一年間、同棲していた彼が、逝った。
大きな喧嘩をした、その夜だった。家を出ていった彼が、交差点で、車にはねられた。
本当に、突然のことだった。心の準備をする時間など、一秒も、与えられなかった。
※
その日は、付き合って三年目の、記念日だった。
彼と出会ったのは、四年前の、春だった。
わたしが、ひとり暮らしのアパートに置く、小さな本棚を探して、彼の工房を訪ねたのが、はじまりだった。
彼は、わたしの話を、長いこと、丁寧に聞いた。どんな本を、何冊くらい持っているのか。部屋の、どこに置くのか。
「使う人のことを、ちゃんと知らないと、いい家具は、できないから」
そう言って、彼は、真剣な顔で、メモを取っていた。木くずのついた作業着が、よく似合う人だった。
出来上がった本棚は、わたしの部屋に、もとからあったように、すっと、馴染んだ。
その丁寧さに、わたしは、惹かれたのだと思う。木に向かうのと同じ手つきで、彼は、わたしのことも、大切に扱ってくれた。
彼は、家具職人だった。木の匂いのする工房で、人の暮らしに寄り添う、椅子や机をつくる人だった。
わたしたちが食事をする小さなダイニングテーブルも、彼が、わたしのために、ひと冬かけてつくってくれたものだった。
角を、まるく削ってあった。「君は、よくぶつかるからさ」と、彼は、はにかみながら言った。
去年の記念日のことを、わたしは、ふと、思い出した。
あの年も、彼は、料理をつくって、待っていてくれた。
その日は、わたしも、定時で上がれて、まだ温かい料理を、二人で囲むことができた。
「来年も、再来年も、ずっと、ここで、こうして食べような」
彼は、めずらしく、そんなことを、口にした。照れたように、すぐに、下を向いて。
わたしは、当たり前だよ、と、笑って答えた。その「来年」が、来ないなんて、思いもせずに。
わたしは、総合病院の、夜勤の多い看護師だった。
一緒に暮らしはじめてからも、彼は、口下手なままだった。
愛している、とか、好きだ、とか、そういう言葉を、彼は、ほとんど口にしなかった。
その代わりに、彼は、ものをつくった。
わたしが、夜勤で疲れて帰る日には、玄関に、小さな木の踏み台が、置かれるようになった。
「君、いつも、上の棚に届かないって、言ってたから」
洗面所の歯ブラシ立ても、台所の鍋敷きも、いつのまにか、彼の手づくりのものに、変わっていた。
言葉にしない代わりに、彼は、わたしの暮らしの、隅々に、優しさを、置いていった。
わたしは、それを、当たり前のように、受け取っていた。ありがとうの一言さえ、ろくに、言わずに。
彼は、夜勤明けのわたしを、よく、迎えに来てくれた。
病院の通用口で、缶コーヒーを二本持って、眠そうな顔で、立っていた。
「おつかれ。寒かっただろ」
一本は、わたしの好きな、微糖のコーヒー。もう一本は、自分のブラック。
二人で、白い息を吐きながら、それを飲んで、家まで、歩いて帰った。
あの缶コーヒーの、手のひらに伝わる温かさを、わたしは、いまでも、よく覚えている。
だから、遺品の中に、未開封の缶コーヒーを見たとき、わたしは、すべてが、わかってしまったのだ。
記念日のその日も、急患が重なって、約束の時間に、どうしても帰ることができなかった。
※
わたしが、くたくたになって帰宅したのは、約束より、二時間も遅い時刻だった。
テーブルの上には、彼が腕によりをかけてつくった料理が、すっかり冷めて、並んでいた。
湯気の消えたシチュー。固くなったパン。火を落とした、ぬるい鍋。
その日の彼は、いつもと、違っていた。
わたしが、いつものように、ごめん、と軽く詫びて済まそうとすると、彼は、めずらしく、きつい口調で言った。
「今日が、何の日か、わかってる?」
