土間の下駄箱のいちばん下に、潮のかからない靴が一足だけしまってあった。
黒い革の、飾りのない紐靴だ。
漁師の家に、海へ履いていけない靴が一足ある。それだけのことだと、俺は二十年思っていた。
その靴の踵が、内側だけ斜めに減っていることに気づいたのは、養父の葬儀が終わって、家を片づけていた午後だった。
俺は今でも、ピアノの音を聴くたびに、あの人のことを思う。
潮の匂いのする手で、俺の頭を乱暴に撫でた人のことを。
「魚、好きか」
養父の磯部正雄は、淡路島の南、福良の生まれで、漁師だった。
俺が七歳のとき、施設からその家へ移った。
四月の終わりで、迎えに来た軽トラックの荷台に、まだ濡れている網が積んであった。
助手席に座らされて、窓を開けたら、島の匂いが入ってきた。
潮と、油と、干した何かの匂いが混ざっていて、俺はそれをずっと吐き気の匂いだと思っていた。
坂を上がった途中で、正雄さんは何も言わずに車を停めた。
俺が窓の外で口を押さえていたからだ。
五分ほど停まって、また出した。その五分のあいだも、何も言わなかった。
初めての会話を、今でも覚えている。
「魚、好きか」
「……はい」
「そうか」
それだけだった。
正雄さんは寡黙だった。褒め言葉も、励ましも、俺の前では一度も口にしなかった。
会話は短く、視線はどこか遠く、感情はいつも奥底に沈めてある。そういう人だった。
不思議なのは、その日から一年ほど、うちの食卓に魚が出なかったことだ。
漁師の家である。売り物にならない小魚くらい、いくらでもあった。
それなのに、出てくるのは芋と豆と、たまに鶏だった。
俺は魚が食べられなかった。施設で、給食の焼き魚を何度も残していた。
「はい」と答えたのは嘘だった。
その嘘に、あの人は最初から気づいていたのだと知ったのは、ずっとあとのことだ。
一年経った春、初めて食卓に魚が出た。
焼き魚ではなく、甘く煮た小さな煮付けで、骨は全部抜いてあった。
「食えるか」
「食えます」
「そうか」
俺は半分残した。正雄さんは何も言わずに、残りを自分の茶碗に移した。
次の日も煮付けだった。少しだけ骨が残っていた。
その次はもう少し残っていた。
半年かけて、俺は焼き魚を食べられるようになった。
あの人は、俺が魚を食べられないことを、施設の職員から聞いていたのだと思う。
そして俺が「はい」と嘘をついたことも、たぶん、その場でわかっていた。
わかっていて、一年、魚を出さなかった。
※
月に一度だけ、公民館に来る音
福良の朝は早い。正雄さんは夜明け前に起きて、海へ出た。
俺が目を覚ましたときには、もう家にいない。
日が落ちる頃に帰ってきて、飯を食って、風呂に入って、寝る。
その繰り返しの中に、父と息子の時間なんてものはほとんどなかった。
網を繕う背中を、台所の窓から眺めることが、俺にとって唯一の「父の姿」だった。
それでも学校で要るものは、必ず先に揃えてあった。
遠足の費用も、修学旅行の荷物も、催促する前に用意されていた。
町の公民館には、月に一度だけピアノ教室が来た。
俺が初めてピアノの音を聴いたのは、そこだ。
窓の向こうから流れてくる旋律に、足が止まった。
心の中の何かが、その音に引っ張られるように動いた。
「習いたい」と言ったとき、正雄さんは黙って俺を見た。
長い沈黙のあと、何も言わずに立ち上がった。
翌月、月謝を封筒に入れて、先生のところへ持っていった。
許可とも、励ましとも言えないやり方だった。でも俺は、それを承諾だと理解した。
あの人が何かを届けるときは、いつもそうだった。言葉ではなく、行動で。言葉ではなく、封筒で。
後ろの扉の外
小学校の発表会で初めて人前で弾いた日、俺は客席にあの人の顔を探した。
見当たらなかった。
夜、帰宅して「今日、弾いたよ」と言うと、「そうか」と返ってきた。
