
あの子の声をもう一度聞いたのは、この建物が無くなると決まってから、三日目のことだった。
風見市立少年科学館。
赤城颪の吹く盆地の、川と国道に挟まれた場所に、三十年ちょっとのあいだ建っていた。
私はそこで、暗闇をつくる仕事をしていた。
ドームの照明をゆっくり落として、二百八の椅子を沈めて、それから天井に星を出す。
説明すれば、それだけの仕事だ。
けれど私は、この仕事のいちばん大事なところは星ではないと、ずっと思っていた。
暗くすること。
それが、たぶん、私の仕事だった。
※
平成六年の春に、私はここへ入った。
二十六だった。
面接の日、館長は私の履歴書をずいぶん長いこと眺めてから、顔を上げずに聞いた。
「三隅さん、人の前で喋るのは、平気ですか」
「平気です」
私は嘘をついた。
人の目が集まると、喉の奥が冷たくなる。
声が出ないわけではない。
ただ、自分の声が自分のものでなくなる。
学生のころ、発表の順番が回ってくる前の晩に、決まって熱を出した。
中学二年の国語で、教科書を立って読む時間があった。
私の番になって、立った。
一行目の「し」が、どうしても出なかった。
窓の外で、野球部の金属バットが鳴っていた。
三十秒か、一分か。
先生が黒板のほうを向いたまま、次の人、と言った。
私は座った。
座ったとき、いちばん先に感じたのは恥ずかしさではなくて、安心だった。
そのことを、私は長いこと自分に隠していた。
だからこの仕事を選んだのだと思う。
暗いドームの端に立って、マイクにだけ向かって喋る。
客席からは、私の顔は見えない。
見えないところでなら、人と繋がれる気がした。
館の中は、いつもオゾンと埃の混じった匂いがしていた。
投影機の球が温まると、その匂いが少しだけ濃くなる。
ドームの真ん中に据えられた機械は、球の入った頭が二つある、黒い鉄の塊だった。
昭和の終わりに入ったもので、動かすと腹の中で低い唸りがする。
その唸りが一定になるまで、電源を入れてから十二分かかった。
十二分待って、それから照明を落とす。
三十年、私はその匂いと、その唸りの中にいた。
※
土曜の午後三時の回は、いつも空いていた。
二百八席に、五人か六人。
遠足の予約が入る平日と違って、土曜の午後は家族連れが動物園のほうへ流れていく。
がらんとしたドームに向かって、私は毎週おなじ台本を読んだ。
「本日は、風見市の今夜の星空をご案内いたします」
天井の縁に、山の稜線の影絵が出る。
赤城の裾と、榛名の肩。
その線から上だけが、この機械の見せられる空だった。
地平線より下は、映らない。
当たり前のことだ。
見えないものは、見えない。
※
その子に気づいたのは、入って二年目の秋だった。
最前列の、右端。
いつも同じ席だった。
小学校の二年か三年くらいの男の子で、水色のリュックを膝に抱えて座っていた。
私が照明を落とすと、そのリュックの輪郭だけが最後まで残って、それも消えた。
妙なのは、帰り方だった。
番組が終わって、私が「本日はご来館ありがとうございました」と言い、照明のつまみに手をかける。
明るくなりきるまでの、十秒ほど。
そのあいだに、その子はいなくなっている。
一度も、明るいところでその子を見たことがなかった。
顔を知らないまま、私はその子の声だけを知っていた。
暗くなった直後に、一度だけ、小さな声がするのだ。
「……ありがとう、ございました」
最前列の、右のほうから。
まだ何も見せていないのに、その子は礼を言った。
はじめは聞き間違いだと思った。
けれど次の週も、その次の週も、照明が落ちたあとの数秒に、同じ声がした。
星を出す前に、礼を言われる。
私は、返事をしたことがない。
マイクは入っていたし、台本にない言葉を客席へ返すのは、規則の外だった。
※
一度だけ、ロビーで女の人を見かけたことがある。
三時の回が始まってしばらくしてから、券売機の横のベンチに座って、膝の上で手帳を開いていた。
