もう一度、お母さんと

色の褪せた一枚の便箋を、私は今も、机の一番奥の引き出しにしまっている。

折り目はもう擦り切れ、端はぼろぼろになっている。

それでも、そこに並ぶ丸い字だけは、少しも褪せない。

読み返すたびに、潮のにおいと、あの人の手のぬくもりが、指先に蘇る。

私には、母が二人いた。

一人は、私に命をくれた。

もう一人は――。

私が育ったのは、日本海に面した、小さな漁師町だった。

冬になると、家の窓を、湿った雪まじりの風が叩いた。

父は漁師で、季節によっては何日も船で沖に出て、家を空けた。

だから家のなかは、いつも母と、私の二人だった。

母の手は、いつも少し荒れていた。

父の網を繕う手伝いをしていたから、指先には細かい傷が絶えなかった。

それでも、その手で頭を撫でられると、私はどんな寒い夜も、すぐに眠れた。

母は、私の髪を三つ編みにするのが上手だった。

毎朝、鏡の前に私を座らせて、鼻歌を歌いながら、丁寧に編んでくれた。

「今日は、どんな結び方がいい?」

「んー、蝶々みたいなの!」

「はいはい、蝶々ね」

編み上がった髪を、母は必ず、後ろからそっと抱きしめて、確かめた。

その腕の温かさを、私は当たり前のものだと、思っていた。

母は、料理も裁縫も、何でもできる人だった。

私が熱を出せば、一晩じゅう、額の濡れ手拭いを換え続けてくれた。

小学校の学芸会で、私が主役の妖精を演じたときは、夜なべをして、羽の衣装を縫ってくれた。

銀色の糸で縫い取られたその羽を、私は宝物のように大切にした。

「母さんの縫った羽で飛ぶんだから、失敗しないよ」

「そうよ。誰よりも高く飛べるわ」

舞台の袖から、母は目を潤ませて、私を見ていた。

あのころの私は、母に愛されていることを、疑ったことなど、一度もなかった。

夏には、二人で浴衣を着て、港の祭りに出かけた。

母が結んでくれた帯は、少しきつくて、でも、ほどけない安心感があった。

「金魚すくい、やりたい」

「じゃあ、母さんがコツを教えてあげる」

母は、破れやすい紙の網を、驚くほど上手に扱った。

すくった小さな金魚を、私は家で、何年も大切に育てた。

帰り道、はぐれないようにと、母はずっと私の手を握っていた。

花火の光が、母の横顔を、青く赤く照らした。

その手の温かさを、私は今も、はっきりと覚えている。

また、冬に私が高い熱を出した夜のことも、忘れられない。

母は一睡もせず、額の濡れ手拭いを、何度も何度も換えてくれた。

うなされて目を覚ますたび、母の顔が、すぐそこにあった。

「大丈夫。母さんが、ついてるからね」

その声を聞くと、不思議と、また眠ることができた。

朝、熱が下がったとき、母の目は真っ赤に充血していた。

それでも母は、心底ほっとした顔で、私を抱きしめた。

それが、当たり前だったのだ。

すべてが崩れたのは、私の十七歳の誕生日だった。

その夜、父が船から帰り、珍しく家族三人で食卓を囲んだ。

ケーキのろうそくを吹き消したあと、父が、意を決したように口を開いた。

「遥。お前に、話しておかなきゃならんことがある」

父の声は、いつになく硬かった。

母が、うつむいて、膝の上で手を握りしめているのが見えた。

「お前を産んだ母さんは……お前が生まれてすぐに、亡くなったんだ」

「今、ここにいる母さんは……お前の、育ての母さんだ」

一瞬、部屋の音が、すべて遠ざかった。

波の音だけが、やけに大きく、耳の奥で鳴っていた。

「生みの親より育ての親」――そんな言葉が、頭をよぎった。

けれど、そのときの私を支配したのは、感謝ではなく、怒りだった。

十七年間、騙されていた。

そう思った瞬間、目の前の母が、急に他人に見えた。

「なんで、今まで黙ってたの」

私は席を立ち、二人の言葉も聞かずに、自分の部屋へ駆け込んだ。

布団をかぶって、声を殺して泣いた。

