悲しい時は泣くんだよ

工房の朝は、樺を煮る匂いから始まる。

山桜の皮を湯に通すと、木でも花でもない、少し薬に似た匂いが立つ。

秋田の大館で、私はその匂いの中で育った。

曲げわっぱを作る家の、二代目だ。

杉を薄く挽いて、湯につけて、輪に曲げる。

曲げた口を留めるのが、樺の皮だ。

細く裂いた皮を、錐で開けた穴に通して縫っていく。

その樺縫いを、妻の千遥がやっていた。

私が曲げ、千遥が縫う。

杉は、天然の秋田杉の柾目を使う。

薄く挽いた板を湯に入れ、指で押して、しなり具合を見る。

早すぎれば折れる。遅すぎれば戻らない。

折れる音は、乾いた高い音だ。

私はその音を、年に何度か聞く。

聞いた日は、口数が減る。

千遥は、そういう日の私に何も言わなかった。

黙って、樺を裂いていた。

桜の皮を薄く裂く音は、紙を割く音に似ている。

夜の工房で、その音だけが続く。

十二年、そうやってきた。

千遥は、隣町の建具屋の娘だった。

展示会で私の曲げた輪を見て、口を留めるのが下手だと言った。

初対面で、そう言われた。

腹が立ったので、じゃあやってみてくれと言った。

やってみせられて、負けた。

それが始まりだ。

うちに来てからも、千遥は口をきくときに、まず手元を見る癖があった。

褒めるときも、叱るときも、手を見ながら言う。

「今日のは、ええですよ」

その一言のために、私は十二年、輪を曲げてきたようなものだ。

褒めない日もあった。

そういう日は、湯の温度の話しかしなかった。

「今日は、湯がぬるいですね」

それだけ言って、樺を裂きはじめる。

私は黙って、鍋の下の火を強くした。

夫婦の会話としては、たぶん少ないほうだ。

それでも足りていた。

足りていたと、私が気づいたのは、あとになってからだった。

千遥は、樺を縫うとき、最後のひと針だけを、必ず次の朝に残した。

穴は開いている。皮も通してある。

あと一針、引き締めれば終わり、というところで手を止める。

「なんで最後までやらんの」

一度、そう聞いたことがある。

千遥は、老眼鏡をずらして笑った。

「縁起、みたいなもんです」

それ以上は言わなかった。

私は、そういうものかと思った。

職人の家には、意味のわからない癖がいくらでもある。

先代も、朝いちばんに鉋を一度だけ空で引く人だった。

理由を聞いても、そういうもんだ、としか言わなかった。

だから私は、千遥の一針も、そういうものの一つだと片づけた。

片づけて、十二年、聞き直さなかった。

一月の朝だった。

その日は、千遥の検診の日だった。

お腹に、二人目がいた。

七か月に入ったところで、腹の張りを見てもらう予定だった。

雪が続いていて、私は工房の屋根の雪下ろしをすることになっていた。

「行かんでええよ、危ないけん」

と千遥が言い、

「そっちこそ気ぃつけて」

と私が言った。

玄関で、千遥は莉子の帽子を直していた。

莉子は四つで、その日は千遥の母のところへ預ける約束だった。

莉子は、その朝、長靴を左右逆に履いていた。

千遥がしゃがんで、履き直させた。

「逆でもあるける」

と莉子が言い、

「あるけても、疲れるの」

と千遥が言った。

それが、私が聞いた妻の最後の言葉になった。

玄関の戸が閉まる音を、私は工房で聞いた。

その音を聞きながら、私は削っていた板の節を見ていた。

節をよけるか、そのまま使うか、迷っていた。

そんなことを迷っていた。

子どもの長靴の話だ。

出て行くとき、千遥は振り返らなかった。

振り返らないのは、いつものことだった。

電話が鳴ったのは、十時前だ。

知らない番号だった。

警察でした、と名乗る声が、妻の名前を言った。

私は、屋根に上るための梯子を、片手で持ったままだった。

その梯子を、どこに置いたのか、いまだに思い出せない。

病院に着くまでの道は、覚えている。

除雪の山が、道の両側に人の背より高く積まれていた。