四十くらいだったと思う。
ページはめくらなかった。
四時になると立ち上がって、階段のほうを見て、それから外へ出て行った。
その日は、水色のリュックが階段を降りていく音がした。
私はそのとき、何も結びつけなかった。
※
冬になって、その子がはじめて別のことを言った。
冬の星の説明をしていたときだ。
南の低いところに、おおいぬ座がある。
風見の空では、その足元のほうの星が山に隠れて見えない。
私はいつもの台本どおりに言った。
「この星は、風見からは山にさえぎられて、ご覧になれません」
そのとき、右端から声がした。
「……み、みたい、です」
途切れ途切れの、押し出すような声だった。
一音めが、なかなか出ない。
出たあとは、あとの言葉が転がるように続く。
ドームが静かだった。
誰も笑わなかった。
ほかに三人しかいなかったから、というだけかもしれない。
私は台本から目を上げた。
上げたところで、暗くて何も見えなかった。
「……少々、お待ちください」
投影機の腹に、地平線の高さを決めるつまみがある。
風見市の実際の地平に合わせて、動かさないように言われていた。
私はそれを、指一本ぶんだけ下げた。
山の稜線が沈んだ。
隠れていた星が、下から浮かんできた。
「……今夜は、地平線のすこし下まで、お見せします」
台本にない一行だった。
客席から、息を吸う音がした。
それだけだった。
その子はやはり、明るくなる前に帰った。
※
次の土曜から、私は毎回それをやった。
番組の終わりに近いところで、つまみを指一本ぶん下げる。
そして、あの一行を言う。
「今夜は、地平線のすこし下まで、お見せします」
業務日誌の備考欄には、そのたびに「地平線補正」と書いた。
書かなければ、翌週の点検で数値のずれが見つかる。
館長には一度だけ聞かれた。
「三隅さん、あれ、何のためにやってるの」
「……お客さまのご要望です」
「一人の?」
「一人です」
館長は、湯呑みの底を見ながら少し笑った。
「まあ、うちは一人でも客だからね」
それきり、何も言われなかった。
一度だけ、始末書を書いたことがある。
年に一度の機器点検で、地平線の設定値が仕様書と合っていないと指摘された。
業者の人が、点検票の欄を指で押さえて言った。
「これ、誰かが毎週いじってますよ」
私は、いじっています、と答えた。
理由は書かなかった。
書けなかったのだと思う。
原稿用紙一枚の始末書に、私は「今後は所定の値を厳守します」と書いて判を押した。
そして次の土曜も、指一本ぶん下げた。
夏休みには、平日の回にも来るようになった。
十一時、一時、三時。
同じ日に三回、同じ席に座っていたこともある。
三回とも、暗くなった数秒後に、同じ声がした。
※
春になって、右端の椅子の肘掛けに、小さな溝があるのに気づいた。
布の縁の、木が出ているところ。
爪の先で同じ場所を何度も引っ掻いたような、細い溝が何本も並んでいた。
指でなぞると、わずかに引っかかった。
掃除の人には言わなかった。
言えば、椅子を替えられてしまう気がした。
※
一度だけ、追いかけたことがある。
番組が終わって、私は照明のつまみを回さずに、そのまま操作卓を離れた。
暗いままの通路を、手すりを頼りに上がる。
出口の前で、その子に追いついた。
廊下の明かりが、扉の隙間から細く入っていた。
「いつも、来てくれてありがとう」
私は言った。
その子は振り返った。
光の中で、はじめて顔が見えた。
前髪が長くて、目が大きくて、どこにでもいる男の子だった。
口が動いた。
動いただけだった。
唇が同じ形を三度つくって、そのたびに止まった。
首の筋が張って、耳のふちが赤くなっていくのが分かった。
私は、自分が何をしたのかを、そのときようやく理解した。
「……ごめんなさい」
私が謝った。
その子は首を横に振って、走って行った。
水色のリュックが、階段の踊り場で一度跳ねた。
