貴様飲め

祖母は毎朝、仏壇に向かって「貴様」と言った。

私はそれを、六十年分の悪態だと思っていた。

祖母の家は、越後の海に近い、雁木の下がひんやりする町にあった。

仏壇は座敷の北側にあって、朝の光がほとんど当たらない。

祖母はそこに湯呑みを置き、線香を立て、鈴を一度だけ鳴らした。

そのあとに、必ず言った。

「貴様、今日も寒いねえ」

「貴様、雪が来るよ」

子供だった私は、それがおかしくてたまらなかった。

おばあちゃんは、おじいちゃんのことが嫌いなのだと思っていた。

一度、聞いたことがある。

「おばあちゃん、なんでおじいちゃんに貴様って言うの」

祖母は、鈴を磨く手を止めて、こちらを見た。

そして、笑って言った。

「貴様って、いい言葉だでね」

その返事の意味が分からないまま、私は大人になった。

祖母の朝は、順番が決まっていた。

まず雨戸を開ける。

次に釜に火を入れる。

それから仏壇の水を替える。

順番を間違えたところを、私は一度も見たことがない。

夏休みに泊まると、その音で目が覚めた。

雨戸の戸車が鳴って、鈴が鳴って、それから、貴様、と聞こえる。

その順番が、私にとっての祖母の家の音だった。

祖母は背が低く、九十を過ぎても腰が曲がらなかった。

畑に出るときは、手ぬぐいを姉さんかぶりにした。

冬の雁木の下は、昼でも薄暗い。

その暗がりを、祖母は雪囲いの板に手を触れながら歩いた。

「板が冷たいうちは、まだ大丈夫」

そう言っていた。

何が大丈夫なのかは、聞かなかった。

祖父の顔を、私は写真でしか知らない。

昭和十九年に、北満の国境守備隊にいた。

帰ってこなかった。

残っているのは、軍服の襟に手をやっている一枚と、婚礼のときの一枚だ。

どちらも笑っていない。

その時代の写真は、たいてい誰も笑っていないのだけれど。

祖母は、祖父の話をほとんどしなかった。

戦争の話を嫌がったのではない。

聞かれれば答えたし、隠しごとをする人でもなかった。

ただ、自分からは言わなかった。

私が祖父のことをまとめて聞いたのは、たった一度きりだ。

高校二年の夏、部活の合宿の帰りに祖母の家へ寄った。

その晩、台所で西瓜を切りながら、祖母が急に話しはじめた。

なぜその日だったのかは、いまだに分からない。

西瓜は、井戸水に浸けてあったものだった。

祖母は、種を取らずに切る人だった。

私が種を皿の縁に並べていると、祖母が笑った。

「几帳面だね。じいちゃんに似たんだ」

祖父に似ていると言われたのは、そのときが初めてだった。

私は嬉しくて、それで、つい聞いてしまった。

「おじいちゃんって、どんな人だったの」

祖母は、包丁を置いた。

そして、こう言った。

「話すと長いよ。西瓜、二切れぶんでいいかい」

結局、私は五切れ食べた。

祖父の部隊がいたのは、満洲の北の端、川ひとつ向こうがもう国境という場所だったという。

冬は零下三十度を下回る。

息を吸うと、鼻の奥が痛くなるより先に、貼りつくのだそうだ。

その冬、部隊で発疹チフスが出た。

虱が運ぶ病気だ。

兵舎の中は、暖を取るために人が寄る。

寄れば、うつる。

薬はあった。

けれど、その中隊に残っていたのは、包み紙にくるまれたものが、たった一つだった。

祖父は小隊長だった。

そして、その冬、熱を出した。

同じ日に、部下の一人も倒れた。

新潟から来た十九の兵隊だったという。

名を、小島といった。

兵舎の話も、祖母は細かく覚えていた。

祖父の手紙に書いてあったことを、そのまま覚えていたのだと思う。

床は板張りで、隙間から風が上がってくる。

そこに新聞紙を詰める。

虱は、縫い目に卵を産む。

だから、日の当たる日には、みんなで軍衣の縫い目を火で炙った。

その炙る音が、ぱち、ぱち、と豆を煎るように鳴ったという。

