父が泣いているのを見たのは、後にも先にも、あの一度きりだった。
私がまだ、幼稚園にも上がる前のことだったと思う。
夜中にふと目を覚ますと、枕元に父がいて、私の顔をじっと覗き込んでいた。
そして、声を殺して、肩を震わせて泣いていた。
暗い部屋の中で、父の頬だけが、濡れて光っていた。
大人が泣くところを初めて見た私は、夢と現実の境が分からないまま、また眠ってしまった。
翌朝にはもう、それが本当にあったことなのか、自分でも曖昧になっていた。
※
私の父は、北の海へ出る、遠洋漁業の漁師だった。
一度船に乗れば、半年は帰らない。
潮で灼けた、岩みたいにごつごつとした手をした、無口な人だった。
私にとって父は、たまにしか家にいない、写真立ての中の人のような存在だった。
だから、その人が枕元で泣いていたという記憶は、ずっと夢か何かだと思っていた。
現実の父は、めったに笑わず、めったに怒らず、ただ静かに酒を飲む人だったから。
※
私が育ったのは、北国の小さな港町だ。
冬になると、海から吹きつける風が、家々の戸を一晩じゅう鳴らした。
路地には魚を干す匂いが満ち、軒先には大きな浮き玉が吊るされていた。
父の船が港を出る朝は、母が岸壁まで見送りに行った。
私はいつも、母の背中におぶわれて、遠ざかる船を見ていた。
半年後、その船が帰ってくるまで、家の中はどこか、しんと静かだった。
※
※
一度だけ、父の船が時化に遭い、消息を絶ったことがあった。
私が小学校に上がる前の、冬のことだ。
母は港の事務所に毎日通い、無線の知らせを待ち続けた。
眠れない夜、母が仏壇の前で、声を殺して手を合わせているのを、私は見ていた。
数日後、父の船は、満身創痍で港へ帰ってきた。
岸壁で母は、人目もはばからず、父にしがみついて泣いた。
父は、大丈夫だ、とだけ言って、母の背を、ぎこちなく叩いていた。
海は、父からいつ何を奪ってもおかしくない場所なのだと、幼いながらに感じた夜だった。
父が船を下りて帰ってくる日は、母が朝から落ち着かなかった。
畳を拭き、父の好物の煮付けを仕込み、何度も時計を見上げた。
玄関で潮の匂いをさせた父が、ぎこちなく私を抱き上げる。
けれどその頃には私はもう、半年前の父の顔を、半分忘れかけていた。
知らない大きな人に抱かれた気がして、私は母の後ろに隠れてしまう。
そんなとき父は、何も言わず、ただ寂しそうに、私を見ているだけだった。
※
幼い私には、その寂しさの意味が分からなかった。
父が帰ってくれば、母は嬉しそうにするのに、私はうまく甘えられなかった。
半年という時間は、子どもにとって、父の顔を忘れるには十分すぎる長さだった。
それでも数日も経てば、私は父にすっかり懐いて、膝の上から離れなくなる。
そして父はまた、私が慣れた頃に、次の漁へと旅立っていくのだった。
別れと再会を、私たちは年に二度、繰り返していた。
※
あの夜のことは、その後も何度かあった。
目を開けると、暗がりで父が、私を見ている。
訊いても父は、ただ「寝ぼけてたんだろう」と言うだけだった。
母に話しても、笑って取り合ってくれなかった。
私もいつしか、それは小さい頃に見た夢の断片なのだと、思い込むようになっていた。
父が枕元で泣くなんて、あの強い人に限って、あるはずがないと。
※
父が陸の仕事に変わったのは、私が中学に上がる頃だ。
長年の無理がたたって腰を痛め、もう長い船には乗れなくなった。
港の倉庫で働くようになった父は、毎晩、家にいるようになった。
けれど、ずっと一緒に暮らしてこなかった私たちは、距離の取り方が分からなかった。
思春期の私は、急に家にいるようになった父を、どこか疎ましく思った。
父も、娘とどう話せばいいのか分からないまま、ただ黙って晩酌をしていた。
※
