彼との最後の夜

一年間、同棲していた彼が、逝った。

大きな喧嘩をした、その夜だった。家を出ていった彼が、交差点で、車にはねられた。

本当に、突然のことだった。心の準備をする時間など、一秒も、与えられなかった。

その日は、付き合って三年目の、記念日だった。

彼と出会ったのは、四年前の、春だった。

わたしが、ひとり暮らしのアパートに置く、小さな本棚を探して、彼の工房を訪ねたのが、はじまりだった。

彼は、わたしの話を、長いこと、丁寧に聞いた。どんな本を、何冊くらい持っているのか。部屋の、どこに置くのか。

「使う人のことを、ちゃんと知らないと、いい家具は、できないから」

そう言って、彼は、真剣な顔で、メモを取っていた。木くずのついた作業着が、よく似合う人だった。

出来上がった本棚は、わたしの部屋に、もとからあったように、すっと、馴染んだ。

その丁寧さに、わたしは、惹かれたのだと思う。木に向かうのと同じ手つきで、彼は、わたしのことも、大切に扱ってくれた。

彼は、家具職人だった。木の匂いのする工房で、人の暮らしに寄り添う、椅子や机をつくる人だった。

わたしたちが食事をする小さなダイニングテーブルも、彼が、わたしのために、ひと冬かけてつくってくれたものだった。

角を、まるく削ってあった。「君は、よくぶつかるからさ」と、彼は、はにかみながら言った。

去年の記念日のことを、わたしは、ふと、思い出した。

あの年も、彼は、料理をつくって、待っていてくれた。

その日は、わたしも、定時で上がれて、まだ温かい料理を、二人で囲むことができた。

「来年も、再来年も、ずっと、ここで、こうして食べような」

彼は、めずらしく、そんなことを、口にした。照れたように、すぐに、下を向いて。

わたしは、当たり前だよ、と、笑って答えた。その「来年」が、来ないなんて、思いもせずに。

わたしは、総合病院の、夜勤の多い看護師だった。

一緒に暮らしはじめてからも、彼は、口下手なままだった。

愛している、とか、好きだ、とか、そういう言葉を、彼は、ほとんど口にしなかった。

その代わりに、彼は、ものをつくった。

わたしが、夜勤で疲れて帰る日には、玄関に、小さな木の踏み台が、置かれるようになった。

「君、いつも、上の棚に届かないって、言ってたから」

洗面所の歯ブラシ立ても、台所の鍋敷きも、いつのまにか、彼の手づくりのものに、変わっていた。

言葉にしない代わりに、彼は、わたしの暮らしの、隅々に、優しさを、置いていった。

わたしは、それを、当たり前のように、受け取っていた。ありがとうの一言さえ、ろくに、言わずに。

彼は、夜勤明けのわたしを、よく、迎えに来てくれた。

病院の通用口で、缶コーヒーを二本持って、眠そうな顔で、立っていた。

「おつかれ。寒かっただろ」

一本は、わたしの好きな、微糖のコーヒー。もう一本は、自分のブラック。

二人で、白い息を吐きながら、それを飲んで、家まで、歩いて帰った。

あの缶コーヒーの、手のひらに伝わる温かさを、わたしは、いまでも、よく覚えている。

だから、遺品の中に、未開封の缶コーヒーを見たとき、わたしは、すべてが、わかってしまったのだ。

記念日のその日も、急患が重なって、約束の時間に、どうしても帰ることができなかった。

わたしが、くたくたになって帰宅したのは、約束より、二時間も遅い時刻だった。

テーブルの上には、彼が腕によりをかけてつくった料理が、すっかり冷めて、並んでいた。

湯気の消えたシチュー。固くなったパン。火を落とした、ぬるい鍋。

その日の彼は、いつもと、違っていた。

わたしが、いつものように、ごめん、と軽く詫びて済まそうとすると、彼は、めずらしく、きつい口調で言った。

「今日が、何の日か、わかってる?」

