
ばあちゃんがくれるポチ袋の宛名が、その日から一人分になった。
筆ペンの達筆は、いつもと同じだった。
入っていた千円札も、いつもと同じだった。
ただ、袋の裏の末尾から、二文字だけが消えていた。
僕は十九歳で、大学の二年目に入ったばかりだ。
ばあちゃんの家は、車で二十分のところにある。
去年までは、月に一度顔を出せばいいほうだった。
今は父の運転で、月に二度は通っている。
千円札と筆ペンの言葉
じいちゃんの体調が悪くなってから、行くたびに小遣いをもらうようになった。
千円のときもあれば、二千円のときもあった。
金額は、じいちゃんの気分次第だった。
「お金の使い道なんて、年寄りになったらそんなにないけん」
縁側の座布団に座って、じいちゃんはそう言って笑った。
母は「いいのに」と言いながら、いつも小さく頭を下げていた。
学生の僕には、ありがた過ぎる話だった。
でも本当に楽しみだったのは、お金より袋のほうだ。
ばあちゃんは、若いころ習字を習っていた。
筆ペンで書いても、線がぶれない。
表には、僕の名前が一つ。
ポチ袋の宛名はいつも孫の僕で、差出人はいつも二人だった。
「悠斗様」の三文字が、袋の真ん中にまっすぐ立っていた。
裏には、その日にふさわしい言葉が一行。
試験のあとなら、「成績が良かったそうですね。また頑張ってね」。
コンクールの前なら、「良い結果になりますように。じいちゃんとばあちゃんも応援しています」。
そして最後は、いつも「祖父母」の三文字で結ばれていた。
ばあちゃんは、書き損じた袋を一枚も捨てない人だった。
「もったいないけん」と言って、仏壇の引き出しにしまっていた。
袋の口を閉じるのは、じいちゃんの役目だった。
ご飯粒を一つつぶして、親指でぐっと押さえる。
「糊より、こっちのほうが固いんよ」
自慢げに言うじいちゃんの指先は、いつも少しだけ米で光っていた。
受験の前の日には、特別な袋をもらった。
中には五千円札と、小さく折った紙が入っていた。
「落ちたら、じいちゃんとばあちゃんが一緒に泣いちゃる」
冗談めかして言ったけれど、じいちゃんの手は震えていた。
結果は、第一志望に届かなかった。
それでも二人は、赤飯を炊いて祝ってくれた。
もらった袋は、捨てられなかった。
中身を使ったあとも、空の袋は机の引き出しに入れた。
気がつけば、クッキーの空き缶がいっぱいになっていた。
缶を開けると、ばあちゃんの墨の匂いがかすかに残っている。
中学の部活で負けた日の袋は、缶の一番底にある。
「負けても、帰る家はここにあります。祖父母」
読み返すたび、鼻の奥が熱くなる。
試験の朝にも、失恋した夜にも、僕はその缶を開けた。
一行の言葉は、友達のどんな慰めよりも、胸の奥までまっすぐ届いた。
ポチ袋の宛名が変わった日
じいちゃんの最後の袋をもらったのは、病院のベッドの横だった。
点滴の管をつけた手で、じいちゃんは枕元の袋をつまんだ。
「ばあちゃんに、書いてもろうた」
もう口は閉じられていた。
米粒ひとつで、斜めにつぶれて貼りついていた。
指に力が入らなかったのだと思う。
「悠斗、ばあちゃんを頼むな」
その一言は、袋のどこにも書かれていなかった。
じいちゃんが亡くなったのは、梅雨に入る前の朝だった。
葬儀の日、ばあちゃんは一度も泣かなかった。
参列者の一人ひとりに、深く頭を下げていた。
礼状は全部、自分の手で書くと言い張った。
「手で書かんと、気持ちが伝わらんけん」
父が止めても、ばあちゃんは聞かなかった。
三晩かけて、百枚近くを書き上げた。
最後の一枚まで、字は少しも崩れていなかった。
葬儀が終わっても、ばあちゃんの家は静かなままだった。
昼間でも、テレビの音だけが流れている。
二人分だった味噌汁の鍋は、いつの間にか小さくなっていた。
炊飯器も、三合炊きから二合炊きに替わっていた。
「ばあちゃん、寂しいけん、あんたが泊まりに来るなら千円やろうかね」
そう言われたのは、四十九日の少し前のことだ。
「一泊で千円。二泊したら二千円よ」
ばあちゃんは笑っていた。
笑っていたけれど、目だけが笑っていなかった。
僕は次の週末から、月に二度、泊まりに行くことにした。
最初に泊まった夜、僕は真夜中に目が覚めた。
隣の部屋から、小さな鈴の音がした。
仏壇の前に、ばあちゃんが座っていた。
暗がりの中で、手を合わせたまま動かない。
声はかけられなかった。
布団に戻って、天井の木目を数えた。