それきりだった。
来てくれなかったんだと、子供心に思った。
弾いたのは、教則本の後ろのほうにある短い曲で、途中で二回つかえた。
体育館の後ろには両開きの扉があって、上のほうに細い曇り硝子が入っていた。
今になって思い出すと、あの日、硝子の向こうに濃い影があった気がする。
気がするだけだ。俺は自分の指のことしか見ていなかった。
悲しかったが、そういうものだと慣れていくしかなかった。
中学を出るとき、俺は高校に行きながらピアノ調律の道に進みたいと告げた。
「調律師になる」
正雄さんはしばらく黙ったあと、「そうか」とだけ言った。
怒りもなく、驚きもなく、喜びもなかった。ただ「そうか」だった。
俺はその一言に、長いあいだ傷ついていた。
漁師の養父が、ピアノの音を整える仕事をする息子を、どこかで恥ずかしいと思っているのかもしれない。
そう思いながら、大阪の専門学校へ荷物をまとめた。
※
年に一度の帰省と、短い電話
小さな調律師事務所に就職し、俺は少しずつ島から離れていった。
電話は月に一度あるかないか。帰省は年に一度、それも二泊で切り上げた。
会話は相変わらず短かった。
「飯は食えてるか」
「食えてます」
「そうか」
毎回それだけだった。俺も、それ以上を求めなくなっていた。
帰りのフェリーの甲板で、何も言えなかったことを後悔する癖がついた。
でも次に帰っても、やはり何も言えなかった。
就職して三年目、初めて一般公開の調律披露会に出たとき、俺は案内状を送らなかった。
来るわけがないと思っていた。来てほしいとも、もう思えなかった。
三十を過ぎた頃、正雄さんは体を壊した。病院からの連絡で初めて知った。
駆けつけると、ベッドで窓の外を見ていた。
「来なくていい」
第一声がそれだった。俺は黙って隣に座った。
「仕事は」
「今日は休んできました」
「そうか」
それでも俺は一週間、島に残った。
朝、眠っているあいだに洗濯をした。廊下を歩く音に気をつけた。
夕方、目が覚めると外が暗くなっていて、俺はただそばに座っていた。
四日目の夜に、一度だけ、向こうから聞かれた。
「ピアノは、どうや」
俺は少し驚いて、それから、弾くほうではなく直すほうだと言い直した。
「調律です。音を合わせるほうです」
「知っとる」
「……知ってるんですか」
「そうか」
会話はそこで終わった。
いま思えば、あれは「知っとる」を言うために、四日かけて口を開いたのだと思う。
その週、俺は毎朝、病室の窓の桟を拭いた。
することがなかったからだ。
看護師さんが「ご家族、いつも来られるんですね」と言ったので、俺は返事に詰まった。
家族という言葉を、あの人と自分に同時に使ったことが、それまで一度もなかった。
「息子さんですよね」
「……はい」
そのとき、ベッドのほうで小さく咳の音がした。
眠っていると思っていた。
いま思えば、あの咳は、返事だったのかもしれない。
無口な養父というのは、言葉を持っていない人のことではない。
渡す順番を、ずっと待っている人のことだった。
退院してからも、体の衰えは隠せなかった。
その年の秋に、また電話が来た。今度は、病院からではなかった。
※
押し入れの奥の木箱
葬儀のあと、家を片づけていて、押し入れの奥に古い木箱を見つけた。
蓋を開けると、中には一冊のノートと、一本の万年筆が入っていた。
その万年筆には、見覚えがあった。
俺が就職して最初の賞与で買い、「いつも無口だから、書いて伝えてみてください」と言って贈ったものだ。
正雄さんは「こんなもんいらん」と言って、その場で押し入れにしまった。
だから俺は、ずっとそのまま放置されていると思っていた。
でもインクはほとんど空で、ペン先には使い込んだ跡が残っていた。
手が震えた。
ノートを開いた。崩れた字だが、一文字ずつ力を込めて書いた跡があった。
