カレンダーの裏に増えたリボン

カレンダーの裏に増えたリボン

富山の氷見に、なぎさ苑という二十床のグループホームがあります。

窓を開けると、冬は潮の匂いより先に、雪の匂いが入ってきます。

私はそこで七年、介護福祉士として働いてきました。

この話は、その七年目の二月に起きたことです。

いまでも、包み紙をほどく音を聞くと、あの日の集会室の空気を思い出します。

花が届く日は、廊下の空気が変わる

ご家族から手紙や花束が届く日というのは、朝から分かります。

配達の車が坂を上がってくる音を、入居者のみなさんのほうが先に聞き分けるのです。

耳が遠いはずの方まで、そういう日はなぜか玄関のほうを向いています。

音ではなく、床の震え方で分かるのだと谷内さんは言っていました。

私が包みを抱えて集会室に入ると、もう半分の椅子が埋まっています。

車椅子の谷内さんは、いつも一番前の、テレビの真下の位置を取っていました。

元は定置網の網元の奥さんで、人に前を譲るということを知らない方でした。

「あんちゃん、はよ読みまっし」

私は三十四になっても、この施設では「あんちゃん」でした。

名前で呼ばれたのは、入って三ヶ月目に一度きりです。

メッセージカードを読み上げると、宛名の方だけが顔を赤くします。

そして残りの十九人が、静かに部屋へ戻っていきます。

その戻っていく背中を見送るのが、私はいつまでも慣れませんでした。

がっかりした、という顔ではないのです。

最初から自分ではないと知っていた人の、丁寧な引き上げ方でした。

歩ける方はゆっくり立ち上がり、椅子を元の位置に戻してから出ていきます。

誰も、花のほうを振り返りません。

振り返らないというのは、覚えて身につけた作法なのだと、私は途中から気づきました。

八重さんが留めていた、リボンのこと

八重さんは、その日、最後まで集会室に残る方でした。

八十七歳。若い頃は魚を積んだリヤカーで峠を越えて、山の集落まで売りに行っていたそうです。

背中が曲がっても、荷物を持つときだけは腰の据わり方が違いました。

職員がバケツを運ぼうとすると、必ず先に手が出ます。

「そういう持ち方したら、腰にくるよ」

私は何度も叱られました。

そのくせ、自分の食器はいつも人の分と一緒に重ねてしまうので、洗い場で私は毎日困っていました。

八重さんは、花束が届くたびに、包みのリボンだけを、集会室のカレンダーの裏に留めていました。

誰も見ていないと思っていたのでしょう。

画鋲を一本ずつ、指の腹で押し込んでいました。

カレンダーは大きな漁協のもので、裏はコルクの掲示板になっています。

私は最初、色のきれいなものを取っておく、年配の方によくある癖だと思っていました。

一度だけ、理由を訊いたことがあります。

「もったいないから、取ってあるんですか」

八重さんは、私の顔を見ずに答えました。

「あんちゃんは、勘定が下手やね」

それだけでした。

私はその言葉を、耳の遠い人の返事だと思って流してしまいました。

いまでも、あの日に戻れるなら、もう一度訊きたいと思います。

峠の途中に、水の出る岩があった

八重さんの話で、私がいちばん好きだったのは、峠の岩の話です。

荷を積んだリヤカーで坂を上がると、中ほどに水の出る岩があるのだそうです。

そこで必ず一度、荷を下ろして休む。

休まずに越えられる日でも、必ず下ろす。

「下ろさんと、次の日に足が出んようになるがや」

八重さんはそう言って、湯呑みを両手で持ち直しました。

私はある日、意地の悪い質問をしたことがあります。

「魚は、下ろしたら傷まないんですか」

八重さんは、少し笑いました。

「傷むよ。せやから、岩の水をかけるがや」

冷たい湧き水を桶に受けて、上からざっと。

そのために、遠回りになる岩のある道を選んでいたのだと言われて、私は返す言葉がありませんでした。

この人は、休むための場所を、荷のために言い訳していたのではないのです。

荷のための場所を、休むために使っていたのでもない。

その二つを、同じ一つの場所にしていたのでした。

冬の氷見は、洗濯物が乾かない

二月の氷見は、風がまっすぐ廊下に入ってきます。

洗濯物は三日干しても乾かず、部屋の中は洗剤の匂いでいっぱいになります。

窓ガラスは日に何度も曇り、拭いても午後にはまた白くなります。

そういう季節に、面会は減ります。

道が悪いからです。

それでも来る家族は来ますし、来ない家族は、雪のせいにして来ません。

私は、どちらの気持ちも分かるようになってしまいました。

その冬、私は休憩室で母の写真に手を合わせるのが習慣になっていました。

三年前に亡くなった母です。

父はもっと前にいませんし、きょうだいもいません。

母は最後の二年、県外の施設にいました。

私は人の親を毎日抱えながら、自分の親の面会には月に一度しか行けませんでした。

最後に会った日、母は私の名札を見て「介護士さん」と言いました。

私は「そうです」と答えました。

否定しなかったことを、いまでも少し悔やんでいます。

ロッカーの上に小さな写真立てを置いて、昼にお茶を淹れるときだけ、手を合わせていました。

