父の柄杓に残る十八の刻み

父が泣いているのを見た夜

父が泣いているのを見たのは、後にも先にも、あの一度きりでした。

私がまだ、幼稚園にも上がる前のことだったと思います。

夜中にふと目を覚ますと、枕元に父がいて、私の顔をじっと覗き込んでいました。

そして、声を殺して、肩を震わせていました。

暗い部屋の中で、父の頬だけが、濡れて光っていました。

大人が泣くところを初めて見た私は、夢と現実の境が分からないまま、また眠ってしまいました。

翌朝にはもう、それが本当にあったことなのか、自分でも曖昧になっていました。

十一月になると、父は家を出ていきました

私の父は、南部杜氏でした。

岩手の、石鳥谷という町の生まれです。

この町では、田を終えた男たちが、冬になると酒蔵へ働きに出ました。

十一月の初めに家を出て、帰ってくるのは、桜の咲く四月です。

父の行き先は、灘の蔵でした。

一度出れば、半年は帰りません。

手の甲がひび割れて、指の腹だけがふやけたように白い、無口な人でした。

私にとって父は、たまにしか家にいない、仏壇の脇の写真立てのような存在でした。

ですから、その人が枕元で泣いていたという記憶は、ずっと夢か何かだと思っていたのです。

父が発つ朝は、家じゅうが早くから起きていました。

母が黙って握り飯を包み、祖母が玄関で塩を撒きます。

父は柳行李をひとつだけ提げて、まだ暗い道を、駅のほうへ歩いていきました。

私はいつも、母の背中におぶわれて、その背中が細くなっていくのを見ていました。

半年後、その人が帰ってくるまで、家の中はどこか、しんと静かでした。

父が帰る日には、決まって同じ土産がありました。

途中の駅で買う、白い薄皮の饅頭です。

母はそのたびに、「また、これ」と言って笑いました。

父は、「これしか売っとらん」と、毎年おなじ返事をします。

本当は、駅にほかの土産もたくさんありました。

母が一度だけ、この饅頭を美味しいと言ったことがあったのだそうです。

父はそれを、二十年、覚えていました。

蔵では、身内の名を呼びません

蔵に入った男たちには、いくつもの決まりがありました。

爪は短く切ること。

匂いの強いものを食べないこと。

そして、蔵の中では、身内の名を呼ばないこと。

呼べば、心が家に残ってしまうからだと、父は一度だけ話してくれました。

身内の写真も、蔵へは持ち込まない決まりでした。

父は、私の写真の一枚も、持って出ることができなかったのです。

その代わりに、父が必ず持って出るものが、ひとつだけありました。

自分の柄杓です。

檜の柄に、竹の輪をはめただけの、そっけない道具でした。

蔵の柄杓は蔵のものですが、父はなぜか、自分のものを持って歩いていました。

父の柄杓の柄には、細かい刻みが、いくつも入っていました。

私はそれを、蔵にいた日数を数えているのだろうと、勝手に思っていました。

半年で百八十くらいになるはずなのに、刻みは、十いくつしかないのに。

半年経てば、子どもは父の顔を忘れます

父が帰ってくる日は、母が朝から落ち着きませんでした。

畳を拭き、父の好物の煮しめを仕込み、何度も柱時計を見上げます。

玄関で、麹の匂いを連れた父が、ぎこちなく私を抱き上げる。

けれどその頃には私はもう、半年前の父の顔を、半分忘れかけていました。

知らない大きな人に抱かれた気がして、私は母の後ろに隠れてしまいます。

