もう一度、お母さんと

もう一度、お母さんと

色の褪せた一枚の便箋を、私は今も、机の一番奥の引き出しにしまっている。

折り目はもう擦り切れ、端はぼろぼろになっている。

それでも、そこに並ぶ丸い字だけは、少しも褪せない。

読み返すたびに、潮のにおいと、あの人の手のぬくもりが、指先に蘇る。

私には、母が二人いた。

一人は、私に命をくれた。

もう一人は――。

※

私が育ったのは、日本海に面した、小さな漁師町だった。

冬になると、家の窓を、湿った雪まじりの風が叩いた。

父は漁師で、季節によっては何日も船で沖に出て、家を空けた。

だから家のなかは、いつも母と、私の二人だった。

母の手は、いつも少し荒れていた。

父の網を繕う手伝いをしていたから、指先には細かい傷が絶えなかった。

それでも、その手で頭を撫でられると、私はどんな寒い夜も、すぐに眠れた。

母は、私の髪を三つ編みにするのが上手だった。

毎朝、鏡の前に私を座らせて、鼻歌を歌いながら、丁寧に編んでくれた。

「今日は、どんな結び方がいい?」

「んー、蝶々みたいなの!」

「はいはい、蝶々ね」

編み上がった髪を、母は必ず、後ろからそっと抱きしめて、確かめた。

その腕の温かさを、私は当たり前のものだと、思っていた。

※

母は、料理も裁縫も、何でもできる人だった。

私が熱を出せば、一晩じゅう、額の濡れ手拭いを換え続けてくれた。

小学校の学芸会で、私が主役の妖精を演じたときは、夜なべをして、羽の衣装を縫ってくれた。

銀色の糸で縫い取られたその羽を、私は宝物のように大切にした。

「母さんの縫った羽で飛ぶんだから、失敗しないよ」

「そうよ。誰よりも高く飛べるわ」

舞台の袖から、母は目を潤ませて、私を見ていた。

あのころの私は、母に愛されていることを、疑ったことなど、一度もなかった。

夏には、二人で浴衣を着て、港の祭りに出かけた。

母が結んでくれた帯は、少しきつくて、でも、ほどけない安心感があった。

「金魚すくい、やりたい」

「じゃあ、母さんがコツを教えてあげる」

母は、破れやすい紙の網を、驚くほど上手に扱った。

すくった小さな金魚を、私は家で、何年も大切に育てた。

帰り道、はぐれないようにと、母はずっと私の手を握っていた。

花火の光が、母の横顔を、青く赤く照らした。

その手の温かさを、私は今も、はっきりと覚えている。

また、冬に私が高い熱を出した夜のことも、忘れられない。

母は一睡もせず、額の濡れ手拭いを、何度も何度も換えてくれた。

うなされて目を覚ますたび、母の顔が、すぐそこにあった。

「大丈夫。母さんが、ついてるからね」

その声を聞くと、不思議と、また眠ることができた。

朝、熱が下がったとき、母の目は真っ赤に充血していた。

それでも母は、心底ほっとした顔で、私を抱きしめた。

それが、当たり前だったのだ。

※

すべてが崩れたのは、私の十七歳の誕生日だった。

その夜、父が船から帰り、珍しく家族三人で食卓を囲んだ。

ケーキのろうそくを吹き消したあと、父が、意を決したように口を開いた。

「遥。お前に、話しておかなきゃならんことがある」

父の声は、いつになく硬かった。

母が、うつむいて、膝の上で手を握りしめているのが見えた。

「お前を産んだ母さんは……お前が生まれてすぐに、亡くなったんだ」

「今、ここにいる母さんは……お前の、育ての母さんだ」

一瞬、部屋の音が、すべて遠ざかった。

波の音だけが、やけに大きく、耳の奥で鳴っていた。

「生みの親より育ての親」――そんな言葉が、頭をよぎった。

けれど、そのときの私を支配したのは、感謝ではなく、怒りだった。

十七年間、騙されていた。

そう思った瞬間、目の前の母が、急に他人に見えた。

「なんで、今まで黙ってたの」

私は席を立ち、二人の言葉も聞かずに、自分の部屋へ駆け込んだ。

布団をかぶって、声を殺して泣いた。

