娘の望み

娘の寝顔を見るのが、いつからか、一日でいちばん長く娘の顔を見る時間になっていた。

私は町外れの印刷工場で働いている。輪転機の油と、刷り上がったばかりの紙の匂いが染みついた仕事だ。妻を病で亡くしてから三年、男手ひとつで、六つになる美咲を育ててきた。

育ててきた、というのは、たぶん言い過ぎだ。実際に美咲の世話をしてくれているのは、隣に住む大家のおばあさんで、私は朝、娘がまだ眠っているうちに家を出て、夜、娘がもう眠ってから帰る。そんな毎日だった。

残業をすれば、その分だけ手当がつく。私は断れる残業を、一度も断らなかった。娘に不自由をさせたくない。その一心だったと、当時の私は本気で思っていた。

妻が逝ったのは、美咲が三つになったばかりの春だった。

病が見つかってから、ほんの半年だった。最期まで、妻は美咲のことばかり気にしていた。あの子をお願いね。何度もそう言って、私の手を握った。私はただ、うん、うん、と頷くことしかできなかった。

葬式が終わり、火葬場の煙突から立ちのぼる煙を見上げたあの日から、私は何かに追われるように働きはじめた。手を動かしている間は、考えずにすむ。輪転機の轟音は、頭の中の静けさを、都合よくかき消してくれた。

今になって思えば、私は娘のためではなく、自分が悲しみと向き合わずにすむために、働いていたのかもしれない。けれど当時の私は、そんなことには、まるで気づいていなかった。

その晩も、私は終電近くに帰宅した。

肩に貼りついたような疲れを引きずって玄関を開けると、暗がりに、小さな影が立っていた。

パジャマ姿の美咲が、眠い目をこすりながら、上がり框のところで私を待っていたのだ。

玄関の上がり框は、夜気でひんやりと冷えていた。その冷たい板の上で、美咲はどれくらいの時間、私を待っていたのだろう。柱時計の針は、とうに十二時を回っていた。

小さな足が、寒さで赤くなっていた。それに気づきもせず、私はただ、自分の疲れのことばかり考えていた。

「美咲。どうした、こんな時間まで起きて。風邪をひくぞ」

私は驚いて、それから少し、苛立っていた。早く風呂に入って、わずかでも横になりたかった。明日も朝が早い。

「あのね、パパ。寝る前に、ひとつだけ、聞きたいことがあるの」

「なんだ。早く言いなさい」

美咲は、小さな両手を後ろで組んで、もじもじとしてから、思いきったように顔を上げた。

「パパは、お仕事を一時間すると、いくらお金がもらえるの?」

私は、面食らった。

「……そんなこと、子どもが気にすることじゃない」

「でも、知りたいの。ねえ、一時間で、いくら?」

なぜそんなことを聞くのか、見当もつかなかった。けれど娘があまりに真剣な顔をするので、私はため息まじりに答えた。

「たいした額じゃないさ。残業の分を入れて、まあ、千五百円ってところだ」

「せんごひゃくえん……」

美咲は、その数字を、お守りのように、そっと口の中で繰り返した。それから、また顔を上げて言った。

「ねえ、パパ。お願いがあるの。八百円、貸してくれない?」

その瞬間、私の中で、何かがぷつりと切れた。

「いいかげんにしなさい!」

気づいたときには、怒鳴っていた。

「夜中まで起きて、待っていたのは、金が欲しかったからか。パパがどうして、こんな時間まで働いていると思ってるんだ。全部、お前のためだろう。それを、おもちゃか何かが欲しいからって——」