そんなとき父は、何も言わず、ただ寂しそうに、私を見ているだけでした。

幼い私には、その寂しさの意味が分かりませんでした。

父が帰ってくれば、母は嬉しそうにするのに、私はうまく甘えられないのです。

半年という時間は、子どもにとって、父の顔を忘れるには十分すぎる長さでした。

それでも数日も経てば、私は父にすっかり懐いて、膝の上から離れなくなります。

そして父はまた、私が慣れた頃に、次の冬へ発っていくのでした。

別れと再会を、私たちは年に二度、繰り返していました。

あの夜のことは、その後も何度かありました。

目を開けると、暗がりで父が、私を見ている。

訊いても父は、「寝ぼけてたんだべ」と言うだけでした。

母に話しても、笑って取り合ってくれません。

私もいつしか、それは小さい頃に見た夢の断片なのだと、思い込むようになりました。

父が枕元で泣くなんて、あの人に限って、あるはずがないと。

もう測らんでいい、と言った春

父が家を出る前の晩、母が私を柱の前に立たせるのが、毎年の習いでした。

背中を柱にぴたりとつけて、頭のてっぺんに物差しを載せます。

父はそのあいだ、少し離れたところで、湯呑みを持ったまま見ていました。

柱に鉛筆で線を引くのは、いつも母の役でした。

父は測りもせず、線も引かず、ただ黙って見ているだけです。

子どもの私には、それがつまらないことに思えました。

小学五年の秋、私はその習いを、恥ずかしいと言い出しました。

友達の家ではもう誰も背丈など測っていない、と、口を尖らせたのです。

母は困った顔をして、父を見ました。

父は少し黙ってから、「んだな。もう測らんでいい」とだけ言いました。

その年から、柱の線は増えなくなりました。

私は、勝ったような気がして、少しだけ得意でした。

家にいるようになった父

父が蔵へ行かなくなったのは、私が中学に上がる頃です。

長年の冷えがたたって腰を痛め、もう寒仕込みには耐えられなくなりました。

近くの精米所で働くようになった父は、毎晩、家にいるようになりました。

けれど、ずっと一緒に暮らしてこなかった私たちは、距離の取り方が分かりませんでした。

思春期の私は、急に家にいるようになった父を、どこか疎ましく思いました。

父も、娘とどう話せばいいのか分からないまま、ただ黙って晩酌をしていました。

ある正月、酔った父が、ぽつりと、お前の小さい頃の話をしようとしました。

けれど私は、もう何度も聞いた、と、邪険に席を立ってしまったのです。

父は、そうか、と言ったきり、それ以上は何も語りませんでした。

あのとき父が話したかったのは、きっと、あの夜の涙のことだったのだと思います。

聞いてあげればよかったと、ずっとあとになって、私は悔やみました。

高校を出て、私は仙台へ働きに出ました。

盆と正月にだけ帰る、よくある娘になりました。

父とは、相変わらず、当たり障りのない言葉しか交わしません。

元気か、と訊かれ、まあね、と答える。

それだけの関係を、私は当たり前のものとして受け入れていました。

親子とは、こういうものなのだろうと、勝手に思い込んでいたのです。

親と交わす言葉が少なかったことを、後から悔やむ人は多いのだと思います。父が捨てなかった種袋という話を読んだとき、私は自分の正月の場面を思い出して、しばらく動けませんでした。

