どんぐり

その年の冬、俺は毎晩、自分の失敗を膝に載せて電車に揺られていた。

義肢装具士の見習いになって、二年目だった。

採型がうまくいかない。

石膏を巻いて、足の形を写し取って、それを削って、樹脂を流す。

その工程のどこかで、俺はいつも一ミリを外していた。

一ミリ外すと、人は痛がる。

痛がられるたびに、俺は自分の指が信用できなくなった。

「お前は、見とるだけで触っとらん」

工房の親方には、そればかり言われた。

意味がわからなかった。

見ているのだから触っているのと同じだろう、と当時の俺は本気で思っていた。

その冬、俺は一人の患者さんの装具をだめにした。

七十代の男の人で、脳梗塞の後で右足に麻痺が残っていた。

採型のとき、その人は痛いとは一言も言わなかった。

出来上がった装具を履いてもらって、二歩目で顔が歪んだ。

「大丈夫です」

「大丈夫やないでしょう」

「いや、これくらいは」

その人は、俺に気を遣っていた。

痛いと言えば、若い俺がまた一からやり直しになると思ったのだ。

結局、親方が横から手を出して、その場で削り直した。

親方の指は、装具の内側を三秒撫でただけで、当たっている場所を見つけた。

俺は、その三秒がどうしてもわからなかった。

住んでいたのは、奈良盆地の南の外れにある古い文化住宅だった。

平屋が四軒つながっていて、玄関の前にそれぞれ沓脱ぎ石が一つずつ置いてある。

家賃が安いのと、駅から歩ける以外に取り柄のない家だった。

十二月の初め、仕事が終わって帰ると、俺の家の前に白い猫がいた。

白いといっても、薄汚れて灰色に近かった。

逃げるでもなく、寄ってくるでもなく、二メートルほどの距離を保ってこちらを見ている。

「なんや」

声をかけると、耳だけがこちらを向いた。

その日はそれだけだった。

鍵を開けて中に入り、上着も脱がずに布団に倒れ込んだ。

次の日、コンビニで弁当を買ったとき、なぜか猫缶を一つ余分に買った。

自分でも理由はわからなかった。

帰ると、猫はいた。

同じ距離に、同じ座り方で。

紙の容器に中身を空けて、沓脱ぎ石の上に置いて、俺は家に入った。

窓の隙間から覗くと、猫はしばらく容器を見ているだけだった。

三分ほど、微動だにしない。

腹は減っているはずだった。

肋骨の形が、毛の上からでもわかるくらいには痩せていた。

それでも、すぐには口をつけない。

誰かに一度、痛い目に遭わされた猫の間の取り方だった。

それからようやく、首を伸ばして食べ始めた。

食べ方まで遠慮がちで、俺は思わず笑ってしまった。

翌朝、玄関を出ると、空の容器の横にどんぐりが一つ落ちていた。

茶色くて、細長い、先の尖ったどんぐりだった。

風で転がってきたのだろうと思った。

その日も猫缶を買って帰った。

次の朝も、どんぐりが一つあった。

その次の朝も。

四日目にようやく、俺はそれが偶然ではないと認めた。

そして五日目に、もっと妙なことに気づいた。

どんぐりは、いつも沓脱ぎ石の右の端に置いてあった。

石は大人が二人並んで座れるくらいの大きさがある。

なのに、真ん中でも左でもなく、必ず右の端。

まるで、そこに置く決まりがあるみたいだった。

俺はその猫を、ドンと呼ぶようになった。

どんぐりのドンだ。

我ながら、ひどく安直な名前だと思う。

ドンは、あいかわらず触らせてくれなかった。

手を伸ばすと、必ず一歩分だけ下がる。

けれど、俺が帰ってくる時間には必ず玄関の前にいた。

雨の日は、庇の下で丸くなって待っていた。

「にゃー」

坂を上がってくる俺の足音がわかるらしく、姿が見える前から鳴いた。

その声を聞くために、俺はだんだん早く歩くようになった。

一月の半ばに、雪がうっすら積もった朝があった。

玄関を開けると、石の上だけ雪が溶けていた。

そこに一晩いた重さのぶんだけ、白い部分が丸く欠けていた。

