もうおねえさんだから

もうおねえさんだから

提灯屋は、人の名前を書いて食う仕事だ。

私は三代目で、筆を持ちはじめてから十二年になる。

祝いの名、講の名、法要の名。

湖北のこの町では、暮らしの節目ごとに、誰かの名を和紙に入れて軒へ吊る。

その私が、この七ヶ月、どうしても書けなかった名前がひとつある。

妻の名だ。

※

うちの工房は、宿場町の通りから一本入った、間口の狭い町家にある。

土間の奥に竹を割る台があって、その向こうが張り場だ。

夏の終わりから秋の彼岸までが、いちばん忙しい。

十月の祭りに、町内の軒がいっせいに提灯を替えるからだ。

竹を裂き、輪を組み、糊を煮て、和紙を張り、乾かして、それから字を入れる。

字は最後だ。

最後だから、しくじると全部が無駄になる。

父はよく、乾ききらない紙に筆を置こうとする私の手を、木の物差しで叩いた。

「名前は、その人の体や」

「急いで触るな」

その言葉だけは、いまも守っている。

糊は小麦から炊く。

炊いているあいだ、工房は甘いような、埃っぽいような匂いになる。

娘はこの匂いが好きで、幼いころから土間に座り込んで、鍋の湯気を見ていた。

娘のゆきは、十月十一日に四つになる。

祭りの、前の日だ。

この町には、子が生まれた年の秋に「名前提灯」を作って軒へ吊る習わしがある。

掌に乗るほどの小さなもので、和紙に子の名を入れる。

そして四つになる年の祭りで、その提灯を子ども自身が持ち、曳山の後ろを歩く。

「四つの提灯」と、町の者は呼ぶ。

四つまで無事に育ったことを、町へ知らせるための灯りなのだという。

昔はこの雪の深い土地で、四つまで育たない子が多かったからだと、祖母は言っていた。

「四つまで持ったらな、もう町の子や」

祖母はそう言って、私の頭を撫でた。

私の名前提灯も、押し入れの箱にまだしまってある。

父の字で、少し左に寄っている。

妻の美緒は、この町の人ではなかった。

彦根の呉服屋の娘で、二十二の秋に、うちへ提灯を三十本注文しに来た。

帳場で私が寸法を書き取っているあいだ、美緒はずっと工房の奥を覗いていた。

「字を書くところ、見せてもらえませんか」

初対面でそれを言う客は、めずらしかった。

断る理由もないので、乾いた一本を出して、私は筆を取った。

美緒は息を止めて見ていた。

書き終えてから、ようやく息を吐いて、

「怖い仕事ですね」

と言った。

上手だとか、きれいだとか言われるのには慣れていた。

怖いと言われたのは、はじめてだった。

「なんでですか」

「間違えても、消せないから」

美緒はそう言って、私の手元ではなく、紙の白いところを見ていた。

その一言で、私はこの人と暮らすことになるのだろうと、なんとなく思った。

帰ったあと、帳場に置き忘れた注文票の裏に、小さく名前が書いてあった。

美緒、と、鉛筆で。

消せない仕事が怖いと言った人が、鉛筆で自分の名を書いて帰った。

それがおかしくて、私はその紙を捨てられなかった。

いまも工房の帳面に挟んである。

嫁いできてから、美緒はこの町の言葉を覚えようとした。

「〜してや」「〜やわね」という湖北の語尾を、台所で小さく練習していた。

町内の寄合で私が笑われるのが嫌だったのだと、あとで聞いた。

「あんたの名前を呼ぶときだけは、この町の言い方がええと思って」

そう言われて、私は返事をしなかった。

うまい返しが思い浮かばなかっただけなのだが、美緒は少し寂しそうな顔をした。

あのときに何か言えばよかったと、いまでも思う。

※

ゆきが生まれたのは、二月の、湖から雪の来る晩だった。

産院の廊下の窓から、電線に雪が積もっていくのが見えた。

名前は美緒が決めた。

私は祖父の名から一字取るつもりで、三つほど候補を書いて持っていった。

美緒はそれを全部見て、それから首を振った。

「ゆき、にしたい」

「雪か」

「うん。この町の雪」

