その子は、雪の降る朝、私の布団の上で生まれました。
高校生だった私の、電気毛布のぬくもりの上で。
母猫が産んだ五匹のうち、最後まで貰い手のつかなかった一匹でした。
小さな体に、琥珀色の縞があったので、私はその子を「こはく」と名づけました。
家で飼うと決めたとき、母は少しだけ困った顔をして、それから笑いました。
「あんたが面倒みるんだよ」
はい、と私は迷わず答えました。
五匹のうち、三匹は近所の人が、一匹は同級生がもらってくれました。
段ボール箱から一匹ずつ消えていくたび、母猫は鳴き、私も少しだけ泣きました。
最後に残ったのが、いちばん小さくて、いちばん泣き虫の、この子でした。
手のひらに乗せると、まだ目もよく見えていないのに、私の指を一生懸命に探しました。
その小さな爪の感触を、私は今でも覚えています。
※
こはくは、私のあとをどこへでもついて来る子でした。
私が怖がりなのを知っていたのでしょうか。
お風呂に入ると、脱衣所のマットの上にちんまり座って、私が出てくるのをじっと待っていました。
湯気で曇った扉の向こうに、小さな影がいつもありました。
学校から帰ると、玄関で必ず出迎えてくれました。
きちんと前足を揃えて、お座りをして。
嫌なことがあった日は、何も言わずに、ただ隣にいてくれました。
こはくは、私の宝物でした。
※
港町の冬は風が強くて、夜になると窓がかたかたと鳴ります。
そんな夜も、こはくが布団に潜り込んでくると、急に世界がやわらかくなりました。
喉を鳴らす音が、波の音に重なって聞こえました。
私はその音を子守唄に、何年も眠ってきたのです。
※
夏になると、こはくは縁側のいちばん風の通る場所を陣取りました。
遠くで花火が上がる晩、私はこはくを膝に乗せて、その音を一緒に聞きました。
こはくは大きな音が苦手で、私の腕の中で小さく丸まっていました。
私が守ってあげているつもりが、本当はいつも、守られていたのは私のほうでした。
※
受験勉強をしていた夜のことも、よく覚えています。
机に向かう私の手元に、こはくは決まってちょっかいを出しました。
シャープペンを転がし、参考書のページの上に、どっかりと寝そべるのです。
「邪魔だよ」と言いながら、私はその背中を撫でていました。
成績が思うように伸びず、机に突っ伏して泣いた夜もありました。
そんなとき、こはくは私の頬に、そっと頭を押し当ててきました。
言葉のかわりに、ぬくもりで励ましてくれているようでした。
※
高校の終わり頃、初めて人を好きになって、初めて失恋もしました。
布団にもぐって声を殺して泣いていると、こはくが布団の中に入ってきました。
涙でぬれた私の頬を、ざらりとした舌で、何度もなめてくれました。
あの夜のこはくの体温を、私は一生忘れないと思います。
港町の潮の匂いと、こはくの匂いが、私の思春期そのものでした。
※
二十歳を過ぎた頃、私に初めて恋人ができました。
彼もこはくを可愛がってくれて、私はそれが何より嬉しかった。
こはくは、彼の膝の上でも、よく喉を鳴らしていました。
付き合って二年、私たちは結婚を決め、町を離れて暮らすことになりました。
こはくを連れて行くべきか、私は何度も迷いました。
けれど慣れた家のほうが、この子は幸せだろうと、母も言いました。
だから私は、こはくを実家に置いて、家を出ました。
家を出る朝、こはくは、いつもより長く私の足にすり寄ってきました。
何かを察していたのかもしれません。
車に荷物を積み込む私を、こはくは窓辺からじっと見ていました。
ガラス越しの、その小さなシルエットを、私はわざと見ないようにしました。
見てしまったら、決心が鈍ってしまいそうだったからです。
車が角を曲がるまで、こはくはずっと、同じ場所に座っていました。
※
離れて暮らすようになってからも、私は毎日のように母に電話をしました。
こはくの様子を聞くためです。
「毎日夕方になると、玄関で待ってるよ」
母はいつも、そう言いました。
「もう帰って来ないよって教えても、ずっと、玄関で待ってるの」
その言葉を聞くたび、私の胸は締めつけられました。
私は、いちばん私を待ってくれている子を、置いてきてしまったのです。
季節が巡り、母の電話の内容も少しずつ変わっていきました。
「最近、寝てる時間が長くなったよ」
「ごはんの食べる量が、減ってきたかねえ」
こはくも、もう若くはないのだと、私は電話越しに感じていました。
それでも夕方になると、玄関で待つ習慣だけは、変わらなかったそうです。
※
ある週末、久しぶりに実家へ帰りました。
玄関の戸を開けると、こはくはやっぱり、そこにいました。
前足を揃えて、お座りをして。
私の顔を見上げると、ひと声だけ、小さく鳴きました。
叱るような、甘えるような、その鳴き方を、私は今でも覚えています。
私は床に座り込んで、こはくを抱きしめました。
ごめんね、と何度も言いました。
※
結婚して一年が過ぎた頃、私のお腹に新しい命が宿りました。
予定日は、冬のはじめでした。
出産が近づいた頃、私は身体を休めるため、実家に帰っていました。
赤ちゃんが生まれたら、こはくと遊ばせたいな。
そんなことを考えては、ひとりでにやけていました。
こはくは、大きくなった私のお腹に、よく頬をすり寄せてきました。
中の命に、挨拶をしているようでした。
※
ところが、予定日の十日ほど前から、こはくの元気がなくなりました。
ごはんを残し、日向でうずくまっている時間が増えました。
近所の動物病院へ連れて行くと、「この薬を飲んでいれば大丈夫」と言われました。
けれど薬を飲ませても、こはくは日に日に弱っていきました。