「電話の一本くらい、できたんじゃないの」
※
わたしも、その日は、ひどく疲れていた。
立て続けの急変対応で、神経が、すり減りきっていた。仕事のことを、まだ、引きずっていた。
そんな彼の言葉に、わたしの中で、何かが、ぷつりと切れた。
「もういい! こんな、些細なことで、そこまで怒ることないでしょう!」
「あなたは、いつも、自分の都合でしか、ものを考えられないの?」
言ってしまってから、しまった、と思った。けれど、口から出た言葉は、もう、戻らなかった。
彼は、黙った。
何か言いかけて、けれど、結局、何も言わずに、ただ、うつむいた。
その沈黙が、わたしには、いたたまれなかった。
いま思えば、あの沈黙は、彼が、必死に、言葉を探していた時間だったのだと思う。
喧嘩をしたあの夜、わたしが投げつけた、ひどい言葉。
あなたは、自分の都合でしか、ものを考えられないの。
いまになって思う。あれは、そっくりそのまま、わたし自身のことだった。
自分の疲れを言い訳にして、彼の気持ちを、考えようとしなかったのは、わたしのほうだった。
彼は、料理が冷めたことを、怒っていたのではなかった。
記念日に、わたしと一緒にいられる時間が、また少し、削られたことを、寂しがっていただけだった。
口下手な彼は、わたしのように、すらすらと、言い返すことができなかった。
ただ、うつむいて、自分の中の気持ちを、どう伝えればいいのか、わからずにいた。
そんな彼を置いて、わたしは、ドアを、強く閉めて、出ていったのだ。
※
少し、頭を冷やそう。
わたしは、黙って席を立ち、上着をひっかけて、一度、家を出た。
近所の、いつも行く、小さな喫茶店。
窓際の席で、温かいコーヒーを頼んで、三十分ほど、ひとりで時間をつぶした。
カップの湯気を見つめているうちに、少しずつ、頭が、冷えていった。
そして、わたしは、考えはじめた。
※
あの人だって、ただ、怒りに任せて、わたしを責めたわけじゃない。
それだけ、今日という日を、大切に思ってくれていたから、ではないのか。
ひと冬かけて、テーブルをつくる人だ。記念日の料理だって、何日も前から、考えていたのかもしれない。
それを思うと、明らかに、わたしの態度のほうが、ひどかった。
わたしは、彼に、謝ろうと思った。
温かいうちに食べられなくて、ごめん。きつい言い方をして、ごめん。
伝えたい言葉を、頭の中で、いくつも並べながら、わたしは、家路を急いだ。
※
けれど、家に帰ると、彼は、いなかった。
テーブルの上の、冷めた料理は、そのままだった。
そして、彼の携帯電話が、ダイニングの机の上に、置き去りにされていた。
几帳面なあの人が、携帯を忘れて出かけるなんて、めずらしいことだった。
近くにいるのかもしれない。そう思って、わたしは、もう一度、家を出た。
※
わたしは、近所を、歩いて回った。
いつも二人で散歩する、川沿いの道。よく行く、公園のベンチ。コンビニの前の、明かりの下。
けれど、どこにも、彼の姿は、なかった。
彼の実家にも、電話をしてみた。仲のいい友人の家にも、かけてみた。
けれど、誰も、彼が来ているとは、言わなかった。
妙な胸騒ぎが、少しずつ、大きくなっていった。それでも、わたしは、それを、見ないふりをした。
歩きながら、わたしの胸の中では、後悔と、苛立ちが、入り混じっていた。
早く帰ってきてよ。心配させないでよ。そんなことばかりを、考えていた。
まさか、彼が、わたしを追いかけて、外に出ているとは、思いもしなかった。
わたしが、喫茶店で意地を張っていた、あの三十分のあいだに。
彼は、暗い夜道を、わたしの好きなコーヒーを探して、歩いていたのだ。
※
家に帰って、二時間が、経った。