誰にも言っていないつもりでした。

けれど、休憩室の戸は建て付けが悪く、いつも五センチほど開いてしまうのです。

廊下からは、あの部屋の中が、思っていたよりずっとよく見えます。

大きな花束が来た朝

二月の終わりの、雪の止んだ朝でした。

配達の車の音を、その日はなぜか私が先に聞きました。

受け取った花束は、これまでで一番大きなものでした。

白と、うすい黄色と、少しだけ濃い赤。

包みの外まで匂いが出ていて、玄関のたたきに立ったまま、私は少し息を止めました。

紙が冷たく、指先が濡れました。

集会室に運ぶと、椅子は全部埋まっていました。

二十人全員が来ていたのは、七年で初めてでした。

普段は部屋から出ない杉本さんまで、壁際に座っていました。

「今度は誰やろ」

「はよ読め、はよ」

谷内さんが車椅子の肘掛けを叩きます。

私はいつものように、カードを開きました。

読み上げた声が、途中で止まった

カードには、こう書いてありました。

『大切なあなたに、この花束を贈ります』

そこまでは、いつもと同じ文でした。

私は次の行を読もうとして、宛名を見ました。

そこにあったのは、私の苗字でした。

声が出ませんでした。

顔を上げると、二十人が、全員こちらを見ていました。

誰も、がっかりしていませんでした。

それが何より、こたえました。

この人たちは、今日は自分ではないと、最初から知っていたのです。

知っていて、それでも全員が集会室に来ていたのです。

雪の日に、部屋から出ないはずの人までが。

カードの続きには、こうありました。

『いつも、ありがとう。あなたの笑顔で、寂しさを忘れました』

私は、その紙を持ったまま、しばらく動けませんでした。

谷内さんが、はじめて人に前を譲るような声で言いました。

「泣かんでええ。読み上げるのが仕事やろ」

それで、こらえていたものが逆に落ちました。

あとで谷内さんは「わざと言うたがや」と胸を張っていましたが、目のふちが赤いのを私は見ています。

カレンダーの裏に、十四本

その日の夜、私は集会室のカレンダーを、めくらずに、裏返しました。

リボンが留めてありました。

色の違うものが、十四本です。

そして、その並びの下に、余白がありました。

画鋲の跡だけが、六つ空いていました。

リボンは、届いた人を数えるためのものではありませんでした。

八重さんが留めていたのは、花の届いた人の分ではなく、その色を覚えておいて、まだ一度も届いていない人を、余白のほうで数えるための印だったのです。

六つの空いた画鋲の跡。

この七年で一度も花の来ていない人が、六人いるということでした。

私は、その六人の顔を、指で追うことができました。

それぞれの理由も、だいたいは知っています。

知っていて、どうにもできずにいたのが、この七年でした。

そして、いちばん端の穴を見たとき、指が止まりました。

そこだけ、画鋲が新しかったのです。

金色の、まだ曇っていない一本でした。

八重さんが数えていたのは、まだ一度も花の来ていない人でした。

職員の私も、その数のうちに、入れられていたのです。

緑の電話と、字を書いた人

翌朝、私は八重さんの部屋に行きました。

八重さんは布団を畳みながら、こちらを見ずに言いました。

「あんちゃん、休憩室の戸は、ちゃんと閉めまっし」

それで全部が分かりました。

私が母の写真に手を合わせていたことを、この人は知っていたのです。

知っていて、一年以上、何も言わずにいたのです。

注文は、玄関脇の緑の公衆電話からでした。

八重さんは、施設の電話は使いませんでした。

使えば記録が残って、職員に止められると思ったのでしょう。

受話器を持つ手が震えるので、花屋の名前は紙に書いてもらっていたそうです。

お金は、みなさんの年金から、少しずつでした。

千円の人もいれば、二百円の人もいたと聞きました。

谷内さんは「うちが一番出した」と言い張りましたが、後で聞いたら三番目でした。

ただ、カードの字は、八重さんの字ではありませんでした。

八重さんは、リヤカーを引いていた頃、伝票をいつも人に頼んでいたのです。

字を書いたのは、杉本さんでした。

元は小学校の先生で、脳梗塞のあと、右手が使えなくなった方です。

あの丁寧な文字は、左手で、何度も書き直したものでした。

机の引き出しに、書き損じが十一枚ありました。

最初の三枚は、宛名のところだけが震えていました。

杉本さんは、私が礼を言いに行くと、ひとことだけ言いました。

「字だけは、まだ、使えるので」

名前で呼ばれた、三ヶ月目の一度

入って三ヶ月目に、私は一度だけ、名前で呼ばれたことがあります。

夜勤の明け方でした。

八重さんが玄関のたたきに立っていて、外を見ていたのです。

鍵は閉まっていましたから、出ようとしていたわけではありません。

私が近づくと、八重さんはこちらを向かずに言いました。

「雨が上がったよ」

それから、私の名前を、苗字ではなく下の名前で呼びました。

あとで思えば、あれは私のことではなかったのだと思います。

八重さんには、若くに亡くした娘さんがいました。

同じ名前だったことを、私は記録を見て知りました。