次の土曜も、その子は来た。
右端に座った。
照明が落ちて、数秒して、声がした。
「……ありがとう、ございました」
私は、二度と追いかけなかった。
※
平成十年の三月の終わりに、その子は来なくなった。
何の前触れもなかった。
転校か、進学か、飽きたのか。
子供が来なくなる理由なんて、いくらでもある。
私はしばらく、右端を見ないようにして番組をやった。
けれど、つまみを下げるのはやめられなかった。
誰も座っていない右端に向かって、私は毎回あの一行を言った。
「今夜は、地平線のすこし下まで、お見せします」
何年も言った。
そのうち、それは私の番組の一部になった。
新しく入った若い職員が、あるとき不思議そうに聞いた。
「三隅さん、あの台詞、どの台本にも載ってないんですけど」
「そうね」
「じゃあ、なんで言うんですか」
私は少し考えて、言った。
「見えないものが、見えないままなのは、さびしいでしょう」
その子は、分かったような分からないような顔をして、頷いた。
翌年、その子は市の別の部署へ異動した。
異動する前の週に、台本の余白へ鉛筆であの一行を書き足していったのを、あとで見つけた。
※
平成が終わり、令和になった。
館の予算は毎年削られ、投影機の部品は生産が終わり、職員は一人ずつ減った。
最後は、私だけになった。
昨年の秋に、閉館が決まった。
市の広報には、老朽化のため、と書いてあった。
老朽化しているのは建物ではなくて、たぶん、私たちのほうだった。
閉館の日に、記念の投影を一度だけやることになった。
二百八席の予約は、三日で埋まった。
三十年、こんなに埋まったことはなかった。
※
その三日前に、投影機を最後に点検する業者が来た。
作業服の男が、道具箱を提げてドームに入ってきた。
四十くらいだろうか。
名刺を出された。
光学機器の整備会社の名前と、杮沼亮、という文字があった。
「よ、よろしく、お願いします」
一音めが、なかなか出なかった。
出たあとは、あとの言葉が転がるように続いた。
私は名刺を持ったまま、動けなくなった。
男は、道具箱を床に置いた。
それから、ドームの中を見回した。
見回して、最前列の右端で、目を止めた。
「……あの席、まだ、あるんですね」
「あなたは」
「杮沼です」
「そうじゃなくて」
「……はい」
男は、笑った。
「三隅さん、声、変わってないですね」
「あなたの声は、変わりました」
「三十年経ちましたから」
「明るいところで、喋れるようになったのね」
「……喋れます。ゆっくりなら」
「そう」
それだけ言うのが、精一杯だった。
※
杮沼さんは、道具箱から小さなドライバーを出した。
最前列の右端へ降りていって、肘掛けの木の部分を外した。
三十年ぶんの埃が落ちた。
「これ、僕がやりました」
板を渡された。
細い溝が、びっしりと並んでいた。
「数えたこと、ありますか」
「ないわ」
「三百六十七です」
私はその夜、書庫から日誌の綴りを全部出した。
平成七年の十一月から、平成十年の三月まで。
備考欄の「地平線補正」を、一つずつ数えた。
指が二度、途中で止まった。
肘掛けの溝は、三百六十七本あった。
私が地平線を下げた回数と、ひとつも違わなかった。
※
翌日、杮沼さんは朝から投影機を分解していた。
球の入った頭を外し、恒星原板を一枚ずつ、白い手袋で持ち上げていく。
穴のあいた金属の薄い板だ。
その穴のひとつひとつが、天井の星になる。
彼は板を光にかざして、埃の残りを息ではなく刷毛で払った。
指の腹で触れる前に、必ず一度、手を止める癖があった。
その手つきを見ているうちに、私は自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。
杮沼さんは、洗いながら、背中を向けたまま話した。
「僕、あの言葉を聞きに来てたわけじゃ、ないんです」
「星を見に来てたんでしょう」
