みほちゃんという子

病院(フリー素材)

みほちゃん、と私はいまも呼んでいる。名字は知らない。

知っているのは、七歳という年齢と、赤いスニーカーと、小さな手の温度だけだ。

看護学生だった夏の夕方、私は友人の理沙と海沿いの国道を歩いていた。

バス停のベンチに並んで、アイスの棒を噛みながら、帰りの電車の時間を話していた。

そのとき、交差点のほうで鈍い音がした。

振り向くと、黄色い帽子が道路の端に転がっていた。

帽子の持ち主は、少し離れた場所で横になっていた。

私は走った。走りながら、実習で習った手順が頭の中でばらばらに回った。

意識の確認。出血の場所。圧迫。保温。

「聞こえる? お名前、言える?」

女の子は目を開けたまま、かすかに唇を動かした。

「みほ」

それが、あの子の最初で最後の自己紹介だった。

みほちゃんの赤い靴

救急車が来るまでの数分は、いまでも時計の針が止まったように思い出せる。

理沙が上着を脱いで体にかけ、私は太ももの付け根をタオルで押さえた。

タオルは見る間に重くなり、手のひらが熱くなった。

「大丈夫だよ、みほちゃん。大丈夫」

「あともうちょっとで病院だからね」

何を根拠にそう言ったのか、自分でもわからない。

ただ、黙ってしまったら、その沈黙にあの子を持っていかれる気がした。

片方だけ脱げた赤いスニーカーを、私は握ったまま救急車に乗っていた。

路上に置いてくる勇気がなかった。

車内で、救急隊員が酸素マスクを当て、私は声をかけ続けた。

「みほちゃん、お姉ちゃんの声、聞こえる?」

返事はなかった。けれど、まぶたがほんの少し動いた。

その動きを、私は「聞こえている」と読み替えて、また同じ言葉を繰り返した。

大丈夫だよ。もうすぐだよ。もうすぐだからね。

病院の赤いランプが見えたとき、隊員が静かに首を振った。

みほちゃんは、搬送の途中で息を引き取っていた。

私の手の中には、片方だけの赤いスニーカーが残った。

のちに、内臓の損傷も重かったと聞いた。

それを聞いても、少しも慰めにはならなかった。

病院の廊下で、制服の警察官が私に声をかけた。

「その靴、お預かりしてもいいですか。ご家族にお返しします」

私は握りしめていた赤いスニーカーを、透明な袋に入れてもらった。

袋の口が閉じられる音が、やけに大きく聞こえた。

しばらくして、廊下の向こうから女の人が走ってきた。

髪が乱れ、片方のサンダルが脱げかけていた。

みほちゃんの母親だと、見ただけでわかった。

母親は私たちの前で立ち止まり、何も言わずに深く頭を下げた。

言葉を探している唇が、細かく震えていた。

私は、何か言わなければと思った。けれど、喉の奥が固く閉じて動かなかった。

理沙が代わりに「最後まで話しかけていました」と、小さな声で伝えてくれた。

母親は顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。

あの廊下の白い床の冷たさを、いまも足の裏が覚えている。

家に帰ってから、私は初めて自分の袖が乾いた血で固まっていることに気づいた。

洗っても洗っても、袖の茶色い線は薄くならなかった。

その夜から一週間、私は学校を休んだ。

看護師になる資格が、自分にあるのかわからなくなったのだ。

迷っている私を引き戻したのは、理沙の電話だった。

「あんた、あの子に最後まで話しかけてたじゃない」

「でも、助けられなかった」

「助けようとした人がいたって、あの子はたぶんわかってたよ」

担当の講師も、休んだ私に長い手紙を書いてくれた。

私は半年遅れで気持ちを立て直し、卒業し、国家試験を受けた。

試験の前の晩、理沙が検針票の裏に返事が来る家という短い話を送ってきた。

「眠れないなら、これでも読んで」と書いてあった。

読み終えたころには、不思議と肩の力が抜けていた。

合格の通知を見た日、袖の線の夢を、最後に見た。

夜勤明けの屋上

看護師一年目の配属は、外科病棟だった。

覚えきれない病名と薬の名前。時間に追われる採血。

毎日のように、誰かが旅立っていく。

先輩の叱責は鋭く、医師の言葉はもっと鋭かった。

「それ、さっきも言いましたよね」

そう言われて、私は「すみません」と頭を下げた。

下げた頭の中では、赤い靴の色がちらついていた。

その一言を、私は夜勤明けの更衣室で何度も反芻した。

受け持ちの患者さんに、山岸さんという八十代の男性がいた。

手術のあとの熱が下がらず、毎晩、うわごとのように家の話をする人だった。

「庭の柿がな、今年はようなっとるんじゃ」

「帰って、孫に食わせてやらんと」

