一生懸命に取り組むこと

公開日: 仕事 | 心温まる話 | 長編

レジ(フリーイラスト素材)

その女性は、何をしても続かない人でした。

田舎から東京の大学に進学し、サークルに入ってもすぐに嫌になって、次々とサークルを変えて行くような人でした。

それは、就職してからも同じでした。

最初の会社は三ヶ月。上司との衝突が原因でした。

次の会社は半年。自分が思っていた仕事と違う、というのが理由でした。

そんなことを繰り返す内に、彼女の履歴書には僅かで辞めてしまった会社の名前がずらりと並ぶようになってしまいました。

そうなると、どの会社も正社員としては雇ってくれません。

彼女は派遣会社に登録しました。

しかし、派遣会社でも長続きしません。

履歴書には、また派遣先のリストが次々と追加されて行きました。

今度の派遣先はスーパーでした。

仕事内容はレジ打ちです。

今のようにバーコードなど無い時代です。

当時のレジは、電卓のように一つ一つキーを打たなければならなかったのです。

勤め始めて一週間。

仕事に慣れてきた彼女は、段々飽きてしまったのです。

「私はこんな単純作業をするために居るのではない!」

辞表を書いてみたものの、正直なところ彼女自身も、仕事が長続きせず我慢の出来ない自分が嫌いになっていました。

どうしようかと思っていた矢先、田舎の母親から電話。

「帰っておいでよ」

母のやさしい声に、決心がつきました。

もう田舎に戻るつもりで部屋の片付けを始めたのです。

片付けを始めて暫くすると、昔の日記が出てきました。

パラパラと捲っている内に、小学生の時に書いた言葉が、彼女の目に飛び込んできたのです。

「ピアニストになりたい」

…彼女は思い出しました。

ピアノの稽古だけは、辞めずに続けていたのです。

そして『夢を追い掛けていた心』を思い出したのです。

「あんなに希望に燃えていた自分が、今はどうだろうか。情けない。そして、また逃げようとしている…」

彼女は泣きながら母親に電話をしました。

「私、もう少しここで頑張る」

辞表を破り捨て、スーパーに出勤しレジ打ちをしていると、ある考えが浮かびます。

「ピアノも練習を重ねる内に、キーを見なくても打てるようになったんだ。私流にレジ打ちを極めてみよう!」

彼女は数日で、物凄いスピードでレジ打ちが出来るようになりました。

すると、今まではレジのボタンしか見ていなかった彼女が、今まで見もしなかったところへ目が行くようになったのです。

「あのお客さんは昨日も来ていたな」

「この人は、閉店間際に来る」

「この人は、高い物しか買わない」

そんな風にお客さんを見ることが、彼女の楽しみの一つになりました。

そんなある日、いつもは安い物ばかりを買うおばあちゃんが、五千円もする立派なタイを持ってレジに来たのです。

ビックリした彼女は思わず声を掛けます。

「今日は何か良いことあったんですか?」

するとおばあちゃんは嬉しそうに言いました。

「孫がね、水泳で賞を取ったから、お祝いなんだよ」

彼女は、嬉しくなって言いました。

「それはおめでとうございます!」

お客様とのコミュニケーションが楽しくなった彼女は、すっかりお客さんの顔と名前を覚え、

「○○さん、今日はこのチョコよりも、もっと安いチョコが出てますよ」

「今日はマグロよりもカツオの方が良いわよ」

などと言うようになったのです。

彼女は段々この仕事が楽しくなってきました。

そんなある日のこと。

彼女が忙しくレジ打ちをしていると、店内放送が響きました。

「本日は混み合いまして、誠に申し訳ございません。

どうぞ、空いているレジにお回りください」

暫くすると、また放送が響きました。

「重ねて申し上げますが、どうぞ、空いているレジにお回りください」

三回目のアナウンスを聞いて彼女は何かおかしいと気付き、周りを見渡して…驚きました。

他のレジが全部空いているのに、彼女のレジにしかお客さんが並んでいなかったのです。

店長が慌てて、お客さんに駆け寄り声を掛けます。

「どうぞあちらへお回りください」

するとお客さんは、

「放っといてちょうだい!私はここへ買い物に来ているんじゃない!