「その音がねえ、うちの人は、いっとう嫌いだったって書いてあったの」

祖母はそう言った。

なぜ嫌いだったのかは、書いていなかったらしい。

私はいま、その理由が少し分かる気がする。

音がしているあいだは、まだ生きている者が並んでいるということだ。

音が減れば、並ぶ数が減ったということになる。

祖母が祖父と暮らしたのは、二年に満たない。

見合いで、初めて会ってから祝言まで十日だったという。

「顔も、ろくに見んかったの」

「見たのは、うちに来てからだね」

祖父は、雪下ろしがうまい人だったそうだ。

屋根の上で、雪を切る順番があるのだと教えてくれたという。

端から落とすと、下の雪が固まって危ない。

真ん中から割って、そこへ寄せていく。

「あの人が下ろしたあとの屋根は、まっすぐでねえ」

祖母は、それを何度も言った。

祖父の話で祖母が繰り返したのは、その二つだけだ。

屋根の雪の下ろし方と、字が細かかったこと。

戦争の場面のことは、聞かれたときだけ、順序よく話した。

自分から語ったのは、屋根の雪のほうだった。

軍医が二人を並べて診て、薬包紙を一つ、床に置いた。

どちらが飲むかは、その場では決められなかったらしい。

小島さんは、掠れた声でこう言ったのだそうだ。

「隊長殿が、お飲みください」

「自分は、まだ動けます」

実際には、もう立てなかった。

それでも、そう言った。

祖父は、天井を見たまま、しばらく黙っていた。

それから、たった一言だけ言った。

「貴様が飲め」

それだけだった。

小島さんは泣いて断ろうとしたが、祖父はもう何も言わなかった。

言わない、という形の命令だった。

薬を飲んだ小島さんは、二週間かかって熱が引いた。

祖父は、その前に息を引き取った。

二十九だった。

薬包紙というのは、手のひらに載るほどの、薄い紙だ。

四隅を折り込んで、粉がこぼれないようにしてある。

そんなものが一つあるかないかで、その冬、誰が内地に帰れるかが決まった。

私は、その話を聞いた高校二年の夏、うまく飲み込めなかった。

薬が足りないなら分ける、と当たり前のように思った。

祖母は、そういう子供の言い分を否定しなかった。

「そうだねえ」

とだけ言って、西瓜の皮を集めていた。

分けたら、二人とも助からない。

その計算が、あの兵舎の板の上では当たり前だったのだと、私が理解したのはずっと後だ。

祖母が祖父の最期を知ったのは、終戦から二年も経ってからだ。

知らせを持ってきたのは、小島さん本人だった。

復員して、新潟の実家に戻って、それから祖母の家を探し当てた。

祖母は、そのときのことをこう言った。

「玄関に、痩せた若い衆が立っとってね」

「うちの人の名前を言うだけで、あとは何も言えんかったの」

「一時間くらい、二人で黙って座っとった」

その日から、小島さんは祖母を助け続けた。

田の水を見に来る。

屋根の雪を下ろす。

子供の入学式には、必ず何か持ってくる。

祖母は一度も断らなかったし、一度も礼を言い過ぎなかった。

「あの人は、うちの人の続きなんだから」

そう言っていた。

父が小学校に上がる年の春、小島さんはランドセルを持ってきたという。

当時のことだから、相当な無理をしたはずだ。

祖母は受け取って、こう言ったそうだ。

「小島さん。うちの人が、貴様に飲めって言ったのは、こういうことじゃないんだよ」

小島さんは、それでも毎年来た。

祖母も、それ以上は何も言わなかった。

どちらも、退かない人だったのだと思う。

私も一度だけ、小島さんに会っている。

小学校の四年か五年の秋だ。

玄関に、腰の曲がった老人が立っていた。

米を三十キロ、自転車の荷台に括ってきていた。

祖母の家まで、坂を二つ越えなければならない。

私が「重かったでしょう」と言うと、その人は真面目な顔で答えた。

「これは、返しとるだけだから」