よそから来た人が、この土地でいちばんつらいものから名を取ろうとしていた。

「重いで、この町の雪は」

「知ってる」

「屋根から落ちてきたら、大人でも埋まるわ」

「それでも、春になったら全部溶けるでしょう」

美緒はそう言って、腕の中の顔を覗き込んだ。

私は反対しなかった。

反対する言葉を、そのときも持っていなかった。

ゆきが生まれた年の秋、私は名前提灯の輪を組みながら、美緒に言った。

「字は、おれが入れるわ」

すると美緒は、糊の匂いのする土間に立ったまま、しばらく黙っていた。

「四つの提灯は、わたしが書くから」

「四つの?」

「うん。四つのは、わたしが書く。あなたは書かんといてね」

妙な言い方だった。

美緒の字は、悪くはないが職人の字ではない。

名前提灯の字は、灯りを入れたときに透けて見えるから、線の太さを揃えないと影が濁る。

それを説明しかけて、やめた。

母親としての意地のようなものだろうと、そのとき私は受け取った。

「三年も先の話やないか」

「そうやね」

美緒はそう言って笑い、指に付いた糊を割烹着で拭いた。

その拭き方が、うちの母とまったく同じだったのを、私はいまでも覚えている。

美緒の病がわかったのは、それから一年半後の春だった。

最初は、指の先が冷たいと言っていた。

提灯の紙は、指の湿りで張り方が変わる。

だから美緒はよく自分の指先を気にしていて、私はその癖のせいだと思っていた。

入院してからも、美緒は病室で紙を触っていた。

売店で買った便箋を、何度も折って、また開いていた。

「なにしてるん」

「手の練習」

「手?」

「震えると、字が曲がるでしょう」

私は、退屈しのぎだと思っていた。

思っていたことにしておきたかった、というほうが正しい。

見舞いに行くと、美緒はいつも先にゆきの話をした。

「あの子、卵焼きに砂糖を入れると怒るのよ」

「ばあばの卵焼きは甘いから、ばあばのは食べるのに」

「勝手なもんやね」

そう言って笑うとき、美緒の目はもう、私の後ろのほうを見ていた。

窓の外に、湖から来る雲があった。

あるとき、看護師さんが廊下で私を呼び止めた。

「奥さん、売店の便箋、毎日一冊ずつ買われますよ」

「毎日?」

「書くのが、お仕事なんですかって訊いたら、笑ってました」

病室に戻ると、美緒はもう便箋を伏せていた。

「見せてくれへんのか」

「まだ、へたやから」

それから、美緒は少し声を落としてこう言った。

「うちの工房の紙、一枚だけ、切って持ってきてくれる?」

「紙?」

「四つの提灯の、大きさに切ったの」

私は、なぜそんなものが必要なのかを訊かなかった。

訊けば答えが返ってくることが、こわかったのだと思う。

次の見舞いで、私は言われた寸法に切った和紙を一枚だけ持っていった。

美緒はそれを、枕の下に入れた。

「ありがとう」

「そんなとこに入れたら、皺になるで」

「ええの。ここが、いちばんあったかいから」

※

美緒が逝ったのは、三月の、雪の日だった。

湖北の雪は、春先でも本気で降る。

葬式のあいだ、ゆきは私の膝で眠っていた。

それから半月ほどして、ゆきは毎晩泣くようになった。

「ままにあいたい」

「ままかえってこないの」

夕方になると、玄関の土間に座って、通りの音を聞いている。

バスの音がすると立ち上がり、違うとわかると座り直す。

それを毎日繰り返した。

私は何も言えなかった。

言葉の商売をしていて、自分の子にかける言葉が一つも出てこなかった。

町内の世話役の喜三郎さんが、様子を見に来てくれたことがある。

「泣かしとけ」

それだけ言って、土間に一升瓶を置いて帰った。

あのぶっきらぼうが、あの時期の私にはありがたかった。

夜になると、ゆきは私の布団へ来た。

そして、あの小さな提灯を枕元に置いて眠るようになった。

名前提灯だ。

中に豆電球が入っていて、細い線を挿すと、頼りない橙色に灯る。

私は、暗いのが怖くなったのだろうと思った。