扉の向こうで、母が何か言いたげに立っている気配がしたが、私は応えなかった。

布団のなかで、私は、今までの十七年を、逆さまに巻き戻していた。

思えば、母は、私の赤ん坊の頃の話を、ほとんどしなかった。

アルバムにも、母のお腹が大きい写真は、一枚もなかった。

「母さんは写真が嫌いなの」――そう言って、母はいつも、話をそらしていた。

あれは、嘘をつき続ける、苦しさだったのだ。

けれど、そのときの私は、そんな母の痛みには、思い至らなかった。

ただ、自分が「本当の子ではない」という事実だけが、胸を刺した。

愛されていたはずの十七年が、まるごと、偽物になった気がした。

今思えば、それは、とんでもない思い違いだった。

血のつながりがないからこそ、母はあれほど、必死に私を愛したのに。

その夜、私は、朝が来るまで、一睡もできなかった。

翌日から、私は母を「おばさん」と呼ぶようになった。

はじめてそう呼んだとき、母は、堪らなく悲しそうな顔をした。

けれど、私はその顔を見て、胸が痛むどころか、なぜか意地になった。

「おばさん、味噌汁、しょっぱい」

「……ごめんね。作り直すね」

母は、私に何かと気を遣い、必死になった。

その必死さが、私にはかえって、煩わしかった。

三つ編みも、もう編ませなかった。

自分でぞんざいに結んだ髪で、私は毎朝、家を出た。

母と目を合わせないように、口をきかないように、暮らした。

学校では、誰にも、家のことを話さなかった。

友達に「お母さん、元気?」と聞かれると、私はそっけなく「まあね」とだけ答えた。

下校のとき、幼い妹の手を引いて歩く母親の姿を見かけた。

その光景に、胸の奥が、ちくりと痛んだ。

けれど私は、その痛みから、目をそらした。

家に帰りたくなくて、私はよく、堤防に座って、暗くなるまで海を眺めた。

波は、寄せては返し、寄せては返した。

どれだけ拒んでも、また戻ってくる波が、母に似ていると、あとになって思った。

夜になると、家に居づらくて、理由もなく海辺をふらついた。

冷たい波打ち際で、私はただ、自分の孤独ばかりを見ていた。

母が、私よりずっと深い孤独に耐えていたことなど、想像もしなかった。

それでも母は、諦めなかった。

朝、私が起きると、台所には、いつも温かい朝食が用意されていた。

私が手をつけずに家を出ても、母は何も言わなかった。

制服のスカートの裾が、ほつれていた朝があった。

気づかないふりをして学校へ行き、夕方帰ると、ほつれは、きれいに繕われていた。

あの、傷だらけの指で、母は黙って、針を運んだのだ。

ある夜、私は、母が仏壇の前で、小さく手を合わせているのを見た。

生みの母の位牌に向かって、母は、何かをつぶやいていた。

「どうか、あの子が……」

そこから先は、聞き取れなかった。

聞いてはいけない気がして、私は、そっと足音を殺して、部屋に戻った。

今なら分かる。

母は、生みの母に、詫びていたのだ。

あの子を、幸せにできなくて、ごめんなさい、と。

それほどまでに私を思う人を、私は、他人だと突き放していた。

そんな日々が、一か月ほど続いた頃だった。

ある晩、母が、私に一通の封筒を差し出した。

「これ……部屋で、読んでほしいの」

母の手も、封筒も、かすかに震えていた。

けれど私は、その場で封筒をぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。

「読みたくない」

母の顔から、すっと血の気が引いた。

その様子を見ていた父が、私の頬を、平手で張った。

生まれて初めて、父に打たれた。

「母さんはなあ……」

父の声は、震えていた。

けれど私は、その先を聞かずに、泣きながら自分の部屋へ逃げ込んだ。

扉を閉め、鍵をかけ、耳を塞いだ。

波の音さえ、届かないところへ、逃げたかった。