「電話の一本くらい、できたんじゃないの」

わたしも、その日は、ひどく疲れていた。

立て続けの急変対応で、神経が、すり減りきっていた。仕事のことを、まだ、引きずっていた。

そんな彼の言葉に、わたしの中で、何かが、ぷつりと切れた。

「もういい! こんな、些細なことで、そこまで怒ることないでしょう!」

「あなたは、いつも、自分の都合でしか、ものを考えられないの?」

言ってしまってから、しまった、と思った。けれど、口から出た言葉は、もう、戻らなかった。

彼は、黙った。

何か言いかけて、けれど、結局、何も言わずに、ただ、うつむいた。

その沈黙が、わたしには、いたたまれなかった。

いま思えば、あの沈黙は、彼が、必死に、言葉を探していた時間だったのだと思う。

喧嘩をしたあの夜、わたしが投げつけた、ひどい言葉。

あなたは、自分の都合でしか、ものを考えられないの。

いまになって思う。あれは、そっくりそのまま、わたし自身のことだった。

自分の疲れを言い訳にして、彼の気持ちを、考えようとしなかったのは、わたしのほうだった。

彼は、料理が冷めたことを、怒っていたのではなかった。

記念日に、わたしと一緒にいられる時間が、また少し、削られたことを、寂しがっていただけだった。

口下手な彼は、わたしのように、すらすらと、言い返すことができなかった。

ただ、うつむいて、自分の中の気持ちを、どう伝えればいいのか、わからずにいた。

そんな彼を置いて、わたしは、ドアを、強く閉めて、出ていったのだ。

少し、頭を冷やそう。

わたしは、黙って席を立ち、上着をひっかけて、一度、家を出た。

近所の、いつも行く、小さな喫茶店。

窓際の席で、温かいコーヒーを頼んで、三十分ほど、ひとりで時間をつぶした。

カップの湯気を見つめているうちに、少しずつ、頭が、冷えていった。

そして、わたしは、考えはじめた。

あの人だって、ただ、怒りに任せて、わたしを責めたわけじゃない。

それだけ、今日という日を、大切に思ってくれていたから、ではないのか。

ひと冬かけて、テーブルをつくる人だ。記念日の料理だって、何日も前から、考えていたのかもしれない。

それを思うと、明らかに、わたしの態度のほうが、ひどかった。

わたしは、彼に、謝ろうと思った。

温かいうちに食べられなくて、ごめん。きつい言い方をして、ごめん。

伝えたい言葉を、頭の中で、いくつも並べながら、わたしは、家路を急いだ。

けれど、家に帰ると、彼は、いなかった。

テーブルの上の、冷めた料理は、そのままだった。

そして、彼の携帯電話が、ダイニングの机の上に、置き去りにされていた。

几帳面なあの人が、携帯を忘れて出かけるなんて、めずらしいことだった。

近くにいるのかもしれない。そう思って、わたしは、もう一度、家を出た。

わたしは、近所を、歩いて回った。

いつも二人で散歩する、川沿いの道。よく行く、公園のベンチ。コンビニの前の、明かりの下。

けれど、どこにも、彼の姿は、なかった。

彼の実家にも、電話をしてみた。仲のいい友人の家にも、かけてみた。

けれど、誰も、彼が来ているとは、言わなかった。

妙な胸騒ぎが、少しずつ、大きくなっていった。それでも、わたしは、それを、見ないふりをした。

歩きながら、わたしの胸の中では、後悔と、苛立ちが、入り混じっていた。

早く帰ってきてよ。心配させないでよ。そんなことばかりを、考えていた。

まさか、彼が、わたしを追いかけて、外に出ているとは、思いもしなかった。

わたしが、喫茶店で意地を張っていた、あの三十分のあいだに。

彼は、暗い夜道を、わたしの好きなコーヒーを探して、歩いていたのだ。

家に帰って、二時間が、経った。

わたしは、ソファに座って、彼の携帯電話を、握りしめていた。