わたしは、ソファに座って、彼の携帯電話を、握りしめていた。
帰ってきたら、頬を、つねってやろう。そう思っていた。
いくら何でも、心配させすぎだ。悪戯が、過ぎる。
明日は、二人とも休みだから、こんなふうに、わたしを困らせて、遊んでいるんだろう。
きっと、ふらりと帰ってきて、ばつの悪そうな顔をして、ごめん、と笑うんだろう。
――それが、彼と過ごした、最後の夜になるなんて、わたしは、思ってもみなかった。
※
電話が鳴ったのは、深夜を、回ったころだった。
警察からの、連絡だった。
事故の現場は、家のすぐ近くにある、一方通行の、十字路だった。
わたしたちが、いつも、手をつないで渡っていた、あの交差点だ。
横の道から、出てきた車と、衝突した。即死だった、と、聞かされた。
※
事故の、時刻。
それは、夜の、二十二時二十分だった。
わたしが、頭を冷やすと言って、あの家を出てから。
ちょうど、十分後のことだった。
※
わたしは、変わり果てた彼と、対面した。
そして、彼が、そのとき、身につけていたものを、見せられた。
遺品は、たった、三つだった。
一本の、まだ未開封の、缶コーヒー。
わたしの、薄手の、カーディガン。
それから、小銭が、百二十円。
※
わたしは、その三つを見た瞬間に、すべてを、理解した。
未開封の缶コーヒー。それは、わたしが、夜勤明けにいつも飲む、わたしの好きな銘柄だった。
わたしの、カーディガン。その夜は、急に冷え込んでいた。彼は、薄着で出ていったわたしが、風邪をひかないように、それを、届けようとしていたのだ。
そして、百二十円。それは、自動販売機で、わたしのための、温かい飲み物を、もう一本、買うための、お金だった。
※
彼は、わたしを、追いかけてきたのだ。
喧嘩をして、ひどい言葉をぶつけられて、それでも。
あの人は、わたしが寒くないように、カーディガンを手に取り、わたしの好きなコーヒーを買って、暗い夜道を、喫茶店へ、向かっていた。
あの、不器用な人が。きつい言葉を、ひとつも言い返せずに、ただ、うつむいていた、あの人が。
その細やかな気遣いの、ひとつひとつに、彼の、深い、深い愛情が、こもっていた。
わたしは、それを、彼が、もう、いなくなってから、知った。
※
一緒に、帰りたかった。
その言葉を、わたしは、冷たくなった彼の前で、心の中で、何度も、何度も、呟いた。
あの夜、家を出るとき、ひとこと、待ってて、と言えばよかった。
あの喫茶店から、すぐに、帰ればよかった。三十分も、意地を張らなければよかった。
そうすれば、わたしたちは、あの交差点を、また、二人で、手をつないで、渡れたはずだった。
※
彼という存在が、どれほど大きかったか。
失って、はじめて、その輪郭の大きさに、気づいた。
角をまるく削った、あのテーブル。冷めてしまった、記念日の料理。机に残された、携帯電話。
そのすべてが、彼が、わたしを、どれだけ大切に思ってくれていたかを、語っていた。
わたしは、ただ、情けなくて、悔しくて、たまらなかった。
葬儀のあと、わたしは、彼の工房に、ひとりで行った。
作りかけの椅子が、一脚、ぽつんと、残されていた。
小ぶりで、座面の低い、女性向けの、優しい形の椅子だった。
工房の主人だった、彼の師匠が、ぽつりと、教えてくれた。
「あれはな、あいつが、君のために、こっそり作ってたんだ」
「記念日に、渡すんだって、言ってたよ」
わたしは、その、まだ背もたれもついていない椅子の前に、座り込んで、動けなくなった。
角は、もう、まるく削られていた。わたしが、ぶつかっても、痛くないように。
工房に残されていた、あの小さな椅子は、彼の師匠が、最後まで、仕上げてくれた。
いまは、わたしの部屋の、テーブルのそばに、置いてある。