その朝のことを、私は一生、忘れないだろう。

目を覚ますと、台所から、いつもと同じ、味噌汁の湯気が立っていた。

前の晩の出来事など、なかったかのように、母は静かに、朝食の支度をしていた。

「遥。おにぎり、持っていく?」

母の声は、少し、遠慮がちだった。

私は、返事をしなかった。

母の顔を、見ようともしなかった。

黙って靴を履き、鞄を肩にかけた。

「いってらっしゃい。車に、気をつけてね」

背中で、母の声がした。

私は、振り返らなかった。

「いってきます」の一言さえ、言わずに、家を出た。

それが、私が母に見せた、最後の背中になった。

あのとき、一度でも振り返っていたら。

あの一言を、言っていたら。

その悔いは、今も、私の胸の奥から、消えることがない。

その翌日のことだった。

母は、帰らぬ人となった。

買い物の帰り、居眠り運転のトラックが、赤信号を無視して、母に突っ込んだのだという。

即死だった。

知らせを受けたとき、私は、涙も出なかった。

あまりに突然で、頭が、まるでついていかなかった。

通夜が終わったあとも、私は棺の傍らに座り込んだまま、ただ呆然としていた。

冷たくなった母の頬は、蝋のように白かった。

その頬に、私はもう、「おばさん」とも「お母さん」とも、言えなかった。

沈黙のなかで、父が、私の隣に腰を下ろした。

そして、皺だらけになった一枚の紙切れを、私の手に握らせた。

「読め」

それだけ言って、父は顔を背けた。

それは、あの夜、私が丸めて捨てた、封筒のなかの手紙だった。

父が、ゴミ箱から拾って、皺を伸ばして、取っておいたのだ。

震える指で、私はそれを、そっと開いた。

母らしい、あの丸くて温かい字が、そこに並んでいた。

『遥ちゃんへ』

『十七年間、ほんとうのことを言えなくて、ごめんなさい』

『お父さんは、もっと早く話そうとしていたのだけど』

『あなたに嫌われるのが怖くて、母さんが、ずっと引き止めていたの』

『あなたが怒るのは、当たり前だよね』

『だって母さん、あなたの、ほんとうのお母さんじゃないんだもの』

字の所々が、にじんでいた。

泣きながら、書いたのだろう。

その一文字ずつが、あの人の十七年を、私に語りかけてきた。

三つ編みを編んでくれた、鼻歌まじりの朝。

羽の衣装を、夜なべで縫ってくれた、あのまなざし。

熱の夜に、額を冷やし続けてくれた、真っ赤な目。

どれもが、偽りのない、母の愛そのものだった。

それを、私は「騙されていた」の一言で、踏みにじろうとしたのだ。

『でもね、遥ちゃん』

『母さんは、あなたのことを、ほんとうのお母さんに負けないくらい、愛しているの』

『あなたが大人になっても、お嫁に行っても、ずっと、ずっと』

そして、便箋の最後には、ひときわ震えた字で、こう記されていた。

『……だから、どうかもう一度だけ、「お母さん」って、呼んでくれないかな』

手紙を握ったまま、私は声を上げて泣いた。

私が十七の夜に感じた、あの孤独を。

母は、十七年ものあいだ、たった一人で、耐えていたのだ。

いつか本当のことを告げる日を恐れながら、それでも、私を毎日、抱きしめていた。

人の痛みを想像することもできなかった私は、あの一か月、母を、どれほど苦しめただろう。

三つ編みを編ませなかった朝。

味噌汁をしょっぱいと突き放した夜。

差し出された手紙を、その場で丸めて捨てた、あの瞬間。

母が最後に望んだのは、ただ一言、昔のように呼ばれることだけだった。

それだけの、ささやかな願いだった。

大それた望みなど、何一つ、書かれていなかった。

ただ、昔のように、母と娘に戻りたい。

それだけを、あの人は、震える手で、綴っていた。

私は、そのささやかな願いさえ、叶えてあげられなかった。

手紙を胸に抱いて、私は、いつまでも泣いた。