帰ってきたら、頬を、つねってやろう。そう思っていた。

いくら何でも、心配させすぎだ。悪戯が、過ぎる。

明日は、二人とも休みだから、こんなふうに、わたしを困らせて、遊んでいるんだろう。

きっと、ふらりと帰ってきて、ばつの悪そうな顔をして、ごめん、と笑うんだろう。

――それが、彼と過ごした、最後の夜になるなんて、わたしは、思ってもみなかった。

電話が鳴ったのは、深夜を、回ったころだった。

警察からの、連絡だった。

事故の現場は、家のすぐ近くにある、一方通行の、十字路だった。

わたしたちが、いつも、手をつないで渡っていた、あの交差点だ。

横の道から、出てきた車と、衝突した。即死だった、と、聞かされた。

事故の、時刻。

それは、夜の、二十二時二十分だった。

わたしが、頭を冷やすと言って、あの家を出てから。

ちょうど、十分後のことだった。

わたしは、変わり果てた彼と、対面した。

そして、彼が、そのとき、身につけていたものを、見せられた。

遺品は、たった、三つだった。

一本の、まだ未開封の、缶コーヒー。

わたしの、薄手の、カーディガン。

それから、小銭が、百二十円。

わたしは、その三つを見た瞬間に、すべてを、理解した。

未開封の缶コーヒー。それは、わたしが、夜勤明けにいつも飲む、わたしの好きな銘柄だった。

わたしの、カーディガン。その夜は、急に冷え込んでいた。彼は、薄着で出ていったわたしが、風邪をひかないように、それを、届けようとしていたのだ。

そして、百二十円。それは、自動販売機で、わたしのための、温かい飲み物を、もう一本、買うための、お金だった。

彼は、わたしを、追いかけてきたのだ。

喧嘩をして、ひどい言葉をぶつけられて、それでも。

あの人は、わたしが寒くないように、カーディガンを手に取り、わたしの好きなコーヒーを買って、暗い夜道を、喫茶店へ、向かっていた。

あの、不器用な人が。きつい言葉を、ひとつも言い返せずに、ただ、うつむいていた、あの人が。

その細やかな気遣いの、ひとつひとつに、彼の、深い、深い愛情が、こもっていた。

わたしは、それを、彼が、もう、いなくなってから、知った。

一緒に、帰りたかった。

その言葉を、わたしは、冷たくなった彼の前で、心の中で、何度も、何度も、呟いた。

あの夜、家を出るとき、ひとこと、待ってて、と言えばよかった。

あの喫茶店から、すぐに、帰ればよかった。三十分も、意地を張らなければよかった。

そうすれば、わたしたちは、あの交差点を、また、二人で、手をつないで、渡れたはずだった。

彼という存在が、どれほど大きかったか。

失って、はじめて、その輪郭の大きさに、気づいた。

角をまるく削った、あのテーブル。冷めてしまった、記念日の料理。机に残された、携帯電話。

そのすべてが、彼が、わたしを、どれだけ大切に思ってくれていたかを、語っていた。

わたしは、ただ、情けなくて、悔しくて、たまらなかった。

葬儀のあと、わたしは、彼の工房に、ひとりで行った。

作りかけの椅子が、一脚、ぽつんと、残されていた。

小ぶりで、座面の低い、女性向けの、優しい形の椅子だった。

工房の主人だった、彼の師匠が、ぽつりと、教えてくれた。

「あれはな、あいつが、君のために、こっそり作ってたんだ」

「記念日に、渡すんだって、言ってたよ」

わたしは、その、まだ背もたれもついていない椅子の前に、座り込んで、動けなくなった。

角は、もう、まるく削られていた。わたしが、ぶつかっても、痛くないように。

工房に残されていた、あの小さな椅子は、彼の師匠が、最後まで、仕上げてくれた。

いまは、わたしの部屋の、テーブルのそばに、置いてある。

わたしは、ときどき、その椅子に、座ってみる。