その白い壁の間を、ずっと走った。

妻を見たとき、私は、寒いだろうな、と思った。

それだけだった。

悲しいとも、嘘だとも思わなかった。

頭のどこかが、電源を落としたようになっていた。

莉子は義母に預けたままにした。

義母は、電話口で一度だけ、あ、と言った。

そのあと、何も言わなかった。

三十秒くらい、二人とも黙っていた。

先に口をきいたのは義母だった。

「莉子は、こっちで見ますけん」

私は、お願いします、と言った。

それ以外の言葉が、その日は一つも出てこなかった。

何と言えばいいのか、わからなかったからだ。

その日の夕方、家に人が来た。

六十くらいの女の人と、若い娘さんだった。

玄関の三和土で、女の人は、いきなり膝をついた。

「佐久間の母です」

軽トラックを運転していた人の、母親だった。

私は何も言えなかった。

「息子が、取り返しのつかんことを」

女の人は、頭を三和土につけた。

「わたしが、代わりに、どんなお詫びでもします」

そして、こう続けた。

「ですけん、あの子には、生きていくことだけは、許してもらえませんか」

若い娘さんも、隣で同じように膝をついていた。

妹さんだという。

十九で、看護の学校に通っていると、あとで知った。

私は、その子の手を見ていた。

手の甲が、ひび割れていた。

赤くなって、ところどころ切れて、テープが貼ってあった。

十九の子の手ではなかった。

あとで知ったことだが、その子は看護の学校に通いながら、朝は新聞を配っていた。

配り終えてから、母親の病院に寄って、それから学校に行く。

兄が夜の除雪に出ていた冬は、朝の道の雪掻きも、その子がやっていた。

手が割れないほうが、おかしい。

警察から聞いた話は、こうだった。

佐久間拓真という二十三の男は、昼は運送の仕事をして、夜は除雪の応援に出ていた。

母親が体を悪くして働けなくなり、妹の学費と、母親の通院の費用が要った。

その朝は、除雪を終えて、二時間だけ眠って、また出たところだった。

交差点の手前で、意識が飛んだのだという。

私は、罵る相手が欲しかった。

どうしようもない人間で、酒でも飲んでいて、笑いながら走っていた男だったらよかった。

そうであってくれたら、私はいくらでも憎めた。

玄関に膝をついた母親と、手の割れた妹を見てしまった。

私は、憎む場所を失った。

怒れる相手であってほしかった。

会わなければよかった。

一週間ほど、私は仏壇の前に座って、その二人の顔を思い出しては打ち消していた。

打ち消しても、また出てくる。

憎めないということは、行き場のない怒りを、自分の中に置いておくということだ。

それは、思っていたよりずっと重かった。

今でも、そう思う。

葬儀には、その男が来た。

警察官が二人ついていた。

式場の後ろで、深く頭を下げたまま、顔を上げなかった。

その日も雪だった。

参列の人の肩に、白いものが積もったまま、溶けずに残っていた。

式場の暖房が効いていなかったのだ。

千遥は寒がりだったな、と、そんなことばかり考えていた。

私は近づいた。

殴るつもりだった。

本気で、そう思って歩いていった。

男は、震えていた。

私を見ることができずに、床の一点だけを見ていた。

その震え方が、莉子が熱を出したときの震え方に似ていた。

私は、拳をほどいた。

「顔を上げてください」

男は上げなかった。

「上げてください」

二度目で、やっと上がった。

私は言った。

「つまらん人間のせいで女房を亡くしたとは、思いたくないんです」

声が、自分のものではないように聞こえた。

「罪は、償ってください。ちゃんと、償ってください」

男の喉が動いた。

「そのあとは、生きてください。ちゃんと、働いて、母さんと妹さんを見てください」

正しかったのかは、わからない。

今でもわからない。

それが本心だったのかも、わからない。

ただ、私はその朝、そうとしか言えなかった。