美咲の肩が、びくりと震えた。

「もう寝なさい。子どもがお金の話なんて、するもんじゃない。早く部屋に行きなさい!」

美咲は、何も言い返さなかった。

ただ、唇をぎゅっと結んで、こぼれそうな涙をこらえながら、とぼとぼと自分の部屋へ戻っていった。襖の閉まる、ことん、という小さな音が、やけに長く、耳に残った。

私は台所の椅子に座り込み、冷えた茶をあおった。八百円。たかが八百円で、なぜ私はあんなに声を荒らげたのだろう。

襖の向こうで、美咲が泣いているのが、気配で分かった。声を殺して、こらえている。三つで母を亡くしたこの子は、大声で泣くということを、いつの間にか忘れてしまったのかもしれない。そう思うと、胸が締めつけられた。

私は、自分が娘に、何を与え、何を奪ってきたのかを、初めて、まともに考えた。新しい服も、欲しがるものも、たいていは買ってやれた。けれど、いちばん欲しかったものだけは、ずっと、後回しにしてきたのだ。

湯に浸かって、頭が少し冷えてくると、後悔が、じわじわと滲んできた。

叱りすぎたかもしれない。よく考えてみれば、美咲は、これまで一度も、おもちゃをねだったり、わがままを言ったりする子ではなかった。母親を亡くしてから、まるで何かを察したように、聞き分けのいい子になってしまった。そのことが、本当はずっと、胸の奥で引っかかっていた。

思い返せば、こんなことがあった。

去年の参観日、私はどうしても仕事を抜けられず、行ってやれなかった。夜、帰って詫びると、美咲はけろりとした顔で、だいじょうぶ、と笑った。

「ほかのおうちのパパとママがいっぱいいたから、わたし、ぜんぜん、さびしくなかったよ」

その言い方が、かえって私の胸を抉った。さびしくなかった、とわざわざ口にする子どもが、本当にさびしくないはずがない。私はそれを知っていながら、見ないふりをして、また工場へ通った。

きっと、どうしても要る理由があったのだろう。明日、学校で何か必要なものでもあったのかもしれない。それを、頭ごなしに。

私は風呂を出ると、財布から千円札を一枚抜いて、そっと美咲の部屋の襖を開けた。

「美咲。まだ、起きてるか」

小さな声で呼ぶと、布団の中から、くぐもった返事が聞こえた。

「……うん。パパ」

少し、泣いていたようだった。

「さっきは、悪かった。パパ、仕事でくたびれてて、ちょっと、言いすぎた。ほら、お前の言ってた、八百円だ。これで、足りるか」

美咲は、布団からそっと起き上がると、暗がりの中で、ぱっと顔を輝かせた。

「ありがとう、パパ!」

そして枕の下に小さな手を差し入れると、しわくちゃの百円玉や十円玉を、何枚も、大事そうに取り出した。

私は、思わず眉をひそめた。

「なんだ、お前。ちゃんと、お金を持ってるじゃないか。それなのに、まだ足りなかったのか」

美咲は、こくりと頷いた。

「うん。おばあちゃんのお手伝いをして、すこしずつ、ためてたの。でもね、どうしても、ちょっとだけ足りなかったの。でも、パパが貸してくれたから、もう、ぴったりになったよ」

美咲は、貯金箱のありったけだったのだろう、その小銭を、一枚も落とさないように両手で包み込んで、数えはじめた。ひゃく、にひゃく、さんびゃく——。

そして、数え終えると、その全部を、私の前に、そっと差し出した。

娘が両手で差し出した小銭には、まだ、ほんのりと体温が残っていた。十円玉の一枚いちまいに、玄関を掃いた朝の、新聞を取りに走った夕の、娘の小さな手の感触が、染み込んでいるようだった。

私はその硬貨を、ひとつかみ、手のひらに乗せてみた。ずしりと、重かった。たかが千五百円。けれどそれは、六歳の娘が、何ヶ月もかけて積み上げた、途方もない時間の重さだった。

あの晩、私が怒鳴りつけたとき、美咲は言い返さなかった。あとで思えば、あの子は、父を困らせまいと、ただ黙ってこらえていたのだ。お金が欲しいのではなく、父と過ごす時間が欲しいだけだと、言えばよかったのに。それを言えば、また父を疲れさせてしまうと、六つの子が、気を遣っていたのだ。