座面の低い、優しい形の椅子は、まるで、彼の腕の中に、すっぽりと、おさまるようだった。

彼は、こうやって、わたしを、座らせたかったのだろう。記念日の夜に。

通夜の夜、彼のご両親が、わたしに、深く頭を下げた。

「うちの息子と、暮らしてくれて、ありがとう」

わたしは、何も、言えなかった。最後の夜に、ひどい言葉をぶつけたのは、わたしなのだ。

謝りたかった相手は、もう、棺の中で、静かに、目を閉じていた。

わたしは、彼の冷たい頬に、そっと触れて、心の中で、ようやく、ごめんね、と言った。

あの夜、わたしが家を出るとき、彼は、何か言いたそうに、顔を上げた。

けれど、わたしは、その顔を見ずに、ドアを閉めた。

いま思えば、あれが、わたしが見た、彼の、最後の表情だった。

あのとき、彼が、何を言おうとしていたのか。

わたしは、それを、一生、知ることができない。

きっと、ごめん、だったのか。それとも、気をつけて、だったのか。

どちらにしても、彼は、わたしを、責める言葉ではなく、わたしを思う言葉を、探していたに違いない。

そういう人だった。最後の最後まで、自分より、わたしのことを、考えるような、人だった。

彼の工房の木の匂いを、わたしは、いまも、ふとした瞬間に、思い出す。それは、もう二度と、嗅ぐことのできない匂いだ。

返事は、もう、永遠に、聞けなかった。

事故の知らせを聞いてから、わたしは、長いあいだ、あの交差点を、通れなくなった。

二人で、何百回と、手をつないで渡った、あの一方通行の十字路。

そこが、彼の、最期の場所になったことが、どうしても、受け入れられなかった。

けれど、最近になって、ようやく、わたしは、そこを通れるようになった。

渡るたびに、心の中で、彼に、ただいま、と、声をかけるようにしている。

あれから、ずいぶんと、時が経った。

わたしは、いまも、あの角のまるいテーブルで、ひとり、食事をしている。

ぶつかっても、痛くないように。彼が、そう言って、削ってくれたテーブルだ。

このテーブルにつくたび、わたしは、彼の、はにかんだ顔を、思い出す。

そして、あの夜、彼が握りしめていた、缶コーヒーの、冷たさを、思う。

伝えそびれた、ごめんと、ありがとうを、わたしは、いまも、このテーブルに向かって、呟いている。

記念日には、いまも、彼の好きだった料理を、ひとり分だけ、つくる。

そして、角のまるいテーブルに、ふた皿、並べる。ひと皿は、彼のために。

湯気が消えてしまう前に、わたしは、いただきます、と、小さく言う。

返事はないけれど、それでいい。一緒に食べている。そう思える時間が、わたしには、必要なのだ。

あの夜、わたしが、ほんの少しだけ、優しくなれていたら。

あの一言を、飲み込めていたら。あの三十分を、意地で、潰さなければ。

何度、そう考えても、時間は、戻らない。

それでも、わたしは、彼が遺してくれた、たくさんの優しさの中で、いまも、生きている。

踏み台。鍋敷き。歯ブラシ立て。そして、角のまるい、このテーブル。

言葉にしなかった彼の愛は、かたちになって、いまも、わたしの暮らしを、支え続けている。

愛していると、言葉で言われたことは、ほとんどなかった。

でも、彼の愛は、踏み台になり、椅子になり、缶コーヒーの温かさになって、ずっと、そばにあった。

言葉より、確かなものだった。

だから、わたしは、もう、泣いてばかりはいられない。

彼が遺してくれた優しさに、恥じないように、生きていこうと思う。

それが、伝えそびれた、ありがとうの、わたしなりの返し方だから。

一緒に帰りたかった。その思いだけは、何年経っても、少しも、薄れることがない。

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