私が家を出る朝、父は玄関に立って、柳行李の話をしました。

荷物は少ないほうがいい、余ったところに、余計なものが入るからだと。

意味が分からず、私は生返事をして家を出ました。

今なら分かります。

父の柳行李には、いつも隙間がありました。

写真も、手紙も、入れられなかったからです。

その隙間を埋めていたのが、柄杓一本だったのでした。

仙台での暮らしは、電話が月に一度あるかどうかでした。

受話器を取るのは母で、父はいつも、後ろのほうで咳払いをしています。

「代わる」とも言わず、「元気か」とも訊かず、ただ咳払いだけ。

私はそれを、無関心だと受け取っていました。

のちに母から、父はその時間になると必ず茶の間に座っていたと聞きました。

話すためではなく、声を聞くために座っていたのです。

出産の前の晩の、台所

やがて私は結婚し、しばらくして、子を授かりました。

つわりが落ち着いた頃、産み月に備えて、私は実家へ里帰りをしました。

久しぶりの町は、蔵に出る人もほとんどいなくなって、ずいぶん静かになっていました。

それでも、冬の入り口の、あの冷たく澄んだ匂いだけは、少しも変わりません。

年老いた父は相変わらず無口で、私の大きなお腹を、遠慮がちにちらちらと見ていました。

何か言いたげで、けれど何も言わない父の様子は、昔のままでした。

出産を翌日に控えた夜、私はなかなか寝つけずにいました。

明日には母になるのだという不安と高揚で、胸がいっぱいだったのです。

喉が渇いて起き上がると、台所のほうに、ぼんやりと灯りが漏れていました。

そっと襖を開けると、父が独り、湯呑みを手に座っていました。

眠れないの、と訊くと、父は、お前こそ、と小さく笑いました。

私は向かいに腰を下ろし、しばらく二人で、黙って茶を飲みました。

ふいに父が、ぽつりと、昔の話を始めました。

蔵にいた頃、半年ぶりに家へ帰る前の晩が、いちばん怖かったのだといいます。

仕込みの追い込みより、寝ずの番より、その晩がいちばん眠れなかったと。

私は、思いがけない言葉に、湯呑みを置いて父を見ました。

強かった父が、怖いという言葉を口にするのを、私は初めて聞いたのです。

父は、湯呑みの底を見つめたまま、ゆっくりと続けました。

娘がもう、自分の顔を忘れているのではないか。

知らない男が帰ってきたと、泣かれるのではないか。

そう思うと、嬉しいはずの帰りが、たまらなく恐ろしかったのだと、父は言いました。

現に、帰るたびにお前は、母親の後ろに隠れて、なかなか寄ってこなかった。

半年も顔を見せない父親なんて、子どもにとっては他人と同じだ。

それが、何より、こたえたのだと。

「んだから、帰った晩は、お前が寝てから、何べんも顔ば見に行った」

この顔だけは忘れまいと、暗がりで、ずっと見ていたのだそうです。

父はそこで、湯呑みに目を落として、少し照れたように笑いました。

ある晩、覗いていたら、お前がふと目を覚ましてな。

ぐずって泣かれるかと思って、身を硬くした。

ところがお前は、寝ぼけ眼で見上げて、にこっと笑ったんだ。

半年も留守にして、ろくに遊んでもやれない、こんな父親なのに。

それでもこの子は、俺の顔を見て、こんなに嬉しそうに笑ってくれる。

そう思ったら、不意に愛おしさが込み上げて、涙が止まらなくなった。

ひび割れたこの手で、何度も顔を拭ったよ、と父は言いました。

それが恥ずかしくて、お前に訊かれても、どうしても本当のことが言えなかった。

あれは、夢ではなかったのだと、父は四十年越しに白状しました。

柄杓の柄の、十八の刻み

それから父は立ち上がり、簞笥の上から、古い柄杓を持ってきました。

蔵をやめてからも、捨てずに置いてあったのです。

檜の柄は飴色に焼けて、握りのあたりだけが、黒く光っていました。

刻みは、確かに十いくつしかありませんでした。

数えると、十八ありました。

「これ、なんの数なの」と訊くと、父はしばらく黙っていました。

答えを聞いたのは、父が眠ったあと、母からでした。

母は洗い物の手を止めずに、こう言いました。

「柱の線ば、写して持って行ってたのよ」

父は毎年、家を出る前の晩、柱に引かれた線から柄杓の柄へ、私の背丈を移していたのです。

刻みは、私の背丈でした。

測るのは母の役でしたが、写すのは、父の役だったのでした。

のちに、父の兄弟子だった高橋さんに会う機会がありました。

高橋さんは、蔵での父の話を、笑いながら聞かせてくれました。

「あんたのお父さん、寝言であんたの名ば呼んでな」