その日から八重さんは、私を一度も名前で呼びませんでした。

間違えたことに気づいて、二度と間違えないようにしたのでしょう。

「あんちゃん」という呼び方は、そのための距離だったのです。

けれど、あの花束のカードには、私の苗字が書いてありました。

下の名前ではなく、苗字でした。

杉本さんに書いてもらう字を、八重さんはきちんと選んでいたのです。

あの人は最後まで、間違えないようにしていました。

そして、間違えないようにしたままで、花を贈ってくれました。

花屋の柳田さんが覚えていたこと

花は、坂の下の商店街にある柳田生花店から届いたものでした。

私は礼を言いに、休みの日に店へ行きました。

柳田さんは八十近い方で、店の奥で新聞を読んでいました。

「なぎさ苑の者です」と言うと、老眼鏡を外して立ち上がりました。

「ああ、あんたか」

それだけで、話が通じてしまいました。

注文の電話は、三度あったそうです。

一度目は、値段を訊いただけで切れました。

二度目は、二週間あいてからかかってきました。

三度目に、ようやく本題になったと柳田さんは言いました。

「二十人ぶんに見える大きさで、と言われてね」

私は、その言い方に八重さんの声を聞きました。

大きさを、値段ではなく、人数で頼む人だったのです。

柳田さんは、花の種類はこちらで決めていいかと訊いたそうです。

八重さんは、白を多めに、とだけ答えました。

理由も言いました。

「あの子は、白しか着ん」

私の制服のことでした。

柳田さんは、そこで少し黙ってから、うすい黄色を足したと言いました。

白ばかりでは、見舞いに見えるからです。

その気遣いは、カードにも、施設の誰の口にも、一度も出てきませんでした。

帰り際、柳田さんが包み紙をくれました。

「あの人、リボンの色を指定してきたよ」

金茶がいい、と言ったそうです。

なぜだと思いますか、と柳田さんに訊かれて、私は答えられませんでした。

カレンダーの裏に留めたとき、いちばん目立つ色だからです。

八重さんは、自分が留めるところまで、あの日のうちに決めていたのでした。

六つの穴が、誰のものだったか

空いていた六つの画鋲の跡には、それぞれ人がいます。

私はそのことを、しばらく誰にも言えませんでした。

一人は、身寄りのない元漁師の方でした。

船を売った金を全部、若い衆の借金の肩代わりに使った人です。

その若い衆が、いまどこにいるのかは誰も知りません。

本人は「あれでよかった」としか言いませんでした。

一人は、息子さんが遠くにいる方でした。

電話は月に一度きます。

けれど、電話は花になりません。

私は、電話でも十分だと言い聞かせてきましたが、集会室の椅子はそう思っていませんでした。

一人は、ご家族と長く行き来のない方でした。

理由は聞いていますが、書きません。

その方は、花が届く日にいちばん早く集会室に来て、いちばん早く部屋へ戻ります。

戻るとき、必ず椅子をきちんと押し込んでいきます。

あとの二人は、面会も贈り物もある方でした。

けれど、花だけは一度もなかったのです。

八重さんは、そこを分けていました。

お菓子でも、下着でも、手紙でもなく、花だけを数えていた。

花は、要るものではないからです。

要らないものを贈られた経験があるかどうかを、この人は数えていたのだと、私はいまでも思っています。

そして六人目が、私でした。

私が留めるようになったもの

八重さんは、その年の秋に、静かに旅立ちました。

最後の週も、峠の岩の話をしていました。

水が出るのは夏でも冷たく、桶を置く場所が決まっているのだと。

私は「行ってみます」と答えました。

八重さんは、めずらしく私の顔をまっすぐ見ました。

「行くなら、荷を持って行かれ」

カレンダーの裏には、いま、私がリボンを留めています。

留めるたびに、余白のほうを数えます。

六つあった穴は、四つになりました。

残りの四人には、まだ花が来ていません。

だから私は、緑の電話の使い方を、去年の春に覚えました。

硬貨を入れる順番も、花屋の締めの時間も、いまは頭に入っています。

この仕事をしていると、人を見送る側にばかり立っていると思いがちです。

けれど、あの日、私は確かに見送られる側でした。

二十人が、雪の日に、私のために集会室へ集まってくれていたのです。

介護の現場で覚えた小さなことについては、忘れても手は覚えていたという話にも書いています。

花を贈るということの意味を考えるとき、私は枯れない花束という一篇のことも思い出します。

画鋲を押し込むとき、指の腹が少し痛みます。

八重さんが、いつも同じ場所で押していた理由が、七年目にしてやっと分かりました。

柔らかいところは、コルクの継ぎ目だけなのです。

休憩室の戸は、いまも五センチだけ開けたままにしてあります。

この話が、どなたかの二月を少しあたためられたなら幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
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