港町の古時計が刻んでいた祖母の願い

ピアノ

俺がピアノの調律師になったのは、祖母の影響だった。

港町の小さな家に一人で暮らしていた祖母は、古いアップライトピアノを大切にしていた。

幼い頃、夏休みになると必ず祖母の家に預けられた。

潮風が吹き込む畳の部屋で、祖母はいつも俺にピアノを弾いてくれた。

上手いわけじゃなかった。でも、その音が好きだった。

少しだけ狂った和音が、波の音と混ざって、祖母の家の匂いになっていた。

居間の柱時計が止まっていることに気づいたのは、小学四年の夏だった。

「ばあちゃん、この時計動かないの?」

祖母は少し笑って、「いいんだよ、あれは」とだけ言った。

不思議だったけど、子供の俺はそれ以上聞かなかった。

中学に上がる頃、俺は祖母の家に行かなくなった。

部活があった。友達と遊びたかった。正直に言えば、田舎の港町が退屈に感じ始めていた。

祖母は何も言わなかった。電話でも「忙しいなら来なくていいよ」と明るく言ってくれた。

その言葉に甘えた。毎年、甘え続けた。

高校を出て、音楽の専門学校に進んだ。ピアノ演奏ではなく、調律の道を選んだ。

祖母に報告すると、電話口で長い沈黙があった。

「……そうかい。あんたに関わる仕事だねえ」

嬉しいのか寂しいのか、よくわからない声だった。

「今度帰ったら、ばあちゃんのピアノ調律してやるよ」

「ああ、それは楽しみだ」

でも、俺はなかなか帰らなかった。

仕事を覚えるのに必死だった。休みの日は疲れて寝ていた。年に一度、正月に顔を出すのが精一杯で、ピアノを見る余裕もなかった。

祖母はいつも「忙しいのに来てくれてありがとう」と言ってくれた。

その遠慮がちな笑顔に、俺は少しだけ胸が痛んだ。でも、目を逸らした。

祖母が亡くなったのは、俺が二十七の冬だった。

肺炎だった。入院してから三日で逝ったと母から電話があった。

受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。

ピアノを調律してやると約束してから、もう六年が経っていた。

葬儀の後、遺品の整理を手伝った。

祖母の家は、あの頃のままだった。潮風に晒されて白っぽくなった壁。畳の匂い。窓際のアップライトピアノ。

そして、止まったままの柱時計。

母が段ボールに祖母の持ち物を詰めていく横で、俺はピアノの前に座った。

鍵盤に触れると、ひどく狂った音がした。何年も調律されていない音だった。

あの夏に聴いた、少しだけ狂った和音とは全然違う。もう、誰にも弾いてもらえなかったピアノの音だった。

「これ、ばあちゃんの箪笥の奥にあったんだけど」

母が差し出したのは、古い茶封筒だった。

中に入っていたのは、時計店の修理見積書。日付は十五年前。祖母の字で「修理代 28,000円」とメモされていた。

そしてもう一枚、祖母の日記のページが挟まれていた。

読んで、息が止まった。

「時計屋さんに見てもらったら、直せるそうだ。でも、やめておく。あの子が来た時に直してもらおう。あの子は音を扱う仕事に就いた。時計だって音で動くもの。きっとあの子なら、この時計の音も分かってくれる。楽しみに待っていよう。」

次のページにはこう書かれていた。

「正月にあの子が来た。忙しそうだったから、時計のことは言えなかった。来年こそ頼んでみよう。」

同じような内容が、何年分も続いていた。

「今年も言えなかった。あの子は疲れた顔をしていた。無理は言えない。」

「来年はきっと。」

「来年こそ。」

最後の年の日記には、たった一行だけ書いてあった。

「時計が止まっていても、あの子を待つ時間は止まらない。」

日記を持つ手が震えた。

祖母は、ずっと待っていたのだ。時計を口実にして、俺に来てほしかっただけなのだ。

でも、遠慮して言えなかった。忙しい俺の邪魔をしたくなくて、毎年「来年こそ」と書き続けた。

振り返れば、あの止まった時計は、祖母が俺に残した最後の約束だった。

翌日、俺は工具を持って祖母の家に戻った。

柱時計を開けた。埃まみれの歯車。錆びた振り子。それでも、構造はしっかりしていた。

丁寧に分解し、一つずつ磨いた。錆を落とし、油を差し、歯車を噛み合わせ直した。

半日かかった。

最後にゼンマイを巻いた瞬間、カチ、と小さな音がした。

コチコチコチ……。

十五年間止まっていた時計が、また時を刻み始めた。

その音を聞いた瞬間、涙が落ちた。

「遅くなって、ごめんな」

誰もいない部屋で、俺はそう呟いた。

窓の外で、港の汽笛が鳴った。祖母が好きだった、夕方の汽笛だった。

時計の音と、汽笛と、自分の鼻をすする音だけが、がらんとした部屋に響いていた。

あれから三年が経つ。

祖母の家は取り壊されたけれど、柱時計は俺の部屋にある。

毎朝、ゼンマイを巻く。そのたびに、祖母の「来年こそ」という字を思い出す。

今ならわかる。祖母があの時計を止めたままにしていた理由。

それは、俺を待つための時計だったのだ。

ばあちゃん。ありがとう。もう、止めないよ。

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