ある正月、酔った父が、ぽつりと、お前の小さい頃の話をしようとした。
けれど私は、もう何度も聞いたと、邪険に席を立ってしまった。
父は、そうか、と言ったきり、それ以上は何も語らなかった。
あのとき父が話したかったのは、きっと、あの夜の涙のことだったのだ。
聞いてあげればよかったと、ずっとあとになって、私は悔やんだ。
高校を出て、私は都会へ働きに出た。
盆と正月にだけ帰る、よくある娘になった。
父とは、相変わらず、当たり障りのない言葉しか交わさなかった。
元気か、と訊かれ、まあね、と答える。
それだけの関係を、私は当たり前のものとして、受け入れていた。
父娘とは、こういうものなのだろうと、勝手に思い込んでいた。
※
やがて私は結婚し、しばらくして、子を授かった。
つわりが落ち着いた頃、産み月に備えて、私は実家へ里帰りをした。
久しぶりの港町は、昔より家も減って、ずいぶん寂しくなっていた。
それでも海の匂いだけは、子どもの頃と少しも変わらなかった。
年老いた父は、相変わらず無口で、私の大きなお腹を、遠慮がちにちらちらと見ていた。
何か言いたげで、けれど何も言わない父の様子は、昔のままだった。
※
出産を翌日に控えた夜、私はなかなか寝つけずにいた。
明日には母になるのだという不安と高揚で、胸がいっぱいだった。
喉が渇いて起き上がると、台所のほうに、ぼんやりと灯りが漏れていた。
そっと襖を開けると、父が独り、湯呑みを手に座っていた。
眠れないの、と訊くと、父は、お前こそ、と小さく笑った。
私は向かいに腰を下ろし、しばらく二人で、黙って茶を飲んだ。
※
ふいに父が、ぽつりと、昔の話を始めた。
船に乗っていた頃、半年ぶりに港へ帰る前の晩が、いちばん怖かったのだという。
海の上で、嵐より時化より、その晩がいちばん眠れなかったと。
私は、思いがけない言葉に、湯呑みを置いて父を見た。
強かった父が、怖いという言葉を口にするのを、私は初めて聞いた。
父は、湯呑みの底を見つめたまま、ゆっくりと続けた。
※
——娘がもう、自分の顔を忘れているんじゃないか。
——知らない男が帰ってきたと、泣かれるんじゃないか。
そう思うと、嬉しいはずの帰港が、たまらなく恐ろしかったのだと、父は言った。
現に、帰るたびにお前は、私の後ろに隠れて、なかなか寄ってこなかった。
半年も顔を見せない父親なんて、子どもにとっては他人と同じだ。
それが、何より、こたえたのだと。
※
だから帰った晩は、お前が眠ったあと、何度も寝顔を覗きに行った。
この顔だけは忘れまいと、暗がりで、ずっと見ていた。
父はそこで、湯呑みに目を落として、少し照れたように笑った。
ある晩、覗いていたら、お前がふと目を覚ましてな。
ぐずって泣かれるかと思って、私は身を硬くした。
ところがお前は、寝ぼけ眼で私を見上げて、にこっと笑ったんだ。
※
半年も留守にして、ろくに遊んでもやれない、こんな父親なのに。
それでもこの子は、私の顔を見て、こんなに嬉しそうに笑ってくれる。
そう思ったら、不意に愛おしさが込み上げて、涙が止まらなくなった。
岩みたいなこの手で、何度も顔を拭ったよ、と父は言った。
それが恥ずかしくて、お前に訊かれても、どうしても本当のことが言えなかった。
——あれは、夢じゃなかったんだよ。
父は四十年越しに、そう白状した。
※
私は、言葉が出なかった。
夢だと思い込んでいたあの記憶が、たった今、温かい現実に変わった。
暗い港町の夜更けに、岩みたいな手をした父が、声を殺して泣いていた。
忘れられるのが怖くて、ただ娘の寝顔を、覚えようとしていた。
そのことを、私は四十年も知らずに生きてきたのだ。
強いと思っていた父は、ほんとうは、ずっと心細かったのだ。
※
父は立ち上がり、簞笥の引き出しから、色あせた一枚の写真を持ってきた。