「今日、茂樹がコンサートに出るというチラシを、ピアノの先生から教えてもろた。行ってみた。うしろの方に立っとったら、茂樹が調律しとる姿が見えた。丁寧な手つきやった。立派やと思う」
ページをめくる。
「梅田のホールで茂樹が調律したピアノを聴いた。わしにはようわからんが、隣の女の人が目を拭いとった。そういう音が出せるんやと思う」
また、めくる。
「小学校の発表会のとき、ほんまは会場におった。後ろの扉の外に立っとった。茂樹が弾き終わったとき、拍手が聞こえた。帰りに魚屋に寄って、夕飯の鯛を買うた」
俺は床に座り込んで、ノートを全部読んだ。
そこには、俺が知らなかった二十年が並んでいた。
初めて手がけた一般公開の披露会。地方紙に小さく載ったインタビュー。専門誌に名前が出たとき、その雑誌を図書館で借りて、コピーを財布に入れていたこと。
全部、知らなかった。
案内状を送らなかった年の披露会も、日付が書いてあった。
俺が誰にも言わなかった日程を、あの人はどこかで手に入れていた。
ノートには、こう書いてあった。
「今年は案内が来んかった。脇坂先生に聞いたら、日にちを教えてくれた。九月の三日、天王寺。行った」
その日、俺は舞台の袖で、客席をわざと見ないようにしていた。
誰も来ていないと思うほうが、手が震えないからだ。
ノートには続きがあった。
「うしろの扉のところにおった。今年も、ようやっとった」
帰省の日のことも書いてあった。
「茂樹が帰ってきた。二泊で行った。港まで送った。フェリーが出るまで、車の中におった」
俺は船が出るとき、いつもデッキから港を見ていた。
駐車場に軽トラックが停まっているのを、何度も見た覚えがある。
ずっと、忘れ物でも取りに戻ったのだと思っていた。
ノートには、その日の海の色と、風の向きまで書いてあった。
漁師の癖だ。海に出る日は必ず書く。
だからこの人は、俺のことを、海と同じ書き方で残していた。
踵の減り方
ノートを閉じてから、俺は土間へ降りた。
下駄箱のいちばん下の、あの靴を出した。
甲は磨いてある。爪先の革は柔らかい。だが踵が、左右とも内側だけ斜めに減っていた。
翌日、港の通りの靴修理屋へ持っていった。もう八十近い辻本さんが、片手で受け取って裏を返した。
「これ、正雄さんとこの」
「はい。三度くらい、直してもらってますか」
「四度や。二十年で四度。持って来はるたびに、同じこと言うてはった。まだ履くから、丈夫にしてくれって」
辻本さんは踵を親指で押した。
「この減り方はな、歩く人の減り方とちゃう」
「歩いてないんですか」
「立っとる人の減り方や。ずーっと立ったまま、疲れて、こう、内側に体を寄せて休む。それを何時間もやると、内だけがこうなる」
「座らずに、ですか」
「座れる人は、こんなふうには減らんよ」
俺は靴を受け取って、もう一度、踵を見た。
「一度だけな」と辻本さんが言った。
「一度だけ、聞いたことがあるんや。そんな立ちっぱなしで、しんどないですかって」
「なんて言ってました」
「座ったら、うしろの人が見えんようになるやろ、って」
「……うしろの人」
「わしもようわからんかった。けど、あの人が笑うたんは、そのときだけやったな」
俺は店を出て、坂の途中で立ち止まった。
後ろの扉の外に立てば、客席の全員のうしろに立つことになる。
あの人はいつも、いちばんうしろにいた。
いちばんうしろから、俺の背中だけを見ていた。
踵の内側だけが減るのは、立ったまま、少しずつ体をずらして待つ人の減り方だった。
後ろの扉の外に、椅子はない。
四度も底を張り替えて、あの人は二十年、そこに立っていた。
※
封筒の裏
ピアノ教室の脇坂先生は、八十を過ぎて、まだ町にいた。
