先生はずっと通っていた

温かな光の工房の時間

師匠の妻・文子さんから電話が来たのは、四月の末のことだった。

「先生がね、来月から老人ホームに入ることになったんです」

私は調理場で包丁を持ったまま、しばらく動けなかった。

「工房を片付けることになって。石田さんに一度来ていただけないかしら」

電話を切ってから、私は窓の外をしばらく眺めていた。

堀川通りへと続く路地の先に、桐の花が薄紫に咲いていた。

師匠のことを思うと、胸の底にある澱のようなものが、また少し動いた。

岩倉文雄師匠のもとに弟子入りしたのは、二十三歳の春だった。

師匠の店「梅林堂」は、堀川通りから一本入った細い路地の奥にあった。

間口一間半の小さな店で、ショーケースには毎朝変わる上生菓子がたった七種類だけ並んだ。

青楓、牡丹、朝露。

季節の名を持つ菓子たちが、白木の台の上でひっそりと並んでいた。

師匠は当時六十二歳だった。

口数が少なく、叱るときは声が低くなり、褒めるときは何も言わなかった。

ただ、静かに頷くだけだった。

その頷きが褒め言葉なのだと気づいたのは、弟子入りして半年が経った頃のことだった。

最初の半年間は、ひたすら餡を炊かされた。

なぜ餡ばかりなのかと聞くと、師匠は釜から目を離さずに答えた。

「全部そこにある」

その言葉の意味が、私にはわからなかった。

毎朝五時に工房に入り、小豆を選り分け、水に浸し、火にかけた。

餡が焦げるたびに無言で砂糖を足す師匠の背中を盗み見ながら、私は自分の釜を見張り続けた。

一年が経ち、二年が経つうちに、少しずつわかることがあった。

火の強さひとつで、餡の締まり方が変わる。

豆の産地によって、炊き上がりの感触が変わる。

水の硬さで、色の出方が変わる。

全部そこにある、というのはそういうことだった。

餡を一から覚えれば、菓子がわかる。

菓子がわかれば、季節がわかる。

季節がわかれば、客の気持ちがわかる。

師匠はそう言っていたのだと、ずっとあとになって気づいた。

三年目から、ようやく木型を触らせてもらえるようになった。

師匠の棚には、何十本もの型が並んでいた。

椿、菊、松、桐、橘。

それぞれが職人の手で磨かれ、長年の油でなめらかに光っていた。

私が最初に任されたのは、秋の取り合わせに使う菊の型だった。

師匠は何も言わなかった。

ただ一度、私が型から取り出した菊の菓子を見て、静かに頷いた。

あの頷きを、私は今でも覚えている。

一番よく覚えている褒め言葉は、言葉ではない頷きだった。

弟子入りから七年が経った秋の夜、私は師匠に切り出した。

工房の電球の下、師匠が梅の木型を磨いているところへ行き、後ろ姿に向かって言った。

「独立したいと思っています」

師匠の手は止まらなかった。

しばらく沈黙があった。

蛍光灯が微かにうなり、工房の外で風が路地を吹き抜けていった。

「まだ早い」

たった三文字だった。

私は返事ができなかった。

しばらく経ってから、「いつになれば早くないんですか」と言った。

師匠は答えなかった。

翌朝、師匠はいつもどおり五時前に工房に立っていた。

豆を選り分ける横顔は、昨夜と変わらなかった。

私はその日から、独立の話を一切しなかった。

心の中で、何かが少し冷えた気がした。

あの「まだ早い」は、反対だということなのだろう。

私の腕がまだ足りないと思っているのだ。

そう解釈するしかなかった。

それでも私は工房に通い続けた。

師匠の隣で餡を炊き、型を磨き、菓子を仕上げた。

七年が八年になり、九年になり、そして十年が経った。

その間、師匠は一度も「独立していいぞ」とは言わなかった。

私も二度と聞かなかった。

三十五歳の秋、私は独立した。

師匠には、決めてから報告する形になった。

「先月、店を借りることにしました。来月から始めます」

師匠はしばらく私の顔を見てから、「そうか」と言った。

嬉しそうでも、悲しそうでもなかった。

「失礼しました」と言って、私は頭を下げた。

師匠は黙って頷いた。

私はその日を最後に、梅林堂の暖簾をくぐったことがない。

独立した店を構えたのは、師匠の工房から徒歩で二十分ほどの場所だった。

近いのか遠いのか、自分でもわからなかった。

最初の数年は、師匠のことを思い出すたびに、あの三文字が浮かんだ。

まだ早い、まだ早い。

悔しかった。認めてもらえなかった、という気持ちが、ずっとくすぶっていた。

それでも、師匠から教わった餡の炊き方は変えなかった。

師匠から覚えた木型の扱いも、変えなかった。

変えようとしたこともあったが、そうするとどこか菓子が物足りなくなった。

師匠の教えは、私の菓子の芯になっていた。