何を返しているのか、そのときは分からなかった。

台所で、祖母が煮物を温めていた。

小島さんは上がろうとしなかった。

土間に立ったまま、湯呑みの茶を飲んで帰った。

祖母は、その背中に向かって、いつもの調子で言った。

「小島さん、貴様、気をつけて帰るんだよ」

小島さんは、振り向いて、深く頭を下げた。

私は、祖母が他人にまで貴様と言うのに驚いて、笑ってしまった。

小島さんは笑わなかった。

祖母が亡くなったのは、九十四のときだ。

眠ったまま、朝になっても起きてこなかった。

その前の晩まで、自分で風呂を沸かしていた人だった。

四十九日が済んで、私と母で家を片づけた。

古い家は、片づけると際限がない。

簞笥の抽斗から、名前の分からない人の写真が何枚も出てくる。

仏壇の下の抽斗は、最後に開けた。

中には、祖父の位牌の予備と、香典帳と、桐の小箱が入っていた。

箱には、軍事郵便の葉書が十七枚と、折り畳まれた紙が一枚あった。

紙は、薬包紙だった。

六十年以上たって、折り目のところが茶色くなっていた。

中身は、当然、何も入っていない。

けれど、二つに畳んだ形のまま、きちんと保たれていた。

誰かが、開いたあとで、もう一度畳み直したのだ。

母が、それを見て言った。

「ばあちゃん、これ、なんべんも開いてるね」

折り目が、二重になっていた。

畳んで、開いて、また畳む。

それを繰り返した紙は、折り目のところに細かい皺が寄る。

六十年で何回開いたのかは、数えようがない。

ただ、皺の深さから言えば、一度や二度ではなかった。

軍事郵便の葉書は、日付順に重ねてあった。

検閲があるから、書けることは少ない。

気候のこと、体のこと、内地の子供のこと。

どれも同じような文面が続く。

最後の一枚だけが、違った。

昭和十九年十二月の消印だった。

そこには、こう書いてあった。

貴様は、おれの一等大事なものだ。

それだけが、他の文面とは違う筆圧で書かれていた。

私は、葉書を持ったまま、しばらく動けなかった。

祖母は毎朝、祖父を罵っていたのではなかった。

祖父が、生涯でいちばん優しい声で使った言葉を、六十年、返し続けていたのだ。

「貴様って、いい言葉だでね」

あの返事の意味が、そこでようやく分かった。

私は、その葉書を母に見せた。

母は読んで、それから台所へ行って、水を出したまましばらく戻ってこなかった。

戻ってきて、こう言った。

「じいちゃんは、ばあちゃんに、貴様って呼んだのが最後だったんだね」

「だから、ばあちゃんも、それで呼び続けたんだ」

そのとおりだと思う。

けれど、私にはもう一つ、引っかかっていることがあった。

薬包紙だ。

祖父が飲まなかった薬の包み紙が、なぜ祖母の家にあるのか。

葉書は、十七枚のうち十六枚までが、同じ調子だった。

体は丈夫にしております。

内地は寒くなりましたか。

子供のことをよろしく頼みます。

文字は驚くほど小さく、几帳面だった。

検閲を通すために、書けることを選び抜いた文面だ。

その人が、最後の一枚だけ、選ばずに書いた。

私は、そこに一番胸を突かれた。

言えることが少ないほど、言葉は選ばれる。

選ばれた末に残った一語が、あの二文字だった。

小島さんの息子さんに、手紙を書いた。

年賀状のやりとりだけは続いていたので、住所は分かった。

二か月後に、長い返事が来た。

そこに、答えがあった。

小島さんは、生前、家族にこう話していたそうだ。

薬は、一つではなかった。

軍医が置いていったのは二包で、祖父は自分の分をすでに手にしていた。

祖父はそれを、小島さんが眠っているあいだに、水筒の中で溶かした。

そして、軍医が戻ってきたときに、こう言った。

「一つ、落として駄目にしました」

「残りは、あの兵隊にやってください」

小島さんは、二週間後に熱が引いてから、空になった薬包紙が二枚あることに気づいたという。