あの人と喋りに来ているんだ!

だからこのレジじゃないとイヤなんだ!」

その瞬間、彼女はワッと泣き崩れました。

他のお客さんも言いました。

「特売は他のスーパーでもやっているよ。

だけど私は、このお姉さんと話をするためにここへ来ているんだ。

だからこのレジに並ばせておくれよ」

彼女はボロボロと泣き崩れたまま、レジを打つことが出来ませんでした。

仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと初めて気付いたのです。

そう、既に彼女は昔の自分ではなくなっていたのです。


note 開設のお知らせ

いつも当ブログをご愛読いただき、誠にありがとうございます。
今後もこちらでの更新は続けてまいりますが、note では、より頻度高く記事を投稿しております。

同じテーマの別エピソードも掲載しておりますので、併せてご覧いただけますと幸いです。

泣ける話・感動の実話まとめ - ラクリマ | note

最新情報は ラクリマ公式 X アカウント にて随時発信しております。ぜひフォローいただけますと幸いです。

関連記事

フライト(フリー写真)

相手を思い遣る心

国内線のCAとして、多い時で一日に 2,000人以上のお客様と接してきた私は、 『人の思いや気持ち(内面)は、日常の行動(外面)に現れる』 ことを学びました。 12…

父と子(フリー写真)

俺には母親がいない。 俺を産んですぐ事故で死んでしまったらしい。 産まれた時から耳が聞こえなかった俺は、物心ついた時にはもう既に簡単な手話を使っていた。 耳が聞こえな…

女の子

天に向かっての約束

7ヶ月前に妻を亡くし、初めて迎えた娘の4歳の誕生日。 今日は休みを取って朝から娘と二人で妻の墓参りに出かけた。妻の死後、娘は毎日「ままにあいたい」「ままかえってこないの」と泣い…

電車の車内(フリー写真)

思いやりの紙片

学生時代から長く付き合い、結婚を考えていた彼と別れました。 彼は一年も前から、職場の年上の女性と付き合っていたのです。 その女性から結婚を迫られ、もう既に彼女のご両親とは…

朝の空

天使になった少女

私が看護学生だった頃の話です。 ある休日、友達と遊びに行った帰り道で、突然、目の前で交通事故が起こりました。 ひとりの小さな女の子が車に撥ねられ、道路に倒れていたのです。…

手紙を差し出す女の子(フリー写真)

パパと呼ばれた日

俺が30歳の時、一つ年下の嫁を貰った。 今の俺達には、娘が三人と息子が一人居る。 長女は19歳、次女は17歳、三女が12歳。 長男は10歳。 こう言うと、 …

手を繋ぐ(フリー写真)

大事な我が子へ

自分が多少辛くても、腰が痛くても頭が痛くても、子供が元気にしてくれているのが凄く嬉しいの。 元気そうな子供の姿を見たり声を聞いているとね、本当に嬉しいの。 別に感謝してくれ…

婚約指輪(フリー写真)

例外の入籍手続き

彼は肺がんで入院していて、余命宣告されていました。 本人は退院後の仕事の予定も入れ、これからの人生に気力を振り絞っていました。 私と彼は半同棲状態、彼はバツイチ、そして大分…

朝焼け空(フリー写真)

自衛隊最大の任務

「若者の代表として、一つだけ言いたいことがあります…」 焼け野原に立つ避難所の一角で、その青年は拡声器を握り締め話し始めた。 真っ赤に泣き腫らした瞳から流れる涙を拭いながら…

猫

声を失った猫

昔話だけど。 実家の猫は赤ちゃんの時、空き地で目も潰れて放置され、泣き喚いていたところを保護したんだ。正直、化け猫のようで触るのも躊躇するほどの悲惨さだった。目は病院で治療して…