友達からの救いのメール

駅前の再開発で取り壊されると聞いて、僕は十数年ぶりに、あの公園を訪ねた。

小さなブランコと、塗装の剥げたベンチが一つ。記憶のなかより、ずっと狭く見えた。

それでも、ベンチに腰を下ろした瞬間、胸の奥が、あの頃のままにきゅっと縮んだ。

ここは、僕と航の、二人だけの場所だった。

僕はもう三十を過ぎて、会社では人に何かを教える立場になった。航がいたら、きっと「お前が人にものを教えるのか」と、腹を抱えて笑っただろう。

取り壊しの報せを新聞の片隅で見つけたとき、僕は思わず、仕事を半日休んでしまった。

このベンチがなくなる前に、もう一度だけ座っておきたい。そう思った自分に、少し驚いた。航が逝って、もう十年以上が経つというのに。

公園までの道も、すっかり変わっていた。駄菓子屋はコインパーキングになり、僕たちが秘密基地と呼んでいた神社の裏も、フェンスで塞がれていた。

それでも、街路樹の銀杏の並びだけは、昔のままだった。秋になると、この道いっぱいに黄色い葉が散って、航はそれを蹴り上げては笑っていた。

歩いているだけで、忘れていたはずの声が、次々と耳の奥でよみがえってくる。

航とは、小学校の登校班が同じだった。家が隣同士で、物心ついたときには、もう一緒にいた。

無口な僕と、よくしゃべる航は、まわりから見れば妙な組み合わせだったと思う。

航は、電車が好きだった。時刻表を丸暗記していて、僕を相手に、行ったこともない町の名前を、嬉しそうに並べてみせた。

出会ったのは、小学一年の春だった。引っ越してきたばかりで、誰とも話せずにいた僕に、最初に声をかけたのが航だった。

「お前んち、電車見える? うち、二階から見えるんだ。一緒に見ようぜ」

それだけで、僕たちは友だちになった。航の家の二階から、僕たちは飽きずに、走っていく電車を数えた。

夕方になると、線路の向こうの空が、だいだい色に染まった。その光のなかを、電車が一本、また一本と過ぎていく。

航は、その光景をいつまでも眺めていた。僕も、つられて隣で、同じ空を見ていた。いま思えば、終点の海でラムネを飲むという夢は、あの夕暮れの空の色から、生まれたのかもしれない。

