愛しい娘

父が泣いているのを見たのは、後にも先にも、あの一度きりだった。

私がまだ、幼稚園にも上がる前のことだったと思う。

夜中にふと目を覚ますと、枕元に父がいて、私の顔をじっと覗き込んでいた。

そして、声を殺して、肩を震わせて泣いていた。

暗い部屋の中で、父の頬だけが、濡れて光っていた。

大人が泣くところを初めて見た私は、夢と現実の境が分からないまま、また眠ってしまった。

翌朝にはもう、それが本当にあったことなのか、自分でも曖昧になっていた。

私の父は、北の海へ出る、遠洋漁業の漁師だった。

一度船に乗れば、半年は帰らない。

潮で灼けた、岩みたいにごつごつとした手をした、無口な人だった。

私にとって父は、たまにしか家にいない、写真立ての中の人のような存在だった。

だから、その人が枕元で泣いていたという記憶は、ずっと夢か何かだと思っていた。

現実の父は、めったに笑わず、めったに怒らず、ただ静かに酒を飲む人だったから。

私が育ったのは、北国の小さな港町だ。

冬になると、海から吹きつける風が、家々の戸を一晩じゅう鳴らした。

路地には魚を干す匂いが満ち、軒先には大きな浮き玉が吊るされていた。

父の船が港を出る朝は、母が岸壁まで見送りに行った。

私はいつも、母の背中におぶわれて、遠ざかる船を見ていた。

半年後、その船が帰ってくるまで、家の中はどこか、しんと静かだった。

一度だけ、父の船が時化に遭い、消息を絶ったことがあった。

私が小学校に上がる前の、冬のことだ。

母は港の事務所に毎日通い、無線の知らせを待ち続けた。

眠れない夜、母が仏壇の前で、声を殺して手を合わせているのを、私は見ていた。

数日後、父の船は、満身創痍で港へ帰ってきた。

岸壁で母は、人目もはばからず、父にしがみついて泣いた。

父は、大丈夫だ、とだけ言って、母の背を、ぎこちなく叩いていた。

海は、父からいつ何を奪ってもおかしくない場所なのだと、幼いながらに感じた夜だった。

父が船を下りて帰ってくる日は、母が朝から落ち着かなかった。

畳を拭き、父の好物の煮付けを仕込み、何度も時計を見上げた。

玄関で潮の匂いをさせた父が、ぎこちなく私を抱き上げる。

けれどその頃には私はもう、半年前の父の顔を、半分忘れかけていた。

知らない大きな人に抱かれた気がして、私は母の後ろに隠れてしまう。

そんなとき父は、何も言わず、ただ寂しそうに、私を見ているだけだった。

幼い私には、その寂しさの意味が分からなかった。

父が帰ってくれば、母は嬉しそうにするのに、私はうまく甘えられなかった。

半年という時間は、子どもにとって、父の顔を忘れるには十分すぎる長さだった。

それでも数日も経てば、私は父にすっかり懐いて、膝の上から離れなくなる。

そして父はまた、私が慣れた頃に、次の漁へと旅立っていくのだった。

別れと再会を、私たちは年に二度、繰り返していた。

あの夜のことは、その後も何度かあった。

目を開けると、暗がりで父が、私を見ている。

訊いても父は、ただ「寝ぼけてたんだろう」と言うだけだった。

母に話しても、笑って取り合ってくれなかった。

私もいつしか、それは小さい頃に見た夢の断片なのだと、思い込むようになっていた。

父が枕元で泣くなんて、あの強い人に限って、あるはずがないと。

父が陸の仕事に変わったのは、私が中学に上がる頃だ。

長年の無理がたたって腰を痛め、もう長い船には乗れなくなった。

港の倉庫で働くようになった父は、毎晩、家にいるようになった。

けれど、ずっと一緒に暮らしてこなかった私たちは、距離の取り方が分からなかった。

思春期の私は、急に家にいるようになった父を、どこか疎ましく思った。

父も、娘とどう話せばいいのか分からないまま、ただ黙って晩酌をしていた。

ある正月、酔った父が、ぽつりと、お前の小さい頃の話をしようとした。