わたしは、ときどき、その椅子に、座ってみる。
座面の低い、優しい形の椅子は、まるで、彼の腕の中に、すっぽりと、おさまるようだった。
彼は、こうやって、わたしを、座らせたかったのだろう。記念日の夜に。
通夜の夜、彼のご両親が、わたしに、深く頭を下げた。
「うちの息子と、暮らしてくれて、ありがとう」
わたしは、何も、言えなかった。最後の夜に、ひどい言葉をぶつけたのは、わたしなのだ。
謝りたかった相手は、もう、棺の中で、静かに、目を閉じていた。
わたしは、彼の冷たい頬に、そっと触れて、心の中で、ようやく、ごめんね、と言った。
あの夜、わたしが家を出るとき、彼は、何か言いたそうに、顔を上げた。
けれど、わたしは、その顔を見ずに、ドアを閉めた。
いま思えば、あれが、わたしが見た、彼の、最後の表情だった。
あのとき、彼が、何を言おうとしていたのか。
わたしは、それを、一生、知ることができない。
きっと、ごめん、だったのか。それとも、気をつけて、だったのか。
どちらにしても、彼は、わたしを、責める言葉ではなく、わたしを思う言葉を、探していたに違いない。
そういう人だった。最後の最後まで、自分より、わたしのことを、考えるような、人だった。
彼の工房の木の匂いを、わたしは、いまも、ふとした瞬間に、思い出す。それは、もう二度と、嗅ぐことのできない匂いだ。
返事は、もう、永遠に、聞けなかった。
事故の知らせを聞いてから、わたしは、長いあいだ、あの交差点を、通れなくなった。
二人で、何百回と、手をつないで渡った、あの一方通行の十字路。
そこが、彼の、最期の場所になったことが、どうしても、受け入れられなかった。
けれど、最近になって、ようやく、わたしは、そこを通れるようになった。
渡るたびに、心の中で、彼に、ただいま、と、声をかけるようにしている。
※
あれから、ずいぶんと、時が経った。
わたしは、いまも、あの角のまるいテーブルで、ひとり、食事をしている。
ぶつかっても、痛くないように。彼が、そう言って、削ってくれたテーブルだ。
このテーブルにつくたび、わたしは、彼の、はにかんだ顔を、思い出す。
そして、あの夜、彼が握りしめていた、缶コーヒーの、冷たさを、思う。
伝えそびれた、ごめんと、ありがとうを、わたしは、いまも、このテーブルに向かって、呟いている。
記念日には、いまも、彼の好きだった料理を、ひとり分だけ、つくる。
そして、角のまるいテーブルに、ふた皿、並べる。ひと皿は、彼のために。
湯気が消えてしまう前に、わたしは、いただきます、と、小さく言う。
返事はないけれど、それでいい。一緒に食べている。そう思える時間が、わたしには、必要なのだ。
あの夜、わたしが、ほんの少しだけ、優しくなれていたら。
あの一言を、飲み込めていたら。あの三十分を、意地で、潰さなければ。
何度、そう考えても、時間は、戻らない。
それでも、わたしは、彼が遺してくれた、たくさんの優しさの中で、いまも、生きている。
踏み台。鍋敷き。歯ブラシ立て。そして、角のまるい、このテーブル。
言葉にしなかった彼の愛は、かたちになって、いまも、わたしの暮らしを、支え続けている。
愛していると、言葉で言われたことは、ほとんどなかった。
でも、彼の愛は、踏み台になり、椅子になり、缶コーヒーの温かさになって、ずっと、そばにあった。
言葉より、確かなものだった。
だから、わたしは、もう、泣いてばかりはいられない。
彼が遺してくれた優しさに、恥じないように、生きていこうと思う。
それが、伝えそびれた、ありがとうの、わたしなりの返し方だから。
一緒に帰りたかった。その思いだけは、何年経っても、少しも、薄れることがない。