火の元ではないにしても、電球の熱でも和紙は焦げる。

だから私は毎晩、ゆきが寝入ったころに部屋へ入って、提灯の灯りを消していた。

朝になると、ゆきは何も言わなかった。

何も言わないから、気づいていないのだと思っていた。

※

先週から、ゆきはぱったり泣かなくなった。

「ままにあいたい」も言わない。

玄関の土間にも座らない。

食事のとき、私の顔をよく見て笑うようになった。

ただ、夜のゆきは、少し変わった。

布団に入ると、天井のほうを見て、しばらく息を止める。

そのあと、ふうっと細く吐く。

私はそれを、寝つくときの子どもの癖だと思った。

「息、止めたらあかんぞ」

「とめてない」

「とめてたやろ」

「とめてない」

ゆきは言い張って、枕元のほうへ顔を向けた。

私は、そういうものかと思った。

四歳の忘れる力に、少しだけ救われた気もした。

救われた、と思ったことを、あとで私は恥じた。

誕生日の朝、休みを取って、二人で墓参りに行った。

墓地は町を見下ろす小高い丘の上にある。

彼岸を過ぎて、丘の草はもう色を変えていた。

線香に火をつけながら、ゆきは真面目な顔で墓石に言った。

「よっつになりました」

それから私を見上げて、

「もう、おねえさんだから、なかないよ」

と言った。

「ばあばと、やくそくしたんだ」

ばあば、というのは美緒の母だ。

月に二度、彦根から手伝いに来てくれる。

丘の下では、祭りの前日の町が、もう囃子の稽古をしていた。

笛の音が、途中で何度も止まる。

その晩、私は義母に電話をした。

四つになったこと、墓参りに行ったこと、それから約束のこと。

義母は少し黙って、それから言った。

「わたし、そんな約束はしてへんよ」

「え」

「泣かんでええよとは言うたけど、約束はしてへん」

受話器の向こうで、義母が息を吸う音がした。

「あの子、ようできた嘘をつくねぇ」

嘘、という言葉が、その晩ずっと耳に残った。

四つの子が嘘をつくときには、守りたいものがあるのだと、私はまだ知らなかった。

※

祭りは翌日だった。

十月十二日、朝から曳山の囃子が通りに入る。

四つになった子は、名前提灯を持って曳山の後ろを歩く。

私は前の晩に、美緒の書いた提灯を探すつもりだった。

探すつもりで、探せずにいた。

工房のいちばん下の抽斗を開ける勇気が、七ヶ月なかった。

その日の夕方、義母が彦根から来た。

そして、私が手を出せなかった抽斗を、当たり前の顔で開けた。

「あんたが開けんのやったら、わたしが開けます」

中には、便箋が束になって入っていた。

病室の売店の、薄い便箋だ。

一枚に一つずつ、「ゆき」と書いてある。

どれも線が細く、震えて、途中で折れている。

数えたら、四十七枚あった。

一枚ずつめくっていくと、隅に薄く鉛筆で数字が入っていた。

日付だった。

いちばん上が入院した週の日で、いちばん下が三月の、あの日の三日前。

四十七枚は、四十七日ぶんだった。

毎日一枚、書いていたことになる。

手の震えは、日付が進むにつれてひどくなっていた。

それでも一日も抜けていない。

義母がそれを膝に置いて、指で押さえた。

「この人、うちの子やのに、うちの前では一度も泣かへんかったわ」

四十七枚のいちばん下に、和紙が一枚あった。

名前提灯用に切った、小さな和紙だ。

「ゆき」

その二文字だけ、震えていなかった。

最後の一画が、まっすぐ下りていた。

義母がそれを両手で持ち上げて、灯りに透かした。

「この町では、名前提灯の字を書いた者が、その子の帰る道を灯す役になるんやろ」

「……そう、言いますけど」

「美緒は、それを、あんたにやらせんかったんやね」

私は、意地だと思っていた。

母親の意地だと。

そうではなかった。

美緒は、自分がその役に回るつもりだったのだ。

そばにいてやれる人間に、灯す役はさせない。

灯すのは、行かれへんほうの役やから。

