私は今でも、はっきりと覚えています。
彼に恋をした、あの日のことを。
潮の匂いのする小さな港町で、私たちはいつも一緒でした。
三年経った今も、私はあの冬の海を、忘れることができずにいます。
※
彼とは、幼稚園の頃からの幼なじみでした。
家が隣同士で、物心ついたときには、もう毎日のように一緒に遊んでいました。
彼は、口数は少ないけれど、優しい子でした。
私が園で、些細なことを理由に、ほかの子から責められていたときのことです。
みんなが私を遠巻きにする中で、彼だけが、そっと隣に来てくれました。
そして、何も言わずに、私の手を、ぎゅっと握ってくれたのです。
その手の温かさを、私は今でも、手のひらに覚えています。
私が彼に恋をしたのは、たぶん、あの瞬間でした。
まだ恋という言葉も知らない、幼い私の、はじめての気持ちでした。
※
それからの私は、子どもなりに、一生懸命アピールをしていました。
「ねえ、好きだよ」
臆面もなく、そんなことを言っていたのですから、ずいぶんませた子どもでした。
彼はいつも、顔を真っ赤にするだけで、何も答えてはくれませんでした。
でも、嫌がる様子もなく、私のそばを離れることもありませんでした。
「いっしょに帰ろう」
そう言うと、彼は黙ってうなずいて、私のかばんを半分持ってくれました。
浜辺で貝殻を拾ったり、防波堤に並んで座って、船が出ていくのを眺めたり。
そんな何気ない時間が、私にとっては、世界のすべてでした。
夏祭りの夜のことも、よく覚えています。
人混みではぐれそうになった私の手を、彼は当たり前のように、つないでくれました。
「迷子になるなよ」
そっけない言い方なのに、その手は、決して離れませんでした。
打ち上げ花火が夜空に咲くたびに、彼の横顔が、赤く青く照らされました。
私はその夜、花火よりも、彼の横顔ばかりを見ていました。
「来年も、いっしょに来ようね」
そう約束したのを、今でも覚えています。
あの頃の私たちは、未来が、いくらでも続いていくものだと信じていました。
※
幼い頃、私たちには、二人だけの秘密の場所がありました。
古い灯台の下の、岩場のくぼみです。
そこに、お気に入りの貝殻を、二人で隠していました。
「これは、ぼくたちの宝物だからな」
彼は、そう言って、いちばん大きな桜貝を、私にくれました。
その桜貝を、私は今でも、お守りのように持っています。
色あせても、つやを失っても、私にとっては、世界でいちばんの宝物です。
彼がくれた優しさは、いつも、こんなふうに、形になって残っていました。
あの桜貝を握りしめると、今でも、彼の手の温もりがよみがえる気がします。
離れていても、想いは消えない。私は、そう信じています。
※
小学校までは一緒でしたが、中学校は、別々の学区になりました。
会える時間が減ると、私は急に、自分の気持ちが恥ずかしくなってしまいました。
思春期というのは、不思議なものです。
あんなに素直だったのに、好きという言葉が、どうしても言えなくなりました。
小学校からの友だちに冷やかされるたびに、私は慌てて否定しました。
「べつに、そんなんじゃないってば」
本当は、誰よりも彼のことが好きだったのに。
彼との距離は、少しずつ、離れていったような気がしました。
それでも、私の中の彼への気持ちだけは、冷めることがありませんでした。
※
私は、彼と同じ高校に行きたい一心で、必死に勉強しました。
そして、その願いは叶いました。
入学式の日、廊下で彼と再会したとき、胸が高鳴ったのを覚えています。
「久しぶり。元気だった?」
彼はそう言って、昔と変わらない、はにかんだ笑顔を見せてくれました。
高校での三年間は、まるで中学で失った時間を取り戻すように、また一緒に過ごしました。
放課後、二人で寄り道をして、海沿いの道を自転車で走りました。
彼は相変わらず口下手で、私はあいかわらず、おしゃべりでした。
でも、その凸凹が、私たちにはちょうどよかったのです。
彼の隣にいるだけで、私はいつも、満たされていました。
高校二年の文化祭で、私たちは同じ実行委員になりました。
夜遅くまで準備をした帰り道、彼がぽつりと言いました。
「お前と一緒だと、なんでか、しんどいことも楽しいな」
その一言に、私の心臓は、跳ね上がりました。
今だ、と思いました。今こそ、気持ちを伝えるときだと。
けれど、いざとなると、言葉が喉の奥でつかえて、出てきませんでした。
「……うん。私も」
結局、私が言えたのは、それだけでした。
あのとき勇気を出していれば、と、私は今でも悔やんでいます。
※
高校の三年間で、いちばん幸せだったのは、放課後の何でもない時間でした。
二人で自転車を並べて、海沿いの坂道を、ゆっくりと下っていきます。
夕日が、私たちの影を、長く長く、アスファルトに伸ばしていました。
彼は、たまにふざけて、両手を離して自転車をこぎました。
「危ないってば」
私が叱ると、彼は子どものように笑いました。
