彼からの手紙

私は今でも、はっきりと覚えています。

彼に恋をした、あの日のことを。

潮の匂いのする小さな港町で、私たちはいつも一緒でした。

三年経った今も、私はあの冬の海を、忘れることができずにいます。

彼とは、幼稚園の頃からの幼なじみでした。

家が隣同士で、物心ついたときには、もう毎日のように一緒に遊んでいました。

彼は、口数は少ないけれど、優しい子でした。

私が園で、些細なことを理由に、ほかの子から責められていたときのことです。

みんなが私を遠巻きにする中で、彼だけが、そっと隣に来てくれました。

そして、何も言わずに、私の手を、ぎゅっと握ってくれたのです。

その手の温かさを、私は今でも、手のひらに覚えています。

私が彼に恋をしたのは、たぶん、あの瞬間でした。

まだ恋という言葉も知らない、幼い私の、はじめての気持ちでした。

それからの私は、子どもなりに、一生懸命アピールをしていました。

「ねえ、好きだよ」

臆面もなく、そんなことを言っていたのですから、ずいぶんませた子どもでした。

彼はいつも、顔を真っ赤にするだけで、何も答えてはくれませんでした。

でも、嫌がる様子もなく、私のそばを離れることもありませんでした。

「いっしょに帰ろう」

そう言うと、彼は黙ってうなずいて、私のかばんを半分持ってくれました。

浜辺で貝殻を拾ったり、防波堤に並んで座って、船が出ていくのを眺めたり。

そんな何気ない時間が、私にとっては、世界のすべてでした。

夏祭りの夜のことも、よく覚えています。

人混みではぐれそうになった私の手を、彼は当たり前のように、つないでくれました。

「迷子になるなよ」

そっけない言い方なのに、その手は、決して離れませんでした。

打ち上げ花火が夜空に咲くたびに、彼の横顔が、赤く青く照らされました。

私はその夜、花火よりも、彼の横顔ばかりを見ていました。

「来年も、いっしょに来ようね」

そう約束したのを、今でも覚えています。

あの頃の私たちは、未来が、いくらでも続いていくものだと信じていました。

幼い頃、私たちには、二人だけの秘密の場所がありました。

古い灯台の下の、岩場のくぼみです。

そこに、お気に入りの貝殻を、二人で隠していました。

「これは、ぼくたちの宝物だからな」

彼は、そう言って、いちばん大きな桜貝を、私にくれました。

その桜貝を、私は今でも、お守りのように持っています。

色あせても、つやを失っても、私にとっては、世界でいちばんの宝物です。

彼がくれた優しさは、いつも、こんなふうに、形になって残っていました。

あの桜貝を握りしめると、今でも、彼の手の温もりがよみがえる気がします。

離れていても、想いは消えない。私は、そう信じています。

小学校までは一緒でしたが、中学校は、別々の学区になりました。

会える時間が減ると、私は急に、自分の気持ちが恥ずかしくなってしまいました。

思春期というのは、不思議なものです。

あんなに素直だったのに、好きという言葉が、どうしても言えなくなりました。

小学校からの友だちに冷やかされるたびに、私は慌てて否定しました。

「べつに、そんなんじゃないってば」

本当は、誰よりも彼のことが好きだったのに。

彼との距離は、少しずつ、離れていったような気がしました。

それでも、私の中の彼への気持ちだけは、冷めることがありませんでした。

私は、彼と同じ高校に行きたい一心で、必死に勉強しました。

そして、その願いは叶いました。

入学式の日、廊下で彼と再会したとき、胸が高鳴ったのを覚えています。

「久しぶり。元気だった?」

彼はそう言って、昔と変わらない、はにかんだ笑顔を見せてくれました。

高校での三年間は、まるで中学で失った時間を取り戻すように、また一緒に過ごしました。

放課後、二人で寄り道をして、海沿いの道を自転車で走りました。

彼は相変わらず口下手で、私はあいかわらず、おしゃべりでした。

でも、その凸凹が、私たちにはちょうどよかったのです。

彼の隣にいるだけで、私はいつも、満たされていました。

高校二年の文化祭で、私たちは同じ実行委員になりました。

夜遅くまで準備をした帰り道、彼がぽつりと言いました。

「お前と一緒だと、なんでか、しんどいことも楽しいな」

その一言に、私の心臓は、跳ね上がりました。

今だ、と思いました。今こそ、気持ちを伝えるときだと。

けれど、いざとなると、言葉が喉の奥でつかえて、出てきませんでした。

「……うん。私も」

結局、私が言えたのは、それだけでした。

あのとき勇気を出していれば、と、私は今でも悔やんでいます。

高校の三年間で、いちばん幸せだったのは、放課後の何でもない時間でした。

二人で自転車を並べて、海沿いの坂道を、ゆっくりと下っていきます。

夕日が、私たちの影を、長く長く、アスファルトに伸ばしていました。

彼は、たまにふざけて、両手を離して自転車をこぎました。

「危ないってば」

私が叱ると、彼は子どものように笑いました。

その笑い声が、潮風に乗って、どこまでも遠くへ流れていきました。