行き先表示の駅名を、航は端から覚えていった。そして決まって、いちばん遠い駅を指さして言うのだ。

「あそこが、終点。いつか、二人で行こうな」

「いつか、この路線の終点まで二人で行こうな」

「終点に、なにかあるの」

「なんもないかもしれん。でも、終わりまで行ってみたいんだ、俺は」

その「終点」が、航の口ぐせだった。学校帰りに、僕たちはよくこの公園のベンチに座って、終点の話をした。

航は、ノートの切れはしに、空想の路線図を描いた。僕の家から始まって、僕の知らない海辺の駅で終わる、青い線。

「ここが終点。海が見えるんだ。降りたら、二人でラムネ飲もう」

僕は、その絵が好きだった。終点になにがあるのか、本当はどうでもよかった。航と一緒なら、それでよかった。

一度だけ、本気で終点まで行こうとしたことがある。小学六年の、夏休みの朝だった。

二人で財布の小銭をぜんぶ出し合って、始発の電車に乗った。航は窓に張りついて、駅の名前をひとつずつ読み上げた。

「次、知らない駅だ」「その次も知らない」と、声がだんだん弾んでいった。

けれど、知らない町がいくつも過ぎていくうちに、僕は少しずつ心細くなってきた。

「なあ、航。そろそろ、帰らない?」

航は窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。それから、こう言った。

「……うん。帰ろうか。終点は、まだ、とっとこう」

僕たちは、半分も行かないうちに引き返した。帰りの電車で、航はずっと、まだ見ぬ終点の海の話をしていた。

いま思えば、あのとき引き返したことを、僕はずっと悔やんでいる。あと一駅、せがめばよかった。

中学に上がっても、僕たちはよくそのベンチで会った。

携帯を持つようになってからは、用がなくても、短いメールを送り合った。

「今どこ」「ベンチ」「すぐ行く」、たいてい、それだけの中身だった。

航のメールは、いつも誤字だらけで、絵文字が多すぎた。読むだけで、あいつの早口が聞こえるようだった。

中学二年の冬、僕の両親が離婚した。父が家を出ていった夜、僕はどうしていいかわからず、ふらりとあの公園に来た。

こんな時間に誰もいるはずがないのに、ベンチには、航が一人で座っていた。白い息を吐きながら、缶のお汁粉を二つ、握っていた。

「なんで、いるんだよ」

「なんとなく。お前、来る気がした」

航は、理由も訊かなかった。冷たくなりかけたお汁粉を僕に押しつけて、いつものように、終点の話を始めた。

その夜、僕はベンチで、声をあげて泣いた。航は何も言わず、ただ、僕の背中をぽんぽんと、不器用に叩いていた。

あいつは、いつだってそうだった。言葉で慰めるのが下手な代わりに、必ず、となりにいてくれた。

そのベンチの裏側には、小さな傷がある。中学に上がった春、航が釘で、こっそり彫ったものだ。

「W」と「K」。航の航と、僕の名前の頭文字。下手くそで、ほとんど読めない。

「なに勝手に彫ってんだよ」

「記念だよ、記念。終点まで行けたら、海の駅にも彫ろうぜ」

僕は呆れたふりをしたけれど、本当は、少し嬉しかった。二人の場所に、二人の印がついたみたいで。

その傷を、僕はいまも、ベンチに座るたびに指でなぞる。十数年経っても、ちゃんと、そこにある。

その年の秋、航は、自転車で交差点を渡っているときに、トラックに巻き込まれた。

本当に、突然のことだった。前の日も、ベンチで終点の話をしたばかりだったのに。

報せを聞いたのは、夕飯の最中だった。母が電話を取って、受話器を持ったまま、動かなくなった。

その背中を見て、僕は、何か取り返しのつかないことが起きたのだと、理屈ではなく悟った。

病院に駆けつけたときには、もう、何もできることはなかった。航は、眠っているように見えた。

いまにも起き上がって、「遅いぞ」と早口で言いそうで、僕はずっと、その顔を見ていられなかった。

報せを聞いても、僕はしばらく、何が起きたのか理解できなかった。涙も、まるで出なかった。

葬式には、クラスのみんなが来ていた。航は、遺影のなかで笑っていた。いつも僕に見せていた、あの笑い方で。

その笑顔を見た瞬間、頬を、生あたたかいものが伝った。口の端まで流れてきて、塩からい、と思った。

