
祖母の鏡台の、いちばん浅い抽斗に、短い鉛筆が一本入っています。
削りしろがもう残っていない、三センチほどのものです。
子どものころ、私はそれを何度も借りようとして、そのたびに叱られました。
「これはね、髪でできてるんよ」
祖母はいつも、そう言うのです。
抽斗には、ほかにも古いものが入っています。
欠けた櫛と、色のあせた布の切れ端と、写真が二枚。
けれど祖母が触らせなかったのは、その鉛筆だけでした。
祖母は、兵庫の姫路から少し西へ入った町で育ちました。
私が夏に泊まりに行くと、決まって縁側で桃をむいてくれます。
話は、たいてい途中で終わりました。
「その先は、また今度な」
そう言って、皮を新聞紙にくるんでしまうのです。
意味が分かったのは、私が中学に上がった年でした。
島田先生の髪の話を、祖母が初めて最後まで話してくれたのです。
祖母が小学五年生だったのは、戦争が終わって間もないころでした。
校舎は焼け残った木造で、窓硝子が半分は板でふさがれていました。
教科書は墨で塗った箇所のほうが多かったといいます。
給食はなく、蒸したさつまいもを持ってくる子が半分でした。
持ってこられない子は、昼になると校庭の隅で水を飲んでいました。
運動場の端には、埋め残した防空壕の口がまだ空いていました。
雨が降ると、そこに水が溜まって、光って見えたそうです。
そんな教室の担任が、島田先生でした。
師範学校を出たばかりの、若い女の先生です。
朝、廊下を歩く音でどの先生か分かる、と祖母は言いました。
島田先生の足音だけが、少しだけ速かったそうです。
教室に入るとき、必ず戸を最後まで開ける先生でした。
暗い教室に、光を入れるためです。
「窓を閉めるのは、いちばん寒い子に聞いてからにしよう」
そんな決め方をする人だったと、祖母は言いました。
算術の時間、答えを間違えた子を立たせることもしませんでした。
その代わり、間違えた式を黒板に大きく書いて、皆で直すのです。
「間違いは、みんなの持ちもんです」
それが口ぐせでした。
島田先生の髪は、腰まで届く黒髪でした。
それを一つに編んで、背に垂らしていました。
そして島田先生の髪は、いつも同じ臙脂色の紐で結ばれていました。
ほかの色を、祖母は一度も見たことがないそうです。
「あの紐しか、持ってなかったんやろね」
祖母は、そう言って笑いました。
あのころは、髪を結ぶ紐一本も買えない人がいた時代です。
椿の油の匂い
祖母のクラスに、和代さんという子がいました。
色の白い、長い黒髪の子でした。
髪を洗う石鹸などない時代です。
それでも和代さんの髪だけは、いつも艶がありました。
母親が、椿の実から油を搾って塗ってやっていたのだそうです。
秋になると、和代さんの母親は裏山で実を拾いました。
それを干して、割って、石臼にかけるのです。
和代さんの近くを通ると、かすかに青い匂いがしたと祖母は言いました。
和代さんの父親は、戦地から戻っていませんでした。
母親は、夜なべで縫い物の内職をしていたそうです。
髪だけは、その母親が毎晩梳いていました。
ほかに、してやれることが何もなかったのだと思います。
だから和代さんの髪は、あの家のいちばん上等なものでした。
その髪を、和代さんは秋の終わりに切りました。
アタマジラミです。
あのころは、珍しいことではありませんでした。
保健の先生が、白い粉を頭に振る日が月に一度ありました。
校庭に一列に並んで、順番に頭を差し出すのです。
それでも収まらない子は、髪を落とすしかありませんでした。
白い粉のかかった頭で、子どもたちは教室に戻ります。
肩に粉が落ちるので、みな首をすくめて歩きました。
和代さんは、その列でいつも最後尾に並んでいたそうです。
髪が長いと、粉を振るのに時間がかかるからです。