朝になると、ばあちゃんはいつもどおり味噌汁を作っていた。
「よう寝れた?」
「うん、ぐっすり」
お互いに、小さな嘘をついた。
縁側で並んでスイカを食べながら、ばあちゃんはよく昔の話をした。
どの話にも、最後に必ず「あの人はね」と、じいちゃんが出てきた。
先週の日曜日の朝のことだ。
帰り際、玄関でばあちゃんが小さな袋を差し出した。
「風邪ひかんようにね」
受け取ったポチ袋は、いつもより軽く感じた。
停留所までの道で、僕は袋を裏返した。
「季節の変わり目、風邪には気を付けて」
見慣れた達筆だった。
「いやいや、ばあちゃんの方が気を付けてよ」
思わず声に出して、笑いかけた。
でも、その下の一行を読んで、笑いが止まった。
末尾には「祖母」の二文字しかなかった。
ポチ袋の宛名も、署名も、一人分になっていた。
二人で書いてきた言葉の、半分が消えたのだ。
仏壇の引き出し
父は先に、車へ戻っていた。
僕は忘れ物を取るふりをして、ばあちゃんの家に引き返した。
ばあちゃんは台所で、洗い物をしていた。
「どうしたん。忘れ物か」
「うん。ちょっと、トイレ」
下手な嘘をついて、僕は居間を通り抜けた。
仏壇の前を通ったとき、引き出しが少しだけ開いていた。
書き損じの袋をしまう、あの引き出しだ。
のぞくつもりはなかった。
けれど、一番上に置かれた袋が、目に入ってしまった。
表には、僕の名前。
裏には「季節の変わり目、風邪には気を付けて」と、同じ言葉が書かれていた。
そして末尾に、二文字だけ。
「祖父」の二文字で止まった袋が、書き損じの束の一番上にあった。
「父」の最後の払いが、紙の上を長く滑っていた。
筆ペンの先が、そこで動かなくなったのだと分かった。
ばあちゃんは、書いたのだ。
いつものように、二人の名前で。
けれど、じいちゃんの字を書き終えたところで、手が止まった。
それで新しい袋に替えて、「祖母」とだけ書き直した。
書き損じた一枚は、いつもの引き出しにしまわれていた。
捨てられるはずが、なかった。
「悠斗、車で待っとるよ」
廊下から、ばあちゃんの声がした。
「うん、いま行く」
僕は引き出しをそっと元に戻した。
手が少し、震えていた。
帰りの車の中で、僕はずっと窓の外を見ていた。
「ばあちゃん、最近よく文房具屋に行くらしいんだ」
ハンドルを握ったまま、父が言った。
「ポチ袋を、百枚入りで買ってきたそうだ。まだ書くつもりなんだよ」
「……そうなんだ」
「悠斗が来る日を、数えてるんだろう」
僕は何も答えられなかった。
あの人は、二人で一つのつもりで書いてきたのだ。
お金も、言葉も、名前も。
一人になったからといって、半分になるわけではない。
そう思おうとしても、二文字ぶんの空白は、紙の上に残っていた。
ずっと前に読んだ祖母が一年に一枚だけ漉く紙という話を、ふと思い出した。
手で作ったものは、作った人がいなくなっても、温度だけを残す。
手の跡が残る話なら、藍に染まった手にも、同じ温度があった。
米粒ひとつの返事
翌週の土曜日、僕は文房具店で白いポチ袋を買った。
筆ペンも一本、一緒に買った。
ばあちゃんのようには書けない。
何度も練習して、新聞紙の端が真っ黒になった。
次の日曜日、僕はいつものように泊まりに行った。
夕飯のあと、後ろ手に隠していた袋を差し出した。
「ばあちゃん、これ」
「何ね、急に」
「一泊千円。今日は、僕が払うほう」
ばあちゃんは眼鏡を上げて、袋の表を読んだ。
ポチ袋の宛名を書くのは、生まれて初めてだった。
「ばあちゃんへ」
裏には、下手な字で一行だけ。
「泊めてくれてありがとう。冷える日は、温かくしてね。孫」
ばあちゃんは袋を、何度も裏返した。
表を見て、裏を読んで、また表を見た。
「……孫、か」
「うん。ばあちゃんの孫です」
「知っとるよ、そんなことは」
照れ隠しのように言って、ばあちゃんは鼻をすすった。
「字、きたないねえ。じいちゃんなら、練習せえって言うたやろうね」
声が少し、震えていた。
袋の口は、僕が閉じた。
台所の炊飯器からご飯粒を一つつまんで、親指でぎゅっと押さえた。
「糊より、こっちのほうが固いんよ」
じいちゃんの口ぶりを真似すると、ばあちゃんが吹き出した。
それから肩を揺らして、長いこと笑っていた。
笑いながら、袖で目の端を拭いていた。
袋は、仏壇の引き出しには入らなかった。
ばあちゃんはそれを、割烹着のポケットにそっとしまった。
その夜、いつもより少し多めに、味噌汁をよそってくれた。