一枚は、自分が飲んだもの。

もう一枚は、誰も飲んでいないもの。

息子さんの手紙には、こうも書いてあった。

父は、その紙を見せながら、いつも同じことを言いました。

これは、隊長殿の分だ。

おれの分は、飲んでしまってもう無い。

だから、これだけは、おれの物ではない。

息子さんは、子供の頃、その話が怖かったのだそうだ。

父親が、自分の物ではないと言い張る紙を大事に持っている。

その意味が分かったのは、自分に子供ができてからだったと書いてあった。

その一枚を、小島さんは復員のときまで軍衣の内側に縫い込んで、内地まで持ち帰った。

そして、祖母に渡した。

祖母は、それを六十年、仏壇の下に置いていた。

祖父は、譲ったのではなかった。

自分の分を先に捨てて、譲る以外の道をなくしてから、貴様が飲め、と言った。

断れないようにしてから、命令の形にしたのだ。

私は、その手の込みように、しばらく腹が立った。

腹が立つというのは、たぶん正しい言葉ではない。

けれど、他に言いようがない。

その人は、断らせないために、嘘までついた。

「一つ、落として駄目にしました」

軍医に向かって、そう報告した。

生涯でただ一度の嘘だったかどうかは、誰にも分からない。

私は、母にその話をした。

母は、しばらく黙ってから、こう言った。

「じいちゃんらしいって言いたいけど、母さん、じいちゃんのこと知らないんだよね」

父も祖父を知らない。

祖父を知っている人は、もう一人もいない。

それなのに、祖父が何をした人かは、家の中に残っている。

薬包紙が一枚と、葉書が十七枚と、毎朝の二文字。

それだけで、六十年以上、一人の人が家にいたことになっていた。

祖母は、晩年になっても達者だった。

九十を過ぎてから、デイサービスに通いはじめた。

職員の方に、こう報告されたことがある。

「おばあちゃん、ほかの利用者さんのこと、貴様って呼ぶんです」

「最初はびっくりされるんですけど、みなさんすぐ慣れて」

私は謝ったが、職員の方は笑っていた。

「怒ってる感じが全然しないんですよ。むしろ、名前で呼ばれるより嬉しそうにされる方がいて」

祖母は、その言葉を、いい言葉として使い続けた。

使い続けているうちに、まわりまでそう思うようになった。

言葉の意味は、辞書ではなく、使う人が決めるのだと思う。

少なくとも、あの町の、あの施設の中では、そうだった。

仏壇は、いま私の家にある。

北向きの部屋に置いた。

朝の光がほとんど当たらないのは、祖母の家と同じだ。

そうしたかったわけではなく、間取りの都合でそうなった。

湯呑みを置いて、線香を立てて、鈴を一度鳴らす。

それから、しばらく黙っている。

私はまだ、その言葉を口に出せない。

祖母のように自然には言えないし、真似をしているようで、後ろめたくもある。

先月、小学生の娘が横に来て、真似をして手を合わせた。

そして、聞いた。

「ひいおばあちゃん、ここでなんて言ってたの」

私は少し迷って、答えた。

「貴様、って言ってたよ」

娘は、けらけら笑った。

「わるぐちじゃん」

「そうだね」

「ちがうよ、って言ってあげたら」

私は、笑った。

説明しなかった。

説明する日は、たぶんもう少し先でいい。

薬包紙は、桐の小箱に入れたまま、仏壇の下に置いてある。

六十年、祖母がそうしていたように。

何も入っていない紙だ。

けれど、あれは空ではない。

飲まれなかった薬の形が、まだ折り目に残っている。

今朝も、鈴を一度だけ鳴らした。

言葉は、まだ出なかった。

かわりに、湯呑みの茶を、いつもより熱くした。

北満の冬は、零下三十度を下回ったという。

せめて、そのくらいはできる。

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