蔵では身内の名を呼ばない決まりなので、翌朝はみんなでからかったのだそうです。

それから高橋さんは、柄杓のことも覚えていました。

「櫂ば入れながら、あの刻みば、指でずっと撫でとったな」

握りが黒く光っていたのは、そのせいでした。

蔵の男たちは、唄を歌いながら仕事をしたそうです。

時計を見なくても、唄を何番まで歌えば、次の手順に移れる。

唄は、道具であり、時計でもあったのです。

「あんたのお父さん、唄は下手でな」と、高橋さんは笑いました。

「んだけど、数だけは絶対に間違わん人だった」

刻みを撫でていた指のことを聞いたのは、そのすぐあとです。

数を間違わない人が、娘の背丈だけは、毎年数え直していたのでした。

いちばん深い、一本の理由

柄杓の刻みには、ひとつだけ、ほかと違うものがありました。

いちばん上の一本だけが、他より深く、少し斜めに入っているのです。

それは、私が「もう測らんでいい」と言った、あの年の刻みでした。

母は、そのときのことを、覚えていました。

父はその晩、私が寝入ってから、そっと部屋に入ったのだそうです。

そして、眠っている私の頭のところに、指を当てて、暗がりのまま柄に刻んだ。

最後の一本だけが深いのは、暗がりで刻んだからでした。

柄杓を裏返すと、握りに隠れて見えない位置に、もう一本、ずっと古い刻みがありました。

それは父の背丈で、父が十五で初めて蔵へ出た年に、祖父が刻んだものだと母は言いました。

祖父もまた、半年家を空ける人だったのです。

忘れられるのが怖い人が、この家には、二代いたのでした。

私は、その古い刻みを、指の腹でそっとなぞりました。

気づけば、頬に涙が伝っていました。

お父さん、と呼ぶと、父は困ったように、もう寝ろ、明日は大事な日だべ、と立ち上がりました。

背を向けたその肩が、あの夜と同じように、少しだけ震えて見えました。

私は、その背中に向かって、ありがとう、とだけ言いました。

父は振り返らず、ただ小さく、んだ、と答えました。

それで、十分でした。

母は、あの年のことを話しながら、少し困った顔をしました。

「お父さん、あんたに悪いことしたって、思ってたのよ」

恥ずかしいと言わせてしまった自分が悪い、と父は言ったのだそうです。

「んだから、こっそり測るのは、今年で最後にすると」

実際、翌年から刻みは増えていません。

父は約束を守る人でした。

守らなくてよかったのに、と、今の私は思います。

私が今、覗いている顔

翌朝、私は娘を産みました。

小さな、麹の匂いもしない、温かい命でした。

その晩、私は産院のベッドで、眠る我が子の顔を、いつまでも覗き込んでいました。

この子の、今日のこの顔を、忘れたくないと思ったのです。

まつ毛の長さも、握った拳の形も、ぜんぶ覚えていたい。

気づけば私は、あの夜の父と、同じことをしていました。

親が子の寝顔を覗くのは、忘れないためなのだと、私は娘から教わりました。

半年ぶりに家へ帰る夜行の中で、父が何を抱えていたのか、今なら分かります。

会えない時間が長いほど、人は、忘れられることを恐れるのです。

ひび割れたあの手は、私を覚えておくための、父なりの祈りでした。

離れて暮らす人の帰り道の話を読むと、私は今でも胸が騒ぎます。雪の峠で握られた手のような話に、あの十一月の暗い道が重なるのです。

退院して実家に戻ると、父は孫を、こわごわと抱き上げました。

あの、伸ばしかけては引っ込めていた手で、今度はしっかりと抱いてくれました。

そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、何かを語りかけていました。

きっと、忘れられたくない、とまた思っているのでしょう。

私は気づかないふりをして、台所で、静かに涙を拭きました。

あの柄杓は、今、私の台所の棚にあります。

酒を汲むことは、もうありません。

先日、娘の背丈を柱で測ったあと、私はその柄に、小さな刻みをひとつ入れました。

小刀を当てる手が、思ったより震えました。

あの晩の父の手も、きっとこうだったのだと思います。

強くてかっこいい父だと、子どもの私は信じていました。

ほんとうの父は、それよりずっと、優しくて、心細い人でした。

忘れないでほしいと言えない人が、代わりに刻みを残していたのです。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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