「三年も先の話やないか」と言った私に、美緒は「そうやね」と笑ったのだ。

三年先に自分がいないことを、あの春の土間で、もう考えていたことになる。

※

祭りの晩、ゆきは四つの提灯を両手で持って歩いた。

曳山の車輪が石をかむ音、囃子の笛、大人の掛け声。

その中で、小さな橙色だけが、ゆきの顎の下で揺れていた。

喜三郎さんが列の後ろから「まっすぐ持て」と怒鳴っていた。

通りの角を曲がるとき、ゆきは急に立ち止まり、提灯を胸まで持ち上げた。

そして、山の向こうの暗いほうへ向かって、思いきり叫んだ。

「ままー! ここだよー!」

囃子がうるさくて、たぶん誰にも聞こえなかった。

私にだけ聞こえた。

家に帰ってから、ゆきは提灯を枕元に置いて、いつものように横になった。

私が線を抜こうとすると、ゆきははじめて、私の手を掴んだ。

「けさないで」

「……あついで、これ」

「けさないで」

ゆきは私を見て、はっきり言った。

「なくと、ゆれて、ままがみえんようになるから」

私は、その場から動けなかった。

泣かなくなったのではなかった。

息をつめて、灯りを揺らさないでいたのだ。

そして私は、七ヶ月のあいだ、あの子が母に会うための灯りを、毎晩、自分の手で消していた。

ゆきはそれを一度も責めなかった。

朝になれば、また自分で線を挿していた。

消されても、挿し直す。

四つの子が、四十七枚の便箋と同じことをしていた。

黙って、何度でも、やり直していた。

「ゆき」

「なに」

「けさへん」

「ほんと?」

「ほんまや。今日から、ずっとつけとく」

ゆきは少し考えて、それから、はじめて声を出して泣いた。

七ヶ月ぶりの声だった。

泣きながら、右手はずっと提灯の柄を握っていた。

揺らさないように、両手では持たなかった。

私は、その手の甲に自分の手を重ねた。

「ゆれてもええ」

「ままは、こんなことでは、おらんようにならん」

言いながら、自分に言っていた。

泣き止んだあと、ゆきは提灯を指さして、こう訊いた。

「ままは、あかりのなかにおるの?」

私は少し考えて、正直に答えた。

「わからん」

「わからんの?」

「うん。でも、灯しといたら、道はわかるやろ」

ゆきは納得したらしく、うん、と言った。

それから、四つの子らしい大事なことを言った。

「じゃあ、まつりのときは、もっとあかるいのにしようね」

※

祭りから三日たって、私は工房で筆を持った。

新しい和紙に、はじめて妻の名を入れた。

「美緒」

手が震えた。

何度も便箋で練習をした人の気持ちが、そのときようやくわかった。

震えたまま、最後の一画だけは、まっすぐ下ろした。

仕上げた提灯を、私は仏間ではなく、ゆきの部屋の鴨居に吊った。

線を挿して、灯りをつけた。

消さない。

これから、消さない。

喜三郎さんには「電気代がもったいない」と笑われた。

「灯しとかんならん理由があるんです」

そう言うと、喜三郎さんは何も訊かずに、うんと頷いた。

この町の人は、灯りの理由をあまり訊かない。

祭りの翌週、町内の掲示板に、曳山の写真が貼られた。

曳山の後ろに、小さな橙色が写っていた。

顔はぶれていて、ゆきだとわかるのは提灯の字だけだった。

「ゆき」

母の書いた二文字が、灯りに透けて、はっきり写っていた。

義母は彦根に帰る朝、その写真をしばらく見ていた。

「あの子、ちゃんと役、果たしたねぇ」

そう言って、私には目を合わせずにバスに乗った。

※

美緒。

あの子は四つになったよ。

おまえの言うた通り、この町は、ちゃんと四つの提灯を持たせてくれた。

帰る道は、こっちで灯しておく。

だから、灯りが揺れても驚かんといてくれ。

あの子はもう、泣いてもええ子や。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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