そこで初めて、自分が泣いているのだと気づいた。僕はいたたまれなくなって、式場を飛び出した。

外の空は、よく晴れていた。航が好きそうな、どこまでも遠くまで電車が走っていけそうな、青い空だった。

空を見上げていると、航のお母さんが、そっと近づいてきた。目を真っ赤にしていた。

「あの子ね、亡くなる前の日に、あなたと終点まで行く約束をしたって、嬉しそうに話してたのよ」

僕は、何も返せなかった。ただ、唇を噛んで、うなずくのがやっとだった。

あの公園のベンチで交わした、なんでもない約束を、航は家で、母親に話していたのだ。

その夜、僕は何の気なしに、携帯のメールを開いた。

受信箱の一番上に、航からのメールが、一通あった。

心臓が、ひとつ、大きく鳴った。日付を確かめると、事故のあった日の、朝になっていた。

何かの手違いで、届くのが遅れていたらしい。震える指で、僕はそれを開いた。

「明後日の夕方、いつものベンチで待ってる。五時な。遅れんなよ」

たったそれだけの、いつもどおりの、誤字混じりのメールだった。

なぜ、わざわざこんなメールを。そう思いながらも、その時の僕は、不思議な力に背中を押されるような気がしていた。

実は、その明後日というのが、ちょうど僕の誕生日だった。

母方の祖父母の家へ、家族で泊まりに行くことになっていた。高速道路を使って、隣の県まで。

僕は、祖父母に電話をかけて、今年は行けそうにないと伝えた。親には、どうしても外せない用があるのだと言った。

「航と、約束したんだ」とは、言えなかった。言っても、信じてもらえるはずがない。

祖父母の家に行くのを、僕は本当は楽しみにしていた。年に一度、いとこたちと会える日だった。

それでも、航のメールを無視するという考えは、なぜか、一度も浮かばなかった。

あいつが「来い」と言うなら、行く。理由なんて、いらない。十年以上、そうやって過ごしてきたのだから。

布団のなかで、僕は何度も、その短いメールを読み返した。

画面の光のなかに、航の早口が、確かに息づいていた。

母は少し怪訝な顔をしたが、誕生日くらい好きにしなさい、と折れてくれた。

明後日の夕方、僕はメールの通り、五時に公園へ行った。

もちろん、ベンチには誰もいない。塗装の剥げた座面が、夕日にぬるく光っているだけだった。

僕は、いつもの場所に腰を下ろして、誰も来ない時間を待った。

風が、ブランコをかすかに鳴らした。航がよく描いた、青い路線図のことを思い出した。

五時になると、公園のそばの教会の鐘が、ゆっくりと鳴った。

その音を聞きながら、僕は航との思い出を、ひとつずつ、終点までたどるように振り返った。

終点には、なにがあるんだろう。海が見えるって、本当かな。ラムネ、一人じゃ飲めないよ。

日が傾いて、ベンチの影が、地面に長くのびていった。秋の風が、銀杏の匂いを運んできた。

航がいつも座っていた、僕の右どなり。そこに、ほんの少しだけ、ぬくもりが残っているような気がした。

気のせいだとわかっていても、僕はそのとなりに向かって、いつものメールを口に出してみた。

「今どこ」「ベンチ」「すぐ行く」。返事は、もちろん、なかった。

それでも、不思議と寂しくはなかった。航は、約束を守る男だ。来いと言ったのは、あいつのほうなのだから。

きっと、僕には見えないどこかで、いつものように、にやにや笑っているに違いなかった。

鐘が鳴りやむまで、僕はただ、そこに座っていた。そして、空っぽのとなりに向かって、「またな」と言って、家に帰った。

家に着くと、母が血相を変えて、玄関に立っていた。

「あんた、ニュース見た?」

「なに」

「今日、おじいちゃんちに行くのに通るはずだった高速で、ものすごい玉突き事故があったの」

母の声は、少し震えていた。

「予定通り出てたら……ちょうど、あの辺りを走ってた時間よ」

僕は、言葉が出なかった。

航のメールがなければ、僕たち家族は、あの道を走っていた。

あいつは、僕が生まれた日に、僕が死んでしまうのを、止めてくれたのだ。

そう思えて、ならなかった。

その夜、僕は布団をかぶって、声を殺して泣いた。葬式のときよりも、ずっと長く、ずっと激しく。

助かった、という安堵ではなかった。航がもう、二度とメールをくれないのだという事実が、改めて、胸に突き刺さったのだ。