扉の向こうで、母が何か言いたげに立っている気配がしたが、私は応えなかった。

布団のなかで、私は、今までの十七年を、逆さまに巻き戻していた。

思えば、母は、私の赤ん坊の頃の話を、ほとんどしなかった。

アルバムにも、母のお腹が大きい写真は、一枚もなかった。

「母さんは写真が嫌いなの」――そう言って、母はいつも、話をそらしていた。

あれは、嘘をつき続ける、苦しさだったのだ。

けれど、そのときの私は、そんな母の痛みには、思い至らなかった。

ただ、自分が「本当の子ではない」という事実だけが、胸を刺した。

愛されていたはずの十七年が、まるごと、偽物になった気がした。

今思えば、それは、とんでもない思い違いだった。

血のつながりがないからこそ、母はあれほど、必死に私を愛したのに。

その夜、私は、朝が来るまで、一睡もできなかった。

※

翌日から、私は母を「おばさん」と呼ぶようになった。

はじめてそう呼んだとき、母は、堪らなく悲しそうな顔をした。

けれど、私はその顔を見て、胸が痛むどころか、なぜか意地になった。

「おばさん、味噌汁、しょっぱい」

「……ごめんね。作り直すね」

母は、私に何かと気を遣い、必死になった。

その必死さが、私にはかえって、煩わしかった。

三つ編みも、もう編ませなかった。

自分でぞんざいに結んだ髪で、私は毎朝、家を出た。

母と目を合わせないように、口をきかないように、暮らした。

学校では、誰にも、家のことを話さなかった。

友達に「お母さん、元気?」と聞かれると、私はそっけなく「まあね」とだけ答えた。

下校のとき、幼い妹の手を引いて歩く母親の姿を見かけた。

その光景に、胸の奥が、ちくりと痛んだ。

けれど私は、その痛みから、目をそらした。

家に帰りたくなくて、私はよく、堤防に座って、暗くなるまで海を眺めた。

波は、寄せては返し、寄せては返した。

どれだけ拒んでも、また戻ってくる波が、母に似ていると、あとになって思った。

夜になると、家に居づらくて、理由もなく海辺をふらついた。

冷たい波打ち際で、私はただ、自分の孤独ばかりを見ていた。

母が、私よりずっと深い孤独に耐えていたことなど、想像もしなかった。

それでも母は、諦めなかった。

朝、私が起きると、台所には、いつも温かい朝食が用意されていた。

私が手をつけずに家を出ても、母は何も言わなかった。

制服のスカートの裾が、ほつれていた朝があった。

気づかないふりをして学校へ行き、夕方帰ると、ほつれは、きれいに繕われていた。

あの、傷だらけの指で、母は黙って、針を運んだのだ。

ある夜、私は、母が仏壇の前で、小さく手を合わせているのを見た。

生みの母の位牌に向かって、母は、何かをつぶやいていた。

「どうか、あの子が……」

そこから先は、聞き取れなかった。

聞いてはいけない気がして、私は、そっと足音を殺して、部屋に戻った。

今なら分かる。

母は、生みの母に、詫びていたのだ。

あの子を、幸せにできなくて、ごめんなさい、と。

それほどまでに私を思う人を、私は、他人だと突き放していた。

※

そんな日々が、一か月ほど続いた頃だった。

ある晩、母が、私に一通の封筒を差し出した。

「これ……部屋で、読んでほしいの」

母の手も、封筒も、かすかに震えていた。

けれど私は、その場で封筒をぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。

「読みたくない」

母の顔から、すっと血の気が引いた。

その様子を見ていた父が、私の頬を、平手で張った。

生まれて初めて、父に打たれた。

「母さんはなあ……」

父の声は、震えていた。

けれど私は、その先を聞かずに、泣きながら自分の部屋へ逃げ込んだ。

扉を閉め、鍵をかけ、耳を塞いだ。

波の音さえ、届かないところへ、逃げたかった。

※