二日経っても、三日経っても、良くなる気配がありません。
私は別の病院へ、こはくを連れて行きました。
※
レントゲンを撮った先生は、画像を指さして、静かに言いました。
「お腹の中に、膿が大量にたまっています」
そのまま、即入院ということになりました。
私が帰ろうとすると、こはくが鳴きました。
これまで、別れ際に鳴くことなど一度もなかったのに。
「なんで置いていくの」
「私も帰る」
そう言っているような、精いっぱいの声でした。
それが、私が聞いたこはくの、最後の声になりました。
帰り道、私は泣きながら、長いあいだ車を運転できませんでした。
病院の駐車場で、私はしばらく車を出せませんでした。
ハンドルに額をつけて、こはくの最後の鳴き声を、何度も思い返していました。
フロントガラスの向こうで、街灯がにじんで見えました。
※
その夜中、突然、陣痛が来ました。
予定よりも、ずいぶん早い夜でした。
母に病院へ連れて行ってもらいましたが、赤ちゃんはなかなか出てきてくれません。
夜が明け、昼を過ぎ、夕方になって、ようやく女の子が生まれました。
小さな、けれど力いっぱい泣く子でした。
分娩室の外で、母がずっと手を握っていてくれました。
痛みの合間に、私はなぜか、こはくが布団に潜り込んできた夜のことを思い出していました。
あのぬくもりに、もう一度だけ触れたいと、強く願いました。
その泣き声を聞きながら、私はこはくのことを思っていました。
入院しているこはくは、今ごろ、どうしているだろう。
※
出産の翌朝、私は不思議な夢を見ました。
元気だった頃のこはくが、私のそばで、ころころと転がって遊んでいる夢でした。
あんなに穏やかなこはくの姿を見たのは、久しぶりでした。
後にも先にも、こはくの夢を見たのは、その一度きりです。
目を覚ました私は、なぜか確信していました。
きっとこはくは、大丈夫なんだ、と。
その日、見舞いに来た母にこはくの容態を聞くと、母は少しだけ、返事を濁しました。
「まだ、どうなるか分からないけど……こはくも、頑張ってるよ」
私はその言葉を、信じることにしました。
※
何日かして、私は娘を連れて退院しました。
赤ちゃんのいる暮らしは、嵐のように慌ただしく過ぎていきました。
ある日、母が、思いつめた顔で私の前に座りました。
「言わなきゃいけないことが、あるんだよ」
その声で、私は何かを察しました。
実家へ帰ると、こはくは、座布団の上で眠っているように見えました。
本当に、ただ眠っているようにしか、見えませんでした。
けれど抱き上げると、その体は、固く、冷たくなっていました。
※
母は、私があの夢を見た朝に、病院から電話が来たのだと教えてくれました。
私が「こはくは大丈夫だ」と思っていた、まさにその朝でした。
こはくは、私が娘を産んだのと同じ夜を越えて、ひとりで逝ったのです。
私は、いちばんそばにいたかった子を、知らない場所で、ひとりぼっちにしてしまいました。
母にも、つらい嘘を、ずっと吐かせ続けてしまいました。
こうして書いている今でも、涙が止まりません。
私はその冷たい体を抱いたまま、長いあいだ動けませんでした。
いつも私を待っていた玄関に、もうこはくの姿はありません。
夕方になると、私はつい、玄関のほうを見てしまいます。
待っていてくれる小さな影を、今でも探してしまうのです。
あのとき、どうしていれば、こはくは助かったのだろう。
こはくが入院した病院の前を、私は今でも通れません。
あの白い建物を見ると、最後の鳴き声が、耳の奥でよみがえるのです。
助けられなかった、という言葉が、何年経っても胸の底に沈んでいます。
それでも、こはくと過ごした日々を、私は一度も後悔したことはありません。
あの子がくれたぬくもりが、今の私を、確かに支えてくれているからです。
その問いだけが、いつまでも頭から離れないのです。
※
あれから二年が経ちました。
娘は、よちよちと歩き、たくさんの言葉を覚えました。
私に似て、猫が大好きな子です。
道で猫を見かけると、立ち止まって、いつまでも見送っています。
※
つい先日のことです。
娘が突然、何もない廊下の隅を指さして、はっきりとこう言いました。
「ねこ、いるよ」
私は、思わずその場に立ち尽くしました。
その廊下は、こはくがいつも、私を待っていた場所でした。
偶然かもしれません。
幼い子の、ただの空想かもしれません。
それでも私は、こはくだったらいいな、と思うのです。
それから何日かして、娘がまた、同じ廊下に向かって手を伸ばしました。
まるで、何かをそっと撫でているような仕草でした。
「ねこ、なでなで」
娘は嬉しそうに、誰もいない空間に笑いかけていました。
私はその後ろ姿を見ながら、声を出さずに泣きました。
こはくは、まだこの家で、私たちを待っていてくれるのかもしれません。
娘の名前には、こはくの「こ」の音を、こっそり忍ばせました。
誰にも言っていない、私だけの小さな約束です。
あの子が生きた証を、新しい命の中に、少しだけ残したかったのです。
夜、娘を寝かしつけながら、私は今でも喉を鳴らす音を探してしまいます。
波の音にまぎれて、ふと聞こえる気がする夜もあるのです。
※
こはくへ。
あなたに会えて、私は、すごくすごく幸せでした。
あなたは、幸せだったかな。
いつも玄関で、待たせてばかりでごめんね。
最後の最後に、ひとりにしてしまって、ごめんね。
きっと向こうでも、また待たせてしまうね。
だからどうか、もう少しだけ、待っていてください。
私のところに来てくれて、本当にありがとう。
大好きだよ。
いつか夢でも、おばけでもいいから、もう一度だけ会いに来てね。