順番を待つあいだ、和代さんは編んだ髪を手で押さえていました。
帽子を脱がない子
和代さんが切った翌日のことを、祖母はよく覚えていました。
教室の戸が開いて、和代さんが入ってきました。
耳の下で断ち切られた髪でした。
切り口が、まっすぐではありませんでした。
家で、母親が鋏を入れたのだそうです。
教室が、一瞬だけ静かになりました。
それから、後ろのほうで誰かが言いました。
「男みたいや」
笑い声が起きました。
悪気があったわけではないと、祖母は言います。
ただ、腹の減っている子どもは、笑うことに飢えていました。
誰かが下を向けば、その日はその子で持ちこたえられるのです。
次の日から、和代さんは帽子をかぶって登校するようになりました。
兄のお下がりの、鼠色の帽子です。
教室でも、体操の時間でも、脱ぎませんでした。
先生が脱ぐように言っても、首を横に振るだけでした。
「和代さん、暑ないん」
祖母がそう聞くと、和代さんは小さく答えました。
「暑ない」
それきり、口をきかない日が増えていきました。
帰り道も、和代さんは一人で先に歩くようになりました。
祖母が追いかけて並んでも、返ってくるのは短い返事だけです。
川べりの道で、和代さんが立ち止まったことがありました。
水面をのぞき込んで、しばらく動かないのです。
「なに見よん」
「べつに」
そう答えて、和代さんは帽子を深くかぶり直しました。
水に映るのを見ていたのだと、祖母が気づいたのはずっとあとです。
字を書く手が止まり、答案の裏に落書きばかりが増えました。
あるとき、掃除の時間に、和代さんが廊下で泣いていました。
「元に、戻らんの」
そう言っていたそうです。
髪の話をしているのだと、祖母にはすぐに分かりました。
祖母は、その日、どう声をかけたらいいのか分からなかったそうです。
結局、雑巾を絞る手つきだけを見せて、そばに立っていました。
「うち、あのとき何にも言えんかった」
祖母は、その話をするときだけ、目を伏せます。
七十年経っても、言えなかったことのほうが残るのだと思いました。
島田先生は、はじめ、言葉でどうにかしようとしました。
職員室から古い雑誌を持ってきて、教壇に広げたのです。
外国の女優が、耳の見える短い髪で写っていました。
「短い髪の女の人も、長い髪の男の人もおります」
「髪の長さで、その人が変わるわけやないでしょう」
子どもたちは、写真をのぞき込みました。
けれど、それだけでした。
翌日には、また同じ声が飛びました。
言葉は、腹の減った教室ではあまり効かなかったのです。
島田先生は、次に、席替えをしました。
和代さんを、窓際のいちばん明るい席に移したのです。
それも、うまくいきませんでした。
明るい席は、帽子がいちばんよく見える席でもありました。
先生は、その週の終わりに、席をもとに戻しました。
うまくいかなかったことを、先生は隠しませんでした。
「先生のやり方が、まずかったです」
教壇で、子どもたちにそう言ったそうです。
島田先生の髪の長さ
その週、島田先生は妙に無口だったと祖母は言います。
朝の会のあいだ、黒板の前で立ち止まることが増えました。
職員室では、湯呑みを持ったまま、しばらく動かないことがありました。
あとになって、祖母はその理由を知ることになります。
教えてくれたのは、隣のクラスの中井先生でした。
祖母が二十歳を過ぎてから、町の寄り合いで会ったときのことです。
島田先生には、その春、縁談が決まっていたのです。
相手は、隣町の郵便局に勤めている人でした。
見合いの写真を、月末に撮ることになっていました。
あのころの写真は、一生に何枚も撮れるものではありません。
島田先生の髪は、その一枚のために伸ばしていたものでした。
相手の家からは、写真を先に送ってほしいと言われていました。
顔を見て決める、というのが、当時のふつうの手順です。
