友人のマグカップが残した言葉

マグカップ(フリー写真)

千春が亡くなったのは、梅雨明けの朝でした。

三十四歳でした。

友人のマグカップを手にした瞬間、私は、ずっと閉じ込めていた涙を止められなくなりました。

千春とは、高校の美術部で出会いました。

放課後の美術室で、いつも窓際の席に座り、絵の具の匂いの中で笑っている人でした。

卒業してからも、私たちは、月に一度は会っていました。

彼女が一人暮らしをしていた古いアパートに、私が仕事帰りに寄るのです。

玄関を開けると、必ずコーヒーの香りがしました。

「いらっしゃい。今日は、ブラジルを挽いたよ」

千春は、そう言って、台所の小さなミルを回しました。

ゴリゴリという音が、部屋いっぱいに広がります。

その音を聞くと、一週間の疲れが、すっと抜けていくのでした。

食器棚には、数えるほどのカップしかありませんでした。

けれど千春は、それぞれのカップに、きちんと持ち主を決めていました。

友人のマグカップ

私に出してくれるのは、いつも、白地に青い小鳥の絵が描かれた、友人のマグカップでした。

千春は、自分用に、縁が少し欠けた、無地の茶色のマグを選びます。

「そっちの方が、きれいだよ。私のは、ほら、ここ欠けてるから」

「別に私は、欠けてても気にしないよ」

「いいの。お客さんには、いいほうを出す主義なの」

千春は、そう言って笑い、欠けた縁に唇を当ててコーヒーをすすりました。

その仕草を、私は何十回も、何も考えずに眺めていました。

欠けた縁は、ざらりとして、きっと飲みにくかったはずです。

それでも千春は、決して文句を言いませんでした。

いま思えば、あれは千春の、不器用な優しさだったのだと思います。

自分のことはいつも後回しにして、人にはいいほうを差し出す人でした。

私は、そのことに、ずっと気づかないふりをしていたのです。

思い出すのは、二年前の冬の夜のことです。

仕事で大きな失敗をして、私は千春の部屋に転がり込みました。

何も話せずに、ただ膝を抱えていると、千春は黙ってコーヒーを淹れてくれました。

湯気の向こうで、千春は、窓の外の雪を眺めていました。

「話したくなったら、話せばいいよ。コーヒーは、冷めるけど、待っててくれるから」

その一言に、私は、堰を切ったように泣き出しました。

千春は、背中をさすりながら、何も聞かずに、隣にいてくれました。

あの夜のコーヒーの味を、私は一生、忘れないと思います。

千春が入院したと聞いたのは、去年の秋でした。

共通の友人からのメールで、「検査入院らしいよ」と書いてありました。

私は、すぐに電話をかけました。

「大丈夫? お見舞いに行こうか」

「ううん、来なくていいよ。たいしたことないから」

受話器の向こうの声は、いつもと変わらず、明るく聞こえました。

「また元気になったら、美味しいコーヒー淹れてあげる」

「うん。楽しみにしてる」

私は、その言葉を、疑いませんでした。

病室に行かなかった理由

それから半年、私は千春の病室へ、一度も行きませんでした。

仕事が忙しかったのも、本当です。

でも、いちばんの理由は、別のところにありました。

弱った千春を、見るのが怖かったのです。

会えば、きっと私は、うまく笑えない。

変に気を遣って、千春を疲れさせてしまうかもしれない。

そんな言い訳を、自分に何度も繰り返しました。

その間も、メッセージだけは、毎週送っていました。

「今日は寒いね。あったかくして寝てね」

「新しいカフェを見つけたよ。元気になったら、一緒に行こう」

返事は、いつも短く、絵文字だけのこともありました。

それでも、返事が来るたびに、私は胸をなで下ろしました。

元気になる。千春は、きっとまた元気になる。

そう信じることだけが、私にできる、精一杯のことだと思っていたのです。

お見舞いに行けない日々の中で、私は、職場の帰りに、よくコーヒー豆の店に寄りました。

焙煎したての香ばしい匂いが、店先まで漂っています。

「いらっしゃいませ。今日は、何にしましょう」

「ブラジルを、二百グラムください」

千春が元気になったら、一緒に飲もうと、買い置きしていたのです。

棚に並んだ袋は、いつのまにか、五つに増えていました。

春の終わりに、メッセージの返事が途切れました。

「疲れて寝てるのかな」

そうつぶやいて、私はスマホを伏せました。

その二週間後、千春の姉から、一本の電話が入りました。

遺品の整理を手伝う

通夜の日、私は、千春のアパートに呼ばれました。