そのいじらしさを思うと、今でも、胸の奥がきしむ。私は娘に守られていた。働いて娘を守っているつもりで、その実、娘の気遣いに、ずっと守られていたのだ。

「パパ。これでね、ぜんぶで、せんごひゃくえん、あるの」

美咲は、はにかむように笑った。

「これで、パパのお仕事の、一時間を、買えるよね」

私は、その小さな両手の上の、温かい小銭の山を、見つめたまま、動けなくなった。

「あのね。あした、日曜でしょ。だからね、その一時間だけでいいの。お金、ちゃんとはらうから」

美咲の声が、だんだん、小さくなっていった。

「いっしょに、ごはん、たべたいな。パパと、ふたりで。ずっと、ずっと、まえから……それだけが、わたしの、おねがいだったの」

私は、娘を抱きしめた。

力いっぱい、抱きしめた。腕の中の体は、驚くほど小さくて、そして、温かかった。

私はこの三年間、娘のために働いていると、信じて疑わなかった。けれど娘がいちばん欲しかったものは、新しいおもちゃでも、不自由のない暮らしでもなかった。ただ、私と過ごす、たった一時間だったのだ。

その一時間を、娘は、こづかいを貯めて、買おうとしていた。父親から。

私は、嗚咽が漏れるのを、止められなかった。美咲が、驚いたように、私の背中を、小さな手で、ぽんぽんと叩いた。

「パパ、ないてるの?」

「……ああ。うれしくてな。美咲。一時間なんて、言わないでくれ。これからは、いくらでも、ずっと、一緒だ」

腕の中で、美咲が、くすぐったそうに身をよじった。その小さな心臓の鼓動が、私の胸に、とくとくと伝わってくる。生きている。この子は、ちゃんと、ここで生きて、私を待っていてくれた。

妻が最期に握った私の手は、この子の手を握るためにあったのだと、ようやく分かった。あの子をお願いね。その願いの本当の意味を、私は三年も、取り違えていた。お願いとは、養うことではなく、傍にいてやることだったのだ。

後日、大家のおばあさんが、台所でお茶を淹れながら、ぽつりと教えてくれた。

「美咲ちゃんね、ここ何ヶ月か、うちのお手伝いを、いっしょけんめいやってくれてたのよ」

私は、湯呑みを持つ手を止めた。

「玄関を掃いたり、新聞を取ってきたり。そのたびに、十円玉を一枚あげるとね、それはもう、大事そうに、お財布にしまうの。何に使うのって聞いてもね、ないしょ、って笑うだけで」

おばあさんは、目尻の皺を、やさしく深くした。

「あの子ね、お父さんと、ごはんを食べたいんだって、一度だけ、こぼしたことがあるのよ。きっと、それのために、貯めてたのねえ」

私は、何も言えなかった。娘が、玄関の三和土に、小さなほうきを動かしている姿が、目に浮かんだ。そのひと掃きひと掃きが、私と過ごす一時間に、変わっていくのを、夢見ながら。

その健気さが、私には、痛いほど眩しかった。

翌日、私は生まれて初めて、日曜の残業を断った。

工場長は少し驚いた顔をしたが、何も言わずに、いってこい、と笑った。

私と美咲は、二人で、近所の小さな食堂へ行った。たいしたものは頼まなかった。子ども用のお子さまランチと、私はかけそば。それだけのことが、これほど胸を満たすものだとは、思ってもみなかった。