あの坂道を、私は今も、ひとりでは下れずにいます。

高校三年の冬、彼が、進学のために東京へ出ることが決まりました。

その知らせを聞いたとき、私はようやく、覚悟を決めました。

彼が東京へ発つと決まってから、私はずっと、落ち着かない日々を過ごしていました。

離れてしまえば、もう二度と、この気持ちを伝えられないかもしれない。

そう思うと、胸の奥が、きゅっと締めつけられました。

それでも、最後の最後で、私はようやく勇気を出せたのです。

間に合わせたかった。彼が、この町を離れる前に。

あと一日。たった、あと一日だけ、時間があれば。

私は今でも、そう思わずにはいられません。

もう、気持ちを隠している場合ではないと。

彼が旅立つ前の日は、ちょうど彼の誕生日でした。

私は、誕生日のお祝いと、長いあいだ言えなかった告白を、同じ日にしようと決めました。

待ち合わせは、いつもの防波堤。夕暮れの海が見える、あの場所です。

マフラーを編み、小さなプレゼントを用意して、私は何度も練習しました。

「ずっと、好きでした」

鏡の前で、その一言を、何十回も繰り返しました。

胸が、はちきれそうでした。

告白の前の夜、私は眠れませんでした。

何度も練習した言葉を、口の中で繰り返しました。

編みかけのマフラーは、不器用な私の手の中で、なかなか仕上がりませんでした。

それでも、明日は彼の誕生日。どうしても、間に合わせたかったのです。

夜が更けるまで、私は一目ずつ、彼を想いながら、毛糸を編み続けました。

明日は、きっと、すべてがうまくいく。

そう信じて、私はようやく、目を閉じました。

約束の日。

私は、いつもより少しだけおしゃれをして、防波堤で彼を待ちました。

冷たい潮風が、頬を刺しました。

待っているあいだ、私はずっと、彼に渡す言葉を頭の中で並べていました。

誕生日おめでとう。それから、ずっと好きでした。

順番を間違えないようにと、何度も心の中で唱えました。

水平線に沈んでいく夕日が、海を、燃えるような橙色に染めていました。

こんなにきれいな夕暮れに告白できるなんて、なんて幸せなのだろうと思いました。

その幸せが、ほんの数時間後に砕け散るなんて、私は知る由もありませんでした。

約束の時間になっても、彼は来ませんでした。

三十分、一時間。日が、水平線の向こうに沈んでいきました。

彼が、約束をすっぽかすような人でないことは、よく分かっていました。

だからこそ、嫌な予感が、少しずつ胸に広がっていきました。

もう帰ろうかと、立ち上がりかけたそのとき、携帯電話が鳴りました。

母からでした。

「あんた、今どこにいるの」

母の声は、ふだんと、明らかに違っていました。

「海の、防波堤のところ」

「今すぐお父さんと迎えに行くから、そこを動かないで待ってなさい」

尋常でない、その早口を、私は今でも覚えています。

数分もしないうちに、両親の車が来ました。

乗るなり、訳も分からないまま、私は病院へと連れていかれました。

車の中で、両親は何も話してくれませんでした。

ただ、母の握る私の手が、震えていました。

病院に着くと、そこには、学校の先生と、彼のご両親がいました。

みんなの顔が、青ざめていました。

私の足りない頭では、何が起きているのか、すぐには理解できませんでした。

先生に連れられて行った先は、病室ではありませんでした。

薄暗く、ひんやりとした、知らない部屋でした。

そこに、誰かが、静かに横たわっていました。

顔には、白い布が、そっとかけられていました。

そこで、ようやく私の頭は、現実に追いつきました。

そっと近づいて、その布を取ろうとした私を、彼のお母さんが止めました。

「見ない方がいい。あの子の、きれいなままの顔を、覚えていてあげて」

その言葉で、すべてを悟りました。

彼は、私に会いに来る途中で、事故に遭ったのだと、あとで聞きました。

凍結した夜道で、彼のバイクが、スリップしたのだそうです。

即死だった、と。

私は、その事実を、どうしても受け止めることができませんでした。

今にも彼が、「嘘だよ」と笑いながら、起き上がるんじゃないか。

また、いつものように、私の名前を呼んでくれるんじゃないか。

そう思って、私はただ、彼のそばに立ち尽くしていました。

起きて、と心の中で何度も呼びかけました。

どうして、と、答えの返らない問いを、繰り返しました。

どうして、彼じゃなきゃいけなかったのでしょう。

私に会いに来ようとしたから、彼は事故に遭った。

もし私が告白なんて考えなければ、彼は今も、生きていたのかもしれない。

そう思うと、自分を責める気持ちで、息ができなくなりました。

冷たくなった彼の手を、私は、どうしても離せませんでした。

周りから聞こえる泣き声と、自分の耳鳴りだけが、頭の中に響いていました。

両親に促されても、私は、彼のそばを離れたくありませんでした。

葬儀の日のことは、断片的にしか、覚えていません。

たくさんの人が泣いていました。