線香をあげさせてくださいと言うと、先生は仏壇の前で長く手を合わせて、それから古い菓子箱を持ってきた。
中に、月謝の封筒が束になっていた。
「こんなもの取っておいて、気持ち悪いでしょう。でも捨てられなくて」
封筒の裏に、毎回、一行だけ字があった。
「この子に、やめてよかと言わんとってください」
次の月も同じ。その次も同じ。
三年ぶんの封筒に、同じ一行が並んでいた。
字は少しずつ変わっていた。
最初の年は鉛筆で、二年目は青いボールペンで、三年目は同じ青でも、線が太くなっていた。
「厚みも、毎月きっちり同じでね」と先生は言った。
「月謝、ですよね」
「それがね、多いの。いつも千円多いのよ」
「返さなかったんですか」
「返そうとしたら、来なくなるでしょう。あの人、玄関に置いて、私が出ていく前に帰らはるから」
先生は笑って、湯呑みを両手で持ち直した。
「あの千円はね、教室が赤字で潰れんようにって意味やったと思う。月に一度しか来ん教室やったから」
「先生、それ、正雄さんに聞いたんですか」
「聞けるわけないでしょう。あの人に聞いたら、そうか、で終わりやもの」
俺と先生は、そこで少しだけ笑った。
島に来て初めて、あの人のことで笑った気がした。
「お父さん、一度も中に入らはらへんかったのよ」と先生は言った。
「なんでですか」
「入ったら、あの子のお父さんですねって、私が言うでしょう。それがね、いやだったんやと思う」
「……恥ずかしかったんですかね」
先生は首を振った。
「逆やと思うわ。あんたが自分の口で言う前に、人から言われるのがいやだったんよ。あの人、あんたに順番を譲ってはったの」
俺は封筒を一枚、手のひらに載せた。
紙は薄く、角が丸くなっていた。
その足で、俺は家に戻って、台所の戸棚を開けた。
いちばん奥に、使われた形跡のない魚焼きの網があった。
俺が来た年に買われて、一年、しまわれたままだったものだ。
最後のページ
ノートの最後のページには、こう書いてあった。
「わしは口が下手で、ずっと伝えられんかった。茂樹がうちに来た日から、この子を誇りに思うとる。漁師の息子が、音を大事にする仕事をしとる。それが誇らしゅうて、恥ずかしゅうて、だから何も言えんかった。万年筆をもろた日、すぐに使い始めた。あいつには黙っとったが」
そこから先は、読めなかった。
字がないのではない。インクが、もう出ていなかった。
俺はノートを窓のほうへ持っていって、光を斜めに当てた。
紙には、私の名前だけが、へこんで残っていた。
しげき、と。
三文字だけ、何度もなぞった跡があった。
あの人は最後に、俺の名前を呼ぼうとして、呼べなかったのではない。
呼び方を知らなかったのだ。
七つのときに「魚、好きか」と聞いた人が、四十年かけて、名前で呼ぶ練習をしていた。
窓の外で、海が光っていた。
遠くで、漁船が汽笛を鳴らした。
無口な親が、言葉ではないもので二十年ぶんを渡してくることがある。父が四十年、出口の側にだけ座り続けた話を読んだときも、俺は同じ台所の匂いを思い出した。
今も、鞄の中に
今も俺は、ピアノを調律している。
鍵盤を叩き、共鳴板の響きを耳で聴き、細かく弦を合わせる。
その静かな作業の中に、福良の波音が混じることがある。
あの万年筆は、俺の仕事鞄に入っている。
インクを入れ直して、毎日少しずつ何かを書いている。
仕事のこと、調律した楽器のこと、そのピアノで誰かが泣いていたこと。
言葉が不器用でも、続けることで届くということを、俺はあの押し入れの奥で教わった。
去年、去年から、俺は靴を一足だけ、別にしている。
披露会のある日にだけ履く、飾りのない黒い紐靴だ。
まだ、踵は減っていない。
遺されたものが遅れて届く話を読むたび、俺は自分がまだ間に合った側なのか、間に合わなかった側なのか、わからなくなる。
たぶん、どちらでもあるのだと思う。