島田先生の家は、その縁談に望みをかけていました。
兄が二人とも戻らず、家に残ったのは先生だけだったからです。
師範学校の寮では、髪を伸ばすことも許されなかったといいます。
ようやく自分のものになった髪でした。
中井先生は、こう言ったそうです。
「島田さんはな、髪のことで一度も自慢したことがなかった」
「けど、朝の職員室で、いつも同じ手つきで編み直しとった」
「あれは、大事にしとる人の手つきや」
その手つきを見ていた人が、ちゃんといたのです。
丸一週間、島田先生は迷ったそうです。
迷った、という言い方を、祖母は何度もしました。
「決心って言うたら、格好ええけどな」
「ほんまは、七日も迷いはったんよ」
私は、その七日のほうが、よほど胸に残りました。
迷わない人の話ではなかったからです。
七日のあいだ、島田先生は毎日、和代さんの答案を見ていたそうです。
裏の落書きが、日ごとに黒く濃くなっていきました。
最後の日の落書きは、紙が破れるほど塗りつぶされていました。
中井先生は、それを職員室の机で見たと言いました。
「あれを見て、決めはったんやと思う」
日曜の下宿の縁側
島田先生が髪を切ったのは、日曜の朝でした。
床屋へは行っていません。
下宿の縁側で、大家のおばさんに切ってもらったのだそうです。
この話は、祖母が大人になってから、その大家さんに直接聞きました。
「先生はな、鋏を渡してから、一度も振り向かんかった」
大家さんは、そう言ったそうです。
鏡は使わなかったといいます。
縁側に新聞紙を敷いて、庭のほうを向いて座ったのです。
「切りますよ」と言うと、「はい」とだけ返ってきたそうです。
鋏を入れるとき、大家さんのほうが手が震えました。
「わたしが泣いてどうすんねん、と思いましたわ」
そう言って、大家さんは笑ったそうです。
切り終わったあと、島田先生は縁側の板を丁寧に掃きました。
一本も残さずに集めてから、家に上がったといいます。
切った髪は、新聞紙に包まれました。
そして島田先生は、それを町のかもじ屋へ持って行きました。
髪を買い取って、鬘や添え髪の材料にする商いです。
あのころ、女の人の長い黒髪は、それなりの値がつきました。
かもじ屋の主人は、包みを開いて、しばらく黙っていたそうです。
それから、いつもより高い値をつけました。
「傷んでない髪は、久しぶりや」
その足で、島田先生は駅前の文具屋へ行きました。
文具屋は、まだ品物の少ない店でした。
棚には、糊と、藁半紙と、鉛筆が少しだけ並んでいました。
先生は、店にある鉛筆を全部くださいと言ったそうです。
「学級の子の数だけ要るんです」
足りない分は、主人が隣町から取り寄せました。
この話は、その文具屋の孫にあたる人が、いまも町で覚えていました。
翌朝、島田先生は教室に入ってきました。
耳の下で、まっすぐに切りそろえた髪でした。
教室が、和代さんのときと同じように静まりました。
誰も、笑いませんでした。
島田先生は、教壇に紙の包みを置きました。
中から出てきたのは、鉛筆でした。
削っていない、真新しい鉛筆が、四十数本ありました。
一人に一本ずつ、行き渡る数です。
「わたしの髪が、鉛筆になりました」
島田先生は、それだけ言いました。
どうして切ったのかも、誰のためかも、言いませんでした。
説明をしなかったことが、いちばん効いたのだと祖母は言います。
子どもたちは、鉛筆を握って黙っていました。
その日の授業は、算術でした。
子どもたちは、それまで使っていた短い鉛筆で書きました。
新しい鉛筆は、机の上に置いたままです。
削り器のない教室で、その日は誰も鉛筆を削りませんでした。
削ってしまうのが、惜しかったのです。
和代さんは、その朝も帽子をかぶっていました。
けれど、机の上に頭を伏せていました。