彼の遺影は、いつものはにかんだ笑顔で、まっすぐにこちらを見ていました。

その笑顔を見た瞬間、私はその場に、崩れ落ちてしまいました。

渡せなかったマフラーを、私はずっと、かばんの中に抱えていました。

彼の首にかけてあげることは、もう、できないのだと。

その事実が、波のように、何度も何度も、私を打ちのめしました。

抜け殻のようになった私に、彼のお母さんが、一通の手紙を渡してくれました。

彼が、その日、持っていたものだそうです。

私に、渡すつもりだったのかもしれません。

手紙は、ぐしゃぐしゃに折れ、ところどころ、血で汚れていました。

彼のお母さんは、手紙を渡しながら、涙をこらえて言いました。

「あの子、あなたのことばかり、話してたのよ」

その言葉が、私の胸に、深く深く、突き刺さりました。

私だけが片想いだと思っていた。でも、そうではなかったのです。

私たちは、ずっと、お互いを想い合っていたのです。

私は、それを読むことができませんでした。

読んでしまったら、彼が本当に死んだことを、認めてしまう気がして。

私は、現実から、ずっと逃げ続けていました。

病院からの帰り道、私は車の窓に、ずっと額をつけていました。

流れていく夜の景色が、涙でぼやけて、何も見えませんでした。

あんなに何度も通った海沿いの道が、まるで知らない場所のように感じられました。

彼のいない世界は、こんなにも、色を失ってしまうのかと思いました。

家に帰っても、私はしばらく、誰とも話せませんでした。

ただ、彼との思い出を、ひとつひとつ、心の中で数えていました。

つないだ手の温もりを、はにかんだ笑顔を、低い声を。

忘れたくない。ぜったいに、忘れたくない。

私は布団の中で、声を殺して、一晩中泣き続けました。

この三年間、私は何度も、立ち止まりました。

楽しいことがあっても、ふとした瞬間に、彼を思い出してしまうのです。

海沿いの道を通るたびに、隣に彼がいないことが、信じられませんでした。

友人たちは、新しい恋をしなよと、優しく言ってくれました。

でも、私の心は、あの防波堤に、置き去りにされたままでした。

彼の手紙は、机の引き出しの、いちばん奥にしまってありました。

何度も開けようとして、何度も、閉じました。

読むことは、彼の死を認めること。

私には、その勇気が、どうしても出せなかったのです。

あれから、三年が経ちました。

私はずっと、彼への気持ちを、消すことができずにいました。

そして、あの血のついた手紙を、今日まで、開くことができずにいました。

けれど、もうそろそろ、彼を自由にしてあげなければ、と思いました。

いつまでも、私が握りしめていては、彼が前に進めない気がしたのです。

だから今日、私は、震える指で、ようやくあの手紙を開きました。

血で滲んで、ほとんどの文字は、読めなくなっていました。

それでも、たったひとつだけ。

拙い、彼らしい不器用な字で書かれたその一言だけは、汚れることなく、きれいに残っていました。

『大好き』

その三文字を見た瞬間、三年分の涙が、いっぺんにあふれました。

手紙のあの三文字を、私は何度も、指でなぞりました。

血で汚れた紙の上で、その文字だけが、まるで守られていたかのようでした。

彼は、いつから私を、そんなふうに想っていてくれたのでしょう。

幼稚園で手を握ってくれた、あの日からでしょうか。

それとも、文化祭の帰り道、言葉を飲み込んだ、あの夜からでしょうか。

確かめる術は、もうありません。

でも、それでよかったのだと思います。

私たちは、確かに、同じ気持ちで、同じ時間を生きていたのですから。

彼も、同じ気持ちでいてくれたのです。

あの日、防波堤で交わすはずだった言葉を、彼は手紙に、先に書いてくれていたのです。

私たちは、ずっと、同じ気持ちでした。

ただ、それを伝え合う、たった一日が、足りなかっただけでした。

手紙を読んだあと、私はマフラーを持って、あの防波堤へ行きました。

三年前と変わらない、冷たい潮風が吹いていました。

水平線の向こうに、ゆっくりと、夕日が沈んでいきます。

私は、編み上げたマフラーを、そっと胸に抱きました。

「遅くなってごめんね。お誕生日、おめでとう」

声に出して言うと、不思議と、心が少しだけ軽くなりました。

彼の『大好き』は、これからもずっと、私の中で生き続けます。

その想いを抱えて、私は、前を向いて歩いていこうと思います。

それが、彼への、いちばんの恩返しだと信じて。

彼の『大好き』を、私はこれから、一生かけて抱きしめていきます。

今でも、海を見ると、彼を思い出します。

でも、もう、つらいだけの思い出ではありません。

あの三文字が、私の心を、そっと支えてくれているからです。

彼がくれた『大好き』は、私が生きていく限り、消えることはありません。

ありがとう。そして、私も、ずっと大好きでした。

どうか、安らかに。

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