その言葉を聞くたびに、私は点滴の速度を確かめるふりをして、深呼吸をした。

この人を、帰したい。

その気持ちだけが、疲れた体を動かしていた。

ある朝、どうしても帰る気になれず、エレベーターで屋上へ上がった。

朝の光が、街の屋根を薄い金色に染めていた。

洗濯物の白が、遠くの団地のベランダで揺れている。

私は金網に背中を預けて、深く息を吸った。

そのとき、背後に気配があった。

振り返ると、金網のすぐ内側に女の子が立っていた。

黄色い帽子はかぶっていない。けれど、顔は忘れようがなかった。

救急車の中で血を拭いたとき、目に焼きつけた顔だ。

みほちゃんは、あの日のワンピースのまま、ただ微笑んでいた。

血の跡は、どこにもなかった。

「みほちゃん」

声が出た瞬間、女の子の姿は朝の空気に溶けた。

それから、みほちゃんは病院のあらゆる場所に現れた。

病棟の廊下の突き当たり。ナースステーションの前。

職員食堂の窓際の席。誰もいない病室のカーテンの陰。

いつも、微笑んですぐに消えるだけだった。

不思議なことに、現れるのは決まって私が行き詰まった日だった。

山岸さんの熱が下がらなかった夜、ナースステーションの奥にみほちゃんが立っていた。

私と目が合うと、廊下の先の病室のほうへ、小さくあごを動かした。

駆けつけると、山岸さんの呼吸が浅くなっていた。

すぐに当直の医師を呼び、処置は間に合った。

一週間後、山岸さんは杖をついて退院していった。

「あんたのおかげで、柿が食える」

そう言って笑った顔を、私は一番のごほうびとして胸にしまった。

眠れない夜勤が続いたとき。重症の患者さんの処置に付き添ったとき。

怖くはなかった。むしろ、廊下の端に赤い靴が見えると、背筋がのびた。

休憩室でスマホを開くと、同僚が教えてくれた日曜八時の電話は一分で切れるという短い話が目に入った。

短い話に涙ぐんでから、私はまた病棟へ戻った。

更衣室のロッカー

それから数年が過ぎ、私は主任を任されるようになった。

初めて主任として出勤する朝、私は一時間早く病院に着いた。

職員用の更衣室は静かで、蛍光灯の唸りだけが聞こえた。

自分のロッカーの前に、みほちゃんが立っていた。

今度は、顔を上げた私と、まっすぐに目が合った。

足元には、赤いスニーカーが揃っていた。

あの日、片方は私の手の中にあったのに、今は両足にきちんと履かれている。

思わず一歩近づくと、女の子は笑顔のまま口を開いた。

「みほを助けてくれて、ありがとう」

私は返事ができなかった。

喉の奥で、十年分の言葉がぶつかり合っていた。

謝りたかった。礼を言いたかった。

そのどちらも、声にならなかった。

「みほね、あの時、お姉ちゃんの声、ずっと聞こえていたんだよ」

「大丈夫だよ、って言ってくれたよね」

「あともうちょっとで病院だからね、って。何回も」

膝から力が抜けて、私はロッカーに手をついた。

救えなかったと思い続けた時間が、いっぺんに胸の奥でほどけていった。

私は泣いた。声をこらえることも忘れて、ただ泣いた。

女の子は、その間じゅう、私の背中を見守るように立っていた。

やがて、壁の時計を指さして言った。

「ほら、お姉ちゃん。時間だよ」

「苦しんでる人が、お姉ちゃんを待っているよ」

「お姉ちゃんのことが心配で、傍にいたんだけどね。もう、みほも行かなきゃ」

そこで一度、言葉を切った。

「お姉ちゃん、ううん、看護師さん。ありがとう、そして、おめでとう」

みほちゃんは、微笑んだまま消えた。

小児科病棟の朝

いま、私は小児科病棟で師長をしている。

ここには毎朝、小さな靴の音が響く。

点滴台を押しながら廊下を歩く子もいれば、母親の背中から動かない子もいる。

先日、入院してきた七歳の女の子が、ナースステーションの前で私を見上げた。

「ねえ、看護師さん。ここの廊下、赤い靴が似合う気がする」

何の根拠もない、子どもの思いつきだ。

「そうかもしれないね」

私はそう答えて、少しだけ屈んで目線を合わせた。

夜勤の合間、私は新人の看護師に、ときどきこの話をする。

幽霊を見たとは言わない。ただ、「最後まで話しかけてあげてね」とだけ伝える。

声は、思っているよりずっと遠くまで届く。

届いた声は、何年たっても、持ち主を待っていてくれる。

みほちゃんの名字を、私は結局いまも知らない。

けれど、一生忘れない。

救えなかった夏の日と、救われた朝のことを。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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