葬儀が終わって、家に人がいなくなった。

台所の椅子に座って、日本酒を湯呑みに注いだ。

飲むというより、口を湿らせていた。

廊下で、小さい足音がした。

莉子だった。

私の膝の横に座って、しばらく黙っていた。

それから、こう言った。

「おとうさん、おかあさんのこと、だいすきだったでしょ」

私は、うん、と言った。

「いなくなって、かなしいでしょ」

うん、と言った。

莉子は、私の腕を両手で持って、言った。

「かなしいときは、ないていいんだよ」

私は、莉子の頭に手を置いた。

置いたまま、動けなかった。

私は、莉子の前で、いつも千遥のことを話す父親だった。

好きな人と一緒に仕事ができるのは幸せだと、何度も言った。

莉子が生まれた日の話も、飽きるほどした。

その話を、莉子に、また一つずつ話していった。

初めて千遥に樺を縫わせてもらった日のこと。

千遥が縫った最初の一枚は、目が揃っていなかった。

先代が、それを見て、笑わずに、

「これは売り物にならん」

と言った。

そのあとで、

「けど、うちで使う」

と続けた。

その弁当箱を、千遥は十二年、自分の昼飯に使っていた。

千遥が縫った蓋を、私が落として割ったこと。

千遥が笑って、また作ればええ、と言ったこと。

話しているうちに、止まらなくなった。

凍っていたものが、その夜、やっと溶けた。

情けない父親で、すまん。

声に出さずに、そう思った。

四十九日が過ぎた頃、私は工房の千遥の台を片づけた。

片づけるというより、触れるようになるまでに、それだけかかった。

台の上に、縫いかけの弁当箱が一つ残っていた。

八寸の、小判型。

樺の皮は通してある。

あと一針、引き締めれば終わり、という形で止まっていた。

穴の縁が、少しだけ毛羽立っていた。

錐を入れてから、時間が経った穴の毛羽立ち方だ。

前の晩に開けたものだと、すぐにわかった。

あの朝、千遥は、それを残して出て行った。

私は、その一針を引くことができなかった。

指が動かなかった。

その日、タキさんが来た。

先代の頃から、この工房で杉を割ってきた人だ。

八十を過ぎて、もう仕事はしていない。

私が縫いかけの弁当箱を見せると、タキさんは、ああ、と小さく言った。

「まだ、やっとったんだね」

「知っとったんですか」

「知っとったよ」

タキさんは、湯呑みを両手で包んだ。

「あんた、あれを縁起担ぎだと思っとったろ」

思っていた。

十二年、そう思っていた。

「千遥さんはね、あんたが仕事を切り上げられん人だって、わかっとったんだよ」

私は、意味が取れなかった。

「あんた、日が変わっても、まだ削っとったろ」

削っていた。

そういう性分だった。

「終わっとらん仕事が一つ残っとれば、あんたは、朝いちばんに下りてくる」

タキさんは、縫いかけの穴を指でさした。

「下りてきたら、そこに千遥さんがおる」

私は、湯呑みを持ったまま、ずっと同じ場所を見ていた。

タキさんは、湯呑みの縁を親指でなぞりながら続けた。

「言うても、あんたは聞かんだろ、と言っとったよ」

「なんでですか」

「そんなつまらんことのために手を止めるな、って、あんたが言うから」

言いそうだ、と思った。

言っていたと思う。

「一日のはじめに、あんたと顔を合わせるためだよ」

妻は、私と朝に会うために、毎晩ひと針を残していた。

十二年ぶん、毎晩だ。

私は、その数を数えようとした。

数えかけて、やめた。

数えたところで、朝はもう来ない。

私は、樺を煮る鍋の前で、しばらく立っていた。

朝の匂いだけが、いつもと同じだった。

その匂いを、千遥は毎朝、私より先に嗅いでいた。

私が下りてくるのを、あの台で待っていた。

待っていることを、一度も口に出さなかった。

「なんで最後までやらんの」

私は、あの日、そう聞いた。

千遥は、縁起みたいなもんです、と答えた。

本当のことを言えば、私が気を遣って早く下りてくると思ったのだろう。