あいつは、自分の終点を、僕に分けてくれた。自分はもう先に行ってしまったのに、僕の道だけは、まだ続くようにと。

僕は、その意味を、何年もかけて、ゆっくりと噛みしめることになった。

あのメールは、いまでも携帯に保存してある。機種が変わるたびに、いちばん最初に移し替える。

社会人になって、何度も携帯を買い替えた。そのたびに、僕がまず確かめるのは、あのメールが無事に移せているかどうかだった。

店員に怪訝な顔をされても、これだけは消せないんです、と頭を下げて、必ず移し替えてもらった。

仕事で疲れた帰り道、ふと電車の窓に映る自分の顔を見て、航のことを思い出すことがある。

あいつが好きだった、知らない駅へ走っていく電車。僕はいまも、その一つに乗って、生きている。

終点まで二人で行こう、という約束は、とうとう果たせなかった。

でも、と僕はベンチで思う。航はきっと、僕より先に終点まで行って、そこで僕を待っているのだろう。

海の見える、青い線のいちばん端で。ラムネを二本、ちゃんと用意して。

だから、僕はまだ、その駅で降りるわけにはいかない。あいつを待たせる分だけ、長く生きて、土産話を山ほど持っていく。

取り壊される前に、もう一度だけ、と思って来たベンチで、僕は携帯のメールをそっと開いた。

航の三回忌の年、僕は一人で、あの路線の終点まで行ってみた。

航がノートに描いた青い線の、いちばん端。電車を降りると、本当に、目の前に海が広がっていた。

航の言ったとおりだった。終点には、海があった。僕は売店でラムネを二本買って、一本を、誰もいない隣のベンチに置いた。

ビー玉が、からんと鳴った。潮の匂いと、波の音。航と、いつか二人で来るはずだった景色を、僕は一人で、長いこと眺めていた。

波打ち際を、家族連れが歩いていた。子どもが、父親の手を引いて、何かをせがんでいる。

航と二人なら、きっとあんなふうに、くだらないことで言い争いながら、砂浜を歩いたのだろう。

隣に置いたラムネは、夕日のなかで、少しずつぬるくなっていった。それでも僕は、最後まで、それを片づけられなかった。

「うまいか、航」と、僕は小さく訊いた。返事のかわりに、波が一つ、僕の足もとまで静かに寄せて、ゆっくりと引いていった。

「遅くなってごめんな。やっと、終点まで来たよ」と、僕は海に向かって言った。

帰りぎわ、僕は駅のベンチの裏に、釘の先で、小さく「W」と「K」を彫った。

下手くそで、ほとんど読めない。あの公園のベンチと、おそろいだった。

これで、二人の印が、始まりの駅と、終わりの駅の、両方についた。航との約束を、僕は半分だけ、果たせた気がした。

残りの半分は、いつか僕がそこへ行く日まで、とっておくことにした。

それからというもの、誕生日が来るたびに、僕はこの公園に立ち寄るようになった。

ケーキを買う前に、まずベンチに座って、航に一年分の報告をする。仕事のこと、結婚したこと、子どもが生まれたこと。

航は何も言わない。それでも、報告を終えると、いつも、胸のつかえが少しだけ軽くなった。

僕が一つ歳をとるたびに、僕はあの日、航にもらった命の続きを、また一年、生きたことになる。

取り壊しの作業をしていた人に、僕は思いきって頼んでみた。このベンチの、裏の板を一枚だけ、もらえませんか、と。

事情を話すと、その人は少し笑って、「持っていきな」と、傷のついた板を外してくれた。

「W」と「K」の彫られた、その一枚を、僕は両手で受け取った。

古い木の、ざらりとした手ざわり。日なたの匂いがした。航と過ごした時間が、まるごと、その一枚に染み込んでいるようだった。

この板は、僕の部屋に飾ろうと思う。あの携帯のメールと、一緒に。

そうすれば、毎朝それを見るたびに、思い出せる。となりにいてくれた友だちのことを。

僕が今日も生きているのは、当たり前のことではないのだと。あの日、一通のメールが、僕にくれた時間なのだと。

「五時な。遅れんなよ」。あいつの早口が、いまも聞こえる。

「ああ、遅れるよ。うんと、遅れていくからな」と、僕は誰もいないとなりに、小さく返事をした。

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