けれど私は、もう何度も聞いたと、邪険に席を立ってしまった。

父は、そうか、と言ったきり、それ以上は何も語らなかった。

あのとき父が話したかったのは、きっと、あの夜の涙のことだったのだ。

聞いてあげればよかったと、ずっとあとになって、私は悔やんだ。

高校を出て、私は都会へ働きに出た。

盆と正月にだけ帰る、よくある娘になった。

父とは、相変わらず、当たり障りのない言葉しか交わさなかった。

元気か、と訊かれ、まあね、と答える。

それだけの関係を、私は当たり前のものとして、受け入れていた。

父娘とは、こういうものなのだろうと、勝手に思い込んでいた。

やがて私は結婚し、しばらくして、子を授かった。

つわりが落ち着いた頃、産み月に備えて、私は実家へ里帰りをした。

久しぶりの港町は、昔より家も減って、ずいぶん寂しくなっていた。

それでも海の匂いだけは、子どもの頃と少しも変わらなかった。

年老いた父は、相変わらず無口で、私の大きなお腹を、遠慮がちにちらちらと見ていた。

何か言いたげで、けれど何も言わない父の様子は、昔のままだった。

出産を翌日に控えた夜、私はなかなか寝つけずにいた。

明日には母になるのだという不安と高揚で、胸がいっぱいだった。

喉が渇いて起き上がると、台所のほうに、ぼんやりと灯りが漏れていた。

そっと襖を開けると、父が独り、湯呑みを手に座っていた。

眠れないの、と訊くと、父は、お前こそ、と小さく笑った。

私は向かいに腰を下ろし、しばらく二人で、黙って茶を飲んだ。

ふいに父が、ぽつりと、昔の話を始めた。

船に乗っていた頃、半年ぶりに港へ帰る前の晩が、いちばん怖かったのだという。

海の上で、嵐より時化より、その晩がいちばん眠れなかったと。

私は、思いがけない言葉に、湯呑みを置いて父を見た。

強かった父が、怖いという言葉を口にするのを、私は初めて聞いた。

父は、湯呑みの底を見つめたまま、ゆっくりと続けた。

——娘がもう、自分の顔を忘れているんじゃないか。

——知らない男が帰ってきたと、泣かれるんじゃないか。

そう思うと、嬉しいはずの帰港が、たまらなく恐ろしかったのだと、父は言った。

現に、帰るたびにお前は、私の後ろに隠れて、なかなか寄ってこなかった。

半年も顔を見せない父親なんて、子どもにとっては他人と同じだ。

それが、何より、こたえたのだと。

だから帰った晩は、お前が眠ったあと、何度も寝顔を覗きに行った。

この顔だけは忘れまいと、暗がりで、ずっと見ていた。

父はそこで、湯呑みに目を落として、少し照れたように笑った。

ある晩、覗いていたら、お前がふと目を覚ましてな。

ぐずって泣かれるかと思って、私は身を硬くした。

ところがお前は、寝ぼけ眼で私を見上げて、にこっと笑ったんだ。

半年も留守にして、ろくに遊んでもやれない、こんな父親なのに。

それでもこの子は、私の顔を見て、こんなに嬉しそうに笑ってくれる。

そう思ったら、不意に愛おしさが込み上げて、涙が止まらなくなった。

岩みたいなこの手で、何度も顔を拭ったよ、と父は言った。

それが恥ずかしくて、お前に訊かれても、どうしても本当のことが言えなかった。

——あれは、夢じゃなかったんだよ。

父は四十年越しに、そう白状した。

私は、言葉が出なかった。

夢だと思い込んでいたあの記憶が、たった今、温かい現実に変わった。

暗い港町の夜更けに、岩みたいな手をした父が、声を殺して泣いていた。

忘れられるのが怖くて、ただ娘の寝顔を、覚えようとしていた。

そのことを、私は四十年も知らずに生きてきたのだ。

強いと思っていた父は、ほんとうは、ずっと心細かったのだ。

父は立ち上がり、簞笥の引き出しから、色あせた一枚の写真を持ってきた。

赤ん坊の私を抱いた、若い頃の父が写っていた。