気を遣われるのが、あの人は嫌いだった。

莉子には、あとから聞いた。

かなしいときは泣いていい、と教えたのは、千遥だった。

先代が亡くなった年、私は一度も泣かなかった。

葬式でも、初盆でも、泣かなかった。

その頃、千遥が莉子に言っていたのだそうだ。

お父さんは泣かんのやなくて、まだ、明日のぶんを残しとるだけ。

だから、かなしいときは、ちゃんと泣いていいんだよ、と。

四つの子は、それを覚えていた。

覚えていて、私に返した。

義母にも聞いてみた。

義母は、湯呑みを置いて、少し考えてから言った。

「千遥は、あんたが泣かんのを、心配しとったんじゃないですよ」

「じゃあ、何を」

「泣ける場所が、家の中にないのを、心配しとったんです」

私は、返す言葉がなかった。

その場所を、四つの子が作った。

交通刑務所から、手紙が届くようになった。

月に一度か、二度。

詫びの言葉ばかりが並んでいる。

けれど行間に、こんな自分が生きていていいのかという迷いが、いつも滲んでいる。

私は返事を書いていない。

封は切る。読む。読んで、机の抽斗に入れる。

抽斗は、もう半分ほど埋まった。

書けるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。

妹さんからは、毎月、手紙と一緒に現金が送られてくる。

最初は突き返すつもりだった。

封も切らずに、玄関に置いていた。

けれど、あの手の甲を思い出した。

私は、新しい口座を作った。

そこに、届いた分を全部入れている。

彼が出てきたら、手紙をまとめたファイルと一緒に、その通帳を渡すつもりだ。

これを背負って、ちゃんと歩いてくれ、と言う。

言えるかどうかは、わからない。

けれど、そのつもりでいる。

一度だけ、妹さんから短い手紙が来た。

金額のことでも、詫びのことでもなかった。

兄が、刑務所の中で木工の作業をしているという話だった。

「兄は、木のことは何も知りません」

そう書いてあった。

「けれど、面会のとき、木の名前を三つ覚えた、と言いました」

私は、その紙を長いあいだ持っていた。

杉、桧、栓。

その三つだったそうだ。

うちが使うのは、杉だ。

莉子は、五つになった。

朝、莉子は工房の入口で必ず一度立ち止まる。

中に入る前に、鼻をすんと鳴らす。

樺の匂いがしているかを、確かめているらしい。

「きょうは、におうね」

そう言って入ってくる日は、機嫌がいい。

千遥も、同じことをしていた。

似ているのは顔ではなく、そういうところだ。

工房に下りてきて、樺の切れ端で遊んでいる。

この前、錐の穴を指でなぞって、こう言った。

「おかあさんのぬったの、どれ」

私は、棚の一番上の箱を下ろした。

縫いかけの、八寸の小判型だ。

あの一針は、まだ引いていない。

たぶん、これからも引かない。

莉子は、その一針を見て、

少しのあいだ、指を穴に近づけて、触らずに止めた。

「まだ、おわってないね」

と言った。

まだ終わっていない。

そう言われて、少し、息がしやすくなった。

終わっていないものが一つあると、人は次の朝まで持ちこたえられる。

千遥が十二年かけて私に教えていたのは、たぶん、そういうことだ。

言葉では、一度も言われなかった。

今朝も、私は縫いかけを一つ残した。

樺を通して、穴まで開けて、そこで手を止めた。

明日の朝、階段を下りる理由が、それで一つできる。

千遥が十二年やってきたことを、私は今、真似している。

莉子が下りてくる音がするまで、樺を煮て待っている。

だから、時々泣くことだけは、許してほしい。

誰にも見えないようにするから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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