十年が経ち、私の店は少しずつ知られるようになった。

常連の客が増え、贈り物で指名してもらえることも増えた。

それでも、あの三文字の意味は、ずっとわからないままだった。

師匠は今どうしているだろう、と思うことはあった。

でも、梅林堂の前を通るたびに足が止まり、それ以上近づけなかった。

文子さんに案内されて梅林堂の工房に入ったのは、電話の翌日の朝だった。

シャッターを開けると、工具の匂いがした。

師匠が毎朝磨いていた台がそのままあり、壁には道具が整然と掛けられていた。

棚には木型が並んでいた。

椿、菊、松、桐、橘。

埃もかぶらずに、きれいに立っていた。

誰かが、最近まで手入れをしていたのかもしれなかった。

「使うものがあれば、持っていってください」と文子さんが言った。

でも私には、手が出なかった。

どれも師匠が長年磨き続けてきたものだった。

師匠の手の跡が、型の表面に残っているような気がした。

棚の奥を整理しているとき、文子さんが「あら」と声を上げた。

「これね、ずっとここにあったんです。先生が、いつか渡すようにって言っていたもの」

木の小箱だった。

蓋に、墨で文字が書かれていた。

「石田へ」

私の名字だった。

手が震えながら、蓋を開けた。

油紙で丁寧に包まれた木型が一組、収まっていた。

包みを解くと、梅の型が出てきた。

師匠が一番古くから使っていた、あの梅の木型だった。

型の下に、白い紙が折りたたんで入っていた。

広げると、師匠の見慣れた文字で、こう書かれていた。

「お前はもうここを超えた。行け。」

日付を確認した。

十年前の秋。

私が独立を申し出た、あの夜の翌日だった。

私はその場にしゃがみ込んだ。

声が出なかった。

工房の古い窓から春の光が差し込んでいた。

棚の木型が、その光の中に黙って並んでいた。

文子さんがそっと隣に来て、しばらく立っていた。

「石田さん」と、静かな声で言った。

「あのね、先生ね、あなたが独立してから、毎月一回、あなたのお店にお菓子を買いに行ってたんですよ」

私は顔を上げられなかった。

「お客さんのふりをしてね。包みを抱えて帰ってきて、一人で食べて、何も言わなかったけど。帰ってくる日はいつも、機嫌がよかったの」

文子さんの声が、少し湿っていた。

「私、気になって一度だけ聞いたんです。どこかおいしいお店でも見つけたの、って。そしたら先生ね、『あいつの餡は、俺より上手い』って言ったんです」

私はうつむいたまま、手の中の梅の木型を握り締めた。

型の表面が、師匠の手と同じ温度に感じられた気がした。

翌週、私は師匠のいる老人ホームを訪ねた。

文子さんが「最近は名前もわからなくなっています。どうか驚かないでください」と言っていた。

面会室は明るく、窓の外に小さな庭があった。

師匠は窓際の椅子に座っていた。

白髪になった頭が、少し小さく見えた。

でも背筋だけは、昔と変わらなかった。

「先生」と呼びかけると、師匠はゆっくりと振り向いた。

しばらく、私の顔を見ていた。

何かを探すように、じっと見ていた。

日の光が師匠の白い髪に当たっていた。

「石田か」

低い声だった。

私は頷いた。

「はい。石田です」

師匠はそれ以上何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。

十年前のあの朝、工房でいつもどおり豆を選り分けていたときと同じように。

私はその頷きを見て、あの「まだ早い」の意味が、初めてわかった気がした。

反対ではなかった。

あとほんの少し、手元に置いておきたかっただけなのかもしれない。

それだけのことだったのかもしれない。

そして翌朝、師匠は一人で工房に立ち、梅の木型を油紙に包んで、箱の蓋に私の名字を書いた。

「お前はもうここを超えた。行け。」

あの三文字は、否定ではなく、背中を押す言葉だったのだ。

師匠には、それを口に出す方法がわからなかっただけだった。

私は、目を閉じた。

工房の匂いが、一瞬だけ戻ってきた気がした。

小豆と、砂糖と、長年の油の匂い。

あの匂いが、私を最初に和菓子職人にしてくれた。

今日も私は、師匠から受け継いだ梅の木型で、一つ菓子を作った。

師匠から教わった通りに豆を選り、火にかけ、餡を炊いた。

全部そこにある、というのが、今ならわかる。

餡の炊き方の中に師匠がいて、木型の重さの中に師匠がいて、菓子一つの中に十五年分の時間がある。

私はまだ、あの工房の弟子のままだ。

それが、誇らしかった。

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