祖父は、佐賀の有田で、器に絵を描く仕事をしていました。
染付といって、素焼きの白い肌に、呉須という青い顔料で線を引きます。
焼く前の生地は、水を吸います。
筆を置いた瞬間から、線は生地に吸い込まれていきます。
だから、迷えません。
一息で引ききるしかないのだと、祖父は言っていました。
祖父の右手
祖父の右手は、指の関節が太くなっていました。
五十年、同じ持ち方で筆を握ってきた手です。
茶碗を持つときも、箸を持つときも、筆を持つときの角度が抜けませんでした。
私が小学生のころ、書き初めの宿題を見てもらったことがあります。
祖父は、私の手ごと自分の手で包んで、一度だけ、線を引いてみせました。
「ほら」
「うわ」
「止まらんやろ」
紙の上を、筆が滑っていくというより、引っ張られていくような感じでした。
あの手の重さを、私はいまでも覚えています。
※
祖父には、癖がありました。
筆を洗ったあと、必ず、左の手のひらで穂先を一度、まっすぐに整えてから掛けるのです。
右の指では触りません。
左の手のひらの、いちばん柔らかいところで、そっと撫でるようにします。
「なんで左なの」
「右は、汚れとるけん」
「汚れとらんよ」
「呉須が入っとるとよ。爪の中に」
言われて見ると、祖父の右の親指の爪は、いつも薄く青みがかっていました。
洗っても、落ちない青でした。
祖母は、拭く人だった
祖母は、同じ窯元で、生地を仕上げる仕事をしていました。
成形したあとの器を、乾ききる前に削って、面を整える役です。
絵を描く前の、いちばん地味な工程でした。
祖父が線を引く白い肌は、祖母が整えたものでした。
「うちが拭かんと、この人の線は流れるとよ」
祖母は、酔うとその話をしました。
祖父は、そのたびに何も言いませんでした。
否定もしないので、たぶん本当だったのだと思います。
※
二人は、その窯元で出会ったそうです。
祖母が十九、祖父が二十二の年でした。
祖父は当時、まだ線を引かせてもらえず、皿の縁に丸を入れる仕事ばかりだったといいます。
「毎日、丸ばっかり。あほみたいやった」
「ばあちゃんは何しよったと」
「その丸の下を拭きよった」
「下?」
「あんたのじいちゃん、はみ出すけん」
祖母は笑っていました。
祖父は、湯呑みを持ったまま、窓のほうを向いていました。
倒れた朝
祖父が最初に倒れたのは、七十四の春です。
朝、窯場へ行こうとして、玄関の三和土でうずくまっていたのを、祖母が見つけました。
脳梗塞でした。
それから三年、入退院を繰り返しました。
言葉は少しもつれましたが、話はできました。
ただ、右の手が、思うように動かなくなりました。
握れるけれど、力の入れ具合がわからない。
祖父の言葉では、「先が、どこにあるかわからん」のだそうです。
筆の先が、どこにあるかわからない。
絵付けの人にとって、それがどういうことなのか、当時の私にはわかりませんでした。
退院して家にいるあいだ、祖父は窯場に入りませんでした。
縁側で新聞を読むか、庭を見ているかでした。
一度だけ、私が窯場をのぞいたら、祖父が作業台の前に立っていたことがあります。
筆は持っていませんでした。
右の手のひらを、台の上に置いて、じっと見下ろしていました。
声をかけそびれて、私はそっと戻りました。
あのとき何を考えていたのか、聞いておけばよかったと、いまでも思います。
※
三年目の冬に、主治医から家族が呼ばれました。
父と、母と、祖母と、大学生だった私が、小さな面談室に入りました。
言われたのは、もう長くはないということでした。
本人に伝えるかどうかも聞かれました。
祖父は、以前から、そういうことは知りたくないと言っていました。
だから、伝えないことにしました。
面談室を出るとき、祖母のハンカチが、握りしめられて皺だらけになっていたのを覚えています。
合い言葉
それからの見舞いには、決まりのようなものができました。
病室に入って、荷物を置いて、ベッドの脇の椅子に座る。
そして、こう言うのです。
「元気になって、またみんなで楽しく暮らそうね」
母が言い、私が言い、祖母がうなずく。
合い言葉のようなものでした。
祖父は、そのたびに笑って、「おう」と短く答えました。
病室では、たいてい野球の話をしました。
祖父は、地元の高校の試合をラジオで聴くのが好きでした。
「今年は、打てんな」
「ピッチャーはよかとでしょ」
「投げるほうは、ひとりでできる。打つとは、そうはいかん」
そんなことを言っていました。
いま思うと、あれも何かの話だったのかもしれません。
※
祖父は、右手のリハビリを、まじめにやりました。
ゴムのボールを握る練習を、看護師さんに言われた回数より多くやっていました。
そのかたわらで、左手で何かを書いていることがありました。
私は、字を忘れないための練習だと思っていました。
「じいちゃん、左でも書けると」
「書けん」
「書きよるやん」
「これは、書いとるとは言わん」
そう言って、書いていた紙を、枕の下に入れてしまいました。
私は、その紙を見せてもらおうとしませんでした。