肩が、細かく動いていたそうです。
島田先生は、和代さんの席へは行きませんでした。
ただ、いつもより長く、黒板の前に立っていました。
背中を向けたまま、何度も同じ字を書き直していたそうです。
祖母の席からは、先生のうなじが見えました。
髪のあった場所だけ、日に焼けていなくて白かったといいます。
その白さを、祖母はいまでも覚えていると言いました。
何も言わずにそばにいてくれる大人の姿を、私は祖母の話でいくつも聞いてきました。
短くなった鉛筆
その日の放課後、島田先生は和代さんを教壇に呼びました。
手のひらに、小さなものを二つ載せていました。
臙脂色の布で作った、髪留めです。
端をかがって、輪にしただけの簡素なものでした。
「一つは、あなたに」
「もう一つは、わたしが使います」
和代さんは、しばらく手を出しませんでした。
それから、両手で受け取りました。
「先生の、髪」
和代さんが言ったのは、それだけでした。
島田先生は、答えませんでした。
その代わりに、和代さんの髪に一つを留めてやりました。
それから、和代さんは帽子を脱ぎました。
祖母は、教室の外の廊下から、それを見ていたそうです。
翌日から、和代さんは帽子をかぶらなくなりました。
耳の下の髪に、臙脂色の髪留めがついていました。
教壇の島田先生の髪にも、同じものがついていました。
「男みたいや」と言った子が、その日、真っ先に和代さんに話しかけたそうです。
子どもは、変わるときは驚くほど早いのだと祖母は言いました。
冬になるころには、短い髪の子が何人も増えていたそうです。
虱のせいで切った子と、自分で切った子が、混ざっていました。
どちらなのかを、誰も聞かなくなりました。
聞かないでいられることが、あの教室の変わった証だったと思います。
私は、その髪留めのことを、長いあいだ「買ったもの」だと思っていました。
祖母が教えてくれたのは、話の最後です。
あのころ、布も紐も、店に並んではいませんでした。
配給の切符がなければ、手ぬぐい一本も買えない時代です。
あの二つが、どこから来たものなのか。
私は、考えたこともありませんでした。
祖母は、湯呑みを置いてから言いました。
「あれはな、先生が持っとった、たった一本やったんよ」
二つの髪留めは、買ったものではなく、一本の紐を半分にしたものでした。
島田先生が長い髪を結っていた、あの臙脂色の紐です。
先生が持っていた、たった一本の紐でした。
髪を落とせば、その紐はもう要りません。
要らなくなったものを捨てずに、二つに分けたのです。
片方を渡すために、先生は自分の分も残しました。
もらう側が、恵んでもらったと思わずに済むようにです。
縁談は、その後どうなったのか。
祖母も、長いあいだ知らなかったそうです。
ずっとあとになって、同窓会で聞きました。
写真は、短い髪のまま撮られました。
そして島田先生は、その翌年に、その人と所帯を持ちました。
相手の人は、写真を見て一言だけ言ったそうです。
「こういう人がええ」
和代さんは、町で髪結いの店を開きました。
人の髪を短くするのが、いちばん得意だったと聞いています。
短い髪でも綺麗に見せる切り方を、いくつも工夫したそうです。
店の鏡の脇に、臙脂色の髪留めが掛けてあったといいます。
誰かの手から次の誰かへ渡っていくものを、私はこの話で初めて知りました。
祖母の鏡台の鉛筆は、あの四十数本のうちの一本です。
三センチまで削って、そこから先を削れずにいます。
「削ったら、なくなってしまうやろ」
祖母は、いまでもそう言います。
先生の仕事は、字や算術を教えることだけではないのだと思います。
けれど、それを言葉で言った先生の話を、私は覚えていません。
覚えているのは、七日迷ったという話と、短くなった鉛筆のことだけです。
たぶん、それでいいのだと思っています。