その笑い声が、潮風に乗って、どこまでも遠くへ流れていきました。
あの坂道を、私は今も、ひとりでは下れずにいます。
※
高校三年の冬、彼が、進学のために東京へ出ることが決まりました。
その知らせを聞いたとき、私はようやく、覚悟を決めました。
彼が東京へ発つと決まってから、私はずっと、落ち着かない日々を過ごしていました。
離れてしまえば、もう二度と、この気持ちを伝えられないかもしれない。
そう思うと、胸の奥が、きゅっと締めつけられました。
それでも、最後の最後で、私はようやく勇気を出せたのです。
間に合わせたかった。彼が、この町を離れる前に。
あと一日。たった、あと一日だけ、時間があれば。
私は今でも、そう思わずにはいられません。
もう、気持ちを隠している場合ではないと。
彼が旅立つ前の日は、ちょうど彼の誕生日でした。
私は、誕生日のお祝いと、長いあいだ言えなかった告白を、同じ日にしようと決めました。
待ち合わせは、いつもの防波堤。夕暮れの海が見える、あの場所です。
マフラーを編み、小さなプレゼントを用意して、私は何度も練習しました。
「ずっと、好きでした」
鏡の前で、その一言を、何十回も繰り返しました。
胸が、はちきれそうでした。
※
告白の前の夜、私は眠れませんでした。
何度も練習した言葉を、口の中で繰り返しました。
編みかけのマフラーは、不器用な私の手の中で、なかなか仕上がりませんでした。
それでも、明日は彼の誕生日。どうしても、間に合わせたかったのです。
夜が更けるまで、私は一目ずつ、彼を想いながら、毛糸を編み続けました。
明日は、きっと、すべてがうまくいく。
そう信じて、私はようやく、目を閉じました。
※
約束の日。
私は、いつもより少しだけおしゃれをして、防波堤で彼を待ちました。
冷たい潮風が、頬を刺しました。
待っているあいだ、私はずっと、彼に渡す言葉を頭の中で並べていました。
誕生日おめでとう。それから、ずっと好きでした。
順番を間違えないようにと、何度も心の中で唱えました。
水平線に沈んでいく夕日が、海を、燃えるような橙色に染めていました。
こんなにきれいな夕暮れに告白できるなんて、なんて幸せなのだろうと思いました。
その幸せが、ほんの数時間後に砕け散るなんて、私は知る由もありませんでした。
約束の時間になっても、彼は来ませんでした。
三十分、一時間。日が、水平線の向こうに沈んでいきました。
彼が、約束をすっぽかすような人でないことは、よく分かっていました。
だからこそ、嫌な予感が、少しずつ胸に広がっていきました。
もう帰ろうかと、立ち上がりかけたそのとき、携帯電話が鳴りました。
母からでした。
「あんた、今どこにいるの」
母の声は、ふだんと、明らかに違っていました。
「海の、防波堤のところ」
「今すぐお父さんと迎えに行くから、そこを動かないで待ってなさい」
尋常でない、その早口を、私は今でも覚えています。
※
数分もしないうちに、両親の車が来ました。
乗るなり、訳も分からないまま、私は病院へと連れていかれました。
車の中で、両親は何も話してくれませんでした。
ただ、母の握る私の手が、震えていました。
病院に着くと、そこには、学校の先生と、彼のご両親がいました。
みんなの顔が、青ざめていました。
私の足りない頭では、何が起きているのか、すぐには理解できませんでした。
先生に連れられて行った先は、病室ではありませんでした。
薄暗く、ひんやりとした、知らない部屋でした。
そこに、誰かが、静かに横たわっていました。
顔には、白い布が、そっとかけられていました。
※
そこで、ようやく私の頭は、現実に追いつきました。
そっと近づいて、その布を取ろうとした私を、彼のお母さんが止めました。
「見ない方がいい。あの子の、きれいなままの顔を、覚えていてあげて」
その言葉で、すべてを悟りました。
彼は、私に会いに来る途中で、事故に遭ったのだと、あとで聞きました。
凍結した夜道で、彼のバイクが、スリップしたのだそうです。
即死だった、と。
私は、その事実を、どうしても受け止めることができませんでした。
今にも彼が、「嘘だよ」と笑いながら、起き上がるんじゃないか。
また、いつものように、私の名前を呼んでくれるんじゃないか。
そう思って、私はただ、彼のそばに立ち尽くしていました。
※
起きて、と心の中で何度も呼びかけました。
どうして、と、答えの返らない問いを、繰り返しました。
どうして、彼じゃなきゃいけなかったのでしょう。
私に会いに来ようとしたから、彼は事故に遭った。
もし私が告白なんて考えなければ、彼は今も、生きていたのかもしれない。
そう思うと、自分を責める気持ちで、息ができなくなりました。
冷たくなった彼の手を、私は、どうしても離せませんでした。
周りから聞こえる泣き声と、自分の耳鳴りだけが、頭の中に響いていました。
両親に促されても、私は、彼のそばを離れたくありませんでした。
※