見られたくないのだと思ったからです。
そこまでは、合っていました。
※
ただ、いま思い返すと、少し違うのです。
祖父は、見舞いに行くと、私たちが口を開くより先に、決まって同じことを言いました。
「元気になったら、また、みんなで暮らそうな」
先に言われるので、私たちはそれに合わせて答えるだけでした。
そのころは、祖父が前向きなのだと思っていました。
そう思うほうが、こちらが楽だったのだと思います。
旅立ち
祖父が息を引き取ったのは、翌年の三月でした。
桜には少し早い時期で、病室の窓から見える木が、まだ固い蕾のままでした。
葬式のあいだ、祖母はほとんど泣きませんでした。
気丈だと、親戚は言っていました。
そうではないと、私は思っていました。
祖母は、泣き方を忘れているように見えました。
通夜の晩、親戚が引き上げたあと、祖母は台所に立って湯呑みを洗っていました。
洗い終わった湯呑みを、伏せずに、上を向けたまま並べていきます。
母が、そっと伏せ直しました。
祖母は気づかず、また上を向けて置きました。
母は、もう直しませんでした。
私は、その並んだ湯呑みを見ていました。
水が乾かないまま、朝までそのままでした。
※
初七日の頃、祖母が一度だけ、こう言ったことがあります。
「あの人、なんも言わんで行ったねえ」
父も母も、返事をしませんでした。
私も、何も言えませんでした。
その言葉を、一年後に取り消すことになるとは、誰も思っていませんでした。
※
祖父の窯場は、しばらくそのままにしてありました。
父が片づけようとするたびに、祖母が「まだよか」と言うのです。
絵の具を溶く皿も、筆も、置いたままでした。
筆は、穂先を下にして、きれいに揃えて掛けてありました。
誰かが、最後に整えた形のままでした。
一周忌の日
一周忌が済んで、親戚が帰ったあとのことです。
父が、仏間で祖母に一通の封筒を渡しました。
私は、茶を運ぼうとして襖のところにいました。
「これ、親父から預かっとった」
「いつ」
「入院しとるときに。一周忌が済むまで渡すなって」
祖母は、封筒を受け取ったまま、しばらく動きませんでした。
それから、老眼鏡をかけて、封を切りました。
※
中には、便箋が一枚だけ入っていました。
文字は、ひどく弱々しいものでした。
線が震えて、字の大きさが揃っていません。
五十年、筆で食べてきた人の字とは、とても思えませんでした。
書いてあったのは、三行だけです。
おばあちゃん元気
ともに過ごした時間は永いようで短い五十年でしたね
また機会があればいっしょに暮らしたいものです
祖父が書いた、最初で最後のラブレターでした。
祖母が最初に言ったこと
祖母は、それを二度読みました。
そして、便箋を膝の上に置いて、こう言ったのです。
「この人、左で書いとる」
父が、顔を上げました。
「わかると」
「わかるよ。五十年見とるもん」
「そうか」
「右の人の払いじゃなか」
それだけ言って、祖母は初めて泣きました。
肩を落として、声を出さずに、長いあいだ泣いていました。
私は、茶を持ったまま、襖の外で立ち尽くしていました。
反古紙の束
そのあと、父が窯場から古い紙の束を持ってきました。
絵付けの下描きに使う、薄い和紙です。
紐でくくられて、作業台の下の箱に入っていたそうです。
広げると、同じ文面が、何十回も書いてありました。
いちばん上の紙は、ほとんど判読できません。
線がよれて、字が重なって、途中で切れています。
下へいくほど、少しずつ形になっていきます。
最後の一枚が、あの手紙とほとんど同じでした。
※
紙の端に、鉛筆で日付が入っていました。
祖父は、几帳面な人でした。
下描きには必ず日付を入れる習慣が、抜けなかったのだと思います。
いちばん古い日付を見て、父が黙り込みました。
それは、私たちが面談室に呼ばれた日の、翌日でした。
そこから、旅立つ月まで、日付は途切れていません。
数えると、四百枚を超えていました。
調子の悪い日は、二文字で終わっている紙もあります。
逆に、同じ日に十枚以上書いてある日もありました。
紙の下のほうに、小さく「みじかく」と書かれたものが一枚だけありました。
三行に収める、と決めたのが、その日だったのだと思います。
知っていた
祖父は、知っていたのです。
父は、あとになって思い当たることがあると言いました。
面談のあった日、病室に戻ると、祖父は寝ているように見えたそうです。
けれど、掛け布団の縁が、きっちり折り返してあった。
眠っている人の布団は、そうはならない。
祖父は、目を閉じて、待っていたのだと思います。
そして、翌日から、左手で字を書く練習を始めました。
隠していたのは、私たちのほうではありませんでした。
※
合い言葉のことも、それでわかりました。
あの合い言葉を最初に口にしたのは、私たちではなく、祖父のほうでした。
先に言ってしまえば、家族は嘘をつかずに済みます。
合わせて答えるだけでいい。
祖父は、私たちに嘘をつかせないために、自分から言っていたのです。