写真の父は、こわばった顔で、けれど確かに、嬉しそうにしていた。

「これだけは、船にも持って行っとった」と、父は言った。

海の上で何度も眺めたのだろう、写真の角は、すっかり丸くすり減っていた。

半年ぶんの寂しさを、父はこの一枚で、しのいでいたのだ。

私は、その丸くなった角を、指でそっとなぞった。

気づけば、私の頬にも、涙が伝っていた。

お父さん、と呼ぶと、父は困ったように、もう寝ろ、明日は大事な日だろう、と立ち上がった。

背を向けたその肩が、あの夜と同じように、少しだけ震えて見えた。

私は、その背中に向かって、ありがとう、とだけ言った。

父は振り返らず、ただ小さく、ああ、と答えた。

それで、十分だった。

陣痛の合間に、私はふと、父のあの言葉を思い出していた。

忘れられるのが、何より怖かった、と。

生まれてくるこの子と、私は一日でも長く、一緒にいたい。

父が半年ごとに失っていた時間の重みが、母になる今、痛いほど分かった。

会えることは、当たり前なんかじゃないのだ。

翌朝、私は娘を産んだ。

小さな、潮の匂いもしない、温かい命だった。

その晩、私は産院のベッドで、眠る我が子の顔を、いつまでも覗き込んでいた。

この子の、今日のこの顔を、忘れたくないと思った。

まつ毛の長さも、握った拳の形も、ぜんぶ覚えていたいと、心から思った。

気づけば私は、あの夜の父と、同じことをしていた。

親が子の寝顔を覗くのは、忘れないためなのだと、私は娘から教わった。

半年ぶりに帰る船の上で、父が何を抱えていたのか、今ならわかる。

会えない時間が長いほど、人は、忘れられることを恐れるのだ。

岩みたいなあの手は、私の顔を覚えるための、父なりの祈りだったのだ。

私は眠る娘の頬に、そっと指先で触れた。

お父さん、私はちゃんと、あなたの顔を覚えているよ。

母に後で聞くと、父はあの嵐の航海から帰った晩も、私の寝顔を覗いていたという。

死を覚悟した海の上で、父が思い浮かべていたのは、娘の顔だったのかもしれない。

だから帰り着いた夜、何より先に、その顔を確かめずにいられなかったのだ。

忘れたくない、忘れられたくない。

その一心だけで、父は荒れる海へ、何度も出ていったのだろう。

退院して実家に戻ると、父は孫を、こわごわと抱き上げた。

あの、伸ばしかけては引っ込めていた手で、今度はしっかりと、抱いてくれた。

そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、何かを語りかけていた。

きっと、忘れられたくない、と、また思っているのだろう。

私は気づかないふりをして、台所で、静かに涙を拭いた。

娘が生まれてから、私は毎年、父の写真の話を思い出すようになった。

角の丸くなった、あの一枚のことを。

親というのは、子の顔を、こんなにも忘れたくないものなのか。

離れている時間が、こんなにも、心細いものなのか。

父が背負っていた寂しさの大きさを、私は娘を抱くたびに、少しずつ知っていく。

そして、知るたびに、もっと早く気づいてあげたかったと、胸が疼く。

父はもう、多くを語らないままでいい。

あの夜更けに流した涙が、父の言葉のすべてだったのだから。

強くてかっこいい父だと、子どもの私は信じていた。

ほんとうの父は、それよりずっと、優しくて、心細い人だった。

港町の冬は、今も変わらず、海から風が吹きつけるという。

あの家の戸も、きっとまだ、夜ごと鳴っているのだろう。

その風の音の下で、父は何度、私の寝顔を覗きにきたのか。

数えきれないその夜のひとつひとつが、私を育てたのだと、今は思う。

あの夜の涙が、父の言葉のすべてだったと、今の私には分かるから。

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