俺はしばらく、その丸い跡を見ていた。

タオルを敷くようになってから、俺の帰りは少しだけ楽しみになった。

工房で怒鳴られても、電車の中で言い訳を考えなくてよくなった。

坂を上がりきったところに、待っている生き物がいる。

それだけのことが、二十四の俺にはずいぶん効いた。

その日から、俺は帰りに毎晩、古いタオルを一枚、石の上に敷いて出るようになった。

朝になると、タオルはいつも真ん中がへこんでいた。

そして右の端に、どんぐりが一つ置いてあった。

タオルの上ではなく、必ず石の上に。

親方に怒鳴られた日ほど、足が速くなった。

正月が明けて、俺はドンの歩き方が気になり始めた。

左の後ろ足を、ほんの少しだけ庇っている。

着地の瞬間に、体重が右前に逃げる。

それは、工房で毎日見ている歩き方だった。

痛みのある側を、体が勝手に守ろうとする動き。

「お前も、どっか痛いんか」

ドンは答えず、俺の顔を見ていた。

そのとき俺は、獣医に連れて行こうかと一瞬考えて、やめた。

触らせてもくれない猫を、どうやって籠に入れるのか。

そんなふうに理屈をつけて、俺は何もしなかった。

見ているだけで、触らなかった。

一度だけ、洗濯籠を持ち出したことがある。

中に猫缶を置いて、上から被せるつもりだった。

ドンは、籠を見た瞬間に三歩下がった。

そして、俺の顔をじっと見た。

責める目ではなかった。

ただ、こいつは何をする気だろう、と確かめている目だった。

俺は籠を家の中に戻した。

その晩、どんぐりはいつも通り置いてあった。

怒ってもいなかったのだと思う。

二月の日曜日、隣の家のばあさんに声をかけられた。

八十を過ぎた、大家の姉にあたる人だ。

普段は挨拶しかしない相手だった。

「あんた、あの子に餌やっとるやろ」

怒られるのかと思って身構えた。

「すみません、勝手に」

「謝らんでええ」

ばあさんは、俺の家の沓脱ぎ石を顎で示した。

「どんぐり、置いとるやろ」

「……なんで知ってるんですか」

「ずっと見とったからよ」

ばあさんは、縁側に腰を下ろすように石の左端に座った。

右端を、きれいに空けて。

「あんたが越して来る前、ここには幸子さんいう人が住んどったんよ」

「はあ」

「あの子に餌やっとったんは、幸子さんや」

俺は黙って続きを待った。

「幸子さんは、皿をな、そこに置いとった」

ばあさんの指が、石の右の端を差した。

「毎晩、そこに。雨の日も」

頭のどこかが、ゆっくり冷たくなっていくのがわかった。

「その人は、今は」

「三年前に、施設に入らはった。もう戻って来られへん」

「どんな人やったんですか」

ばあさんは、少しだけ笑った。

「けちな人やった」

「けち」

「自分の晩御飯は漬物だけの日でも、猫の缶詰だけは切らさへんかった」

「……それは、けちとは言わんのちゃいますか」

「そやから、けちや言うてんの」

ばあさんの言い回しが可笑しくて、俺は少し笑った。

笑ってから、笑っている場合ではないことに気づいた。

「三年」

「そう。この家、三年空いとったんよ。あんたが入るまで」

ばあさんは、そこで一度言葉を切った。

「あの子はな、その三年のあいだも、毎晩そこにどんぐり置いとった」

俺は口を開けたまま、何も言えなかった。

「三年も、誰も出て来ん家の前に置いとったんよ」

「その、三年のあいだは、誰が餌を」

「うちが、たまに」

ばあさんは、自分の家の玄関を親指で示した。

「うちの前にも皿を置いた。けど、あの子はうちの前には何も置かへん」

「置かない」

「食べるだけ食べて、帰る。どんぐりは、こっちや」

ばあさんはもう一度、俺の家の石の右端を指した。

「餌をくれた相手やのうて、待っとる相手のほうに置くんやろな」

俺はそのとき、自分の家の玄関を見た。

安い引き戸で、建て付けが悪くて、開けるたびに音が鳴る家だ。