葬儀の日のことは、断片的にしか、覚えていません。
たくさんの人が泣いていました。
彼の遺影は、いつものはにかんだ笑顔で、まっすぐにこちらを見ていました。
その笑顔を見た瞬間、私はその場に、崩れ落ちてしまいました。
渡せなかったマフラーを、私はずっと、かばんの中に抱えていました。
彼の首にかけてあげることは、もう、できないのだと。
その事実が、波のように、何度も何度も、私を打ちのめしました。
※
抜け殻のようになった私に、彼のお母さんが、一通の手紙を渡してくれました。
彼が、その日、持っていたものだそうです。
私に、渡すつもりだったのかもしれません。
手紙は、ぐしゃぐしゃに折れ、ところどころ、血で汚れていました。
彼のお母さんは、手紙を渡しながら、涙をこらえて言いました。
「あの子、あなたのことばかり、話してたのよ」
その言葉が、私の胸に、深く深く、突き刺さりました。
私だけが片想いだと思っていた。でも、そうではなかったのです。
私たちは、ずっと、お互いを想い合っていたのです。
私は、それを読むことができませんでした。
読んでしまったら、彼が本当に死んだことを、認めてしまう気がして。
私は、現実から、ずっと逃げ続けていました。
※
病院からの帰り道、私は車の窓に、ずっと額をつけていました。
流れていく夜の景色が、涙でぼやけて、何も見えませんでした。
あんなに何度も通った海沿いの道が、まるで知らない場所のように感じられました。
彼のいない世界は、こんなにも、色を失ってしまうのかと思いました。
家に帰っても、私はしばらく、誰とも話せませんでした。
ただ、彼との思い出を、ひとつひとつ、心の中で数えていました。
つないだ手の温もりを、はにかんだ笑顔を、低い声を。
忘れたくない。ぜったいに、忘れたくない。
私は布団の中で、声を殺して、一晩中泣き続けました。
※
この三年間、私は何度も、立ち止まりました。
楽しいことがあっても、ふとした瞬間に、彼を思い出してしまうのです。
海沿いの道を通るたびに、隣に彼がいないことが、信じられませんでした。
友人たちは、新しい恋をしなよと、優しく言ってくれました。
でも、私の心は、あの防波堤に、置き去りにされたままでした。
彼の手紙は、机の引き出しの、いちばん奥にしまってありました。
何度も開けようとして、何度も、閉じました。
読むことは、彼の死を認めること。
私には、その勇気が、どうしても出せなかったのです。
※
あれから、三年が経ちました。
私はずっと、彼への気持ちを、消すことができずにいました。
そして、あの血のついた手紙を、今日まで、開くことができずにいました。
けれど、もうそろそろ、彼を自由にしてあげなければ、と思いました。
いつまでも、私が握りしめていては、彼が前に進めない気がしたのです。
だから今日、私は、震える指で、ようやくあの手紙を開きました。
血で滲んで、ほとんどの文字は、読めなくなっていました。
それでも、たったひとつだけ。
拙い、彼らしい不器用な字で書かれたその一言だけは、汚れることなく、きれいに残っていました。
『大好き』
※
その三文字を見た瞬間、三年分の涙が、いっぺんにあふれました。
手紙のあの三文字を、私は何度も、指でなぞりました。
血で汚れた紙の上で、その文字だけが、まるで守られていたかのようでした。
彼は、いつから私を、そんなふうに想っていてくれたのでしょう。
幼稚園で手を握ってくれた、あの日からでしょうか。
それとも、文化祭の帰り道、言葉を飲み込んだ、あの夜からでしょうか。
確かめる術は、もうありません。
でも、それでよかったのだと思います。
私たちは、確かに、同じ気持ちで、同じ時間を生きていたのですから。
彼も、同じ気持ちでいてくれたのです。
あの日、防波堤で交わすはずだった言葉を、彼は手紙に、先に書いてくれていたのです。
私たちは、ずっと、同じ気持ちでした。
ただ、それを伝え合う、たった一日が、足りなかっただけでした。
手紙を読んだあと、私はマフラーを持って、あの防波堤へ行きました。
三年前と変わらない、冷たい潮風が吹いていました。
水平線の向こうに、ゆっくりと、夕日が沈んでいきます。
私は、編み上げたマフラーを、そっと胸に抱きました。
「遅くなってごめんね。お誕生日、おめでとう」
声に出して言うと、不思議と、心が少しだけ軽くなりました。
彼の『大好き』は、これからもずっと、私の中で生き続けます。
その想いを抱えて、私は、前を向いて歩いていこうと思います。
それが、彼への、いちばんの恩返しだと信じて。
彼の『大好き』を、私はこれから、一生かけて抱きしめていきます。
今でも、海を見ると、彼を思い出します。
でも、もう、つらいだけの思い出ではありません。
あの三文字が、私の心を、そっと支えてくれているからです。
彼がくれた『大好き』は、私が生きていく限り、消えることはありません。
ありがとう。そして、私も、ずっと大好きでした。
どうか、安らかに。