赤ん坊の私を抱いた、若い頃の父が写っていた。
写真の父は、こわばった顔で、けれど確かに、嬉しそうにしていた。
「これだけは、船にも持って行っとった」と、父は言った。
海の上で何度も眺めたのだろう、写真の角は、すっかり丸くすり減っていた。
半年ぶんの寂しさを、父はこの一枚で、しのいでいたのだ。
私は、その丸くなった角を、指でそっとなぞった。
気づけば、私の頬にも、涙が伝っていた。
お父さん、と呼ぶと、父は困ったように、もう寝ろ、明日は大事な日だろう、と立ち上がった。
背を向けたその肩が、あの夜と同じように、少しだけ震えて見えた。
私は、その背中に向かって、ありがとう、とだけ言った。
父は振り返らず、ただ小さく、ああ、と答えた。
それで、十分だった。
※
陣痛の合間に、私はふと、父のあの言葉を思い出していた。
忘れられるのが、何より怖かった、と。
生まれてくるこの子と、私は一日でも長く、一緒にいたい。
父が半年ごとに失っていた時間の重みが、母になる今、痛いほど分かった。
会えることは、当たり前なんかじゃないのだ。
翌朝、私は娘を産んだ。
小さな、潮の匂いもしない、温かい命だった。
その晩、私は産院のベッドで、眠る我が子の顔を、いつまでも覗き込んでいた。
この子の、今日のこの顔を、忘れたくないと思った。
まつ毛の長さも、握った拳の形も、ぜんぶ覚えていたいと、心から思った。
気づけば私は、あの夜の父と、同じことをしていた。
※
親が子の寝顔を覗くのは、忘れないためなのだと、私は娘から教わった。
半年ぶりに帰る船の上で、父が何を抱えていたのか、今ならわかる。
会えない時間が長いほど、人は、忘れられることを恐れるのだ。
岩みたいなあの手は、私の顔を覚えるための、父なりの祈りだったのだ。
私は眠る娘の頬に、そっと指先で触れた。
お父さん、私はちゃんと、あなたの顔を覚えているよ。
※
母に後で聞くと、父はあの嵐の航海から帰った晩も、私の寝顔を覗いていたという。
死を覚悟した海の上で、父が思い浮かべていたのは、娘の顔だったのかもしれない。
だから帰り着いた夜、何より先に、その顔を確かめずにいられなかったのだ。
忘れたくない、忘れられたくない。
その一心だけで、父は荒れる海へ、何度も出ていったのだろう。
退院して実家に戻ると、父は孫を、こわごわと抱き上げた。
あの、伸ばしかけては引っ込めていた手で、今度はしっかりと、抱いてくれた。
そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、何かを語りかけていた。
きっと、忘れられたくない、と、また思っているのだろう。
私は気づかないふりをして、台所で、静かに涙を拭いた。
※
娘が生まれてから、私は毎年、父の写真の話を思い出すようになった。
角の丸くなった、あの一枚のことを。
親というのは、子の顔を、こんなにも忘れたくないものなのか。
離れている時間が、こんなにも、心細いものなのか。
父が背負っていた寂しさの大きさを、私は娘を抱くたびに、少しずつ知っていく。
そして、知るたびに、もっと早く気づいてあげたかったと、胸が疼く。
父はもう、多くを語らないままでいい。
あの夜更けに流した涙が、父の言葉のすべてだったのだから。
強くてかっこいい父だと、子どもの私は信じていた。
ほんとうの父は、それよりずっと、優しくて、心細い人だった。
港町の冬は、今も変わらず、海から風が吹きつけるという。
あの家の戸も、きっとまだ、夜ごと鳴っているのだろう。
その風の音の下で、父は何度、私の寝顔を覗きにきたのか。
数えきれないその夜のひとつひとつが、私を育てたのだと、今は思う。
あの夜の涙が、父の言葉のすべてだったと、今の私には分かるから。