遺品を整理するのを、手伝ってほしいと言われたのです。

久しぶりに開けた玄関は、少し埃っぽく、コーヒーの香りは消えていました。

窓から差し込む夕方の光が、床に長い影を落としています。

流しの水切りかごには、洗ったままのスプーンが、一本だけ残っていました。

冷蔵庫には、私が好きだと言ったことのあるチーズケーキの空き箱が、折りたたんで置いてありました。

千春は、最後まで、来客を迎える準備を欠かさなかったのです。

カレンダーの今月の欄には、小さな字で「Mちゃん来る?」と書いてありました。

Mは、私の名前の頭文字です。

その文字を見たとき、膝から力が抜けました。

台所に立つと、あの食器棚が、そのままの姿で並んでいました。

白地に青い小鳥の、マグカップがありました。

その隣に、縁の欠けた茶色のマグも、並んでいました。

私は、何気なく、その茶色のマグを手に取りました。

指で縁をなぞると、ざらりとした欠けが、爪に引っかかりました。

そのとき、ふいに、千春の声が耳によみがえりました。

「お客さんには、いいほうを出す主義なの」

私は、欠けた縁に、そっと唇を当ててみました。

冷たい陶器の感触が、唇に伝わります。

千春の席から見る私の席が、ひとつ向こうに見えた気がしました。

「元気になってまた会えると信じていたのに」

気づけば、そう声に出していました。

涙が一気に溢れて、止まらなくなりました。

私は、台所の床に座り込み、人目も憚らず、声を上げて泣きました。

窓の外では、近所の子どもたちの自転車のベルが、遠く、夕焼けの中に溶けていきました。

世界はいつも通りに動いているのに、千春だけがいない。

その当たり前のことが、そのときほど、受け入れがたく思えたことはありません。

床の冷たさが、スカート越しにじわりと伝わってきました。

コーヒーのしみのついた布巾が、流しの縁にかかったまま、乾いていました。

マグカップを胸に抱えたまま、子どものように、泣き続けました。

喪主の姉が言ったこと

どれくらい、そうしていたでしょうか。

背中に、そっと手が置かれました。

喪主を務めていた、千春のお姉さんでした。

目の下に、深い影ができていました。

「ごめんなさい。取り乱してしまって」

「いいえ。千春も、きっと喜んでいます」

お姉さんは、私の隣にしゃがみ込み、静かに言いました。

「実はね、あの子、お見舞いに来てくれた人の前では、無理して何か食べていたんです」

「え」

「せっかく来てくれたのだからって、笑って口に入れて、帰ったあとで、全部吐いてしまって」

お姉さんは、そこで言葉を詰まらせ、手の甲で目元を拭いました。

「あなたが来なかったこと、あの子、少しも責めていませんでした」

「本当、ですか」

「ええ。『あの子には、元気だった頃の私のままでいてほしい』って」

私は、何も言えませんでした。

「お気遣い、ありがとうございます。あの子は、本当に、救われていたと思います」

お姉さんは、そう言って、深く頭を下げました。

私の胸の奥で、ずっと固く結ばれていたものが、ゆっくりとほどけていきました。

寂しい思いをさせたかもしれません。

けれど、これで良かったのかもしれない。

そう、自分に言い聞かせました。

言い聞かせながら、私は、まだ温もりの残るような茶色のマグカップを、両手で包み込んでいました。

通夜の最後に、お姉さんが、茶色の方のマグカップを私に差し出しました。

「もらってやってください。あの子の、いちばん好きなカップでした」

「でも、欠けていますよ」

「いいんです。あの子は、いちばん大事な人にしか、そのカップは使わなかったから」

私は、息を呑みました。

いつも千春が自分で使っていたものだと、思い込んでいたからです。

お姉さんは、少しだけ笑いました。

「あなたが来ない日の分まで、あの子、そのカップで毎日コーヒーを淹れていたの。いつ来てもいいようにって」

私は、堪えきれずに、その場で深く頭を下げました。

家に帰って、私はそのマグカップに、インスタントではないコーヒーを淹れました。

慣れない手つきでミルを回すと、台所に、あの懐かしい香りが立ちのぼりました。

欠けた縁に唇を当てて、ゆっくりと口に含みます。

少し苦くて、少し甘い、千春の味でした。

友人のマグカップは、いまも私の棚の、いちばん手の届く場所にあります。

大切な人を見送る物語は、母のガイドブックやドア裏の落書きにも綴られています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。