三年のあいだ、その音は一度も鳴らなかった。

それでもあの猫は、毎晩そこへ来た。

音が鳴らないことを、三年かけて確かめ続けた。

そして三年目の冬に、初めて音が鳴った。

戸を開けたのは、幸子さんではなく俺だった。

それでもあの子は、逃げなかった。

その夜、俺は坂の上の公園まで歩いた。

ドンが持ってくるどんぐりが、どこから来ているのかを確かめたかった。

細長くて先の尖ったどんぐりは、マテバシイの実だ。

調べると、この辺りでマテバシイが生えているのは、坂の上の児童公園だけだった。

歩いて測ったら、片道で三百メートル近くあった。

途中は急な坂で、街灯が二本しかない。

俺は坂の途中で立ち止まって、上と下を交互に見た。

左の後ろ足を庇う猫が、この坂を上って、実を一つ口にくわえて、下りてくる。

一晩に一つ。

三年、それを続けた。

俺が数えていた四十いくつのどんぐりは、その三年分の、ほんの端切れだった。

マテバシイの実は、秋にしか落ちない。

ということは、あの猫は秋のうちに拾い集めて、どこかに貯めていたことになる。

冬も、春も、夏も、毎晩一つずつ運ぶために。

俺は、その貯め場所を最後まで見つけられなかった。

今でもときどき、あの坂のどこかにまだ残っているのだろうかと考える。

家に帰って、俺はドンの前にしゃがんだ。

「サチコ、やて」

ばあさんが最後に教えてくれた名前を呼んでみた。

幸子さんが、そう呼んでいたらしい。

ドンは、耳をぴくりと動かした。

それだけだった。

けれど俺には、それで十分だった。

俺が二か月呼んでいた名前より、その名前のほうがずっと長く、この猫のものだった。

「勝手に名前つけて、悪かったな」

ドンは、いつもの距離のまま座っていた。

「あんた、俺のこと待っとったんちゃうやろ」

声に出してから、胸が詰まった。

この猫が待っていたのは、俺ではない。

三年前にいなくなった人だ。

俺はただ、その家に後から入ってきただけの人間だった。

次の日、ばあさんにその話をした。

自分は代わりにもなっていない、と。

ばあさんは、湯呑みを持ったまま、しばらく庭を見ていた。

「あんた、あの子が鳴くようになったん、いつからか知っとる」

「え」

「あんたが来てからよ」

春先に、俺は押し入れの上の段から、古い紙袋を見つけたことがある。

前の住人が置いていったものだった。

中身は、洗って干した猫缶の空き缶が、十いくつ。

捨てるつもりで、捨てられなかったのだろう。

俺はそれを、そのまま元の場所に戻した。

俺は顔を上げた。

「三年間、あの子は一遍も鳴かんかった。置いて、帰るだけ」

ばあさんは湯呑みを置いた。

「どんぐりは幸子さんのぶんや。あれは癖みたいなもんやろ」

「はい」

「けど、鳴くんは、あんたのぶんや」

その夜、坂を上がりながら、俺は「にゃー」を待った。

いつもの場所で、いつものように、それは聞こえた。

その声が、急に別のものに聞こえた。

三月の初め、朝の冷え込みがきつい日だった。

玄関を開けると、沓脱ぎ石の右の端に、どんぐりが一つ置いてあった。

いつもと同じだった。

違ったのは、石の陰に、ドンがいたことだ。

丸くなって、目を閉じていた。

その姿勢が、あまりに普段どおりだった。

だから俺は、しばらく声をかけていた。

おい、と。

寒いやろ、と。

返事がないことに気づくのに、たっぷり一分かかった。

俺は靴も履かずに石の上に降りた。

初めて、その体に触れた。

白い毛は、思っていたよりずっと硬かった。

外で三年以上暮らした毛だった。

左の後ろ足に触れると、関節の形が変わっているのがわかった。

古い骨折が、そのまま固まったものだ。

仕事柄、触ればわかる。

坂を上るたびに、そこが痛んだはずだった。

そして、冷たかった。

二か月のあいだ一度も許されなかったことが、そのときやっと許された。