三年ぶん、毎回、先に。
一息で書きたかった
なぜ、あれほど練習したのだろうと、私はしばらく考えていました。
手紙は、下手でもよかったはずです。
字が震えていても、祖母は喜んだでしょう。
いま思うのは、祖父は、途中で止めたくなかったのだろうということです。
呉須の線と同じです。
迷った線は、生地が吸ってしまう。
止まった跡は、焼いたあとに濃く出る。
あの三行を、祖父は一息で書きたかったのだと思います。
五十年やってきた仕事のやり方で、最後の一枚を仕上げたかった。
それだけのことだったのかもしれません。
それだけのことに、祖父は最後の一年を使いました。
※
病室で、一度だけ、線の話を聞いたことがあります。
私が、下手な字を書いて笑われた日です。
「じいちゃん、どうやったらまっすぐ引けると」
「まっすぐ引こうと思うたら、曲がる」
「じゃあ、どうすっと」
「終わりを見る」
「終わり」
「線の、着くとこ。そこば見とったら、手が勝手に行く」
そのときは、意味がわかりませんでした。
反古紙の束を見たあとで、ようやく腑に落ちました。
祖父は、四百枚のあいだずっと、終わりのほうを見ていたのです。
手元の震えではなく、着くところを。
それは、あの三行の最後の一文のことでもあったのだと思います。
窯元の親方が言ったこと
四十九日のとき、窯元の親方が焼香に来てくださいました。
祖父より十ほど下の方です。
玄関先で靴を履きながら、その人がこう言いました。
「あの人な、入院しとるとき、うちに紙ば取りに来させとったとよ」
「紙、ですか」
「下描きの薄いやつ。あれやないと嫌やて」
「なんでですか」
「知らん。滲み方が違うとやろ」
そう言って、少し笑いました。
「最後まで、下描きしよったとやろな」
私は、そのときはまだ、反古紙の束を見ていませんでした。
あとで束を広げたとき、親方の言葉が、そのままの意味だったとわかりました。
祖父にとって、あの手紙は本番の一枚で、四百枚は下描きだったのです。
青い爪
祖母は、その手紙を仏壇の引き出しにしまいました。
取り出して読んでいるところを、何度か見たことがあります。
読むときは、必ず老眼鏡をかけ、背筋を伸ばして座ります。
読み終えると、便箋の折り目を、左の手のひらで一度、そっと撫でるのです。
穂先を整えていた祖父の手つきに、よく似ていました。
言ったことはありません。
言えば、祖母はやめてしまう気がしたからです。
私は、大学を出たあと、有田には残りませんでした。
福岡で会社勤めをして、十年ほど経ちました。
三十を過ぎたころ、週末だけ、絵付けの教室に通いはじめました。
誰にも言わずに通っていたのですが、盆に帰ったとき、祖母に見抜かれました。
「あんた、筆持っとるね」
「なんでわかると」
「持ち方が変わっとる」
「見せとらんよ」
「箸で、わかる」
祖母は、それきり何も聞きませんでした。
翌朝、私の枕元に、祖父の筆が二本、置いてありました。
穂先は、まっすぐに整えてありました。
※
遺されたものの中に本当の言葉を見つけるという点では、父が紋付の裏に遺した言葉という話にも、似た手ざわりがあります。
渡されないまま残った手紙のことは、弟の行李と出せなかった手紙のほうに、もっと静かに書かれています。
孫たちに読み聞かせた手紙
私に子どもができてから、祖母は、あの手紙をひ孫に読んで聞かせるようになりました。
三行しかないので、すぐ終わります。
それでも、子どもたちは黙って聞いていました。
「ひいじいちゃん、字が下手やね」
上の子が、正直に言いました。
祖母は、怒りませんでした。
「そうよ。下手よ」
「なんで下手なん」
「いつもと違う手で書いたけんよ」
「なんで違う手なん」
「いつもの手が、休んどったけん」
子どもは、それで納得したようでした。
私は、台所でその会話を聞きながら、蛇口の水を止められずにいました。
また機会があれば
祖母は、去年、祖父のところへ行きました。
九十一でした。
あの手紙は、祖母の希望で、いっしょに納めました。
父が納めるとき、封筒の中をもう一度だけ確かめました。
便箋は、四つ折りではなく、三つ折りにし直してありました。
祖母が、いつのころからか、折り直していたのです。
三つ折りのほうが、封筒から出しやすいからだと思います。
何度も出し入れする人の、折り方でした。
※
「また機会があればいっしょに暮らしたいものです」
あの一行を、私は長いあいだ、控えめな言い方だと思っていました。
いまは、そうは思いません。
知っていた人が、知らないふりをしたまま書ける、精いっぱいの言葉です。
これ以上書けば、隠しごとが崩れてしまう。
だから、そこで止めた。
一息で引いた線の、最後の払いのようなものだったのだと思います。
そして、いまも私は、絵付けの教室で丸ばかり描いています。
皿の縁に、同じ大きさの丸を入れる練習です。
祖父が二十二のときにやっていた仕事と、同じです。
はみ出すたびに、拭いてくれた人のことを思います。
私はいまも、筆を洗うたびに、左の手のひらで穂先を整えます。