「それも、ちがいます」
ドームの天井に、作業灯の白い光が丸く当たっていた。
「暗くなると、喋れたんです」
私は、答えられなかった。
「明るいところだと、駄目でした。人の顔が見えると、喉が閉まって」
「……うん」
「あそこ、照明が落ちてから星が出るまで、七秒あるんですよ」
「知ってる」
「その七秒だけ、僕は、普通に喋れました」
だから、あの子は礼を言っていたのだ。
星にではなかった。
暗くしてくれたことに、礼を言っていた。
明るくなる前に帰っていたのも、そういうことだった。
明るくなってしまえば、さようならが言えなくなる。
言えないまま出て行くくらいなら、暗いうちに出て行くほうがよかったのだ。
私は三十年、自分が何かを与えているつもりでいた。
与えていたのは、暗闇だった。
自分が逃げこむために毎週こしらえていたその暗闇が、あの子の声を出していた。
「母が、探してくれたんです」
杮沼さんが言った。
「暗くて、静かで、決まった時間に始まって、決まった時間に終わる場所を」
券売機の横のベンチと、めくられない手帳が、三十年ぶりに私の中で結びついた。
あの人は待っていたのではなかった。
一時間、息子の声が出ている時間を、外で数えていたのだ。
※
閉館の日は、朝から人が並んだ。
開場して客席を見に行くと、三十代や四十代が多かった。
子供のころにここへ来た人たちが、自分の子供を連れて戻ってきていた。
小学校の遠足の写真を持ってきて、係の私に見せてくれた人もいた。
写真の中で、みんな同じ方向を向いて、口を開けて天井を見ていた。
記念投影の三十分前に、杮沼さんが操作卓の横に立った。
「三隅さん」
「はい」
「今日、僕に、喋らせてもらえませんか」
「お客さん、二百八人いるのよ」
「知ってます」
「途中で、止まるかもしれない」
「止まります。たぶん」
「それでも」
「暗いので」
私は、つまみに手をかけた。
照明を落とした。
二百八人が、いっぺんに静かになった。
七秒。
星が出るまでの、七秒。
マイクが、小さく鳴った。
「……ほ、本日は」
一音めが、なかなか出なかった。
誰も、何も言わなかった。
咳ばらいひとつ、しなかった。
「本日は、風見市の、今夜の星空を、ご案内いたします」
天井に、赤城の裾と、榛名の肩が出た。
私が三十年間読んできた台本を、その人はゆっくり読んだ。
途中で三度、言葉が止まった。
三度とも、二百八人が待った。
最後に、杮沼さんは台本を閉じる音をさせた。
それから言った。
「今夜は、地平線のすこし下まで、お見せします」
私は、つまみを指一本ぶん下げた。
山の稜線が沈んだ。
隠れていた星が、下から浮かんできた。
拍手は、しばらく起きなかった。
※
お客さんが帰って、電気の落ちたロビーで、杮沼さんは道具箱を提げて立っていた。
「三隅さん」
「はい」
「僕、今、こういう仕事してるんですけど」
「うん」
「機械のほうが、人より、待ってくれるので」
そう言って、少し笑った。
「でも、今日は、人が待ってくれました」
私は返事ができなかった。
喉の奥が冷たかった。
二十六のときからずっと、私の喉はこの建物で冷たくなる。
「じゃあ」
「……はい」
自動扉が開いて、外の風が入った。
赤城颪だった。
三月の終わりの、まだ冷たい風だった。
※
その夜、私は一人でドームに戻った。
操作卓のつまみを回して、照明を落とした。
通路を降りて、最前列の右端に座った。
肘掛けの木は、新しいものに替えてあった。
溝のない、つるりとした木だった。
暗かった。
星は出していない。
ただ、暗いだけの丸い部屋に、私は座っていた。
七秒、待った。
それから、言った。
「……ありがとう、ございました」
誰にも聞こえない。
マイクは入っていない。
けれど、声は出た。
暗くしてもらわないと言えない言葉が、私にもあったのだと思う。
この仕事のいちばん大事なところは、やっぱり、星ではなかった。