その朝のことを、私は一生、忘れないだろう。

目を覚ますと、台所から、いつもと同じ、味噌汁の湯気が立っていた。

前の晩の出来事など、なかったかのように、母は静かに、朝食の支度をしていた。

「遥。おにぎり、持っていく?」

母の声は、少し、遠慮がちだった。

私は、返事をしなかった。

母の顔を、見ようともしなかった。

黙って靴を履き、鞄を肩にかけた。

「いってらっしゃい。車に、気をつけてね」

背中で、母の声がした。

私は、振り返らなかった。

「いってきます」の一言さえ、言わずに、家を出た。

それが、私が母に見せた、最後の背中になった。

あのとき、一度でも振り返っていたら。

あの一言を、言っていたら。

その悔いは、今も、私の胸の奥から、消えることがない。

※

その翌日のことだった。

母は、帰らぬ人となった。

買い物の帰り、居眠り運転のトラックが、赤信号を無視して、母に突っ込んだのだという。

即死だった。

知らせを受けたとき、私は、涙も出なかった。

あまりに突然で、頭が、まるでついていかなかった。

通夜が終わったあとも、私は棺の傍らに座り込んだまま、ただ呆然としていた。

冷たくなった母の頬は、蝋のように白かった。

その頬に、私はもう、「おばさん」とも「お母さん」とも、言えなかった。

※

沈黙のなかで、父が、私の隣に腰を下ろした。

そして、皺だらけになった一枚の紙切れを、私の手に握らせた。

「読め」

それだけ言って、父は顔を背けた。

それは、あの夜、私が丸めて捨てた、封筒のなかの手紙だった。

父が、ゴミ箱から拾って、皺を伸ばして、取っておいたのだ。

震える指で、私はそれを、そっと開いた。

母らしい、あの丸くて温かい字が、そこに並んでいた。

『遥ちゃんへ』

『十七年間、ほんとうのことを言えなくて、ごめんなさい』

『お父さんは、もっと早く話そうとしていたのだけど』

『あなたに嫌われるのが怖くて、母さんが、ずっと引き止めていたの』

『あなたが怒るのは、当たり前だよね』

『だって母さん、あなたの、ほんとうのお母さんじゃないんだもの』

字の所々が、にじんでいた。

泣きながら、書いたのだろう。

その一文字ずつが、あの人の十七年を、私に語りかけてきた。

三つ編みを編んでくれた、鼻歌まじりの朝。

羽の衣装を、夜なべで縫ってくれた、あのまなざし。

熱の夜に、額を冷やし続けてくれた、真っ赤な目。

どれもが、偽りのない、母の愛そのものだった。

それを、私は「騙されていた」の一言で、踏みにじろうとしたのだ。

『でもね、遥ちゃん』

『母さんは、あなたのことを、ほんとうのお母さんに負けないくらい、愛しているの』

『あなたが大人になっても、お嫁に行っても、ずっと、ずっと』

そして、便箋の最後には、ひときわ震えた字で、こう記されていた。

『……だから、どうかもう一度だけ、「お母さん」って、呼んでくれないかな』

※

手紙を握ったまま、私は声を上げて泣いた。

私が十七の夜に感じた、あの孤独を。

母は、十七年ものあいだ、たった一人で、耐えていたのだ。

いつか本当のことを告げる日を恐れながら、それでも、私を毎日、抱きしめていた。

人の痛みを想像することもできなかった私は、あの一か月、母を、どれほど苦しめただろう。

三つ編みを編ませなかった朝。

味噌汁をしょっぱいと突き放した夜。

差し出された手紙を、その場で丸めて捨てた、あの瞬間。

母が最後に望んだのは、ただ一言、昔のように呼ばれることだけだった。

それだけの、ささやかな願いだった。

大それた望みなど、何一つ、書かれていなかった。

ただ、昔のように、母と娘に戻りたい。

それだけを、あの人は、震える手で、綴っていた。

私は、そのささやかな願いさえ、叶えてあげられなかった。

手紙を胸に抱いて、私は、いつまでも泣いた。

涙が、便箋の上に落ちて、母のにじんだ字と、混ざり合った。

