父の万年筆

万年筆とカバン

俺は、ピアノの音を聴くたびに、あの男のことを思う。

波の匂いがする指で、俺の頭を乱暴に撫でた男。

言葉の代わりに、いつも行動だけで語ろうとした、不器用な養父のことを。

養父・磯部正雄は、漁村の生まれで漁師だった。俺が七歳のとき、養子に来たばかりで、正雄さんとの初めての会話を今でも覚えている。

「魚、好きか」

「……はい」

「そうか」

それだけだった。正雄さんは寡黙だった。褒め言葉も、励ましも、俺の前では一度も口にしたことがなかった。会話は短く、視線はどこか遠く、感情はいつも奥底に沈めてある──そういう人だった。

漁村の朝は早い。正雄さんは夜明け前に起きて、海へ出た。俺が目を覚ましたときには、もうすでに家にいなかった。日が落ちる頃に帰ってきて、飯を食って、風呂に入って、寝る。そういう繰り返しの中に、父と息子の時間なんてものはほとんどなかった。網の修繕をする正雄さんの背中を、台所の窓から眺めることが、俺にとって唯一の「父の姿」だった。

それでも正雄さんは、俺が学校で必要なものを必ず揃えてくれた。遠足の費用も、修学旅行の荷物も、全部黙って準備してあった。催促したことはなかった。いつも先に、用意されていた。

俺たちが暮らす漁村には、小さな公民館があって、月に一度だけピアノ教室が来ていた。俺が初めてピアノの音を聴いたのは、そこだ。窓の向こうから流れてくる旋律に、足が止まった。心の中の何かが、その音に引っ張られるように動いた。

正雄さんに「習いたい」と言ったとき、彼は黙って俺を見た。長い沈黙の後、何も言わずに立ち上がり、翌月、月謝を封筒に入れて先生に渡しに行った。許可とも、励ましとも言えないやり方だった。でも俺は、それを承諾だと理解した。

正雄さんが何かを届けるときは、いつもそうだった。言葉ではなく、行動で。言葉ではなく、封筒で。言葉ではなく、沈黙で。

小学校の発表会で初めて人前でピアノを弾いた日、俺は客席に正雄さんの顔を探した。見当たらなかった。夜、帰宅して「今日、弾いたよ」と言うと、「そうか」と返ってきた。それきりだった。来てくれなかったんだと、子供心に思った。悲しかったが、そういうものだと慣れていくしかなかった。

中学を卒業したとき、俺は高校進学と同時にピアノ調律の道に進みたいと告げた。

「調律師になる」

正雄さんはその言葉を聞いて、しばらく黙った後、「そうか」とだけ言った。怒りもなく、驚きもなく、喜びもなかった。ただ「そうか」だった。

俺はその一言に、長い間傷ついていた。俺の選択を、彼は認めてくれないのだと思っていた。漁師の養父が、ピアノの音を整える仕事をする息子を、どこかで恥ずかしいと思っているのかもしれないと。そう思いながら、都市の専門学校へ荷物をまとめた。

小さな調律師事務所に就職し、俺は少しずつ村から離れていった。電話は月に一度あるかないか、帰省は年に一度、それも二泊ほどで切り上げた。正雄さんとの会話は相変わらず短かった。

「飯は食えてるか」

「食えてます」

「そうか」

毎回それだけだった。俺も、それ以上を求めなくなっていた。帰りの電車の中で、何も言えなかったことを後悔する癖がついていた。でも次に帰っても、やはり何も言えなかった。

就職して三年目、初めて一般公開の調律披露会に参加したとき、俺は正雄さんに案内状を送らなかった。来るわけがないと思っていた。来てほしいとも、もう思えなかった。

俺が三十を過ぎたころ、正雄さんは体を壊した。病院からの連絡で初めて知った。駆けつけたとき、彼は病院のベッドで窓の外を見ていた。

「来なくていい」

第一声がそれだった。俺は黙って隣に座った。

「仕事は」

「今日は休んできました」

「そうか」

それでも俺は一週間、村に残った。朝、正雄さんが眠っている間に洗濯をした。廊下を歩く音に気をつけた。夕方、目が覚めると外が暗くなっていて、俺はそのそばでただ座っていた。退院してからも、正雄さんの体の衰えは隠せなかった。その年の秋に、また電話が来た。今度は、病院からではなかった。

葬儀の後、村の家を片づけていたとき、押し入れの奥に古い木箱を見つけた。

蓋を開けると、中には一冊のノートと、一本の万年筆が入っていた。

その万年筆には、見覚えがあった。俺が就職して最初のボーナスで買い、「いつも無口だから、書いて伝えてみてください」と言って贈ったものだった。正雄さんは「こんなもんいらん」と言って、その場で押し入れにしまった。だから俺は、ずっとそのまま放置されていると思っていた。

でも万年筆のインクはほとんど空で、ペン先には使い込んだ跡が残っていた。

手が、震えた。

ノートを開いた。そこに広がっていたのは、正雄さんの文字だった。崩れた字だが、一文字一文字、力を込めて書いたような跡があった。

「今日、茂樹がコンサートに出るというチラシを、ピアノの先生から教えてもらった。行ってみた。後ろの方に立っていたら、茂樹が調律している姿が見えた。丁寧な手つきだった。立派だと思った」

ページをめくる。

「梅田のホールで茂樹が調律したピアノを聴いた。俺にはよくわからなかったが、隣の女の人が目を拭いていた。そういう音を出せるんだと思った」

また、めくる。

「小学校の発表会のとき、本当は会場にいた。後ろの扉の外に立っていた。茂樹が弾き終わったとき、拍手が聞こえた。帰り道、ひとりで魚屋に寄って夕飯の鯛を買った」

俺は床に座り込んで、ノート全部を読んだ。

そこには、俺が知らなかった二十年間が記されていた。初めて俺が手がけた一般公開の調律披露会。地方紙に小さく載ったインタビュー記事。専門誌に名前が掲載されたとき、その雑誌を図書館で借りてきて、コピーを財布に入れていたこと。全部、知らなかった。

最後のページには、こう書いてあった。

「俺は口が下手で、ずっと伝えられなかった。茂樹が養子に来た日から、俺はこの子を誇りに思っている。漁師の息子が、音楽を大切にする仕事をしている。それが誇らしくて、恥ずかしくて、だから何も言えなかった。万年筆をくれた日、すぐに使い始めた。あいつには黙っていたが」

そこから先は、読めなかった。

しばらく動けなかった。窓の外で、海が光っていた。波の音だけが、静かに聞こえていた。遠くで、漁船が汽笛を鳴らした。

今も俺は、ピアノを調律している。鍵盤を叩き、共鳴板の響きを耳で聴き、細かく弦を調整する。その静かな作業の中に、あの漁村の波音が混じることがある。

正雄さんの万年筆は、今は俺の仕事鞄に入っている。毎日、少しずつ何かを書いている。仕事のこと、調律した楽器のこと、そのピアノで誰かが泣いていたこと。もしかしたら俺も、あの人から伝え方を教えてもらっていたのかもしれない。言葉は不器用でも、続けることで届くということを。書き続けることで、いつか誰かに届くということを。

ピアノは今日も、誰かの心に触れている。

その音を調えるたびに、俺はあの押し入れの奥で静かに眠っていた万年筆のことを思う。インクが切れるまで書き続けた、不器用な養父のことを。

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