ると、いつも目で追っていたらしい。
名前を呼ぶことはなかった。
ただ、見えなくなるまで、首を動かしていたという。
受付のおばさんが、二つの名前を見て何か言いたそうにした。
けれど、何も聞かずに判子を押してくれた。
川原には、同じように紙を書いている人が何十人もいた。
みんな、それぞれの名前を書いていた。
誰の名前なのか、互いに聞く人はいなかった。
川面に置くと、灯籠はゆっくりと流れ出した。
下流に堰があるせいで、灯籠はいったん川の真ん中に集まる。
橋の上から見ると、その光の集まりは、二等辺三角形をしていた。
冬の駅前に立っていた、飾りつけの木によく似ていた。
俺が初めてドンに会った日に、光っていたやつだ。
※
あれから六年が経った。
俺は今も同じ工房で働いている。
採型は、まだ完璧にはできない。
ただ、石膏を巻く前に、必ず一度、素手で相手の足に触れるようになった。
温度と、硬さと、庇っている方向。
それは目では絶対にわからない。
先月、初めて担当した患者さんが、待合室まで自分で歩いて出てきた。
その歩き方に、痛みを逃がす癖がなかった。
俺は事務所の裏に出て、しばらく空を見ていた。
親方が煙草を吸いに出てきて、俺の隣に立った。
「泣くほどのことか」
「泣いてません」
「そうか」
親方はそれ以上何も言わずに、煙を吐いた。
「触れるようになったな」
「……はい」
「何があったんか知らんけどな」
俺は、猫の話はしなかった。
説明できる気がしなかったし、説明しなくてもいい気がした。
※
引っ越した今の家にも、玄関の前に石がある。
秋になると、俺はときどき公園でどんぐりを拾って帰る。
そして、石の右の端に一つ置く。
誰のためでもない。
ただ、置く側の気持ちを、少しだけ知っておきたいのだと思う。
置いても、誰も出てこない。
それでも次の日、また置きに行く。
三年続けられるものだろうかと、毎年考える。
考えるたびに、俺には無理だと思う。
あれは、お礼なんかじゃなかった。
いなくなった相手のところへ、毎晩通い続けるための、口実だったのだ。