十七年分の「お母さん」を、私はその夜、心のなかで、何度も何度も繰り返した。

「……お母さん」

一か月ぶりに口にしたその言葉は、もう、冷たくなった母の耳には、届かない。

「お母さん、ごめんなさい。お母さん」

何度呼んでも、あの温かい腕は、もう私を抱きしめてはくれなかった。

父は、私の隣で、肩を震わせていた。

「母さんはな……お前を、一日だって、我が子じゃないと思ったことはなかった」

「本当の話をして、お前に嫌われるのが、ただ、怖かっただけなんだ」

父の頬を、涙が伝っていた。

漁で日に焼けた、その大きな手が、膝の上で固く握られていた。

私は、母の冷たい手を取り、自分の頬に押し当てた。

あの、いつも荒れていた手。

私の髪を編み、羽を縫い、熱の額を冷やしてくれた手。

その手は、もう、二度と動くことはなかった。

「ごめんなさい」

「ごめんなさい、お母さん」

棺のなかの母は、ただ静かに、眠っているように見えた。

まるで、私が謝るのを、ずっと待っていたかのように。

※

あれから、長い歳月が流れた。

私は、母が育った町を出て、遠くの街で、家庭を持った。

娘が生まれ、その子の髪を、私は毎朝、三つ編みにしている。

鼻歌を歌いながら、あの人がしてくれたのと、同じように。

編み終えると、私は必ず、後ろからその子を、そっと抱きしめる。

母が、私にそうしてくれたように。

腕のなかの温かさが、私に、あの人の腕を思い出させる。

擦り切れた便箋は、今も、机の奥にある。

もう、文字を読まなくても、そこに何が書いてあるかは、そらんじている。

それでも私は、時々それを開いて、心のなかで、あの人に呼びかける。

血はつながっていなくても、あの人は、まぎれもなく、私の母だった。

生きているうちに、もっと呼んであげれば、よかった。

「お母さん」と、たくさん。

だからせめて、私は娘に、伝えようと思う。

あなたは、望まれて、この腕のなかにいるのだと。

去年の夏、私は娘を連れて、あの漁師町へ帰った。

墓前に線香を上げると、潮の香りが、昔と同じように、鼻をくすぐった。

「お母さん。この子が、あなたの孫だよ」

娘は、墓石に向かって、少し恥ずかしそうに頭を下げた。

三つ編みにした髪が、海風に、ふわりと揺れた。

それは、母がいつも、私に編んでくれたのと、同じ結び方だった。

墓石を撫でる手のひらに、あの人の手の感触が、確かに蘇った気がした。

血はつながっていなくても、受け継がれていくものが、ある。

母がくれた温かさは、今、こうして娘へと、渡っていく。

娘は時々、「おばあちゃんって、どんな人だった?」と、私に尋ねる。

私はそのたびに、少し考えてから、こう答える。

「とっても、あったかい手をした人だったよ」

「母さんのことを、世界でいちばん、大事にしてくれた人」

娘は、うんうんと、真剣な顔でうなずく。

その横顔が、時々、あの人に、よく似て見える。

血はつながっていないのに、不思議なものだ。

愛は、血よりも深く、確かに、受け継がれていくのだと思う。

愛されることを、当たり前だと思っていい人生を、あなたには、送ってほしいと。

引き出しを開けるたびに、私は小さく、あの人に呼びかける。

お母さん、今日も、ありがとう。

届かなかった言葉でも、言い続けることに、意味があると信じている。

血はつながっていなくても、あの人は、私のただ一人の母だった。

生きているうちに、もっと呼んであげればよかった。

けれど、後悔だけで終わらせないために、私は今日も、娘を抱きしめる。

それが、私が母から受け取った、ただ一つの、大きな贈り物だから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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