俺は、見ているだけで触らない人間だった。

親方の言葉の意味が、そのときようやくわかった。

ドンは、坂の上の公園に埋めた。

マテバシイの根元に、深く掘った。

三年ぶん通った道の、いちばん上のところだ。

スコップを返しに行く途中で、俺は一度だけ振り返った。

実が、地面いっぱいに落ちていた。

あの猫は、この中から毎晩、一つだけ選んでいたのだ。

どれでもいいはずのものを、一つだけ。

その選ぶ時間のことを考えて、俺は坂の途中でしゃがみ込んだ。

埋めた場所には、石を置かなかった。

公園だから、いつか誰かが動かしてしまう。

代わりに、俺は歩数を覚えた。

ブランコの支柱から、木の根元まで十四歩。

その数字を、今も覚えている。

年に一度、俺はその公園に行く。

ブランコの支柱に手を置いて、十四歩数える。

足の長さは変わらないから、いつも同じ場所に着く。

木は毎年、少しずつ実を落としている。

その年の八月、帰省の代わりに、俺は近くの川の灯籠流しに行った。

この土地では、盆の終わりに小さな灯籠を川に流す。

受付で紙をもらい、名前を書く欄に、俺は二つ書いた。

サチコ。

ドン。

同じ猫の名前を二つ並べるのは、たぶん正しい書き方ではない。

けれど、片方だけにするのはどうしてもできなかった。

幸子さんが呼んだ名前と、俺が呼んだ名前。

あの猫は、その両方を持っていた。

幸子さんに、この話を伝える方法はなかった。

ばあさんによると、その頃にはもう、人の顔もわからなくなっていたそうだ。

それでも施設の人が言うには、窓の外に猫が通ると、いつも目で追っていたらしい。

名前を呼ぶことはなかった。

ただ、見えなくなるまで、首を動かしていたという。

受付のおばさんが、二つの名前を見て何か言いたそうにした。

けれど、何も聞かずに判子を押してくれた。

川原には、同じように紙を書いている人が何十人もいた。

みんな、それぞれの名前を書いていた。

誰の名前なのか、互いに聞く人はいなかった。

川面に置くと、灯籠はゆっくりと流れ出した。

下流に堰があるせいで、灯籠はいったん川の真ん中に集まる。

橋の上から見ると、その光の集まりは、二等辺三角形をしていた。

冬の駅前に立っていた、飾りつけの木によく似ていた。

俺が初めてドンに会った日に、光っていたやつだ。

あれから六年が経った。

俺は今も同じ工房で働いている。

採型は、まだ完璧にはできない。

ただ、石膏を巻く前に、必ず一度、素手で相手の足に触れるようになった。

温度と、硬さと、庇っている方向。

それは目では絶対にわからない。

先月、初めて担当した患者さんが、待合室まで自分で歩いて出てきた。

その歩き方に、痛みを逃がす癖がなかった。

俺は事務所の裏に出て、しばらく空を見ていた。

親方が煙草を吸いに出てきて、俺の隣に立った。

「泣くほどのことか」

「泣いてません」

「そうか」

親方はそれ以上何も言わずに、煙を吐いた。

「触れるようになったな」

「……はい」

「何があったんか知らんけどな」

俺は、猫の話はしなかった。

説明できる気がしなかったし、説明しなくてもいい気がした。

引っ越した今の家にも、玄関の前に石がある。

秋になると、俺はときどき公園でどんぐりを拾って帰る。

そして、石の右の端に一つ置く。

誰のためでもない。

ただ、置く側の気持ちを、少しだけ知っておきたいのだと思う。

置いても、誰も出てこない。

それでも次の日、また置きに行く。

三年続けられるものだろうかと、毎年考える。

考えるたびに、俺には無理だと思う。

あれは、お礼なんかじゃなかった。

いなくなった相手のところへ、毎晩通い続けるための、口実だったのだ。

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