涙が、便箋の上に落ちて、母のにじんだ字と、混ざり合った。

十七年分の「お母さん」を、私はその夜、心のなかで、何度も何度も繰り返した。

「……お母さん」

一か月ぶりに口にしたその言葉は、もう、冷たくなった母の耳には、届かない。

「お母さん、ごめんなさい。お母さん」

何度呼んでも、あの温かい腕は、もう私を抱きしめてはくれなかった。

父は、私の隣で、肩を震わせていた。

「母さんはな……お前を、一日だって、我が子じゃないと思ったことはなかった」

「本当の話をして、お前に嫌われるのが、ただ、怖かっただけなんだ」

父の頬を、涙が伝っていた。

漁で日に焼けた、その大きな手が、膝の上で固く握られていた。

私は、母の冷たい手を取り、自分の頬に押し当てた。

あの、いつも荒れていた手。

私の髪を編み、羽を縫い、熱の額を冷やしてくれた手。

その手は、もう、二度と動くことはなかった。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい、お母さん」

棺のなかの母は、ただ静かに、眠っているように見えた。

まるで、私が謝るのを、ずっと待っていたかのように。

あれから、長い歳月が流れた。

私は、母が育った町を出て、遠くの街で、家庭を持った。

娘が生まれ、その子の髪を、私は毎朝、三つ編みにしている。

鼻歌を歌いながら、あの人がしてくれたのと、同じように。

編み終えると、私は必ず、後ろからその子を、そっと抱きしめる。

母が、私にそうしてくれたように。

腕のなかの温かさが、私に、あの人の腕を思い出させる。

擦り切れた便箋は、今も、机の奥にある。

もう、文字を読まなくても、そこに何が書いてあるかは、そらんじている。

それでも私は、時々それを開いて、心のなかで、あの人に呼びかける。

血はつながっていなくても、あの人は、まぎれもなく、私の母だった。

生きているうちに、もっと呼んであげれば、よかった。

「お母さん」と、たくさん。

だからせめて、私は娘に、伝えようと思う。

あなたは、望まれて、この腕のなかにいるのだと。

去年の夏、私は娘を連れて、あの漁師町へ帰った。

墓前に線香を上げると、潮の香りが、昔と同じように、鼻をくすぐった。

「お母さん。この子が、あなたの孫だよ」

娘は、墓石に向かって、少し恥ずかしそうに頭を下げた。

三つ編みにした髪が、海風に、ふわりと揺れた。

それは、母がいつも、私に編んでくれたのと、同じ結び方だった。

墓石を撫でる手のひらに、あの人の手の感触が、確かに蘇った気がした。

血はつながっていなくても、受け継がれていくものが、ある。

母がくれた温かさは、今、こうして娘へと、渡っていく。

娘は時々、「おばあちゃんって、どんな人だった?」と、私に尋ねる。

私はそのたびに、少し考えてから、こう答える。

「とっても、あったかい手をした人だったよ」

「母さんのことを、世界でいちばん、大事にしてくれた人」

娘は、うんうんと、真剣な顔でうなずく。

その横顔が、時々、あの人に、よく似て見える。

血はつながっていないのに、不思議なものだ。

愛は、血よりも深く、確かに、受け継がれていくのだと思う。

愛されることを、当たり前だと思っていい人生を、あなたには、送ってほしいと。

引き出しを開けるたびに、私は小さく、あの人に呼びかける。

お母さん、今日も、ありがとう。

届かなかった言葉でも、言い続けることに、意味があると信じている。

血はつながっていなくても、あの人は、私のただ一人の母だった。

生きているうちに、もっと呼んであげればよかった。

けれど、後悔だけで終わらせないために、私は今日も、娘を抱きしめる。

それが、私が母から受け取った、ただ一つの、大きな贈り物だから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。