美咲は、あの貯めた小銭で、自分のランチを払うのだと言ってきかなかった。私は、その気持ちだけ受け取って、そっと自分の財布を開いた。

窓の外には、よく晴れた秋の空が広がっていた。美咲のスプーンが、皿に当たる音。その向かいで、私は、何でもない娘の話に、ただ、うんうんと頷いていた。

「パパ。このたまごやき、ママのとは、ちょっとちがうけど、おいしいね」

美咲が、無邪気にそう言った。私は、不意を突かれた。娘が、母親の味を、まだ覚えていたことに。三つで別れたのに、ちゃんと、心のどこかに、しまっていたのだ。

「そうか。ママのは、もっと甘かったもんな」

「うん。でもね、パパとたべると、どっちもおいしい」

私は、そばの汁で、目元をごまかした。窓から差し込む光が、美咲の髪を、やわらかく縁取っていた。こんな何でもない昼下がりを、私は、いくつ取りこぼしてきたのだろう。

食事のあと、私たちは、川沿いの土手を、二人でゆっくり歩いた。

美咲は、私の手を、ぎゅっと握って離さなかった。秋風が、すすきの穂を揺らし、夕日が川面を金色に染めていた。美咲は、見つけた小石を私に見せたり、土手を駆け下りては転びそうになったりして、はしゃいでいた。

「パパ。また、いっしょに、おさんぽできる?」

「ああ。何度でもな。一時間じゃ足りないくらい、いっぱい歩こう」

土手の帰り道、美咲は歩き疲れて、私の背に負ぶさって眠ってしまった。耳元で、すうすうと、小さな寝息がする。その重みは、けっして軽くはなかったけれど、不思議と、いつまでも背負っていたいと思える重さだった。

夕暮れの道を、私は娘を背負って、ゆっくりと歩いた。急ぐ理由は、もう、何もなかった。

美咲は、満面の笑みで頷いた。その笑顔を見ながら、私は心に決めた。仕事は、暮らしていくために、もちろん大事だ。けれど、この笑顔を取りこぼしてまで稼ぐ金など、どこにもありはしない、と。

そんな時間こそが、私が三年ものあいだ、すぐ手の届くところに置き去りにしてきた、いちばん大切なものだった。

あの日曜から、私の暮らしは、少しずつ変わっていった。

工場長に頼んで、週に二日は、定時で上がらせてもらうことにした。給料は、いくらか減った。けれど、その分、私は娘と夕飯の食卓を囲めるようになった。

輪転機の前に立つと、刷り上がる紙の束を見ながら、私はときどき思う。私が刷ってきたのは、誰かの広告や、知らない誰かの宣伝ばかりだった。けれど、いちばん刷り込まなければならなかったのは、娘の心に残る、父との時間だったのではないか、と。

美咲は、毎晩のように、その日あったことを、せきを切ったように話した。学校で植えたあさがおが、ふたば、を出したこと。給食のプリンを、おかわりできたこと。たわいもない話だった。けれど私は、それを聞くのが、輪転機を回すどんな時間よりも、楽しみになっていた。

ある晩、美咲が、ふと箸を止めて、言った。

「パパ。さいきん、おうちにいてくれるね」

「ああ。一時間、ちゃんと買ってもらったからな」

そう茶化すと、美咲は、けらけらと笑った。

「ちがうよ。あれは、一時間ぶんしか、はらってないもん」

「じゃあ、残りは、ツケにしておいてくれ。パパが、一生かけて、返すから」

美咲は、きょとんとしてから、うん、と元気よく頷いた。その意味を、たぶん半分も分かってはいなかっただろう。けれど私は、本気だった。

娘がくれた、たった千五百円。それは、私が見失いかけていた人生の優先順位を、もう一度、正しい場所に並べ直してくれた、何より高価な贈り物だった。

机の引き出しを開けると、今でも、あの千五百円が、小さな布袋に入って眠っている。使う気には、どうしてもなれない。これは、私が一生かけて返していく借りの、最初の証文のようなものだから。

娘はもう、すっかり大きくなった。けれど私は、あの夜の上がり框の冷たさと、差し出された小銭の温かさを、生きているかぎり、忘れることはないだろう。

あの夜、娘が差し出した千五百円を、私は今も、机の引き出しに、そっとしまってある。

あれは、娘が私に教えてくれた、人生でいちばん高い、一時間の値段だ。

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